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武照=則天武后=武則天・・・不足点・部側転の時代

2022/1016・日曜日・・・追加添文・・・

 後周の・・・後まわし・跡まわし・・・真和志・真和史・廻し

 武照=則天武后=武則天

 武徳七年1月23日

 (624年2月17日)・・・645年(大化の改新)

 /~

 神龍元年11月26日・・・660年(百済滅亡)

            663年(白村江の戦)

 (705年12月16日)・・ 703年1月13日

           (大宝二年十二月二十二日

            持統天皇死没

            大宝三年・12月17日火葬?)


     大運699年1月(74歳)  戊午偏財

 甲┏申(戊壬庚)比肩・偏官 絶⇔乙巳劫財

  冲戊

 丙┣寅(戊丙甲)食神・比肩建禄⇔戊子偏財

  三合丙

 甲┣午(丙 丁)  ・正財 死⇔壬寅偏印

  冲

 甲┗子(壬 癸)比肩・印綬沐浴⇔庚子比肩

   辰巳空亡


 作史三長・・・錯視三帳(纂調・簒貼・算重)?  作史三長(サクシのサンチョウ)  歴史書を  著作・編集するのに  歴史家に必要な三つの長所   才知・学問・識見  (『唐書(劉知幾伝)』・『新唐書(劉知幾伝)』)   ↓↑   劉 知幾(リュウチキ)       661年(龍朔元年)~721年(開元九年)       唐代の歴史家       字は子玄       名の「知幾」と       玄宗の諱である「隆基」の同音を避け       字の劉子玄=リュウシゲンで知られる       徐州彭城郡(江蘇省徐州市)の人       史学批判および体系史学理論の       歴史書編纂の大要を記した       最初の書       景龍四年(710年)の・・・ 和銅三年・元明天皇       隆元年               藤原京~平城京遷都       景雲元年・・万廻(マンエ )=萬廻        ↓↑    632年(貞観六年)~711年(景雲二年)死亡        ↓↑    唐代の未来予知・予言・神異・風狂の僧        ↓↑    号は法雲公                 ↓↑景雲二年(711年)和銅四年・上野国に「多胡」郡設置             多胡=おほのえびす・たこ=鮹・章魚・蛸             タコは八本肢(Octopus)              octo =ラテン語「8」=8本足のタコ(octopus)             October=10月なのに「Octo(8)」 の理由は             古代ローマ歴で3月が年始(正月・最初の月)で                    3 月から数えて8番目の10月だった             1・2・3・4・5・6・7・8・9・10                1・2・3・4・5・6・7・8        ↓↑kite(カイト)=凧=たこ=octopus(オクトパス)        ↓↑  甲斐都・蝦夷都        奥 都八州                       ↓↑景雲三年(712年)太極元年、延和元年、先天元年        ↓↑    (712年)和銅五年・古事記        ↓↑      「史通・二十巻」を著作       長男の      「劉貺」・・・貺=貝+兄=目+ハ+口+儿               カイのアニ             通仮字            「況」=氵+兄=いわんや               =様子・状態             比較する・譬える・益す             ますます・まして・いわんや             ここに・(貺と通じて)賜う            「況」の             異体字「𧵙・贶・𣍦・𧵦・𧵮」             たまう(賜う)・キョウ・コウ             主人が部下・使用人に物や位などを与える       の罪に連坐し       安州       別駕       の地方の属官に降格左遷       61歳で病死       前漢の       楚の元王の       劉交・・・交=亠+ハ+乂       あるいは       宣帝の子である       楚の孝王の       劉囂・・・囂=口口+頁+口口            かまびすしい・やかましい・わずらわしい            ゴウ・キョウ            さわがしい            囂囂・囂然・喧喧囂囂 (ケンケンゴウゴウ)       の末裔       父は侍御史の       劉蔵器(リュウゾウキ)         ・・・劉の蔵器         ・・・龍 造記・・・景山 龍造?            龍造寺 隆信            肥前の戦国大名・龍造寺家19代当主で周家の子            龍造寺家の中でも本家村中龍造寺家ではなく            分家水ケ江龍造寺家の出身・「肥前の熊」と呼ばれた   ↓↑    サイチ=齋(歳・祭・差異)智・差位置(差位地)    ガクモン=諤(額=客の頁)文・樂文・顎分・鰐文    シキケン=私記(始期・屍鬼・死期・厶記・己記)懸(建)・・・?   ↓↑  作文三上(サクブンサンジョウ)  文章を作る工夫をするのに、適した三つの場所  馬上(馬に乗っているとき)  枕上(寝床に入っているとき)  厠上(便所にいるとき)  三上=馬上・枕上・厠上  (宋の欧陽脩・『帰田録』)   ↓↑  作礼而去(サライニコ・さらいにこ)       讃良意似拠・拐 意爾拠?  礼を作して去りにき  仏の説法を聞き終えた大衆が  仏を礼拝して去っていったこと   ↓↑  作物所(つくも-どころ)  ↓↑・・・九十九・津雲・津久茂・津久毛?      「つくも(付喪・九十九)=妖怪の名       九十九年目に器物、道具に       とり憑く妖怪・物の怪(もののけ)  ↓↑    ↓↑       百鬼夜行      「百済=久太良=百残」の       最期一年前(九拾九=玖拾苦)?       660-1=659 or 663-1=662       鬼室福信・・・       百済の       鬼の室の福の信が       物の怪(もののけ)になった?       