top of page

検討のコトバ・・・見当違い?・・・「ロウソク大統領」アレならヒトビトは「ゼツボウ」かも・・・

2021/10/3・日曜日・・・追加添付文・・・


 ケントウ シ・・・のハイシ・・・の、「原因」?  「検討 詞(史) 廃止」・・・博史・・・博文?  遣唐使廃止の「原因」はなんだったのか・・・?  「鎖国」だった・・・・・?  「国交断絶」だった・・・?  「国際同盟脱退」だった・?  「日本独立」だった・・・?  ↓↑  「祟り」・・・タタリ・・・?・・・多足・・・?  「自然界の個人的災難」・・・?  「自然界の共同体的災難」・・・?  「日本人支配者の恐れと懺悔」・・・?  「日本人庶民の良心」・・・?  ↓↑  遣唐使中止後  「菅原道真」の遣唐大使の職は継続・・・?  遣唐使中止は一時的なもの・・・?  894年時点で  遣唐使自体は継続事業  ↓↑  901年  「菅原道真」は  「藤原時平」  との政争に敗れ  大宰府へ左遷  その後  遣唐大使  に任命される人物は存在せず  遣唐使派遣は自然消滅・・・?  ↓↑  唐で内乱・・・  ↓↑  600年・庚申  推古天皇八年  中国  隋  開皇二十年  朝鮮  新羅 建福十七年

 600年  聖徳太子  遣隋使使節団を派遣  ~  894年  ~  618年  隋 滅亡  唐 建国  ↓↑  645年    「大化の改新」・・・改心・回心・解新・海進  660年  「百済滅亡」  「鬼室福信」は  「黒歯常之」  「余自進」  僧「道琛(どうちん)」  等とともに  「任存城(大興)」で挙兵・・・任存⇔任那?  旧都  泗沘(しひ)城(扶余)奪回を図った  同年  日本の朝廷へ救援軍の派遣  人質の王子  「余豊璋=豊璋」  の送還を要請

 661年8~9月  救援軍が派遣  「豊璋」と軍需物資は  「周留城(錦江下流域)」  に拠った  「鬼室福信」  のもとへ送り届けられた

 662年・天智元年  高句麗は  唐と新羅の連合軍に攻められ  日本に援軍を求む  日本は兵を送って  「疏留城(そるさし)=都々岐留山(つつきるのむれ)」  を構えた  ↓↑  ・・・錦江(クムガン・キンコウ)=論山平野を貫流  「群山」と  「舒川」の市郡境で  「郡山湾」を形成し  黄海に注ぐ  熊津?  沿岸の  「江景(カンギョン)」  河口の  「群山」は物資の集散地  百済の古都  「忠清南道 公州」からは  「熊津江(ウンジンガン)」  「忠清南道 扶余」からは  「白馬江(ペンマガン)」  とも呼ぶ  明治十一年(1878年)代  日本で  「長浦江(Basil bay)」と呼ぶ  「basil=バジル・メボウキ  熱帯生の芳香ハーブ  バジリコ・バズル 」  ↓↑  「錦江」は  三国時代の百済の主要水上交通路  「公州」には  「百済」の旧都  「熊津」  「扶余」には  「泗沘」があり  「白村江の戦い」の  「白江・白村江」は  「錦江」と推定・・・

 「全羅   北道   長水郡   小白山脈   神舞山(シンムサン)の   東斜面に端を発して北流   草江(チョガン)   報青川(ポチョンチョン)   甲川(カプチョン)   と合流し   全羅北道   忠清北道   大田の道市境を通り   忠清南道   燕岐郡(世宗特別自治市燕岐面)の   南部で   美湖川(ミホチョン)と合流し   流れを西南に変え   忠清南道   全羅北道   の道境を流れ   論山川(ノンサンチョン)と合流し   論山平野を貫流し   群山   舒川   の市郡境で   郡山湾を形成し   黄海に注ぐ」

