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本草綱目=明朝の李時珍、1578年(万暦六年)に完成、1596年(万暦二十三年)南京で上梓

2022/8/30・火曜日・・・追加添文・・・

    颱=風+台(ム口)

    風=几+㇀+中+ム

    十一=壱拾壱

    号=號

 ↓↑

 ・・・颱風11号・・・情報 28日16:20 発表 28日15時現在

    南鳥島近海で発生

    31日以降西日本から沖縄・奄美に接近

 ↓↑

 歴=歷(厂+秝+止)=厯(厂林心)=历(厂力)

  =厂+林+止

   厂+木+止

   レキ

   リャク

   へる・すぎる・経過する

   すぎてきた跡・過去の事柄

   こえる・とびこえる

   ことごとく・ひとつひとつ・次々に

   はっきりしているさま・あきらかなさま

   こよみ=暦

   ↓↑

   歴史・・・史=㕜

    史=口+乂(かる・おさめる・ガイ・ゲ・メ)

      口+丿+乀

      シ・みふびと・ふみ

      記録をつかさどる役人=書記

      記録・歴史書

      さかん(佐官)・四等官(シトウカン)

      太政官・神祇官の第四位

    㕜=中+又

      口+丨+フ+乀

    史陀(シダ)

    哀史

    外史=民間で書かれた歴史書・野史

    国史

    史=実際に出来事の記録書物

      世の経過を記した書物

    史家

    史閣=歴史書を所蔵

    ↓↑

    経史子集

     中国で昔の書物を

     分類、整理するための四つの基準

     「経=儒教の古典、経書」

     「史=歴史書」

     「子=様々な流派の思想書、諸子類」

     「集=詩文集」

    作史三長

     才知、学問、識見という三つの能力

     歴史家が歴史書を書いたり

     編集したりするために必要な能力

    左図右史

     所蔵している書物が多いこと

     「図=書籍」

     「史=史書」

    史魚屍諫(シギョシカン)

     史魚が自らの死体を使い

     主君を諫(いさめ)た故事

    「史魚=人物名」

    「屍諫=生前の史魚の進言の

         人事を行った故事

    史上空前

    史籀大篆(シチュウダイテン)

     史籀が今までの書体を

     改変して作った大篆の書体

    「史籀」=周の宣王のときの

          歴史書を編修する史官

    「大篆」=書体

    青史(せいし)=歴史・記録

            青竹に歴史や記録を書いた

    歴史は繰り返す

   ↓↑

   歴山=アレクサンドロス3世

      アレキサンダー大王

      歴山大王

      亜歴山大王

      アレクサンドリア=歴山府

      アレクサンダー(Alexander)

      アレクサンドラ(Alexandra)

      イスカンダル(Iskandar)

      保護(Alex)+男(ander) 

      防禦・戦士

      亜(あまねし)の

      歴(過去の記録)

      山(やま)

 ↓↑

 歴(レキ)

 歴舎(レキシャ)

 歴(へ)る

 閲歴=その人が経験してきた社会的なことがら

 経歴=経験してきた事柄・学業・職業・地位

 職歴

 実歴

 巡歴

 戦歴

 ↓↑

 故事来歴(コジライレキ)

  昔から伝わっている事柄の由来や歴史

  来歴=物事の歴史や起源

  「古事来歴」

 歴史は繰り返す

   ↓↑

   阿歴内(あれきない)

   +(北海道川上郡標茶町)

   阿歴内原野(あれきないげんや)

   歴木(くぬぎ)

   東阿歴内(ひがしあれきない) 

 ↓↑

 暦=厤+日

   厂+秝+日

   厂+禾+日

 史=口+乂(かる・おさめる・ガイ・ゲ・メ)

   口+丿+乀

 㕜=中+又

   口+丨+フ+乀

 ↓↑

本草綱目=明朝の李時珍(1518年~1593年)著作

1578年(万暦六年)に完成

1596年(万暦二十三年)に南京で上梓

万暦=萬歴

 ↓↑

 ・・・お袋の命日、六年目・・・昭和天皇(1901年・明治34年4月29日~1989年昭和64年1月7日)の崩御の日、三十年目・・・「七草の日」ですか・・・「七草」の「雪が積もった田地」には「ナズナ(薺)」は見えず、サラサラの粉雪、眩しくキラキラと落ちてくる・・・「ナズナ(薺=艹+齊=異体字は萕=艹+文+丿+二+亅=荠=艹+文+丿+亅」?・・・「齊・儕・䶒・齎・穧・䭣・𪗉・擠・𧓉・齌・臍・齋・𪗋・櫅・霽・齍」・・・「薺=はまびし・ハマビシ科の一年草・なずな・アブラナ科の越年草・春の七草の一つ」・・・

