日本技術大国の源泉・・・自然災害は発明を誘発する・・・
発明人間は「面倒くさり屋」か、「災害の被害者」・・・
・・・TV番組から学ぶことは、一日中、「TV」を観れる余裕のあるボクにとっては、その「世の中」の情報と知識が多大、膨大に得られる「文明科学機器」である・・・今現在のTVニュース、「福井県や関西の住民ら9人が関西電力高浜原発3、4号機(同県高浜町)の再稼働差し止めを求めた仮処分の申し立てに関し、福井地裁(樋口英明裁判長)は14日、住民側の主張を認め、申し立てを認める決定を出した。仮処分の手続きで原発の運転差し止めが認められたのは初めて」・・・当然なコトと思うが・・・選挙民に選択された「行政、立法権力」と戦うのは、最早、「日本国憲法」を前提にした「司法権力」とは情けない・・・「日本国憲法」に命をかける「日本人」は減少傾向・・・ 昨夜(4/13)は「ぶっちゃけ寺&Qさま!!」で「大猷院・徳川三代将軍、家光の廟所」を観た。 未だに「スマートホン(携帯電話)」を持ったことがないが、二〇歳代の頃は、その時代、マンガやSF小説にしか存在し得無かった「携帯電話」に妄想、空想で憬れていた。小学生のころ「手塚治虫」のマンガ「ZZZ総統(鉄腕アトム・雑誌『少年』)」に日本にきた某国(多分アメリカ?)の大統領の息子が「日本のタクシーには電話も付いていないのかッ」のセリフ(台詞・科白)に、ガッカリしたコトがあった。 付録の「小松茂」の「未来都市の絵」は「日本」にあるとも思っていた。当時は日本は「文明科学の国」ではなかった。 戦前の地方では小作農民、工場、鉱山労働者は貧困に喘えでいた。それに「徴兵」で戦争で死ぬことはアタリマエの時代。 だが、「日本の軍事科学兵器」はモチロン、「都市のインフラ」も結構なモノだったんだと今現在は驚嘆する。それに「半島と満州国」の都市のインフラと工業設備。当時のドイツ人ジャーナリストも驚いてドイツ本国に報告・・・日本人が「発明・発見」したモノ、TVをはじめ、ワンサカである。「湯川博士」も「朝永博士」も「最終兵器Z」の研究・・・1970年代の半ば頃の当時には既に「ソニーの小型携帯TV」があったと思うが、片手に握って見れる小型TVではなかった。ボクはその「携帯小型TV」は大須の質屋で手に入れた・・・乾燥機能がイカレテいる「全自動式洗濯機」も・・・ ーーーーー 慶長 十六年(1611年) 四月 十二日 第百八代 後水尾天皇の即位日・・・? ↓ 四月十三日の TV ぶっちゃけ 寺&Qさま!! 合体3時間スペシャル 『ぶっちゃけ寺』お坊さんと行く日光! お坊さんが語る 「厄」 ありがたい映像満載SP! ・・・で、「ウイッキぺデア」で調べてみた・・・ナゼかボクの妄想の「数字」と歴史記録の「数字」が重なってしまう・・・? ↓↑ 徳川 家光(とくがわ いえみつ) 江戸幕府 第三代将軍(在職:1623年 - 1651年) 二代将軍 秀忠の 二男(嫡男) 母は 浅井長政の娘で 織田信長の姪の 「お江」 乳母は春日局(福) 乳兄弟に 稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利 十五人の徳川将軍のうち、 (父親の)正室の子は、 家康・家光・慶喜の3人のみ 将軍の御内室(御台所)が 生んだ将軍は家光のみ 改名 竹千代(幼名)→家光 諡号 大猷院 戒名 大猷院殿贈正一位大相国公 墓所 日光山輪王寺 官位 正三位、従二位、権大納言、右近衛大将、 右馬寮御監、正二位、内大臣、 征夷大将軍、従一位、左大臣、 左近衛大将、贈正一位太政大臣 ↓ 寛永九年(1632年)1月 秀忠が死去 二元政治は解消 将軍から公方として親政 旗本を中心とする直轄軍の再編 同年5月には外様大名を招集 