扶余豊璋は・・・扶余豐璋=百済-義慈王(在位641年~660年)                    の王子            650年2月15日            孝徳天皇            白雉改元         ・・・白雉=しろキジ              =白 記事・白生地              =斯盧黄地・新羅木地            白雉献上の儀式に            豊璋が出席            豊璋は日本の百済人質            太安万侶の一族の            多蒋敷(おほ の こもしき)               「出自謚神武皇子神八井耳命」               『古事記』中巻               『日本書紀』巻第四               「綏靖天皇即位前紀」に               『和州五郡神社神名帳大略注解』所引の               久安五年(1149年)の               「多神社注進状」に               「蒋敷は                太安万侶の祖父」とされている               『日本書紀』巻第二十七                天智天皇即位前紀                斉明天皇七年(661年)                多蒋敷(おほ の こもしき)の                同母妹を                百済王族の                扶余豊璋の妻とし                豊璋には織冠が授けられた・・・  ↓↑    ↓↑       多蒋敷(太安万侶の祖父)の妹を       豊璋に娶わせていた・・・  ↓↑    ↓↑       豊璋は       倭兵5000と       軍船170艘で       百済へ30年ぶりに帰国  ↓↑    ↓↑       663年8月27、28日       倭国水軍は唐-新羅軍と       白村江(白江、白馬江)で衝突し       大敗       豊璋は数人の従者と共に高句麗に逃亡       高句麗も       668年       に唐に滅ぼされ       豊璋は高句麗王族らと       唐都に連行       高句麗王の       宝蔵王らは許され唐の官爵を授けられ       豊璋は嶺南地方に流刑  ↓↑    ↓↑  「日本書紀(推古三十五年・627年)」  「夏五月、蝿有り、聚集れり   その凝り累なること十丈ばかり   虚に浮かびて以て信濃坂を越ゆ。   鳴く音雷の如し。   すなわち東のかた上野国に至て散りぬ」  「蝿の群れ」=蜜蜂?・・・「蠅=はえ」・・・銀ばえ   蝿伊呂泥  =意富夜麻登久邇阿札比売  (ハエイロネ)(オホヤマトクニアレヒメノミ)   別名   絚某姉   =倭国香媛  (ハエイロネ)(ヤマトノクニカヒメ)  ↓↑    ↓↑  「日本書紀(皇極二年・643年)」  「百済の太子余豊、   蜜蜂の房四枚をもって三輪山に放ち、養う   しかれどもついに蕃息(うまわ)らず」  養蜂の初め・・・  蜂子皇子(はちこのおうじ・波知乃子王)  法名を弘海  欽明天皇二十三年?(562年?)   ~  舒明天皇十三年十 月二十日?(641年11月28日?)  崇峻天皇の第三皇子・聖徳太子の従弟  父の崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺され  山形に逃亡  羽黒山、月山  出羽三山を開基し  能除仙(のうじょせん)  能除大師、能除太子(のうじょたいし)  などと呼ばれる  ↓↑    ↓↑  奈良時代  三韓からの蜂蜜献上  天平十一年(739年)  渤海国から  「文王致聖武天皇書」に添え  「大虫皮、羆皮各七張   豹皮六張、人参三十斤   蜜三斤」  と記録  天平宝字四年(760年)  五大寺に使を遺わし  毎寺雑薬二櫃と  蜜缶1口とを施す  と記録  ↓↑  平安時代  「延喜式(905~927年)」  「蜜、   甲斐国一升   相模国一升   信濃国一升   能登国一升五合   越後国一升五合   備中国一升   備後国二升」  別の箇所に  「摂津国蜂房七両   伊勢国蜂房一1斤十二両」  を献上と記録  ↓↑    ↓↑       扶余豊璋は       662年5月に百済に入国し       鬼室福信は       豊璋を王とし迎え国政を委ね       倭国は       鬼室福信あてに軍需物資を送り       鬼室福信も捕虜の唐人の      「続守言(持統朝で帰化し音博士)」・・・続を守る言?・音博士       らを倭国に送った       663年6月       百済王となった豊璋は       鬼室福信の謀反を疑って捕らえ       扶余豊(扶余豊璋)は       663年7月       鬼室を殺害       首を塩漬けにした・・・・高橋景保も塩漬け       倭国は水軍を朝鮮半島へ派兵       天智天皇2年 8月27日~ 8月28日          663年10月 4日~10月 5日       白村江(白馬江)で       劉 仁軌      (唐の武将・字は正則・楽城文献公・汴州尉氏県の人)       の唐軍       文武王       の新羅軍連合に敗北  ↓↑    ↓↑       鬼室集斯(鬼室福信の子、縁者         集(隹+木)の斯(其+斤)            百済における官位は達率            日本亡命帰化後の            官位は小錦下・学職頭)・・・学の職の頭  ↓↑    ↓↑   作物所(つくも-どころ)       つくも (福井市) - 福井県福井市の地名       つくも (長崎市) - 長崎県長崎市の地名       つくも町 - 広島県安芸郡海田町の地名       石川県鳳珠郡能登町付近にある九十九湾        かつて運行されていた列車名」           「九十九髪(つくもがみ)」の略」      「植物フトイ(太藺・莞)の古名・抽水性多年草(和名抄)」      「八十八(やそや)」  ↓↑    ↓↑  作物所(つくも-どころ)  作物所  平安時代に成立した天皇の家政機関の1つ  天皇・皇后・東宮などが  宮中で用いる調度品(銀器・木器など)を  