 「本草綱目(ほんぞうこうもく)=中国の本草学史上において、分量がもっとも多く、内容がもっとも充実した薬学著作・作者は明朝の李時珍(1518年~1593年)で、1578年(万暦六年)に完成、1596年(万暦二十三年)に南京で上梓・中国では何度も版を重ねた・日本でもそれらが輸入されるとともに和刻本も長期に亙って数多く出版・それら和刻本は3系統14種類に及ぶ・慶長十二年(1607年)、林羅山が長崎で本草綱目を入手し、駿府に滞在していた徳川家康に献上・これを基に家康が本格的に本草研究を進める契機となる」・・・家康は「本草綱目」の研究者・・・ほんぞうこうもく・・・本増綱目・・・  「本草綱目の作者の李時珍は、約27年間の歳月をかけ、三回も書き直し、800種以上の文献を参考した」  「全52巻   収録薬種は1892種(374種は新収)   図版1109枚   処方11096種  (うち8000余は李時珍自身が収集、確定した)   にのぼる。   薬物ごとに   釈名(名称の考証)   集解(産地の注解)   正誤(それまでの文献における間違いを訂正)   修冶(製造方法)   気味・主治・発明   処方(民間に流布される処方を収集)   などの項目が立てられている。   なお、   第52巻には   人体の薬物利用について、   35の部位が収載されている」  ・・・by wikipedia.org/wiki/本草綱目・・・  漢字の同音・・・  「なづな=名綱=名の綱目⇔綱目=大要と細目・綱は大綱(おおづな・タイコウ)、目は網(つな)の目・物事の大要と細部・物事を分類・整理するときの大きな区分けと小さな区分け」・・・  「項目=辞典・事典・辞書・字引・字典などの見出し語」・・・  「項目=物事を、ある基準で区分けしたときの一つ一つ・資料の項目別整理・その事柄を 目的別や種類別に分類して取り上げるもの・項と目=国や地方公共団体における歳入・歳出予算の項に区分し、さらに目に区分」・・・  ↓↑  「田齊・田斉・田齋・田斎」を再検討・・・「電池・デンチ」を再検討?・・・電気モータ(Electric motor・motor・仏語moteur・独語Motor)の電源・・・電池自動車・電気自動車の時代・・・?  ↓↑  「おもてなし」の漢字は「遇(あう・グウ)」とも当て字をすると、訪問してくれた三笠の従姉が教えてくれた・・・  なるほど、「未知との遭遇」である・・・「遇=グウ=寓(宮・寓意)・隅(隅田川・隈本・隈元・大隈・逢隈)・偶(木偶・木偶の坊・偶数・偶然)・愚図」・・・デクで、グズはボクの人生カモ・・・  ↓↑  七草  せり=芹=セリ      =Water dropwort=セリ科  なずな=薺=ナズナ(ぺんぺん草)       =Shepherd's Purse=アブラナ科  ごぎょう=御形=ハハコグサ(母子草)         =Cudweed=キク科  はこべら=繁縷=コハコベ(小蘩蔞)         =chickweed=ナデシコ科  ほとけのざ=仏の座=コオニタビラコ(小鬼田平子)           =Nipplewort=キク科  すずな=菘=カブ(蕪)       =Turnip=アブラナ科  すずしろ=蘿蔔=ダイコン(大根)         =Radish=アブラナ科  タネツケバナが入っている例がある・・・  ・・・以上も以下も・・・by wikipedia.org/wiki/本草綱目・・・  ↓↑  七草の一  ナズナ(薺、学名:Capsella bursa-pastoris)  アブラナ科ナズナ属の越年草  別名  ペンペングサ(ぺんぺん草)  シャミセングサ(三味線草)  田畑や荒れ地、道端など至るところに生える  ムギ栽培の伝来と共に  日本に渡来した  史前帰化植物と考えられている・・・  名前の由来  夏になると枯れること  つまり夏無(なつな)から  撫でたいほど可愛い花の意味  撫菜(なでな)からなど、諸説・・・  「ぺんぺん」は三味線を弾く擬音語  花の下に付いている果実の形が  三味線の撥(ばち)に似ている・・・  英名のShepherd's purse  「羊飼いの財布」の意味  学名の種小名の語義も同じ・・・  ↓↑  