曖昧糢糊(アイマイモコ)・・・贋(雁貝)+作(イ乍)
2021/9/29・水曜日・・・追加添付文・・・
???⇔惺+窩⇔こじき⇔姜+沆⇔隠晦曲折・・・贋作
↓↑ 曖昧糢糊(アイマイモコ)・・・贋(雁貝)+作(イ乍) 曖=日+愛 贗(鴈・かり・ガン) 日+爫+冖+心+夂 アイ おおう かげる くらい ・・・どうして「日+愛」が 「くらい=暗い・昏い・晦い・儚い」 になるんだか? ぼんやりくらい はっきりしない おおう・かくす・さえぎる ↓↑ 昧=日+未・・・ 未=ミ・ビ ↓↑ ↓↑ いまだ ひつじ(未) まだ 十二支の八番目 方位は南南西 時刻は午後二時、前後の二時間 動物は羊(ひつじ) ヒツジ(羊、綿羊、学名 Ovis aries) ウシ科ヤギ亜科の 鯨偶蹄目 角をもち 食肉、羊毛のために家畜化されている 1875年(明治八年) 外国人ル・ジャンドルが 軍用毛布のため羊毛の自給の必要性を説き 大久保利通によって下総に牧羊場が新設 ↓↑ ↓↑ ↓↑ 「いまだ~ず」と読み 「まだ~ない・まだ~していない」の意 「いまだし」と読み 「まだである・まだです」の意 「いまだしや」と読み ↓↑ ↓↑ 「まだであるか」の意 昧=日+‡+八 日+一+木 日+十+十+八 マイ バイ くらい くらい・光がわずかでくらい くらい・おろか・物事を知らない 戯作三昧 無知蒙昧 無知愚昧 ↓↑ 糢=米+莫 米+艹+旲 米+艹+日+大 ボ モ かた のっとる 模糊(もこ)=あいまいでぼんやりしたさま ↓↑ 糊=䊀+月 米+胡 米+古+月 米+古+月 米+十+口+月 米+十+口+月 ↓↑ 藤原惺窩(ふじわら せいか)・・・ ↓↑ 惺=忄+星・・・心の星・・・? ・・・立身の辨の保志・・・? 忄+日+生 セイ さとる しずか さとる・はっきりとわかる しずか・心が落ち着いている 窩=穴+咼 穴+冎+口 宀+八+咼 宀+八+冎+口 カ あな いわや かくす かくまう むろ あな・いわや・むろ くぼみ 眼窩(ガンカ) ・・・「頑・顔・岩・岸・丸・元・雁・願・含・ガン」化 雁(がん・かり・異字は鴈) すみか・身をかくすところ ↓↑ 物をかくす・かくまう ↓↑ 贋作=にせもの=贋物 戦国時代から江戸時代前期にかけての儒学者 家名の冷泉を名乗らず 中国式に本姓の 藤原および籐(とう)を公称 ↓↑ 生誕 永禄4年1月24日(1561年2月8日) 死没 元和5年9月12日(1619年10月19日) 大運1616年9月(55歳)~乙未・比肩 庚申(戊壬庚)正官・印綬 胎⇔己未 己丑(癸辛己)偏財・偏官 衰⇔甲戌 乙酉(庚 辛) ・正官 絶⇔壬辰 午未空亡 壬午(丙 丁)印綬・傷官長生⇔丙午 ↓↑ 改名 粛(諱) 別名 惺窩・北肉山人・柴立子 広胖窩(号) 歛 夫(字) ↓↑ 姜沆(きょうこう・カン・ハン・Gang Hang) 1567年6月23日(明暦:隆慶元年5月17日) ~ 1618年6月27日(明暦:万暦46年5月6日) 大運1615年12月庚子劫財 丁卯(甲 乙)偏官・偏財 絶⇔戊午 乙巳(戊庚丙)偏財・正官 死⇔戊午 辛未(丁乙己) ・偏印 衰⇔癸巳 戌亥空亡 甲午(丙 丁)正財・偏官 病⇔戊午 ↓↑ 朝鮮李氏王朝中期の官人 字は 太初(テチョ)・・・太(おほの)初(はじめ)? 