 663年・天智二年     日本は2万7千人を派遣    「余豊璋」は    「鬼室福信」を謀反ありと斬り殺した     新羅は    「百済王の     州柔(つぬ)」を攻撃    「唐の軍船170艘」が    「白村江」に陣をしき    「日本水軍」と戦闘     翌日     日本軍は     唐軍に攻撃され大敗     百済王は船で高句麗に逃亡    「州柔城」降伏     日本軍と    「余自進」ら百済人が     日本へ撤退     対馬・壱岐・筑紫国などに    「防人(さきもり)」    「烽(すすみ・のろし台)」設置     筑紫に     大堤を築いて貯水  ↓↑  670年~701年  遣唐使の派遣は無し  ↓↑  700年・庚子年・・・2020年・・・      4月3日(文武天皇四年三月十日)      文武天皇死去      皇紀1360年      中国      武周 聖暦三年・久視元年      石頭希遷(セキトウ キセン・700~790年)      唐の禅僧      諡 無際大師      姓 陳      端州高要県出身      慧能の弟子の青原行思の弟子      「石頭宗派」・・・「いしあたま走破・総破」?  ↓↑  702年・壬寅年・・・「水の江の虎」撚?  再び  遣唐使派遣再開  ↓↑  長安を真似  平城京の建設が開始  ↓↑  唐は  「定期朝貢」  を日本と交わしていた・・・  ↓↑  「遣唐使派遣の理由」・・・「定期朝貢」? ー↓↑ーー  鑑真  「日本の僧尼令」  ・・・「私度僧」の蔓延・・・  「密教や天台宗」を日本に伝承・・・  「戒律」・・・を伝えた・・・  唐の皇帝から  「鑑真、あなたは唐に必要な人物   日本へ行ってはならない」・・・  ・・・ナゼ・・・・?  唐の皇帝は「日本渡航を禁止」したのか・・・?  ↓↑  日本の  普照(ふしょう)  栄叡(ようえい)  「戒律の僧」探し・・・「鑑真」・・・  708年・和銅一年  710年・和銅三年  711年・和銅四年  712年・和銅五年  720年・庚申      養老四年      9月13日(養老4年8月3日)      藤原不比等 死去      中国      唐   開元八年      渤海  仁安二年  ↓↑  733年  普照  栄叡  を唐に派遣  ↓↑  735年  遣唐使たちは  日本へ帰国・・・天然痘の蔓延・・・?  ↓↑  普照、栄叡  は「戒律知識の僧」を探すため  唐に滞在  ↓↑  742年  唐入国   9年後  普照と栄叡は  戒律授戒僧の  「鑑真」と会見  日本への渡航は  鑑真もその弟子たちも拒否  後  743年  鑑真は  日本へ密航して  「戒律」を  伝えに行くことを決意・・・  ↓↑  「鑑真の弟子」たちは  「唐役人」に密航を密告・・・  普照  栄叡  は捕縛、逮捕され入獄  後  日本帰国を条件に釈放  ↓↑  744年  普照  栄叡は  鑑真の下へ戻り  再度  密航準備  ↓↑  暴風雨により  鑑真らは唐へ戻る  3回目渡航の準備  弟子に密航計画を暴露され  栄叡は  牢獄入り  ↓↑  745年  日本渡航準備  栄叡は  病死を装い脱獄  第4回目の渡航  鑑真の弟子の密告  ↓↑  748年  第5回目渡航  失敗  暴風で  海南島に漂流  再び出帆した港へ  陸路で引き返すが  途中  栄叡が死亡  鑑真は失明  ↓↑  752年  日本から遣唐使船が来唐  唐と日本  20年に一回  唐への朝貢盟約?  ↓↑  遣唐使  藤原清河  は外交問題に発展することを避け  皇帝の指示に従い  鑑真の乗船を拒否  ↓↑  大伴古麻呂  の取り計らいで  鑑真は乗船  ↓↑  暴風雨に遭遇漂流しながら日本に来着  ↓↑  鑑真  奈良東大寺に授戒を行う戒壇設置  聖武太上天皇に授戒  ↓↑  鑑真  唐招提寺を建立  763年  唐招提寺で死去 ー↓↑ーー  ・・・  ↓↑  770年・     8月28日(神護景雲4年8月4日)     孝謙天皇、第46・48代天皇(718年~)死去     10月31日 (宝亀元年十月九日)     文室浄三 (693年~)死去     宝亀元年〈770年〉1月     阿倍仲麻呂(698年~)死去     阿倍仲麿     唐名「朝衡=チョウコウ=晁衡」     唐の玄宗に仕え     神亀二年(725年)     洛陽の司経局校書     神亀五年(728年)     左拾遺     天平三年(731年)     左補闕     天平六年(734年)     儀王友     天平勝宝四年(752年)     衛尉少卿     翌年     秘書監・衛尉卿     帰国渡航中・・・難破、安南に漂着     勝宝七年(755年)に長安に戻った     