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湖沼・池沼・・・天渟中原瀛真人・・・天の渟=雲?

2022/2/24・木曜日・・・追加添加・・・

 「渟」のカンジ・・・ミズがたマル・・・

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 天武天皇

 第四十代天皇

 在位

    673年3月20日~686年10月1日

 天武天皇2年2月27日~朱鳥元年9月9日

 元号 朱鳥

 時代 飛鳥時代

 先代 弘文天皇

 次代 持統天皇

 崩御686年10月1日

 大和国

 陵所 檜隈大内陵

 漢風諡号 天武天皇

 和風諡号 天渟中原瀛真人天皇・・・天の渟の中原の瀛の真人

 諱    大海人(おおあま)

 別称   浄御原天皇

 父 舒明天皇

 母 宝皇女(皇極天皇=斉明天皇)

 皇后 鸕野讃良皇女(持統天皇)

 夫人 藤原氷上娘

    藤原五百重娘

    蘇我大蕤娘

 子女 草壁皇子

    高市皇子

    大津皇子

    舎人親王

 皇居 飛鳥浄御原宮

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天渟中原瀛真人

 渟=氵+亭

   氵+亠+口+冖+丁

   氵+亠+口+冖+一+亅

   テイ

   た(まる)

   とど(まる)

   と(める)

   たマル・水がたマル・水タマり

   沈みたまる

   とマル・とどマル・とどメル

   渟まる(たまる)

   渟まる(とどまる)

   渟める(とめる)・・・停泊・碇泊・鄭伯

   渟足柵(ぬたりのき/ぬたりのさく)

   大化三年(647年)

   に築かれた

   越国(高志国)にあった古代城柵=沼垂城

   越国(高志国・・・高句麗?)

   大化四年(648年)

   磐舟柵設置・位置は、渟足から北東約40㎞

         村上市「岩船」の辺り・・・天岩船・天磐船

         石船神社は新潟県村上市 岩船三日市

         石船神社(いしふねじんじゃ)

             茨城県東茨城郡城里町岩船606

             山梨県都留市朝日馬場

             後醍醐天皇の第一皇子(or第三皇子)

             護良親王=大塔宮

             (もりよししんのう・もりながしんのう)

             首級が祀られいる

             還俗前の名は

            「尊雲法親王(そんうんほっしんのう)」

         饒速日命(にぎはやひのみこと)が

         磐船に乗り地上に降り下った

         大阪府交野市を南北に流れる天の川の上流

         高さ12m、幅12mの船形の巨岩

  天  照 国 照 彦 天 火明   櫛玉  饒速 日 命

  (あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)


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   亭=亠+口+冖+丁

     亠+口+冖+一+亅

     テイ

     チン

     あずまや

     とどまる

     あずまや・庭園などにある休憩所

     たかどの・たかやぐら・物見台・楼閣

     華亭鶴唳(カテイカクレイ)

     栄華を極めた昔のことを懐かしみ

     衰退した現状を嘆くこと

     東晋時代の「陸機」は

     讒言によって処刑される寸前に

     故郷の華亭で鶴の鳴き声を聞く楽しみを

     思い出して嘆いた

     亭主関白

     亭亭皎皎=遠い先で月光が浮かび上がり輝く様子

     蘭亭殉葬=書画などの骨董品を

          強く愛好し、執着すること

         『蘭亭集序』という書作品を

          唐の太宗が偏愛し

          自身の死後

          原本を棺に一緒に入れるように命令した

     髪結いの亭主

     亭主三杯客一杯

     亭主の好きな赤烏帽子

     とどまる・とまる=停・停泊

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   亭=「秦・漢」代の行政単位

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      秦=シン=斯盧=新羅=辰韓=鶏林

     太秦=うづまさ⇔太秦(タイシン)

             大秦(ダイシン)=羅馬帝國

        雄略天皇の御世

        渡来系の豪族秦氏(秦酒公)が

        絹を「うず高く積んだ」ことから

       「禹豆満佐=うずまさ」

        の号を与えられ

       「太秦」の漢字表記を当てた

        禹=ノ+虫(中ム)+冂

          禹行舜趨(ウコウシュンスウ)

          禹歩舜趨(ウコホウシュンスウ)

          聖人の動きを真似をしても徳がないこと

         「禹・舜」=聖人

         禹湯文武

        「禹」=夏王朝の禹王

        「湯」=殷王朝の湯王

        「文」と「武」は周王朝の文王と武王

                古代中国の聖天子

        豆=まめ・たかつき(高坏)・トウ・ズ

        満=氵+艹+両

        佐=イ+ナ+工

       『日本書紀』推古十一年(603年)十一月条

       「聖徳太子」から

       「秦河勝」が仏像を賜り

       「蜂岡寺(はちおかでら・広隆寺)」建立

        木造

       「弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒)」を安置

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        マイトレーヤ

        慈氏菩薩

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        字(あざな)が「阿逸多 Ajita」・・・別人

                おもねて・多くを・逸脱する

                アイツタ=會津汰・合通隋?