製作する「所」  令外官の一つ  職員には  別当・預 ( あずかり)・内竪 (ないじゅ)・冶師  蔵人頭を別当に補す  作物司 (つくもづかさ)     ・九十九・津雲・津久茂・津久毛   ↓↑    ↓↑   雑=杂(卆八・九十八)+隹       九拾・・・杂⇔染⇔そめる=涅・初・襲              色を襲(かさねる・龍+衣)               踏襲=継=繼=蹈襲  雜=卒(亠人人十)+八+隹=雜       音人々乂(交)捌 舊鳥(短尾の鳥)    まじる・まぜる・ザツ・ゾウ    卆=卒=襟元    乱雑・粗雑・煩雑・雑炊・雑念・雑文  ↓↑    ↓↑  難=「𦰩=廿+中+夫」+「隹」  ↓↑ ↓↑↓↑   「𦰩=動物を火で炙ってカタク燻製にする」    +   「隹=鳥」  ↓↑ ↓↑   「鳥を火で炙る・火で炙られるような辛さ」   「𦰩=火矢の意で、鳥を火矢で射る儀式や呪い」  ↓↑ ↓↑   「𦰩=火矢」・・・?   「𦰩=缶(廿=凵+一⇔棺・柩)の中に        閉じ込められた夫=死骸・屍骸」        の       「短尾の小鳥の        囀り(嘆き・歎き)」だろう・・・        廿=十十=音読み ジュウ             訓読み にじゅう             意 味 二十・十の二倍・20=念   「𦰩」⇔「嘆=口+𦰩」   「嘆=かなしむ・嘆願・嘆息・悲嘆      たたえる・ほめる・感心する      嘆賞・感嘆      永嘆・詠嘆・慨嘆・驚嘆・賛嘆・賞嘆      長嘆・悲嘆      嘆息・感嘆   「𦰩」⇔「歎=𦰩+欠」   「歎=災難で声をたてる、なげく」   「𦰩+欠」=通仮字「嘆」         異体字「嘆・𣥁=𦰩+鳥+欠               𪇽=𦰩+欠+鳥=歎+鳥」      悲歎・感歎・歎賞・賛歎         簡体字「叹=口+又」   「歎」の熟語「歎喟(タンキ)=溜息ついて歎く」  ↓↑ ↓↑   「𦰩=廿(念)の中の夫(二人)」    が   「災いに祈る    巫女(みこ)    巫覡(フゲキ)   (かんなぎ=神巫・神和ぎ・神薙ぎ・神凪)」    ・・・?  ↓↑      ↓↑  難=「𦰩+隹」・・・焼鳥の燻製         ・・・象徴の君制(訓所為)?    かたい・むずかしい・にくい・ナン・ダン    むずかしい・かたい・たやすくない    しがたい=し難い    欠点    わざわい・せ(責)める・とがめる    なじる    いくさ・争い・戦乱  ↓↑    ↓↑    難解・難関・至難・難儀・災難    難詰・非難・批難・避難・無難    一難(イチナン)・万難(バンナン)    海難(カイナン)・遭難(ソウナン)    艱難(カンナン)・危難(キナン)    救難(キュウナン)・苦難(クナン)    国難(コクナン)・困難(コンナン)    災難(サイナン)・受難(ジュナン)    殉難(ジュンナン)・多難(タナン)    七難・盗難    ・・・難字⇔漢字・・・難⇔難    難=「艹+口+夫」+隹     =「艹+口+二+人」+隹     =「艹+口+一+一+人」+隹  ↓↑    ↓↑  難い・難易・難行苦行(ナンギョウクギョウ)  難局・難癖(ナンくせ)・難航  難攻不落・難産・難治・難渋・難所  難色・難船・難題・難聴  難点・難破船・難平(ナンピン)  難物(ナンブツ)  難民・難問  難い(にくい)  難しい(むずかしい)  ・・・なるほど、「灘(なだ)=水の難」          「儺(おにやらい)=鬼遣・人の難」  ・・・水と魂魄は「焼き鳥(火葬)」にするのは難しい・・・  ↓↑  漢=氵(水)+𦰩(棺、柩の中の夫)・・・水槽(水葬)の夫    漢人=河川に水槽の夫を水葬する       孀(ソウ)=女+霜=夫に死に別れた女性       喙息(カイソク)=喙(くちばし)と呼吸  ↓↑    ↓↑      淮河の源流は      河南省の      桐柏山・老鴉叉      淮河(ワイガ)=淮水       黄河と長江の南北間を東西に流れ       下流の       江蘇省の       洪沢湖       で二手に分かれ       放水路は黄海に注ぎ       本流は       三江営で       長江に流入しつながる       下流は平坦な低地で       流路が複雑で       洪水が起こりやすく       治水が難しい       異名は      「壊河(Huai He)」・・・       淮河(ワイガ)は       華北(小麦)       と       華南(水稲)       の境界線で       運搬流通手段も      「南船北馬」である       准水・淮水      『淮南子(エナンジ・ワイナンシ・Huainanzǐ)』       前漢の武帝時代       前漢の高祖の孫       淮南王       劉安(紀元前179年~紀元前122年)       が学者を集めて編纂させた思想書       呉音で「ヱナンジ」と読む      『淮南鴻烈(ワイナンコウレツ)』       とも       劉安・蘇非・李尚・伍被らが著作      『漢書』芸文志に      「内二十一篇、外三十三篇」とあるが      「内二十一篇」しか伝わっていない       道家思想を中心に       儒家・法家・陰陽家の思想を交え      「雑家の書」に分類される・・・       巻一 原道訓       巻二 俶真訓       巻三 天文訓       巻四 墬形訓      (地形訓とも・「墬=阝+彖+土=地」に同じ             「墜(墜落)・堕(堕落)」             とは別字       彖=エン・タン・テン=彖・𧰺・𢑡         太って腹の垂れた豚・たれさがる         にげて物かげに隠れる         猪の子・猪の口ばし         易では大川を渉るに利あり)       古代の地理観を記す。36の異国の記載       巻 五(伍)時則訓・・・時の則(すなわち・規則)を訓(よめ)       巻 六(陸)覧冥訓・・・冥途、冥利を閲覧(みて)訓(よめ)       巻 七(漆) 精神訓・・・・精神       巻 八(捌) 本経訓・・・・本の経       巻 九(玖 )主術訓・・・主(あるじ)の術(すべ)を訓(よめ)