藩内の内訌などを理由に、 肥後熊本藩主・加藤忠広の改易 寛永十年(1633年) 福岡藩における 栗山大膳事件(黒田騒動) 自ら裁定を下し 黒田忠之の藩側の主張を認めた 老中・若年寄・奉行・大目付の制 現職将軍を最高権力者とする 幕府機構の確立 同年9月には 外祖父の 浅井長政に権中納言を贈官 寛永12年(1635年)の 武家諸法度の改訂では、 大名に 参勤交代の義務 対外的には 長崎貿易の利益独占目的から、 貿易統制 並びに キリシタン弾圧を強化・・・ 寛永十四年(1637年) 島原の乱・・・・・・・・天草四郎 天草時貞 愛知時貞? (えち ときさだ) ナゼ、「愛知」? 益田四郎 益田時貞 洗礼名 ジェロニモ 後 フランシスコ 姉妹 福(姉)、鶴(姉)、万(妹) 父は 益田-甚兵衛-好次 母は 渡辺-伝兵衛の女(娘) あるいは 千束-善右衛門の妹(よね) 母(洗礼名マルタ)は 幕府の尋問に 「今ごろ四郎は 白鳥になって 伴天連の国へ 向かっているでしょう」と ↓ 寛永十八年(1641年)までに 「鎖国」体制を完成 寛永十八年(1641年) 嫡男の 竹千代(四代将軍・家綱)誕生 寛永十一年(1634年) 上洛 後水尾上皇による 院政を認める 寛永十九年(1642年)から 大飢饉が発生 正保元年(1644年) 中国大陸で 明が滅亡 満州族の 「清」が進出 正保元年(1644年) 全国の大名に 郷帳・国絵図(正保国絵図) 城絵図(正保城絵図)を作成させ、 農民統制では 田畑永代売買禁止令を発布 慶安三年(1650年) 病気となり、 諸儀礼を 家綱に代行させ、 翌年4月 江戸城内で死去。享年48 堀田正盛 阿部重次・・・・阿の部の重の次 らが 殉死 遺骸は遺言により 東叡 寛永寺に移され、 日光の 輪王寺に葬られた(日光東照宮) 同年5月 正一位・太政大臣が追贈 法名は「功崇院」の案もあったが、 「大猷院」に定められた 承応元年(1653年) 大猷院廟が造営・・・? なぜ、「大猷院」なのか?・・・ キリシタン弾圧と朝廷の関係の結果かも・・・ 「朝廷」とは何者か?・・・「隠れキリシタン」? 「伊達正宗」は「隠れキリシタン」? 東北には結構、「隠れキリシタン」が存在した 名古屋、尾張にも「隠れキリシタン」・・・ 名古屋の東本願寺の裏には キリシタン塚とキリシタンの遺品が展示 なぜか、 尾張徳川家の蔵書の 名古屋市 蓬左文庫の 「天草陣雑記」に 四郎が妻帯していた・・・との記述も・・・ ↓ 大猷院・・・?・・・「太猷イン」 徳川 三代将軍 家光の廟所 境内には世界遺産に登録された 22件の国宝、重要文化財 315基の灯籠 東照宮を 凌いではならないという遺言 金と黒を使用し重厚 入口は 「仁王門」 輪王寺(りんのうじ) 栃木県 日光市にある寺院 天台宗の 門跡寺院 明治初年の 神仏分離令以後、 東照宮、 二荒山神社とあわせて 「二社一寺」と称される。 近世まではこれらを総称して 「日光山」と呼ばれていた 現在、 「日光山」は 「輪王寺の山号」 「輪王寺」は 日光山中にある 寺院群の総称 「二荒山神社」と「輪王寺」は 奈良時代に 山岳信仰の社寺として創建 日光山では 山、神、仏が 一体のものとして信仰 輪王寺本堂(三仏堂)に 三体の本尊 (千手観音・・・・・千の手の音を観よ 阿弥陀如来 馬頭観音)・・・・馬の頭の音を観よ を安置 輪王寺は、 天平神護二年(766年) 下野国出身の奈良時代の僧 勝道上人により開創 ↓ 勝道と弟子の一行は、 日光山の麓にたどりついたが、 大谷川(だいやがわ)の激流で 向こう岸へ渡ることができずに困っていた。 そこへ、 首から髑髏(どくろ)を下げた、 異様な姿の神が現われ 「我は 深沙大王(じんじゃだいおう) である」と 名乗った。 