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        弥勒菩薩は

       「兜率天=都率天・覩史多天

           =Tuṣita・Tusita

           (トソツテン)=六欲天の第4の天界」

        で修業中の「未来仏」

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       新羅=しらき=万葉集(新羅奇)

            出雲風土記(志羅紀)

          文献史料で

         「新羅」の初出記事

         『資治通鑑』巻104

         「太元二(377年)年条」

         高句麗とともに

         前秦に朝貢の記事

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      『三国史記(金富軾)』=紀元前57年建国

      『漢書』=紀元前108年

           漢の武帝が朝鮮半島に漢四郡を設置

           紀元前82年

           昭帝が

           朝鮮半島南部の真番郡を廃止

           後の

           甲子年(六十干支最初の年)

           紀元前57年

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  黛蓄膏渟

 (タイチクコウテイ)

 水面が落ち着いていて静かな様子

 「黛」=眉を描いたり、整えるために使う墨・青黒い色

     黛 ジュン+「雲にのりたい」

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 「膏」=油脂

     油で満たされているように静かで

     青黒く淀んでいる水面

 渟膏湛碧(テイコウタンペキ)

 水があぶらのように深く静かによどんで

 深緑色に見える様子

 「渟」=水が流れずに留まっていること

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 ・・・乾雲(カンウン)、坤龍(コンリュウ)、相響く・・・「関の孫六の作に、大小二口の稀代の業物がある。ともに陣太刀作りで、鞘は平糸巻き、赤銅の柄に刀には村雲、脇差には上り竜の彫り物があるというところから、大を乾雲丸、小を坤竜丸と呼んでいる・・・乾雲、坤竜の二刀、まことに天下の逸品・・・二つの刀が同じ場所に納まっているあいだは無事だが、一朝、乾雲と坤竜が所を異にすると、凶の札をめくったも同然で、たちまちそこに何人かの血を見、波瀾万丈、恐ろしい渦を巻き起こさずにはおかない・・・そして刀が哭く。  ・・・離ればなれの乾雲丸と坤竜丸が、家の檐も三寸下がるという丑満のころになると、啾々としてむせび泣く。雲は竜を呼び、竜は雲を望んで、相求め慕いあい二ふりの刀が、同じ真夜中にしくしくと泣き出す・・・(林不忘原作・乾雲坤龍の巻)  「大陸=乾=北西」からの寒気団、「南シナ海=坤=南西」からの暖気団・・・日本列島の日本海側での衝突・・・「乾雲坤龍の説明」は、まるで「竜巻発生の気象予報」で、その結果の「惨状予告事象」である・・・  「竜巻の発生」は積乱雲から垂れた尻尾と地上から這い登る頭が相互に呼応するように咬みあってその積乱雲をも回転させ地上のモノを破壊していった・・・「スーパーセル」・・・  ブログ記事から抜粋すると・・・「気温が大きく変化するような境界を前線・・・寒気団(密度が濃い・重い)と、暖気団(密度が薄い・軽い)の境界が「前線」で、暖気が寒気の上に乗り上げたり、寒気団が暖気団に潜り込んで行く・・・熱い空気は上昇し、大地の圧力を下げ、冷たい空気は下降する。上昇した空気は、膨張して冷え、積乱雲を発生させ雨を降らせる・・・前線が移動し、寒冷前線、温暖前線になり、動きの少ない停滞前線にもなり、前線面に別の前線が乗り上げた閉塞前線(三つ巴で3つの気団ぶつかった状態)になる」・・・である。「発生のメカニズム」は「学問」として「理解」出来るが、避けようが無い「自然災害」の「教訓」は「事後処理」である・・・事が起こった後、ドウするのかである・・・予報で「避難」したとしても「被害」は避けられない・・・生き残ったモノには「災害事後の救援援助の備え」でしかありえない・・・自然災害は諦めもつくが、「人災」は諦めるワケにはいかない・・・「人災」は避けられるべきモノだからである・・・ ーー  「漢字漢音」、「漢字呉音」、「漢字唐音」が「発生地点を中心」に「周辺地方」に波及していったらどうなるのか・・・?・・・「中心部の漢字発音が変化」すれば、また「波状的にその音声発音」が「文字」自体は変わらず、「音声発音」のみの「変化」が「周辺地方」に伝播していくだろう・・・ ーー  情報伝達の電子機器が無かった当時も今も、あらゆる「情報伝達」は「コトバ」のヤリトリであるが、当時の時間的系列では「同一漢字文字」の「新しく変化した発声音」は地域状況もあるだろうが「発生中心部」から離れるほど受け入れられるのが遅くなったであろう。しかも「漢字」を読む「発声音声」は「旧い発音」に慣れ、それを最初に学んだ人間ほど「発音変化」には保守的になるだろう。人間が歳をそれなりにとれば新しいナガレについて行けず、違和感を感じるのはどの時代でも同じであるだろう。