号は 睡隠(スウン)・・・睡(ねむる・いねむり)隠(かくす) 証拠隠滅 1593年 朝鮮王朝の文科に合格 1597年 慶長の役(丁酉再乱) 刑曹佐郎の要職 全羅道で 明の将軍 楊元への食糧輸送任務に従事 日本軍の進撃によって 全羅道戦線が崩壊し 一族で避難中に 鳴梁海戦後に 黄海沿岸へ進出していた 藤堂高虎 の水軍により捕虜とされ 海路日本へ移送された ↓↑ 日本で 伊予国大洲に拘留 のち伏見に移送 藤原惺窩 と交流 約3年にわたる 俘虜生活の見聞(日本制度や情勢)は 『看羊録』にまとめられた ↓↑ 1600年(慶長五年)四月 伏見を立ち 対馬を経由して 朝鮮に帰国 再び仕官はしなかった ↓↑ 『看羊録』 日本で見聞したこと 日本の内情や国土の特徴 諸大名の情勢などを細かく記録 朝鮮王朝に対する 提言集的な側面が強い・・・? ↓↑ 『看羊録(かんようろく)』 日本の内情を秘密裏に 本国政府に報告した文集 1598年 豊臣秀吉の 朝鮮出兵時に捕虜 京都伏見に幽閉 京都相国寺の 藤原惺窩 との対話や 京都方広寺の 耳塚 のことなどを記録にとどめ 1600年 帰国した姜沆は みずからを罪人として この文集を 「巾車(きんしや)録」 ・・・巾(はば・頭巾)の 車(くるま)の 録(金+录・金+彐+氺)? と題したが 門人が 漢の 蘇武・・・蘇(よみがえる)の武(たける)
↓↑ 蘇武(ソブ) 紀元前140年頃?~紀元前60年 前漢時代の人・字は子卿 父は衛尉の蘇建 子は蘇元・蘇通国 兄は蘇嘉 杜陵(陝西省)の人 字は子卿(しけい) 武帝に仕え(前100)中郎将として 匈奴に使節として行き 19年間抑留 その間 降伏をせまられたが節義をまげず 拒否し、 片足を斬られ 北海(バイカル湖)のほとりの 荒野に追放されて 羊を飼わされ・・・「看羊録」 雁(がん)の足に 便りを結んで故国に送り 苦難の抑留生活
↓↑ ↓↑ 昭帝が即位し 匈奴との講和が成立し 帰国 ↓↑ 典属国・・・ ↓↑ に拝せられた ↓↑ 典属国=秦、前漢の官職名 降伏した周辺異民族を掌る 属官には 九訳令がいた 武帝元狩三年 匈奴の 昆邪王が降伏すると 属国を増設 都尉、丞、候、千人の官を置いた 成帝河平元年 大鴻臚に統合 ↓↑ 典属国廃止・・・ の節義(セツギ)・・・説戯(戲・魏・記・紀)? になぞらえて 「看羊(カンヨウ)録」・・・観葉・官用・韓用? と名付け後世に伝えた ↓↑
見聞中の様々な情動を 漢詩にしている 「日本はどんな才能 どんな物であっても必ず 天下一を掲げる 壁塗り 屋根ふき などにも天下一の肩書が付けば 多額の金銀が投じられるのは普通だ」 と綴った・・・ ↓↑ 「看羊録」 1597年 「慶長の役」の際に捕らわれた 李氏朝鮮の官人 姜沆(カンコウ) によって書かれた 大洲 ・・・愛媛県の大洲市 愛媛県の南予地方に位置 伊予の小京都 と呼ばれ 肱(ひじ)川(かわ・セン)・・・比字化話? の流域にある 大洲城を中心の城下町 北緯33度30分22.6秒 東経132度32分40.3秒 大洲(おおず)地方 縄文、弥生時代の 田合(たごう)遺跡 巨石が崇拝される 高山メンヒル 