      巻 十(拾・足)

             繆称訓・・・繆(いつわり・あやまり)を称して訓(よむ)

            繆(あやま)る

            繆(いつわ)る

            繆(たが)う

            繆(まつ)わる

            繆(もと)る

            乖繆(カイビュウ)=誤謬・食い違う・そむきたがう

            悖繆=悖謬(ハイビュウ)=道理から外れた言動


            合歓綢繆(ゴウカン・チュウビュウ)

             男女の睦みあい

             「綢繆=絡みつくこと」


            桑土綢繆(ソウドチュウビュウ)

             災害を防ぐための事前準備

            「綢繆=囲ってふさぐこと」

             嵐が来る前に桑の根を使って

             鳥が巣の穴をふさぐ


             綢繆未雨(チュウビュウミウ)

             準備万端で災害を未然に防ぐこと

            「綢繆=穴をふさぐこと

                未雨綢繆」       巻十一 (壱拾壱)

            斉俗訓・・・斉の俗を訓(よむ)       巻十二 道応訓・・・道応(ドウオウ=道央・北海道中央)を訓読?

      巻十三 氾論訓・・・氾(氾濫)の論を訓(よむ)       巻十四 詮言訓・・・詮(あきらか)

               詮(えらぶ)

               詮(しらべる)

               詮(そなわる)

              所詮=結局のところ

               詮方=せんかた=為ん方

                  物事を行う方法・なすべき方法

               詮議=罪人を取り調べ、捜索

               詮索=徹底的に調べ求めること

               詮ずる所=結局のところ

               詮無い(せんない)=行っても意味がない

                  やる甲斐がない・仕方ない

              名詮自性(ミョウセンジショウ)

                  名はそのものの本質を表す

                  その名に備わっているものの本質       巻十五 兵略訓・・・兵略を訓(よめ)       巻十六 説山訓・・・説の山を訓 (よめ)       巻十七 説林訓・・・説林訓(よめ)       巻十八 人間訓・・・人間訓(よめ)       巻十九 修務訓・・・修務訓(よめ)       巻二十(念) 泰族訓・・・泰の族(よめ)       巻二十一 要略・・・ 要(かなめ)を略してよめ