「深沙大王」は 二匹の 大蛇を出現させると、 それらの蛇は こちら岸と 向こう岸を 結ぶ橋となり、 勝道ら一行は無事 対岸へ渡ることができた 「神橋(しんきょう)」は 「山菅蛇橋(やますげのじゃばし)」 とも呼ばる 「深沙大王」は 「深沙大将」とも呼ばれ、 唐の 玄奘三蔵が 仏法を求めて 天竺(インド)を旅した際に 危機を救った神・・・・記紀をスクッた? 勝道は、 大谷川の対岸に聖地を見付け、 千手観音を安置する一寺を建てた 紫の雲たなびく土地であったので、 「紫雲立寺(しうんりゅうじ)」 と言ったが、 後に 「四本龍寺(しほんりゅうじ)」 と改めた この 四本龍寺が現在の輪王寺 翌 神護景雲元年(767年)、 勝道は 四本龍寺に隣接する土地に 男体山(二荒山)の神を祀った この神を祀ったのは、 延暦九年(790年)だとする説もある・・・ 天応二年(782年) 勝道は日光の神体山である 男体山(2,486メートル)の登頂に成功 観音菩薩の住処とされる 補陀洛山(ふだらくさん)に因んで この山を 「二荒山(ふたらさん)」と名付け、 後に 「二荒」を 音読みして 「ニコウ=日光」 と呼ばれるようになり、 これが 「日光」の地名となった 延暦三年(784年) 勝道は、 四本龍寺 西方の 男体山麓にある 湖(中禅寺湖)のほとりに 中禅寺を建立 「立木観音」の通称で知られる 「中禅寺」は現存している 当初は湖の北岸にあった 堂宇が 明治時代の 山津波で押し流されたため、 現在は湖の東岸に移転 ↓ 平安時代 真言宗宗祖の 空海や 天台宗の 高僧 円仁(慈覚大師)らの来山 円仁は 嘉祥元年(848年)来山し、 三仏堂、常行堂、法華堂を創建 輪王寺は 天台宗寺院となった 「常行堂」 「法華堂」という 同形同大の 堂を 二つ並べる形式は 天台宗特有のもの 延暦寺や 寛永寺にも 同名の堂が建立 ↓ 鎌倉時代 仁治年間(1240年から1242年のころ) 源実朝によって、 日光東照宮がある場所に 本堂が移された 男体山、 女峰山、 太郎山の 三山の神を 「日光三所権現」として信仰 ↓ 戦国時代 輪王寺は 戦国時代の間に 壬生綱房・・・壬生(みぶ・ジンショウ→訊章) 水の兄のウマレ 綱房(つなふさ・コウボウ→公望) の謀略によって 壬生氏の 傘下に入る・・・傘下(サンカ) 天正十八年(1590年) 豊臣秀吉の 小田原征伐の際、 北条氏側に 加担したかどで 寺領を没収 ↓ 江戸時代 天台宗の高僧 天海が貫主(住職) 元和三年(1617年) 徳川家康の霊を神として祀る 東照宮が設けられた 正保四年(1647年) 徳川家光によって、 大雪で倒壊した本堂が再建 承応二年(1653年) 三代将軍 徳川家光の霊廟である 大猷院(たいゆういん) 霊廟が設けられた 東照宮と異なり 仏寺式の 建築群である 大猷院霊廟は 輪王寺の所有 明暦元年(1655年) 後水尾上皇の院宣により 「輪王寺」の寺号が下賜 (それまでの寺号は平安時代の 嵯峨天皇から下賜された 「満願寺」)・・・マンガンジ 後水尾天皇・・・・後水尾とは何者? 退位後にも 中宮以外の女性に 30余人の子を産ませ 56歳の出家 58歳で後の 霊元天皇・・・・例言天応、転向? を産ませた の 第三皇子 守澄法親王が入寺 以後、 輪王寺の住持は 法親王 (親王宣下を受けた 皇族男子で出家したもの) が務めることとなり、 関東に 常時在住の皇族として 「輪王寺門跡」、 「輪王寺宮」と称された 親子による世襲ではないが 宮家として認識 寛永寺門跡と 天台座主を兼務したため 「三山管領宮」とも言う 還俗して 北白川宮 能久親王となる 公現法親王も、 輪王寺門跡の出身 