天平宝字四年(760年)     左散騎常侍(従三品)     鎮南都護・安南節度使(正三品)を務めた     天平宝字五年(761年)     ~     神護景雲元年(767年)     6年間     ハノイの安南都護府に在任     天平神護二年(766年)     安南節度使を授けられた     唐の     玄宗・粛宗 ・代宗     に仕え     宝亀元年(770年)1月     73歳で死去     代宗は     潞州大都督     の官名を贈った  ↓↑     筑紫大宰帥・阿倍比羅夫の孫     中務大輔       阿倍船守の長男     弟 阿倍帯麻呂  ↓↑  仁和三年   (887) 年  宇多天皇  「阿衡」事件  天皇権力が藤原氏により弱体化  ↓↑  「関白(太政大臣)」の  役職は  光孝天皇が  「藤原基経」に  天皇にしてもらった恩義返しの  「名目上の役職名=名誉職=関白」   ↓↑  「阿衡(あこう)」  中国で用いられていた「役職名」  名誉職的な役職   ↓↑  「橘 広 相」  「橘」・・・祖は「橘三千代=県犬養 三千代」?          「和銅元年(708年)十一月           元明天皇(阿閉皇女)から          「橘」宿禰姓を賜った」           前夫は          「栗隈王の子」          「弥努王=美奴王=美弩王=三野王」?          「栗隈王=栗前王・くりくまのお ほきみ               敏達天皇の孫(曾孫?)               難波皇子の子(孫?)               美努王の父               橘 諸兄の祖父」  ↓↑        ↓↑          「栗隈王」           筑紫率(筑紫大宰)           筑紫太宰の地位           筑紫率=筑紫帥=筑紫大宰=同じ官職の別表記・・・?           唐と新羅の使者を送迎           672年           壬申の乱で           中立・・・?           天智天皇、大友王子(弘文天皇)          「近江朝」の暗殺者に狙われた           675年に兵政官長・贈従二位 ーーーーー  「橘三千代=県犬養 三千代」  天智天皇四年  665年?  ~  天平五年一月十一日  733年2月4日  ↓↑  和銅元年(708年)十一月  元明天皇(阿閉皇女)から  「橘」宿禰姓を賜った  ↓↑  敏達天皇系皇親  「美努王(みぬおう・みのおう)」  に嫁し  「葛城王(橘諸兄)」  「佐為王(橘佐為)」  「牟漏女王」  を生む  天武天皇十三年(684年)  第一子  葛城王(橘諸兄)を出生  軽皇子(文武天皇)は  天武天皇十二年に出生し  元明天皇  と  三千代  は主従関係で  三千代は軽皇子の乳母・・・  ↓↑  「美努王」と離別し・・・?  「藤原不比等」の後妻  「光明子」  「多比能」  を生む  「藤原不比等」は  持統天皇三年(689年)の  直広肆・判事の職  持統天皇十年(696年)  高市皇子の死去に伴い  政権中枢に参画  文武天皇元年(697年)八月  不比等の娘  「宮子」が  「文武天皇」夫人となり  「藤原朝臣姓」が  不比等とその子孫に限定され  「藤原氏=不比等家」が成立  文武天皇即位に伴う  不比等の栄達の背景  「阿閉皇女(元明天皇)」  の信頼を受けた  「橘三千代」の存在があった・・・  ↓↑  『続日本紀』  慶雲四年(708年)七月壬午(十七日)  阿閉皇女は即位し  元明天皇  和銅元年十一月  大嘗祭  「藤原不比等」は  右大臣に任命  『続日本紀』  「葛城王(橘諸兄)」の上奏文に  癸未(25日)の御宴で  三千代は  元明から  天武天皇の代から仕えていると称されて  杯に浮かぶ「橘」とともに  「橘宿禰」の姓を賜り  橘氏の祖となった  「県犬養」一族のなかで  「橘」姓への改姓は  「三千代」のみであるが  改姓後も県犬養一族に属し続けている  藤原宮跡からは  大宝元年の年記を持つ  「道代」木簡  大宝三年の年記を持つ  木簡群に含まれる  「三千代」木簡が出土  橘姓への改姓と同時に  名も  「道代~三千代」に改名・・・  同年五月  前夫の  「美努王」が死去・・・  ↓↑  元明の即位後  宮人筆頭として  不比等とともに  朝廷に影響力  『続日本紀』  三千代  養老元年(717年)  従三位  養老元年以前の職掌・位は不明  霊亀元年(715年)時点で  従四位・尚侍・・・  霊亀二年(716年)  娘の  「安宿」が  皇太子  「首(聖武天皇)」の  妃となり(光明皇后)  「県犬養唐の娘」・・・県の犬養の「唐」?  