だから「旧い漢字音」は、時間経過しても、その「発生中心部」より「遠方地方」に残るであろう。そして波及した地方の「政治状況」である。日本では歴史的に「坊主の読経習得」に「呉音」を禁止して「漢音」を優先させた・・・勿論、旧い「漢字字形」も残るであろうが、「漢字」を通訳した「訓読み」の必要性は「表音字形」として、その地方独自に「文字変形」されていく・・・  「片仮名・ひらがな」は「音」からのみ、その「日本語」の「意味」が解る。だが、あらゆる「文字」は「表意文字=絵」から始まった・・・「音声コトバ」は「絵文字」以前に獲得され、その「絵文字」に「音声コトバ」を与えたのである。それを「理解する共同体」が形成された。そして、それは他の共同体へと「波及」した。  「漢字」は「表意文字=形」であり「表音文字=音」でもある。「文字」も「音声」も「他共同体」に普及したが、当初は対象物に対する「言語音」が異なっていた。「アップル」が「リンゴ」で、当然「文法上のコトバの順序」も異なっていた。「漢字文字の意味」を理解するには時間がかかったろうが、「漢字」は元々が「絵」である。「絵=字形」が理解されれば「音→絵←異音」だが、「絵=文字の意味内容」は同じモノとして理解されたであろう。  「文字の理解度」・・・先進共同体の「文明」、「文化」の波及とは、その「文字字形」の「理解度」である。そして日本では漢字を勉強し、その知識を持った人間が「万葉仮名=借字」で「日本語」を記録したのだ。「音」だけではない。「漢字の意味」をも「選択」したのである。「ア・イ・ウ・エ・オ」の「一音」にも「日本語」の意味があり、その「意味」の「漢字」を選択した・・・不思議と思うのだが「万葉歌」を「漢字の意味」で読んだ「人間(学者・研究)」はいないらしい・・・?・・・和歌の「同音異義ことば」を懸ける技法が頻繁に駆使され作られているのに・・・コレって「日本文化」だろうに・・・  そして「時代」は「中心部」から遠方の「後進地域」へ、いきなり「新情報機器」を持ち込んでいる。電線が普及していない「後進地方」ほど「電波機器=携帯電話」の普及度は速くなっているのは当然至極である・・・「文明・文化」の「地方」への拡散は、原則「交易での儲けの拡大」である・・・  イズレの「儲け」も「価値の差額」から出る。市場での儲けは本来、「物」の「使用価値→交換価値←使用価値」の「交換価格」から生じる。その「交換物」を媒介するモノは「貨幣・紙幣・クレジットカード」である。本来は殆んど「使用価値の無い物」である。ただ、それを「価値」として支えているのは「人間社会の相互約束上の信用」と言う「約束事」のみである。もっと言えば「国家」の、「国家間」の「約束事」に支えられているように見えるが「数字」は「為替市場」、「証券市場」、「商品市場」の「自由な取引=博打」の「不安定な所」で決定されているのである・・・  儲け・・・前提的に「相互に交換物」が必要で、尚且つ「相手の購買力」が無くては無理である。「安価」が条件だが今現在の「購買力」が無くても、その人間の「将来的労働力」を担保に「前借・借金」の「経済方法」をも「波及」させた・・・「大衆社会の文明文化」への地球規模の波及原則は「薄利多売」である・・・常に「厚利少売」を狙うのは「支配階級」と結託した「御用商人」である・・・そして「御用商人」が「カネの力」で「支配者」を操るようになった・・・「戦争」で儲ける「人間」が存在する。「人間同士のトラブル」で儲ける「人間」が存在する。「人間社会」にとって「余剰価値」を還元せず「使用価値の無い人間」が存在する・・・ダレなのか・・・「正当な金貸し」を標榜し、「資本の枠内」で儲けようとする「半沢の意識」を持つ「人間」である・・・  「漢字の波及」・・・中国大陸→半島→九州→近畿→関東→東北→蝦夷・・・「方言」・・・ドッと明治維新後、各地方から北海道へ移民した人々とともに「多方言(異言語)」が流れ込んで、混乱もあったろうが、「漢字音の読みの変化」はそれほどなかったのに違いない。だが国家的規模の「明治民族」の形成には「明治標準語」の確率と普及は急務だった。 ーー  幕末、「アイヌ語」に「無理に漢字音?」を当てた・・・「当て字」は逆に「漢字文字の音」の「読み」に影響を与え混乱したが・・・多分、当てた「漢字」には、「音」のみならず、その人物にとっては「意味のある漢字」であったのに違いない・・・「同音異義漢字」はクサルほどあった・・・アイヌ語の「蝦夷地名」に選択された「漢字」には、その「アイヌ語の意味」は勿論、彼の意図する「裏の意味」が込められていたハズ・・・である・・・? ーーーーー  枕草子  (一二七段)・・・百二十七段・壱佰弐拾七段・壱弐七段・陌念漆段           1+2+7=10=十=拾=壱拾=足           1×2×7=14=十四=壱拾四=足肆  あつげ・・・ア-つ-げ       「厚・熱・暑・篤」意の「通」の「解」        蛙(ア・かえる)通解        亜(ア・あまねし)通解        唖(ア・おし)通解・・・手話        鴉(ア・からす)接げ・・・「韓・唐」州        阿(ア・くま・よこしま)告げ        Y(ア・ふたまた)通解・・・柘植・柘          Y=ワイ           「話・和・倭・羽・輪・環・把」意            大和・倭人・奥羽・三輪・把握  なる・・・納留・名留・拿留       鳴る・生る・成る・為る  