輪王寺宮は 輪王寺と 江戸上野の 輪王寺 及び 寛永寺 (徳川将軍家の菩提寺)の住持を兼ね、 比叡山、日光、上野の すべてを管轄して 強大な権威をもっていた 東国に皇族を常駐させることで、 西国で天皇家を戴いて 倒幕勢力が決起した際には、 関東では 輪王寺宮を「天皇」として擁立し、 徳川家を一方的な 「朝敵」とさせない為の 安全装置だった・・・・・? (「奥羽越列藩同盟」、 「北白川宮能久親王(東武皇帝)」) ↓ 明治以後 明治政府によって 輪王寺の称号を没収されて、 明治二年(1869年) 旧称の 「満願寺」に戻される 明治四年(1871年) 神仏分離令 本堂は現在の場所に移転 輪王寺宮本坊が焼失 明治十五年(1883年) 栃木県のとりなしによって 輪王寺を 正式の 寺号とすることが許された ↓ 深沙大将(じんじゃだいしょう)は、 深沙神、 深沙大王とも呼ばれる 仏教の守護神の一人 大般若経の 十六善神の上首として信仰 独尊としての信仰は修験道による 玄奘三蔵がインドへ行く途中、 砂の中から現れ、 玄奘を守護した 姿は、 一面二臂(ひ) 髑髏の瓔珞をつけ、 象革の袴を履く、 持物は 蛇や戟を持つものがある ↓ 修験道では、 慧印 六段法の 加行本尊になっている 道場観では 鬼神形ではなく、 唐服を着た、 道教神で冥界の神である 泰山府君と習合した姿 御利益には、 「十種勝利」「四種果報」 本尊の本地が 十一面観音である・・・ ↓ 沙悟浄 捲簾大将(天帝の任命) 河伯(流沙河の水怪) 沙悟浄(観音菩薩の命名) 金身羅漢(釈迦如来の命名) 沙和尚(三蔵法師が付けた呼び名) 沙僧(「沙和尚」の別の呼び方) 容姿と特徴 紅い炎のような色の毛 ふわふわの髪 (三蔵に弟子入りするときに 髪を剃った) 光る円い目玉 黒いとも 青いとも言えないような、 藍色の顔 雷や太鼓の 音のような恐ろしい声 美しい 黄錦の直綴=直裰(じきとつ)、 腰は 白藤を束ねたもので隠す 9個の 髑髏の ネックレスを首にさげ、 手に宝杖 猪八戒とは 三回も互角の戦い 雲に乗って飛ぶ 悟空から 三蔵の警護を命じられる役回り 生真面目で実直な性質 玄奘三蔵が 流沙河という砂漠で幻想に見、 励まされた 「深沙神」がモデル・・・ ↓ 「仁王門」 1つ目の門で、 口を開いた「阿形(あぎょう)」 口を閉じた「吽形(うんぎょう)」 2体の 仁王像「金剛力士像」が安置 「阿吽の呼吸」の語源 ↓ 「二天文門」 日光の境内で 一番大きな門 持国天(じこくてん) 広目天(こうもくてん) の二天を安置している事から 二天門と呼ばれてる 正面の扁額(へんがく)は、 108代天皇 「後水尾上皇」による筆 ↓ 「夜叉門」 四体の夜叉 「阿跋摩羅(あばつまら) 毘陀羅(びだら) 烏摩勒伽(うまろきゃ) 犍陀羅(けんだら)」 が、安置 夜叉門には、 牡丹(ぼたん)の花が彫刻 別名は 「牡丹門」 「烏摩勒伽」は 全国でもめずらしい仏様・・・? ↓ 「皇嘉門」 明朝様式の竜宮造り 別名は 「竜宮門」 ーーーーー ↓↑ 日光東照宮には 陽明門をはじめ各所に 後水尾天皇の 御親筆とされる額 後に 板垣退助 が 日光東照宮の 焼き討ちを要求する 薩摩藩を説得した・・・ ↓↑ ・・・???