貝原益軒は  『大和本草』で  宋の詩人  蘇軾を引用し  「『天生此物為幽人山居之為』コレ味ヨキ故也」  (大意=天は世を捨て暮らしている人の為に      ナズナを生じた」これは味が良いためである)  ↓↑  民間薬として陰干ししたのちに  煎じたり、煮詰めたり、黒焼きするなどしたものは  肝臓病・解熱・血便・血尿・下痢・高血圧・止血  生理不順・腹痛・吐血・便秘・利尿  目の充血や痛みに効き  各種薬効に優れた薬草として用いられる  ↓↑  江戸時代  旧暦四月八日に  糸で束ねて行灯の下に吊るし  虫除けのまじないにする習俗が広くあった  ↓↑  子供のおもちゃとしての利用  果実が付いた花茎を折り取り  果実の柄を持って下に引くと  柄がちぎれて  皮でぶら下がった状態になり  多数の果実をぶら下げた状態にして  花茎を持ってくるくる回す  (でんでん太鼓を鳴らすように)  と、果実が触れ合って  ちゃらちゃらと  小さな音がする  ↓↑  ぺんぺん草も生えない  荒廃した場所で  育つナズナでさえも生育しない様子から  何も残っていない状態  一切合財が残らない状態を揶揄した表現  「…が通った後はぺんぺん草も生えない」・・・ ーー↓↑ーー  α+齊(斉)  ↓↑  經世濟民(ケイセイサイミン・経世済民)  「世を經(おさ)め、民を濟(すく)う」  「経国済民」  ・・・形成催眠・形勢災民・・・?  略して  「經濟=経済=Economy」      economy=節約・倹約      practice [use] economy・倹約する      時間・労力などの無駄を省くこと      効率的な使用      economy=節約・倹約・経済・景気      動き、言葉などの簡潔さ、無駄のなさ      ikɑ́nəmi=イカーナミ           易化、蛙、波           如何、鴉、並           烏賊、鴉、那美           以下、亜、並    ⇔「商売=trade・business・commerce」  「済民」  人民の難儀を救済すること  「済」=救う、援助  「経世済民」  ・・・「大塩平八郎(中斎)」のラン・・・乱⇔覧・・・  通称は平八郎、  諱は正高、のち後素(こうそ)  字は子起  号は中斎  家紋は揚羽  ↓↑  東町奉行  跡部山城守良弼・・・跡の部の山の城の守、良い弼⇔粥?  ↓↑  紂(チュウ)=糸+寸=糹+一+亅+丶        =緒=糸+者=糸+十+一+ノ+日        =𩋰=革+糸+寸         しりがい・馬や牛の尻にかける緒  ↓↑  緒=お・いとぐち・ショ・チョ    いとぐち・物事の起こりはじめ    緒戦・由緒    すじ・つづき・つながり  ・・・「緒方洪庵」の「適塾」から福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出した・・・日本最初の病理学書『病学通論』を著し種痘を広め、天然痘の予防に尽力・・・安政五年(1858年)のコレラ流行に際しては『虎狼痢治準』と題した治療手引き書を出版し医師に配布するなど、日本医学の近代化に努めた  杉田玄白が蘭学草創の当時を回想して記し、大槻玄沢に送った手記。 上下2編  「蘭学事始」・「解体新書」解体新書. 四巻 キュルムス著 杉田玄白・前野良沢・中川淳庵・桂川甫周訳 小田野直武画 東武 須原屋市兵衛 安永三(1774)刊 五冊・原著はクルムス(J. A. Kulmus)著『解剖学表』(Anatomische Tabellen. 1732)のオランダ語    分解と組み立て・解剖と整形    ↓↑    緒=お・糸・紐・長く続くもの    由緒・由来    「糸の盛り上がった部分」    「糸を結び留めた先端」    情緒の緒・緒言         著書・著作・著者         諸々・諸人・諸国・諸君・小諸川  緒=糸+者      者=者+丶    お・いとぐち・ショ・チョ    物事のはじまり・発端・いとぐち    緒言・緒戦・緒論・端緒・由緒    ある事から引き起こされる思い    情緒・心緒・緒言・情緒  ↓↑  穉=禾+犀=稚=チ    異体字「𥠧・蕛・稺」    穉い=わかい・穉い=いとけない    おさない者・稚児・稚拙  ↓↑  湣公(ビンコウ)  中国の諸侯の諡号  湣公 (杞)  湣公 (陳)  湣公共 (宋)  湣公捷 (宋)  文公 (戦国魯) の別号  ↓↑  湣=氵+昬=氵+民+日  ↓↑異体字「涽・㬆」・・・黄昏    ビン・ミン・ベン・メン    mixed,confused,pity?  ↓↑   ↓↑    confusing(状況)     or    confused(主体)…?    That confused me    give a confused explanation    わけのわからない説明をする・・・  ↓↑   ↓↑    pity=哀れみ・同情(for・on)    It's a pity=残念だ=What a pity!    pity    恵沢・慈悲・哀れ・憐れ・憫れ・情け    惻隠・お情け・御情け・憐憫・憐愍    惻隠の情・憐情・哀憐・憫諒・愍諒    哀愍・哀憫    哀びん・哀みん・哀れみ・憐れみ    ↓↑    ・・・もう、こうなると、コジキには    「unnecessary pity=不必要な憐れみ」  ↓↑であるカナ・・・  ↓↑  聚斂=集めて収めること・収斂  ↓↑ きびしく租税を取り立てること     「聚斂之臣」=重税を厳しく徴収し            人々を苦しめる役人・官吏      ↓↑     「聚斂の臣あらんより      寧ろ盗臣あれ(礼記・大学)」     重税を取り立てて     人民を苦しめる家臣よりは     主家の財をかすめ取って     私腹を肥やす家臣のほうが     まだしも害は少ない・・・?・・・     合法で収奪するも     詐欺で収奪するも同じだが     収奪相手が異なる・・・  ↓↑  周王朝の祭器  夏・殷・周  と伝わった  九つの鼎  九つの鼎=後世の玉璽・王位の象徴  ↓↑  藺相如の「和氏の壁」・・・強国はどちらか?  「璧に瑕」はあるのか・・・「和氏(日本)の壁」  南北半島人は  人(人質)も  璧(仏像)も  返すハズがない・・・信義無用の支配階級の隣国?  ↓↑  三十五年(B.C.280)  秦の  「白起(武安君)」・・・新羅の血統の祖?  が趙軍を破った  司馬錯の  隴西(ロウセイ)=大隴山の西  の部隊  (秦の西方の地域にある   大隴山のふもとの   冀戎(キジュウ)   豲戎(カンジュウ)   氐(テイ)   羌(キョウ)  と呼ばれる異民族部隊で  蜀  を伝って  楚  の  黔中(ケンチュウ)を攻め占領  楚は  漢水以北の土地  上庸(ジョウヨウ)の土地を献上  ↓↑  三十六年(B.C.279)  秦の  「白起(武安君)」・・・新羅の血統の祖?  が楚を伐ち  鄢(エン)  蠟(トウ)  西陵(セイリョウ)  を占領・・・  ↓↑  燕の楽毅  魏、韓、趙、秦、楚  ら  斉に攻勢  ↓↑  田單(デンタン)  齊の首都  臨淄の市場の役人  ↓↑  斉を・・・・・・・李氏?  攻め落とした  燕の・・・・・・・日本?  楽毅は・・・・・・楽しく毅(つよし)・学期?  税金を安くし・・・朝鮮半島人の?  法を整備  善政を敷き  斉人たちが・・・・朝鮮一般人?  納得して  燕に仕えた・・・・大日本帝国に? ーー↓↑ーー  ・・・なんか、パロディ・・・「もじる」?  パロディ=parody・ギリシア語 παρωδια)  他の芸術作品を  揶揄や風刺、批判する目的を持って模倣した作品  あるいはその手法・・・  既成の他人の  作品、芸風、文体・韻律などの  特色を残し  全く違った内容を表現し  風刺・滑稽に作り変えた文芸作品 ーー↓↑ーー  田單(安平君)は  首都・臨淄から  安平(アンペイ)城に逃亡し  更に逃れ  即墨(ソクボク)逃げた  齊の七十城が降伏し  齊の前王の息子  法章が逃れた  莒(キョ)の街  と  即墨(ソクボク)の街が  齊国に残った  ↓↑  四頭の馬が引く戦車に  三人が乗って戦う  戦車戦で  燕の  楽毅は  齊の戦車の車輪の軸を攻撃破壊  齊軍は不利となって敗走・・・  ↓↑  齊軍の  田單(安平君)は  鉄で車軸を補強し  即墨(ソクボク)に逃亡・・・  三年間  籠(篭)城守備・・・篭=竹が立つも甲の尻尾が右に曲がる?  ↓↑  燕の  昭王が死亡  燕の新王の  恵王は  楽毅に代わりに  騎劫(キキョウ)  を  即墨(ソクボク)に派遣  楽毅は  長期戦の  処罰を恐れ  趙国に亡命・・・  ↓↑  『劓(ギ)』=鼻切りの刑  ・・・スサノオ(須佐之男)は鼻から生まれた・・・  『刖(ゲツ)』=足切りの刑  ・・・孫臏(ソンピン)=孫子がこうむった・・・  『黥(ゲイ)』=刺青刑  ・・・魏志倭人伝の「倭人の鯨身」  『挖眼(アツガン・アチガン)』=眼えぐりの刑  ・・・目から生まれた天照大御神・月読命・・・  ・・・片目、隻眼の伊達政宗、柳生十兵衛・・・  ・・・座頭市・・・  『刵(ジ)』=耳削(そ)ぎの刑  ・・・耳なし芳一(みみなしほういち)・・・平家の落ち武者     小泉八雲⇔濃い墨や句摸・・・?  ↓↑  燕は  齊の降伏兵の鼻を削ぎ城への最前列に配置  ↓↑  劓(鼻削ぎ)・剕・刖・臏(脚切り)  黥・墨(入れ墨)  腰斬刑  ↓↑  周代五刑  墨(ボク・刺青)  鼻(ギ・鼻削ぎ)  宮(キュウ・性器切除)  刖(ゲツ・足切り)  殺(サツ・死刑・斬首)  ↓↑ ↓↑  凌遅・臠割・剮・寸磔・礫(切り刻み・八つ裂き)  車裂・轘・分屍(車裂き・五牛裂き)  斬首・大辟・殊死・棄市(打ち首)  腰斬(腰切り)・剥皮(皮剥ぎ)  炮烙(銅柱焼き・格子焼き・焼鏝)  ↓↑  烹煮(釜茹で)・・・石川五右衛門  剖腹(腹裂き)  抽腸(腸引き)  射殺(射殺し)  沈河(沈め殺し・溺殺)  絞縊・絞刑(絞殺)  鴆毒(毒殺)  黥面・入墨(顔面入れ墨)  割鼻・劓(鼻そぎ)  刵(耳そぎ)  截舌(舌きり)  挖眼(眼えぐり)  断手(手切り)  断指(指切り)  刖足・剕・臏・斬趾(足切り)  宮(性器切除)  幽閉(膣閉)  枷項(首かせ)  笞杖(鞭打ち)  廷杖・敲(棒打ち)  鞭扑(鞭打ち)  人食(人食い)  獣咬(咬み殺し)  拷訊(拷問)  梟首(晒し首)  戮屍(死体を辱める)  火焚(火あぶり)  鑿顚(ノミ打ち)  断脊(脊椎切り)  活埋(生き埋め)  刷洗(ブラシかけ)  騎木驢(串刺し)  鋸割(鋸引き)  灌鉛(鉛流し込み)  又流(島流し)  贖(罰金)  烙印(焼印)  醢(塩漬け)・・・・高橋景保・大塩平八郎  腊(干し肉) ーーーーー  ・・・???・・・  田單(安平君)は  燕軍の  騎劫(キキョウ)  を策略で蹴散らし  齊国を復興させた ーーーーー  ↓↑  新齊王に  襄王(田法章)・・・父の「湣王(ビンオウ)」は  が就任      「淖歯(トウシ)」に殺害され  在位は       淖歯=楚の臣で               齊の援軍だったが            湣王(田地)を殺し            燕との間で斉の土地や財宝            を分奪  前284年~前265年  太史の敫(キョウ)の娘を  皇后(君王后)とし  太子の  建を産むが  恋愛で  昏(婚)礼・・・女+昏⇔昏・黄昏(たそがれ)  の儀式を踏まえてず嫁いだので  父親の  太史の敫(キョウ)は  娘と縁切り、家族として扱わなかった  ↓↑  「・・・   單に是れらの善が有って   王もこれを嘉する   單の善は王の善」  ↓↑  齊の王室は田氏  ↓↑  田單=安平君  は王室と同じ姓を持つ縁者・・・  ↓↑  巖下の  「珠を貫く人」は・・・玉造の技術者=元祖和人?  襄王に的確な助言  ↓↑  田單(安平君)は  貂勃(チョウボツ)を  王のもとに  任子(保証人・人質?)とした  九人の  「佞臣=ネイシン=侫臣」の・・・佞=侫⇔俀⇔倭      traitor      crafty courtier  「田單=安平君」を中傷を退け  齊王を諫め  田單(安平君)を擁護 ーーーーー  ・・・???・・・七草の日・・・  はまびし/ハマビシ科の一年草/なずな/アブラナ科の越年草  「薺=艸+齊=荠=萕」・・・  齊・儕・䶒・齎・穧・䭣・𪗉・擠  𧓉・齌・臍・齋・𪗋・櫅・霽・齍  ・・・