「広刀自」も  「首(聖武天皇)」の  妃  ↓↑  養老四年(720年)  夫の  「不比等」  死去  『続日本紀』  養老五年  正三位に叙せられ  宮人最高位に叙せられた  同年  元明天皇の危篤に際し出家  733年(天平五年)一月十一日  薨去  同年十二月二十八日に従一位  760年(天平宝字四年)八月七日  正一位  大夫人の称号を贈られた  ↓↑  養老五年(721年)五月  元明太上天皇(阿閉皇女)  の病平癒を祈念して仏門  ↓↑  県犬養氏  屯倉を守護する  伴造氏族の一  「壬申の乱」  「県犬養大侶」が  「大海人皇子(天武天皇)」  に近侍  天武天皇十三年(684年)  「宿禰」姓を賜った  ↓↑  「非時香果」  「橘の実」が  「時を選ばず(非)に香る果実」・・・  みかん・・・  蜜柑・美柑・味感・未完・未刊・・・?  ↓↑ ?~和銅元年五月三十日(708年6月22日)      『六国史』      「弥努王・美奴王・美弩王・三野王」       など記載       敏達天皇の後裔       四位       栗隈王の子       官位 従四位下・治部卿  ↓↑   ↓↑      「栗隈王」       筑紫率(筑紫大宰)       唐と新羅の使者を送迎       672年       壬申の乱で       中立・・・天智天皇、大友王子(弘文天皇)            近江朝の暗殺者に狙われた       675年に兵政官長・贈従二位       663年      「白江村の戦」以後       唐は       新羅支配下にある百済の復興運動を       新羅は       唐支配下にある高句麗の復興運動を       後押しし       各国とも       日本に使者を派遣し       親を通じようとした・・・?  ↓↑   ↓↑       天智天皇十年(671年)       六月       新羅が調       七月       唐の使者      「李守真」       と      「百済の使者」が帰国し       十月      「新羅の使者」      「金万物」       が再び調       十二月十七日帰国       十一月       対馬から報告      「唐の使者」の      「郭務悰」      「百済の送使」の      「孫登」       ら二千人の来朝の意       十二月三日       天智天皇死亡      「大友皇子(弘文天皇)」が朝廷       翌672年       3月30日      「郭務悰」帰国       3月28日      「高句麗の使者」      「富加扑」らが調       日付は      「近江宮」からのもので       筑紫の      「栗隈王」とずれがある・・・       使節の往来は       他の時期と比べて多かった・・・  ↓↑    ↓↑      「壬申の乱」       6月~7月       近江朝廷は       筑紫大宰に       兵力を送るよう命じる使者を派遣      「大友皇子(弘文天皇)」は      「栗隈王」が      「大海人皇子(天武天皇)」       配下だったことを危ぶみ       使者に      「もし服従しない様子があったら殺せ」       と命令  ↓↑    ↓↑       使者から符(命令書)を受けた      「栗隈王」は       国外への備えを理由に出兵を断った       使者      「佐伯男」は      「栗隈王」を殺そうと剣を握って進もうとしたが       栗隈王の二人の子      「三野王(美努王)」       と      「武家王」       が側にいて剣を佩き       退く気配がなかったため       恐れて断念       天武天皇四年(675年)三月十六日       諸王四位の      「栗隈王」       が兵政官長      「大伴御行」       が大輔に任じられた  ↓↑    ↓↑       天武天皇五年(676年)六月      「栗隈王」       四位で病死      『続日本紀』『新撰姓氏録』       に贈従二位      『姓氏録』を基に      「栗隈王」の父を      「難波皇子」とする説・・・       二者の活動年代には       隔たりが大きく(約80年)       父子関係は疑問      『公卿補任』『尊卑分脈』の記載      「難波皇子」       と      「栗隈王」       の間に      「大俣王(おおまたのおおきみ)」       を補うと・・・繋がる?  ↓↑    ↓↑       長崎県      「栗隈王」を       日本の水の中に住んでいる動物を       取り纏める人であったとし       彼の子孫の神主が      「河童」に慕われるという昔話がある・・・?       ↓↑     by 「wikipedia.栗隈王」       かっぱ=合羽=箕(みの)=竹+其・・・蓑笠       藁(わら)を編んで作られた雨具       雨を防ぐために衣服の上からまとう外衣 ーー↓↑ーー  「橘    広 相」は  (たちばなのひろみ)  「阿衡」という役職を提案、上奏  「藤原基経」は拒否  ↓↑  「阿衡」議論・・・阿倍仲麻呂=朝衡・晁衡?  ↓↑  宇多天皇は・・・・「宇土半島=熊本」・・・?  「藤原基経」の権勢に恐れ  「橘広相」を流罪  891年  関白  「藤原基経」  死去  後  息子の  「藤原時平」  へ権力交代・・・  ↓↑  宇多天皇  「藤原時平(21歳)」が  若輩で  「関白の職」を全うできないとし  「関白」の地位を空席とし  「天皇親政」とし  ↓↑  「藤原氏」に対抗する人物とし  「菅原道真(すがわらのみちざね)」  を  「蔵人頭」としてを抜擢 ー↓↑ーー  893年・寛平五年五月十一日     大宰府は     新羅の賊を発見    「新羅の賊     肥後国     飽田郡に於いて人宅を焼亡す     又た     肥前国     松浦郡に於いて逃げ去る」  ↓↑  894年・寛平六年(894年)四月     対馬島を襲う     参議の     藤原国経を大宰権帥として派遣     この間     遣唐使が定められ     唐の関与を窺うためであった・・・  ↓↑     唐人も交えた     新羅の船     大小100艘に乗った2500人     新羅の賊の大軍が襲来     対馬に侵攻     9月5日の朝     45艘で賊徒来襲     対馬守に配されていた     文屋善友は郡司士卒を率い     弩を構えた数百の軍勢で迎え撃ち     賊を追撃、220人を射殺     賊は計、300名を討ち取り     船11、太刀50、桙1000     弓胡(やなぐい)各110     盾312     の兵器を奪い     ひとりを生け捕った  ↓↑     捕虜の証言     民間海賊による略奪ではなく     新羅政府による襲撃略奪     捕虜曰く    「新羅は不作で餓えに苦しみ     倉も尽きて王城も例外ではなく     王、仰せて、穀絹を取らんが為に     帆を飛ばして参り来た」と     大小の船100艘、乗員2500     逃げ帰った将軍は3人     1人の「唐人」が強大     と証言     朝鮮側の資料    『三国史記』     889年の記事     国内の不作     重税     反乱勃発     同年九月十九日     大宰府の飛駅の使が     撃退の成功を伝え     遣唐使も中止     翌年九月     壱岐島の官舎が賊のため全焼     おそらく本年度・・・     寛平七年(895年)     新羅の賊が壱岐を襲撃     官舎が焼かれた  ↓↑  894年・甲寅      日本      寛平六年      中国      唐  乾寧元年      南詔 嵯耶六年      八月 菅原道真、遣唐大使      九月 菅原道真、遣唐使が廃止      前年より      「寛平の韓寇」      ↓↑      誕生      小野道風(~967年)  ↓↑  997年・長徳三年      高麗人が      対馬、肥前、壱岐、肥後、薩摩、大隅      など九州全域を襲い      民家が焼かれ、財産を収奪し      男女300名がさらわれた      奄美島人も賊に参加・・・      11月      政府は南蛮の討伐を      貴駕島に命じ捕縛を求めた      被害      筑前、筑後、薩摩、壱岐、対馬  ↓↑  1001年・長保三年(1001年)      高麗人海賊襲来  ↓↑  1020年・寛仁四年)十二月      女真による      刀伊の入寇      再び薩摩国が襲撃され人民が拐われた ーーーーー  ・・・???・・・ 百日の郎君、郎女  物語の「ウォンドゥク&ホンシム」は  現実には「K半島」に存在しないのか・・・?  物語の「ウォンドゥク&ホンシム」と周りの人々が桜を散らしてくれるなら  「希望」はあるハズだが・・・  「ロウソク大統領」も「慰安婦支援者」もアレなら「ゼツボウ」かも・・・

Comentarios


特集記事
最新記事
アーカイブ
タグから検索
まだタグはありません。
ソーシャルメディア
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
bottom of page