市内50数箇所に 巨石や巨石群が構築 大化の改新(645年後) 伊予国宇和郡に属し 866年 喜多郡となった 矢野郷・久米郷・新屋(にいや)郷 (倭名類聚抄) 大洲肱川三大鵜飼・・・鵜飼⇔鸕飼? ・・・鸕野讃良=持統天皇 讃岐・愛媛県=伊豫 長良川鵜飼(岐阜県岐阜市) 肱川鵜飼(愛媛県大州市) 三隈川(大分県日田市) 源平の合戦 1185年 河野通信(みちのぶ)が 比志城(ひじじょう)に立てこもり 平氏を退けた(予章記) 鎌倉時代 伊予国守護 宇都宮豊房が 1330年着任から240年近く支配 大津地蔵嶽(じぞうがだけ)に城を築いた 後 大野直之、小早川隆景、戸田勝隆 らが城主となった 1595年 豊臣秀吉の重臣 藤堂高虎が 板島(宇和島)から 大津(大洲)に入り 1609年 淡路国州本城から 脇坂安治に引き継ぐ・・・ 1617年 加藤貞泰(さだやす)が 米子から大津へ転封 明治維新まで12代、250年余り 大洲は加藤氏の治政 ↓↑ ↓↑ 日本の陽明学の祖 儒学者 中江藤樹も十歳のとき 加藤貞泰とともに大洲に移り 二十七歳まで大洲で暮らし 門人たちに「大学」を教えた・・・ 勤王藩として 慶応四年(1868年) 鳥羽・伏見の戦い に参陣 坂本龍馬が運用した 蒸気船 いろは丸 大洲藩の所有で 海援隊に貸与していた・・・ ↓↑ ↓↑ 大洲藩出身の 武田斐三郎 江戸時代末期の学者 北海道函館市の 「五稜郭」の設計を担当 洋式兵術の指導的役割を担った ↓↑ ↓↑ ↓↑ 「大須=大洲」文庫・・・大須観音 岐阜⇒名古屋 で監禁 大坂、伏見へと移され 抑留生活を続け 見聞した 日本の情勢や風俗についての詳細な記録 ↓↑ 姜沆(カンコウ・キョコウ) 韓国読みは「カンハン」 (1567~1618) ↓↑ 李氏朝鮮 儒家の生まれ 朝鮮の 科挙試験に合格 赴任先で 日本軍に追い詰められ 李舜臣の軍勢に合流する予定のところを 藤堂高虎 に捕らわれ捕虜となった ↓↑ 姜沆(カンコウ) 三十歳 身なりの良さから日本に連行 その際に 彼の子供 「竜」 と 「愛生」 は海に投げ捨てられ溺死させられた ↓↑ 連行された 大洲(愛媛県大洲市) に着くと 攫われた朝鮮人が千余人 ↓↑ 日本の僧侶が筆談によって素性を訊くと 日本ではまだ知られていない 朱子学者であることが分かり 藤原惺窩 (江戸朱子学の祖・林羅山の師 藤原定家の12代目の子孫) らが、彼の教えを請い 江戸幕府の思想的となった・・・ ↓↑ 姜沆(カンコウ) 自分の節度を曲げず 日本語の勉強も一切しなかった 1600年 釈放され朝鮮に帰国 ↓↑ 「看羊録」 秀吉に対する罵詈雑言が並べ立てられ 中国の故事が連発 日本人に対する憎悪と蔑視の本・・・ ↓↑ 日本は「倭」 日本人は「倭奴(ウェノム)」 秀吉は「賊魁」 日本の地理、歴史、文化、信仰 各大名の出自、食邑、性格 等の記録 後 徳川吉宗のころの 朝鮮通信使が 「看羊録」 が江戸の町で売られているのを見て 「賊の偵察に行った本を 賊に読まれては意味がないではないか」・・・ ・・・贋作・・・