・・・ 「後水尾天皇」 文禄五年6月4日(1596年6月29日) ~ 延宝八年8月19 日(1680年9月11日) 第108代天皇 (在位は 慶長十六年3月27日(1611年5月9日) ~ 寛永六年11月8日(1629年12月22日) 諱は政仁(ことひと) 幼称は三宮 法名は円浄 後陽成天皇の 第三皇子 母は 関白太政大臣 豊臣秀吉の 猶子で 後陽成天皇の 女御の 中和門院 近衛前子=藤原 前 藤原 前・・・? ・・・藤原(中臣鎌足)の「前」とは「蘇我」である・・・「ワレ、ヨミガエル」・・・ 遺諡により 「後水尾」と追号 「水尾」とは 清和天皇の異称 「後水尾天皇」は、 不和であった父 「後陽成天皇」に、 乱行があるとして 退位に追い込まれた 陽成天皇の「陽成」の 加後号を贈り、・・・・・「加える後(ゴ)の号」 自らは 陽成天皇の父であった 「清和天皇」 の異称 「水尾」の 加後号を名乗る このような 父子逆転の 加後号は他に例がない・・・? 徳川光圀は随筆 『西山随筆』で、 兄を押しのけて即位したことが 清和天皇と同様であり、 この 諡号を 自ら選んだ理由であろうと 推測 遺諡は、 鎌倉時代の 後嵯峨天皇から 南北朝・室町時代の 後小松天皇にかけて多くあったが、 その後 七代にわたって絶え 「後水尾天皇」の 遺諡は 「後小松天皇」以来 約二世紀ぶり 清和源氏を称する 徳川氏の上に立つ という意志・・・?じゃぁなく、 ・・・「水尾」は「水賭」で「水戸・御津・三津」の懸けだろう・・・「茨城=茨木」の冠の水戸黄門のオジイちゃん・・・? ↓↑ 和歌約二千首を収める 『後水尾院御集(鴎巣集)』 二十一代集以下の諸歌集から 一万二千余首を類題に排列した 『類題和歌集・三十一巻』 後土御門天皇以後の歌人の歌を集めた 『千首和歌集』などを編集 叔父の 智仁親王から 「古今伝授」を受けた ↓ 慶長十六年(1611)、 十六歳で即位 後陽成院は 弟八条宮 智仁親王への譲位を望み、 父子不和 その後も 天海 板倉勝重 の仲裁にも関わらず 上皇の死まで続いた ↓ 元和三年(1617) 後陽成院は崩御 同六年 徳川秀忠の娘 和子(まさこ)を中宮 寛永四年 紫衣事件 後水尾天皇は 寛永六年(1629) 皇女である 興子(おきこ)内親王に 譲位(明正天皇) 七歳で践祚 称徳天皇以来 859年ぶりの 女帝が誕生 明正女帝の名の由来は 元明天皇 とその娘の 元正天皇から採った・・・? ↓ 後水尾天皇は譲位以後 四代五十一年にわたり院政 徳川家光の 上洛をきっかけに 院政を承認 その後も 上皇(法皇)と幕府との確執 東福門院(和子)に対する配慮から 東福門院 ↓ 明正女帝は 後水尾天皇の 第二皇女で 母は 太政大臣征夷大将軍 徳川秀忠の娘の 東福門院=源和子(かずこ) 入内の際に 濁音発音を嫌う宮廷風習にならい 「まさこ」と読みを変えた ・・・「かづこ」から「まさこ」・・・まさかネッ・・・? ↓ 東福院は 後光明・後西・霊元の 三天皇の生母 園光子・櫛笥隆子・園国子 に対する 女院号贈呈が死の間際 (園光子は後光明天皇崩御直後) に行われ、 その父親 園基任→(女=むすめ)の光子・・・円の基の任 櫛笥隆致→(女=むすめ)の隆子・・櫛の笥の隆に致 園基音→(女=むすめ)の国子・・・円の基の音 ツブラの基の音 都夫良の臣→眉輪王 目弱王 への贈位贈官も極秘に行われた 徳川家光の朝廷との 協調姿勢 とともに 東福門院が 夫(後水尾天皇)の政治方針に理解を示し、 その院政を擁護 霊元天皇が成長し、 天皇の 浅慮や不行跡が問題視 法皇が天皇や近臣達を抑制して 幕府がそれを支援 法皇の主導で 天皇の下に設置された 御側衆(後の議奏)に対して 延宝七年(1679年) 幕府から 役料支給が実施・・・・訳料支給? ↓ 後水尾天皇は 慶安四年(1651) 落飾し法皇 延宝八年(1680) 崩御・八十五歳 泉涌寺において葬礼が行われ、 月輪陵に葬られた ↓ 『玉露藁』 『当時年中行事』 『和歌作法』などの著作 洛北に 修学院離宮を造営 ーーーーー ・・・
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