 本日、1/8のニュース・・・「史上最遠の天体の接近撮影に成功・雪だるま形・太陽から65億キロの史上最も遠い天体・探査機ニューホライズンズが撮影・@NatGeoMagJP・NASAの無人探査機が、撮影ナショジオ」・・・いか、ナンカ、関連があるのかな・・・  ↓↑  ・・・教育番組・・・  田中 久重(たなか ひさしげ)  寛政十一年九月十八日  (1799年10月16日)   ~  明治十四年  (1881年11月7日)  ↓↑  己未(丁 乙 己) 偏官偏財 墓⇔辛巳  甲戌(辛 丁 戊) 傷官偏印 衰⇔戊戌  癸酉(庚 辛) 印綬 病⇔乙巳 戌亥=空亡  ↓↑  発明家  「東洋のエジソン」・・・  ↓↑  トーマス・アルバ・エジソン     (Thomas Alva Edison,      トマス・アルヴァ・エディスン…富増・蛙留話鴉・重字寸?       ↓↑      1847年2月11日        ~1931年10月18日)      丁未(丁 乙 己)比肩比肩 冠帯⇔辛未      壬寅(戊 丙 甲)正官傷官 死⇔戊戌      丁丑(癸 辛 己)  偏官 墓⇔丙午       申酉=空亡  ↓↑  「からくり儀右衛門」  と呼ばれた  芝浦製作所(東芝の重電部門)の創業者 ーー↓↑ーー  筑後国  久留米(福岡県-久留米市)の  鼈甲細工師・・・鼈甲=「べっこう=別項・別稿」細工の詞?  田中弥右衛門の長男  幼名は  儀右衛門  嘉永六年(1853年)  佐野常民・・・・常の民  の薦めで  蘭学狂いの  鍋島直正・・・鍋(なべ・名部)の揣摩(しま)         金+咼(冎+口)     縞(糸+高)・志麻         咼(よこしま・くちがゆがむ・カ・カイ)            「冎=字形に穴にはまりこむ関節の骨」           簡体字「呙」           異体字「剮・和・喎」・・・和?・・・なごむ           咼、渦、過、鍋、禍、堝、蝸、窩           窩=あな・あなぐら・カ(クヮ)・ワ             腋窩(エキカ・エキワ)             眼窩(ガンカ・ガンワ)             蜂窩(ホウカ)             窩主(けいず)買い=盗品と知りながら             売買すること・その商人             故買(コバイ)・系図買い         直(すぐ・ただち)正(ただせ)  が治める  肥前国  佐賀藩の・・・嵯峨・性・差雅・・・相模・佐上  精煉方に着任  日本初の  蒸気機関車  蒸気船の模型を製造  反射炉の設計  大砲製造  元治元年(1864年)  佐賀から久留米に帰り  久留米藩の  軍艦購入  銃砲の鋳造に携わった  ↓↑  跡部 良弼  (あとべ よしすけ)  寛政十一年十月二十一日(1799年11月18日)  ~  明治元年十二月二十日(1869年2月1日)  ↓↑  己未(丁 乙 己)傷官印綬  衰⇔戊辰  乙亥(戊 甲 壬)印綬偏印  絶⇔乙丑  丙午(丙   丁)  劫財 帝旺⇔癸亥   寅卯=空亡  ↓↑  旗本、幕臣  肥前  唐津藩主  水野忠光  の六男・・・666  老中  水野忠邦の実弟  通称は季十郎・大膳  官位は従五位下  山城守、信濃守、能登守  甲斐守、伊賀守、遠江守  に遷任した  ↓↑  大塩の乱  (天保八年二月十九日・1837年3月25日)で  責任を問われることはなく  後は  大目付を経て  勘定奉行に栄進  勘定奉行在任中の  天保十三年(1842年)  翌年に予定された  十二代将軍  徳川家慶の  日光東照宮  謝参準備のため日光に赴く途中  下総  古河の宿場本陣に宿を取ったが  幕府の威光を盾(傘)に  参勤交代で  既に同宿場の本陣に入っていた  陸奥  仙台藩主  伊達慶邦  を強制的に退去させ  後日  伊達侯から幕府に強硬な抗議  ↓↑  天保の改革  (1830年~1843年)  天保九年  農村復興を目的とした  人返令  奢侈禁止を諮問  天保十二年  (1841年)  大御所  十一代将軍・・・11・十一・拾壱・足壱?  徳川家斉・・・家の斉(齊・斎・齋)?  が死去  ↓↑  五月十五日  十二代将軍  徳川家慶は  享保・寛政の改革の趣意に基づく  幕政改革の上意  水野は幕府各所に  綱紀粛正と奢侈禁止を命じた  ↓↑  水野 忠邦(於莵五郎)の側近  寛政六年六月二十三日  (1794年7月19日)  ~  嘉永四年二月十日  (1851年3月12日)  甲寅(戊 丙 甲)偏官偏印 長生⇔辛亥  辛未(丁 乙 己)傷官劫財  衰⇔辛卯  戊寅(戊 丙 甲)  偏印 長生⇔丁卯   申酉=空亡  ↓↑  鳥居 耀蔵が町奉行  寛政八年十一月二十四日  (1796年12月22日)  ~  明治六年  (1873年10月3日)  丙辰(乙 癸 戊)傷官正財 冠帯⇔癸酉  庚子(壬  癸)正官偏印  病⇔辛酉  乙丑(癸 辛 己)  偏財   衰⇔戊子   戌亥=空亡  ↓↑  徳川家斉の側近  別名 忠耀(諱)・胖庵(号)  蝮の耀蔵、妖怪(渾名)    ・・・天保十四年閏九月十四日       水野は老中職を罷免されて失脚       諸改革は中止  ↓↑  跡部 良弼は  兄の  水野忠邦が失脚後も  政治的命脈を保ち続け  兄が重用した  鳥居耀蔵と  そりが合わず  個人的に  鳥居と敵対していたために  失脚は免れた・・・?  ↓↑  氐宿(テイシュウ・テイシュク)     ともぼし     二十八宿の一     東方青龍七宿の第三宿     距星はてんびん座α星     星官(星座)の氐は     天秤(てんびん)座     α星、ι星、γ星、β星の4つの星で構成     氐=Root=天の根・青龍の胸及び前足  ↓↑  氐=氏(人が前にかがまる)+一(下の面)    氏+一    人が身をかがめて地面に手を触れること?  ・・・氏の一(はじめ)?  氐族=中国の民族の一・チベット系     氐・低・底・抵・邸・岻・砥⇔氐=土台・基礎?  氏(シ)=薄い刃物?       祖先を同じくする同族集団・・・氏⇔民=冖+氏                      氏=ノ+𠄌+弋(一乀)       同一血族の系統  氐=氏+一    人が身をかがめて地面に手を触れること?    平伏している様・・・?  氒=氏+十=ね・ケツ・カチ    ・・・氏の十族?   =橛(杭)・・・棒状の歩行用のステッキ・・・?    厥=その・それ・まがる・まげる・ぬかずく      厥角・屈      ・・・「蕨=わらび・和良比」なら          薇(ぜんまい)・・・          発条(ぜんまい)で          巻貝・ヤドカリの貝・蝸牛(かたつむり)         「蝦=海老=えび=蛯は国字」・・・蝦夷.      中国北方の異民族の名「突厥(トッケツ・トックツ)」      石を発掘する・ほる・つくす      つきる(素問・陰陽離合論)      陰根厥き、火敦起きる      病名。のぼせ(素問・六節蔵象論)      足凝り      くぼみ(窪)にひっかかる ーーーーー  ↓↑  緒方 洪庵  文化七年七月十四日  (1810年8月13日)   ~  文久三年六月十日  (1863年7月25日)  足守藩士・・・足(たり)の守(かみ)の藩(ハン)の士(シ)  医師、蘭学者  大坂に適塾(大阪大学)を開校  天然痘・・・天然=自然  治療に貢献  幼名は騂之助(せいのすけ)  諱は惟章(これあき)・章(あきら)  字は公裁  号を洪庵・適々斎・華陰  弟子から  「メース(オランダ語meester=先生」  と呼ばれた  ↓↑  豊後国の豪族  豊後  佐伯(さえき)氏・・・佐=人+ナ+工             伯=人+白・・・新羅系渡来人  の流れをくむ・・・佐伯氏=弘法大師・空海・眞魚               蝦夷族の監督官?  備中  佐伯氏  の一族  備中国  足守藩(岡山市北部)士・・・足(たり)の守?  佐伯惟因  (瀬左衛門)の三男  母は  石原光詮  の娘・「きょう」  備中  佐伯氏は  佐伯惟寛  (惟定の弟)  ↓↑・・・兄弟=緒方惟照、惟定、惟寛  ↓↑   子=惟重、女子(藤堂元則室)       佐伯惟定(さえき これさだ)       安土桃山時代~江戸時代前期       戦国武将       豊後-佐伯氏-第十四代当主       豊後国-海部郡       栂牟礼城主  ↓↑    津藩重臣       豊後佐伯=栂牟礼城主の佐伯惟教の末裔       佐伯惟教は       大友宗麟の武将で      「耳川合戦」で討死・・・耳の川・・・字選合選?       嫡子の佐伯惟定は       島津軍から       栂牟礼城(とがむれじょう)を死守し・・・木母厶牛礼           大分県佐伯市弥生(旧南海部郡弥生町)大字井崎上小倉       豊臣秀吉から感状を下された       大友義統が       朝鮮役の       敵前逃亡で       改易され       佐伯惟定も領地を失い  ↓↑    藤堂高虎の客将となった・・・  の末裔・・・  八歳のとき  天然痘にかかった・・・天(典・点・転・伝・田)念  ↓↑  文政八年(1825年)二月五日  元服し  田上惟章と名乗る・・・田の上(かみ)の惟の章             田齋・田齊の文章・・・?  十月         惟神道=カンナガラのミチ  大坂蔵屋敷  留守居役となった父と共に大坂に出る  ↓↑  文政九年(1826年)七月  中天游の私塾  「思々斎塾」・・・思々の斎(齋・斉・齊)・・・差異?  に入門  緒方三平と名乗り(のちに判平と改める)  以後は  緒方を名字とする?・・・名字の選択の根拠はナニ?