↓↑ 「賊魁秀吉は 尾張州中村郷の人である 嘉靖丙申年に生まれた 容貌が醜く 身体も短小 容貌が猿のようであった・・・ 生まれたとき 右手が六本指であった 成長するに及び 『人はみな五本指である 六本の指に何の必要があろう』 と言って、刀で斬り落としてしまった」・・・? ルイス・フロイスも 「秀吉多指症説」と記録・・・ ↓↑ 「賊魁秀吉は 尾張州中村郷の人である 嘉靖丙申年に生まれた 容貌が醜く 身体も短小 容貌が猿のようであった・・・ 生まれたとき 右手が六本指であった 成長するに及び 『人はみな五本指である 六本の指に何の必要があろう』 と言って、刀で斬り落としてしまった」・・・? ルイス・フロイスも 「秀吉多指症説」と記録・・・ ↓↑ 「秀吉多指症説」は 島津 義弘(しまづ よしひろ)の記録にも・・・ 天文四年七月二十三日(1535年8月21日) 島津貴久の次男 戦国大名 島津義久の弟 島津氏の第十七代当主 島津氏十八代当主 島津忠恒(家久)の父 剃髪して 「惟新斎」と号し・・・惟新⇔維新・・・惟⇔維・・・ 「惟新公(いしんこう)」と敬称で呼ばれた 戦国(安土桃山)時代の屈指の猛将で 「鬼島津」とも・・・ ↓↑ 姜沆(カンコウ) 1600年二月 釈放され、朝鮮に帰国 「関ヶ原」以前 姜沆が朝鮮に帰国する直前 藤原惺窩が 小早川秀明と対面し 「内府(家康)は、やがて明年には再挙し 朝鮮を侵そうとしている」 と聞いて 諸大名との対立を回避し 和議を結んだ場合 大名たちの兵力を削ぐ目的で 朝鮮に兵を送る可能性があると指摘・・・ ーー↓↑ーー 中国の姜(キョウ)姓 「神農氏の母が 姜水に住んでいたので 姜氏が発生」 平民と峻別するため 帝の神農は姜 舜は姚 のような血族の祖を示す標識として名のった ↓↑ 朝鮮の姜姜(カン) 姜(カン) チンギス汗 韓国の韓と同じ 「上に立つ、尊大な」の原義 ↓↑ 「姜姓は中国で最も古く 祖先は中国古代の神話によれば 有益な薬草を試し調べ 農耕を庶民に教えた神農 あるいは 漢民族共通の祖と言われる 黄帝 と争って敗れた 非漢民族の代表者 炎帝 発祥 中国のはるか西北方の 天山北路 チベット系の羌(キョウ)族」 「中国の先史社会にあって 姜姓 姫姓 は最も有力な姓で 姜姓の始祖である炎帝は 姜水(岐水)の水源にある 高い山(陜西省岐山)に天上から降臨し その子孫は下流の平原に出て 農業を営むようになった」とあり。 ↓↑ 『中国姓氏考 そのルーツをさぐる』 女性始祖の出産した場所によって得た姓 「姚」 「姜」 「姜、神農は姜水に居り、 因りて以て姓となす(『説文解字』)」 「炎帝の母 女登(ジョトウ)華陽に遊び 陽に感じて 炎帝を 姜水に生む(『帝王世紀』)」 ↓↑ 『中国姓氏事典(姜(キョウ))』 「上古 炎帝神農氏が 姜水(岐水=陜西省岐山県西部に源発) のほとりで長じたためこの姓が生まれた 周代 斉に姜姓を名乗るものがいた」 「姓氏起源分類一覧」の 「帝王あるいは諸侯の領地名 又はそれと関連する 邑名、河川名、山名等から転用したもの」 に 「姜」あり ーーーーー ・・・???・・・姜=羊+女・・・ 羊=ひつじ=未・・・日辻・燈辻・・・ 街灯問題?・・・・ 「チョ・グク」・・・父為娘隠・・・
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