もの・・・  隨身の・・・ズイ-シン-の        ツイ-シン-の       「追伸・追申」之        随所・随処・随神・隋道・隋書       「隋・髄・瑞・蕊・蘂・事意」審之         長の・・・・おさの・チョウの ーーーーーーー↓        訳語之        すぐり=主村・勝村            選り・勝り・優り        古代朝鮮語で村長の意        古代の姓(かばね)の一        多く渡来人系の氏族に与えられた        漢帰化族の西文氏族の村主氏        百済氏族の村主氏と二系統 ーーーーーーー↓古代の氏姓        公・君(きみ)        臣(おみ)        連(むらじ)        直( あたい)        首(おびと)        史(ふひと)        村主(すぐり) ーーーーーーー↓        氏姓        血筋や家系        株根(かぶね)、株名(かぶな)など意味        崇名(あがめな)より変化        新羅の類似した制度       「骨品制」より家系を表す        骨を「かばね」と読んだもの・・・? ーーーーーーー↓        骨品制は王都のみで導入        王都内部での氏族の序列制度        就任可能な官職や        結婚の自由        利用可能な服職        乗り物        贅沢品        家屋        が骨品制によって決められた        上位の骨品を持つ者だけが高級官僚になれる        新羅が百済と高句麗を滅ぼしたときに、        新羅に移住した        百済・高句麗の王族や貴族は        等級を下げられて骨品を与えられた        新羅の政治制度の骨格制度        王族        真骨(ジンゴル)・・・日本語にも「真骨頂」        父母共に王族に属する者        聖骨(ソンゴル)        新羅時代の事実上の貴族は「真骨」のみ        その下に        六頭品、五頭品、四頭品、平民の        順番で序列が決められていた ーーーーーーー↓      新羅の官位制度      「三国史記・新羅本紀」官名      「大輔」・・・最高位       第三代       儒理尼師今の九年(32年)       下表の十七階級の官位(京位)が制定       枠外の官位       第二十三代       法興王の十八年(531年)      「上大等(上臣)」・・・宰相       三国統一に功績のあった      「金庾信」を遇するもの       第二十九代       武烈王      (金春秋、キム・チュンチュ)       七年(660年百済を滅ぼす)      「伊伐飡(角干)」の更に上に      「大角干(大舒発翰)」       武烈王の息子の       第三十代       文武王      (金法敏)       八年(668年高句麗を滅ぼす)      「太大角干(太大舒発翰)」       という位が設けられた ーーーーーーー↓       新羅王が新たに即位すると、       最高官位の       上大等      (古くは大輔、舒弗邯)が任命       三国統一の後にも上大等任命の慣習は続くが、      「真徳女王」の代       651年       国家機密掌握の執事部が設けられ、       その       長官の      「中侍」が政治体制の要となった ーーーーーー↓      京位      首都金城に居住する      六部の身分体系      外位      地方に移り住んだものの別途の身分体系      百済・高句麗を滅ぼした後、      両国の遺民を取り込み      唐に対抗していくため、      京位・外位の二本立ての身分制度を再編      673年      百済から帰属してきた者のうち、      百済の      二等官の      達率で      金城に移住した者に対しては      京位十等の      大奈麻に当て、      地方に留まった者には      外位四等の      貴干を当てた      674年      外位を廃止して、京位に一本化      唐との戦闘を終えて      684年に      報徳国を滅ぼして半島内の混乱を収拾      686年      高句麗人に対しても官位(京位)を授けた      高句麗の      三等官の     「主簿」に対して     「京位七等」の     「一吉飡」を当てた・・・     「飡受」=「さんじゅ」     「飡(サン・ソン)」は     「飲む、喰らう」と訓む     ・・・これなら「冫(氷)」+「食」である・・・     「氷(こおり)」を「食らう」であるが「音」を採れば     「桑折・小折・郡」である・・・     「郡=君+阝」は地域区分であるが、     「郡」の文字と発音(訓)からは理解できそうだ     「訖(おわる・キツ・コチ)=言+乞」も理解ありだ     「吃(ども)る」に類似の漢字だが      会話での言い出しの音が容易に発音できない      ある音が何度も繰り返されたりするコトである      ↓      乞食→こつじき・こじき→古事記 ーーーーー↓