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 女帝達の時代・・・女に課せられた義務ではなく、女が序列で得た独裁権利・・・  則天武后の時代の倭国・高句麗・百済・新羅・・・  新羅・第二十七代王・善徳女王(在位632~647年)・姓は金、諱は徳曼  新羅・第二十八代王・真徳女王(在位647~654年)・姓は金、諱は勝曼  日本・第四十一代 ・持統天皇(在位690年2月14日                ~697年8月22日)・諱は鸕野讚良 ーーーーー  則天武后  在位期間 690年10月16日~705年2月22日  都    洛陽  姓・諱  媚娘→武照(武曌)  諡号   則天大聖皇帝       則天順聖皇后  生年   武徳七年1月23日       (624年2月17日)・・・645年(大化の改新)  没年   神龍元年11月26日・・・ 660年(百済滅亡)・663年(白村江の戦)       (705年12月16日)・・ 703年1月13日(大宝二年十二月二十二日                   持統天皇死没・大宝三年・12月17日の火葬?)                   大宝二年(702年)12月13日に発病                   12月22日崩御・1年間の殯(もがり)の後                   大宝三年(703年)                   火葬され天武天皇陵に合葬                   天皇の火葬はこれが初  父    武士彠           母    楊夫人 ーーーーー  景龍四年(710年)・・・・・・・・710年  干支=庚戌  日本  和銅三年  皇紀1370年  中国  唐 景龍四年  唐 隆元年    景雲元年  四月十三日(和銅三年三月十日)  元明天皇  藤原京~平城京に遷都  唐で、安西節度使が設置  劉知幾、『史通』を撰述   ↓↑  死去  1月28日(和銅2年12月20日)  下毛野古麻呂、飛鳥時代の貴族  11月9日(和銅3年10月14日)  黄書大伴、飛鳥時代の守  安楽公主、唐の中宗の娘(684年~)  韋皇后、唐の中宗の皇后  実叉難陀、唐代の訳経僧(652年~)  僧伽、唐代の僧(628年~)  中宗、唐の第4代皇帝(656年~)  李重福、唐の皇族、中宗の庶長子(680年~)   ↓↑  711年  干支 辛亥  日本  和銅四年  皇紀1371年  中国  唐 景雲二年   ↓↑  伏見稲荷建立。  上野国に多胡郡設置  (日本三大古碑の一・多胡碑建立)  万廻(マンエ・萬迴)  632年・貞観六年~711年・景雲二年)  唐代の神異・風狂の僧  号は法雲公  『宋高僧伝』巻十八  「唐-虢州-閿郷-萬迴伝」の記録   ↓↑  712年  干支 壬子  日本  和銅五年  皇紀1372年  中国  唐 景雲三年、太極元年、延和元年、先天元年  3月9日(和銅五年一月二十八日)  「古事記」完成、元明天皇に献上  出羽国を新たに設置  誕生  杜甫、唐の詩人(詩聖)  (~770年)  770年  干支 庚戌  日本  神護景雲四年、宝亀元年  皇紀1430年  中国  唐 大暦五年  8月  弓削道鏡が失脚、下野に配流  9月  和気清麻呂らを召還  10月23日(神護景雲四年十月一日)  瑞亀献上により改元  10月23日(宝亀元年十月一日)  白壁王即位  第四十九代  光仁天皇   ↓↑  8月28日(神護景雲四年八月四日)  正徳・孝謙天皇(阿部皇女)・・・阿部  第46・48代天皇(718年~)   ↓↑  10月31日 (宝亀元年十月九日)  文室浄三 (693年~)  阿倍仲麻呂・・・・・・・・・・・阿部  奈良時代の遣唐留学生(698年~)  中国名  朝衡=晁衡  筑紫大宰帥・阿倍比羅夫の孫  中務大輔・阿倍船守の長男  弟は阿倍帯麻呂  唐王朝  玄宗皇帝の  図書館長  秘書監・衛尉卿  左散騎常侍(従三品)  鎮南都護・安南節度使(正三品)  ベトナム総督  天平宝字五年(761年)から  神護景雲元年(767年)まで6年間  ハノイの安南都護府に在任  天平神護二年(766年)  安南節度使を授けられた  最後は潞州大都督(従二品)   ↓↑  岑参、唐の詩人 (715年~)  杜甫、唐の詩人、詩聖(712年~) ーーーーー  650年2月15日  孝徳天皇  白雉改元・・・白雉=しろキジ           =白 記事・白生地           =斯盧黄地・新羅木地  白雉献上の儀式に  豊璋が出席  豊璋は日本の百済人質  太安万侶の一族の  多蒋敷・・・多蒋敷(おほのこもしき)   ↓↑   「出自謚神武皇子神八井耳命」        『古事記』中巻        『日本書紀』巻第四綏靖天皇即位前紀に        『和州五郡神社神名帳大略注解』所引の        久安五年(1149年)の        「多神社注進状」に        「蒋敷は太安万侶の祖父」とされている        『日本書紀』巻第二十七        天智天皇即位前紀        斉明天皇七年(661年)        同母妹を        百済王族の        扶余豊璋の妻とした   ↓↑   豊璋には織冠が授けられた  の妹を  豊璋に娶わせていた・・・  倭兵5000と  軍船170艘で  百済へ30年ぶりに帰国   ↓↑  663年8月27、28日  倭国水軍は唐-新羅軍と  白村江(白江、白馬江)で衝突し  大敗  豊璋は数人の従者と共に高句麗に逃亡  高句麗も  668年  に唐に滅ぼされ  豊璋は高句麗王族らと  唐都に連行  高句麗王の  宝蔵王らは許され唐の官爵を授けられ  豊璋は嶺南地方に流刑   ↓↑  「日本書紀(推古三十五年・627年)」  「夏五月、蝿有り、聚集れり   その凝り累なること十丈ばかり   虚に浮かびて以て信濃坂を越ゆ。   鳴く音雷の如し。   すなわち東のかた上野国に至て散りぬ」  「蝿の群れ」=蜜蜂?   ↓↑  「日本書紀(皇極二年・643年)」  「百済の太子余豊、   蜜蜂の房四枚をもって三輪山に放ち、養う。   