・緒方さん  四年間、蘭学、特に医学を学ぶ  ↓↑  天保二年(1831年)  江戸へ出て  坪井信道に学び  宇田川玄真にも学んだ  ↓↑  天保七年(1836年)  長崎へ遊学し  オランダ人医師  ニーマン  のもとで医学を学ぶ  緒方洪庵・・・洪水の庵=いおり=廬・伊織・夷織  と号した・・・  ↓↑  天保九年(1838年)春  大坂に帰り  瓦町(大阪市中央区瓦町)で医業を開業  同時に  蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開く  天游門下の先輩  億川百記  の娘・八重と結婚  のち六男七女をもうける  ↓↑  弘化二年(1845年)  過書町(大阪市中央区北浜三丁目)  の商家を購入し  適塾を移転  ↓↑  嘉永二年十一月七日(1849年12月21日)  6日前に  京に赴き  佐賀藩が輸入した種痘を得  古手町(大阪市中央区道修町)に  「除痘館」を開き  牛痘種痘法  による切痘を始める  ↓↑  嘉永三年(1850年)  足守藩の要請で  「足守除痘館」を開き切痘を施した  関東から九州までの  186箇所の分苗所を維持し治療  ↓↑  安政五年四月二十四日(1858年6月5日)  洪庵の天然痘予防の活動を  幕府が公認し牛痘種痘を免許制とした  ↓↑  文久二年(1862年)  幕府の要請で  奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕  歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け  手塚良仙  ら七名を推薦  十二月二十六日  「法眼」に叙  ↓↑  文久三年六月十一日(1863年7月25日)  江戸の医学所頭取役宅で喀血、窒息で死去  享年五十四  ↓↑  明治四十二年(1909年)6月8日  贈従四位  ↓↑  適塾  福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎  長与専斎、佐野常民、高松凌雲  などを輩出  病理学書  『病学通論』を著作  安政五年(1858年)  コレラ(虎列剌)     ・・・虎列剌=高熱・下痢・嘔吐などを伴い            死に至ることもある・コロリ(虎狼痢)  流行で  『虎狼痢治準』  と題した治療手引き書を出版  息子たちにはまず漢学を学ばせた  万延元年(1860年)  門人の  箕作秋坪  から  英蘭辞書二冊を購入  英語学習を開始  福澤諭吉が適塾に入塾し  腸チフスを患った時  中津藩大坂蔵屋敷で療養していた彼を  診察、看病し治癒  洪庵は  西洋医学の治療と同時に  漢方処方をした  江戸で  将軍  徳川家茂の侍医  洪庵は  護身用ピストル(拳銃・短銃・短筒)を購入所持  ↓↑   妻の八重の甥は  紙幣製造に貢献した化学者の  岸本一郎(1849~1878)・・・岸本一郎?  岸本は緒方宅で育ち  幕府派遣の  英国留学生に選抜  日本の最初期の化学留学生とし  ロンドン留学  ↓↑  華岡青洲一派の  漢方塾  合水堂とは塾生同士の対立  ↓↑  次男の  緒方惟準(これよし)  慶応元年(1865年)  幕府の命令でオランダ留学  明治元年(1868年)に帰国  京都の典薬寮の医師となり  明治天皇の侍医  明治二年(1869年)  大坂に設立された  浪華仮病院(大阪大学医学部の前身)の院長  オランダの軍医  ボードイン  らとともに病院の運営  明治四年(1871年)  陸軍軍医  明治十八年(1885年)  陸軍軍医学会長兼近衛軍医長  脚気の予防策に  麦飯給食を勧めたが軍上層部と対立  明治二十年四月  陸軍を辞し大阪にて緒方病院を開設  ↓↑  第十子の  惟直はフランス語を学び  1873年  ウィーン万博で通訳  1875年  イタリアの  トリノ・・・トリの・・・  で日本語教師  翌年当地の女性と結婚  長女  エウジェニア-豊  が生まれる  1878年  25歳で死去  孫の  緒方知三郎  緒方章  はそれぞれ病理学者と薬学者である  曾孫の  緒方富雄は東京大学で血清学を研究・・・ ーーーーー  ・・・フゥ~ぅ~ン・・・  緒方先生ってボクの育った鶉の分院の医院長だったけれど・・・

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 ボクの「古事記字源」の発端・・・2021/10

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 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」



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