しかれどもついに蕃息(うまわ)らず」  養蜂の初め   ↓↑  奈良時代  三韓からの蜂蜜献上  天平十一年(739年)  渤海国から  「文王致聖武天皇書」に添え  「大虫皮、羆皮各七張   豹皮六張、人参三十斤   蜜三斤」  と記録  天平宝字四年(760年)  五大寺に使を遺わし  毎寺雑薬二櫃と  蜜缶1口とを施す  と記録   ↓↑  平安時代  「延喜式(905~927年)」  「蜜、   甲斐国一升   相模国一升   信濃国一升   能登国一升五合   越後国一升五合   備中国一升   備後国二升」  別の箇所に  「摂津国蜂房七両   伊勢国蜂房一1斤十二両」  を献上と記録   ↓↑  柞=木+乍    ははそ=コナラの別名    クヌギ(櫟・国木・歴木・樟・椚木)    ↓↑  ↓ ↑  ↓  ↑  ↓    句抜き(櫟=木+楽・國+木・木+章・木+門+木)    ↓↑    ↓    ↑ ↓   ↑           記紀  記紀 記紀 記紀 記紀          楽学  古句  章  文 聞    ↓↑           ミズナラ(水楢)などを含めて呼んだ・・・    観事奈良(名等・あすか=飛鳥・明日香)    ↓↑    誤って    カシワ(柏=記紀+新羅        栢=記紀+百済        槲=記紀+斛(コク=國・ゴク=語句)          斛=角+斗            ます・ますめ            桝・舛・枡・升            斗斛⇔北斗七星               小熊座⇔大熊座=大隈座                   大隈重信?               柄杓(ヒシャク)            容量の単位・十斗            斗斛(トコク)・万斛(バンコク)            訳古句・都國   萬古句・萬國        神集=神代・記紀上記           示し申す隹              (舊とり・旧とり・古とり               尾短の鳥               毘胆・尾譚・備譚               短尾の鳥              「耽美・嘆美・歎美」           舊とり=舊字體=舊漢字           篩(ふるい・sieve)        郡柏=君阜(岐阜)・紀伯・記紀新羅        膳=肉(ジク・にく)+善            字句・似句 羊(筆字)が晋         =かしわで=柏手=膳部=高橋        可士和)    ↓↑          をいうこともある・・・    (季 秋⇔記 安芸・阿記)    語頭の    2音が同音(はは・ハハ)で    母の意にかけて用いる・・・双葉   ↓↑  「いかにせん   結ぶ木の実を・・・・掬ぶ             記紀の             實            (拾・日・昵・暱・字通)   待たずして・・・・・眞多事史(詞・氏)照(弖・氐))   秋の・・・・・・・・安芸・亜紀   ははそ(柞)に・・・母祖・葉把素(蘇・會・措)   落つる・・・・・・・乙津留   山風」・・・・・・・纂(サン=簒・篹・籑・算)             封(附得・符有)            ↓↑   海道記=かいどうき・カイダウキ  鎌倉時代の紀行・一巻・作者未詳・・・時代もんかどうか?  貞応二年(1223)・・・・・・・帝王(綴負似撚)?  京都と鎌倉間の  東海道を往復した際の紀行・・・  文体は漢文脈の濃い和漢混交文  仏教思想の影響が強い   ↓↑  「膳夫」の長官を「膳臣」  『日本書紀』・『高橋氏文』によると  「大彦命の孫   磐鹿六鴈(いわかむつかり)命が   景行天皇53年10月の東国巡幸の際に   供膳の功績で   膳臣(かしわでのおみ)の姓と   膳大伴部を賜った・・・」  「武蔵国造や   安房国造の名前に   膳大伴部   膳大伴直」  「膳臣」の   若狭国造も存在した   これらの集団は   海産物を掌握する   安曇連配下の   海部(あまべ)とともに   大王(天皇)への食料供給を担当   養老令制で   膳部が品部として所属し   宮内省   大膳職が160人   内膳職が40人   東宮主膳監が60人とある   このほか   大神社にも   膳夫が設置された   ↓↑   天武天皇十三年(684年)十一月1日条   膳氏は「朝臣」の姓を与えられた   膳朝臣はのちに氏名を  「高橋」に改めた   平安時代   高橋氏   と   安曇氏   が膳部を担当し   内膳司長官の奉膳職を世襲した   ↓↑  貞応二年(1223)・・・1+2+2+3=8  干支=癸未  日本  貞応二年  皇紀1883年・・・1+8+8+3=20⇔2+0=弐・似・仁  中国  南宋  嘉定十六年  金   元光二年  大真国 天泰九年  中国周辺  西夏   光定13年、乾定元年旧12月~  モンゴル 太祖(チンギス・ハーン)十八年  大理国  天開十九年  朝鮮  高麗   高宗十年  ↓↑  誕生  一条 実経 は、鎌倉時代の公卿  従一位、摂政 関白、左大臣  五摂家の一・一条家の祖  号に円明寺殿、後一条入道関白  法名に行雅、行雄、行祚  通称は円明寺関白  死没  宣宗、金の第8代皇帝(~1163年)  ↓↑  1222年  干支 壬午  日本  承久四年、貞応元年四月十三日~  皇紀1882年・・・1+8+8+2=19・・・1+9=10  中国  南宋  嘉定十五年  金   興定六年、元光元年8月9日~  大真国:天泰八年  中国周辺  西夏  光定十二年  モンゴル帝国  太祖(チンギス・ハーン)十七年  大理国 天開十八年  朝鮮  高麗  高宗九年  ↓↑  誕生  3月30日(貞応元年二月十六日)  日蓮  鎌倉時代の僧  日蓮宗開祖(~1282年)  唯円、鎌倉時代の浄土真宗の僧(~1289年)  ↓↑  死亡  6月29日(貞応元年五月十九日)  河野通信  平安時代、鎌倉時代の武将(1156年~)  伊予水軍の将 時宗開祖  一遍の祖父・・・「自修改組一変」?

 「炭鉱で栄えるも突然海底に・・・  「横島」の調査開始 長崎沖   NHK TV   2019年2月26日 18時18分」  ↓↑  北緯33度22分23.0秒  東経129度51分19.7秒  長崎県  松浦市(まつうらし)・・・松浦武四郎=松浦竹四郎               諱は弘・雅号は北海道人(ほっかいどうじん)  福島町(ふくしまちょう)・・・同名の東北の福島県                 福島県1876年(明治9年)8月21日                 会津の前身にあたる若松県                 中通りの前身にあたる福島県(1876年以前)                 浜通りの前身にあたる                「磐前(いわさき)」県                   ・・・岩崎 弥太郎                      天保5年12月11日~明治18年                     (1835年1月9日)~(1885年2月7日)                       甲午・正財正官⇔乙酉                       丁丑・偏官食神⇔戊寅                       辛丑・  食神⇔癸巳                       辰巳=空亡                      三菱財閥の創業者で初代総帥                 の合併によって                 福島県が成立                 県名の福島は3県合併によって                 県庁所在地となった福島町(福島市)から採った                「福島」の名は、福島城から                 浜通りには、広大な面積を持ち                 かつては「炭鉱」都市であった  喜内瀬-免(きないせ-めん)  横穴式石室古墳  場所 横島古墳  長崎県松浦市の福島の古墳  ↓↑  北緯32度41分16.4秒  東経129度48分35.5秒  横島は  長崎県長崎市  香焼(こうやぎ)町にある・・・香焼(コウショウ=考証)  無人島  長崎市の沖合にあり  炭鉱の島として栄えた  昭和40年ごろ  突然、大部分が沈んでしまった  ↓↑  長崎県の横島・・・よこしま=奸・邪・侫・左・姦・辟・違・慝・䜛・讒                犯・冒・姦・菅・横嶌・ム(私)・己・横縞  地下炭鉱が発見され  1897年に採掘がスタート  1902年に廃坑  ↓↑  横 島 炭 坑・・・ヨコシマの探考(単行・単項・単向)?・・・会稽  端島  明治23年8月11日継承)より遅く  明治27年6月5日に  三菱に継承  閉山は  明治35年1月  「閉山後、島を支えていた   石垣は取りはずされ   端島方面に運ばれた   埋め立てた土砂は   残らず流失し岩礁と化す」  ↓↑  炭鉱で栄えるも突然海底に海没した横島  2019年2月26日 18時18分 NHK・TV  ↓↑  長崎市の沖合にあり炭鉱の島として栄え  昭和40年ごろ突然、大部分が沈んでしまった  沈んだ原因を探ろうと調査  長崎市  香焼町の沖合およそ600メートルにある  「横島」は  明治30年代「軍艦島」の名前の  端島などと同じ炭鉱の島として栄えた  ↓↑  閉山後の昭和40年ごろ島の大部分が海底に沈没  今は2つの岩礁が残るのみ・・・  京都大学の研究チームが  島が沈んだ原因を探る調査を26日から開始  ↓↑  横島(よこしま)は  長崎県長崎市香焼町にある島(無人島)  香焼町安保(あぼ)の南西約700m沖に位置  ↓↑  明治時代中期に炭鉱として島全体が開発  炭鉱自体は短期間で閉山  昭和時代中期から島の沈下崩壊が進み  ほとんどが水没し  岩礁が東西2つに分かれ残存  ↓↑  明治時代初期  東西330m、南北61mの島  本島の南西にある  高島で高島炭鉱の採掘を行っていた  三菱合資会社が  1894年(明治27年)より  本島においても炭鉱開発に着手  1895年(明治28年)  立坑入気坑(80m)排気坑(67m)を掘った  1897年(明治30年)に  島の周囲の埋め立て  1898年(明治31年)より出炭を開始  島内には発電所が設置  香焼村で初めて通電地域となった  島の人口は約700人  香焼村の総人口の約3分の1を占めた  島内には、住宅のほかに病院や小学校が設置  1902年(明治35年)  閉山  閉山後  埋立のために築かれた石垣は撤去され  三菱社が運営する端島などで再利用  昭和40年代  地盤沈下によって徐々に島は海没  小さな2つの岩礁が残存しているのみ  ↓↑  横島炭鉱(よこしまたんこう)  長崎県長崎市  香焼町安保(あぼ)の  南西約700m沖に位置する無人島  横島に位置  ↓↑  地圧によって坑道が盤ぶくれを起こし  操業を断念  1902年(明治35年)に閉山  ↓↑  明治25年  長崎の尾上栄文と峯眞興が五尺層を発見  明治27年6月5日  三菱が鉱区を譲受ける  明治30年2月  出炭開始  明治34年6月  西部で断層突破出来ず起業工事を中止  東部も断層に阻まれる  明治35年1月  廃坑  ↓↑  磐膨れ・・・岩石が湿気を含んだり        両側の重圧のため        坑道の下磐がふくれ上がること  下磐・・・・炭層のすぐ下部にある岩磐  磐打ち・・・下磐のふくれ上つた時        また車道を下げる時に        下磐を掘り下げる作業  ↓↑  横島  国土地理院ウェブサイト  伊能大図彩色図(肥前 長崎)  に記載  伊能大図彩色図の香焼嶋は  白く塗られてい  同じ地図に記載の  端島も同様に白く塗られ  横島は海面の色と同じで  線により示されているだけ  横島は  一つの島(瀬)ではなく  複数に分かれている・・・ ーーーーー  「よこしま」です・・・「邪の道は蛇」・・・横島の位置・場所

現存・古事記・漢字源の世界(1)・再三考 http://book.geocities.jp/kiriyatomeri/kiriwake5/kirikoji1.html 現存・古事記・漢字源の世界(2)・再三考 http://book.geocities.jp/kiriyatomeri/kiriwake5/kirikoji2b.html 現存・古事記・漢字源の世界(2のb)・再三考 http://book.geocities.jp/kiriyatomeri/kiriwake5/kirikoji2b.html 古事記・漢字源の世界(3) http://book.geocities.jp/kiriyatomeri/kiriwake5/kirikoji3.html 古事記・漢字源の世界(4) http://book.geocities.jp/kiriyatomeri/kiriwake5/kirikoji4.html  ↓↑ ↓↑  ヱ=ア+エ=発音記号「a=a+e」       =「了+一」=終始       =「乛(一・オウ)+丄(上・ジョウ)」  ↓↑ ↓↑    ↓↑ ↓↑  母音 ɪ e a ɒ ʌ ʊ iː ɑː ɔː uː ɜ: ə eɪ aɪ ɔi aʊ əʊ ɪə eə ʊə  子音 p b t d k g f v θ d s z ʃʒ h t ʃ dʒ m n ŋ l r j w  ↓↑ ↓↑    ↓↑ ↓↑  わ行 ワヰ ヱヲ     ン ヴ     わゐ ゑを   ん ぶ     「ゐ=為」の草体・「居・為・井」     「ヰ=井」     「ゐ・ゑ・ヰ・ヱ」  「ヸ(ヴィ)、ヹ(ヴェ)」  「ヸ」は「イ」と「ギ」の中間  「ヹ」は「エ」と「ゲ」の中間・・・  ↓↑ ↓↑    ↓↑ ↓↑  「やいゆえよ」・・冶意故(結え)余(世・代・與・予)?  「やゐゆゑよ」・・矢亥遊重世?  ↓↑ ↓↑    ↓↑ ↓↑  和(わ)遠(を)无(ん)=一 +尢=二+丿+乚=無  和は  遠くて無い  和(倭・葉)音  話は  雄(尾)の夢(武)  わおん=把闇・倭遠・我恩    ん=ゥぐ=ム=私=よこしま=己=吾=我          「无=無=𣠮」           𣠮=𡘲+亡+林            =一+人+廿+廿+亠+乚+林            =一+人+廿+廿+亡+林            =𣠮=𡘲+林           異体字「無」           異体字「無・无・𣟒」           無=𠂉+廿+廿+灬            =𠂉+共+共             灬=火・烈火             灬⇔心=異体字「忄・㣺」                 心呂=心臓・股肱の臣                 呂=声や楽器の低音域                   背骨  ↓↑ ↓↑    ↓↑ ↓↑          『説文解字』に無、豐也          「从𡘲从林。大+𠦜、數之積也。           林者、木之多也。           𠦜與庶同意『書・洪範』庶草蕃橆。          『唐韻』隷省作無、今借爲有無字。          『字彙』橆、古文蕃橆字。              有無之無、則用无字。           秦以橆作无、李斯又改作無、後因之。          『正韻』繁橆、『今文尚書』作廡。           橆、廡義同。  ↓↑ ↓↑    ↓↑ ↓↑           無、亡也。从亡、無聲。          「無=消去」、「亡」を要素、発音は「無」。          「林」部の「無」          「無、豐也。从林、𡘲。           𡘲、或説規模字。从大、𠦜。           𠦜、數之積也=林者、木之多也。           無與庶同意。『商書』曰=「庶草繁無」          「無」とは豊か          「林」と「𡘲」とが要素          「𡘲」=規模の「模」と同じ          「𡘲」=「大」と「𠦜」とを要素し          「𠦜」=数が多く積み重なっていること          「林」とは木が多いこと          「無」と「庶」=多いと意味が同じ          『尚書』商書に「庶草繁無」          「段玉裁」は          「無という字は、元々草木が茂るの意味           隸書で、有無の無で           亡ではない「無」を代用し           草木が茂る漢字には、          「廡」や「蕪」を用いた」・・・          「無」は植物が多いこと          「無」は物の存亡           無=袖に呪飾をつけて舞う人             下に両足「舛」を加えて「舞」             人の舞う形で、舞の初文             卜文に無を舞雩(ぶう)の字に用い             ときに雨に従う形に作る             有無の無の意に用いるのは仮借             のちもっぱらその仮借義に用いる(字通)             原字は、             人が両手に飾りを持って舞うさま             のちの舞(ブ・ム)の原字             無は亡(ない)+音符の舞(ブ・ム)             の略体(漢字源)・字通           通仮字「亡・妄」           異体字「无・𠑶・𠘩・𤀢・𡙻・𣑨・𣚨               橆・𣟒・𣠮・𤍍・㷻・蕪・𣞤・芜」  by 検索 ツール https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=mcafeess1&p=%F0%A1%98%B2+%E6%BC%A2%E5%AD%97  ↓↑ ↓↑    ↓↑ ↓↑  あいうえお=安きは以て宇(そら)の衣(ころも)でおおう  かきくけこ=幾を加え久く己(よこしま)を計る  さしすせそ=左(ひだり)の之を寸(はかる)世のかさね  たちつてと=太(おほの)知る川を天に止める  なにぬねの=奈(なんぞ)仁の奴の禰の乃(すなわち)  はひふへほ=波(なみ)比べ部を保てず  まみむめも=末美武女の毛(髪)  やゐゆゑよ=也為す由恵与  らりるれろ=良い利留める禮(礼)  安(あ)以(い)宇(う)衣(え)於(お)  加(か)幾(き)幾(く)計(け)己(こ)  左(さ)之(し)寸(す)世(せ)曽(そ)  太(た)知(ち)川(つ)天(て)止(と)  奈(な)仁(に)奴(ぬ)称(ね)乃(の)  波(は)比(ひ)不(ふ)部(へ)保(ほ)  末(ま)美(み)武(む)女(め)毛(も)  也(や)為(ゐ)由(ゆ)恵(ゑ)与(よ)  良(ら)利(り)留(る)礼(れ)呂(ろ)  安加左太奈波末也良・・・案を加え作る、おほの(太)の名は未だ良きナリ  以幾之知仁比美為利・・・  宇幾寸川奴不武由留・・・  衣計世天称部女恵礼・・・  於己曽止乃保毛与呂・・・  良(ら)也(や)末(ま)波(は)奈(な)太(た)左(さ)加(か)安(あ)  利(り)為(ゐ)美(み)比(ひ)仁(に)知(ち)之(し)幾(き)以(い)  留(る)由(ゆ)武(む)不(ふ)奴(ぬ)川(つ)寸(す)久(く)宇(う)  礼(れ)恵(ゑ)女(め)部(へ)称(ね)天(て)世(せ)計(け)衣(え)  呂(ろ)与(よ)毛(も)保(ほ)乃(の)止(と)曽(そ)己(こ)於(お)  ア行 阿 安 英 足  カ行 可 何 加 架 香 蚊 迦  サ行 左 佐 沙 作 者 柴 紗 草 散  タ行 太 多 他 丹 駄 田 手 立  ナ行 那 男 奈 南 寧 難 七 名 魚 菜  ハ行 八 方 芳 房 半 伴 倍 泊 波 婆     破 薄 播 幡 羽 早 者 速 葉 歯  マ行 万 末 馬 麻 摩 磨 満 前 真 間 鬼  ヤ行 也 移 夜 楊 耶 野 八 矢 屋  ラ行 良 浪 郎 楽 羅 等  ワ行 和 丸 輪  ガ行 我 何 賀  ザ行 社 射 謝 耶 奢 装 蔵  ダ行 陀 太 大 嚢  バ行 伐 婆 磨 魔 ーーーーーー  ・・・

ーーーーー

 ・・・???・・・

 (表紙・画像・音楽)」の

  移転先・・・

 ↓↑

 ボクの「古事記字源」の発端・・・

 ↓↑

 干支歴

 ↓↑

 追加添文

 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」

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