      伊伐飡/角干(ソポル-チ-ハンキ)      伊伐飡(イバツサン)      角干(カクカン)      第十六代      訖解尼師今(在位310年~356年) ーーーー↓

   ブログからの抜粋記事です  「三国史記・新羅本紀」  「訖解尼師今」  「奈解王の孫」   父は「于老」の「角干」   母は命元夫人・「助賁王の娘」  「于老」は累進して「舒弗邯」となる  「訖解」は   嗣子がなかった  「基臨」が薨じた後、   朝議で彼を奉じて擁立された  「三年春三月、倭国王遣使、為子求婚、以阿飡急利女送之」    ↓   三年(321年)春三月、  「倭国王が遣使を以て王子の結婚相手を求めてきたので、   阿飡の急利の娘を送った」  「四年秋七月、旱蝗。民飢。發使救恤之」     ↓  「四年(313年)秋七月、   旱魃、蝗が発生。民は飢餓。使者を発して救済」  「五年春正月、拜阿飡急利為伊飡。   二月、重修宮闕、不雨乃止」     ↓  「五年(314年)春正月、阿飡の急利に伊飡を拝命。   二月、王宮を大々的に修築していたが、   雨が降らないので止めた」 ーーー   西晋の末期   313年   高句麗が勢いに乗って楽浪郡を滅ぼした   315年に西晋が滅亡   高句麗は玄菟郡を滅ぼし   中華王朝の半島支配体制が終了  「二十八年春二月、遣使聘百濟。三月、雨雹。夏四月、隕霜」     ↓  「二十八年(337年)春二月、遣使が百済を表敬訪問   三月、雨と雹。夏四月、霜が降る」  「三十五年春二月、倭国遣使請婚、辭以女既出嫁。   夏四月、暴風、抜宮南大樹」     ↓  「三十五(344年)年春二月、倭国が遣使を以て   婚姻の相手を求めてきたが、   娘はすでに嫁に出したので辞退した。   夏四月、暴風で宮殿の南の大樹が抜かれた」  「三十六年春正月、拜康世為伊伐飡。二月、倭王移書絶交」     ↓  「三十六年(345年)春正月、康世に伊伐飡を拝命。   二月、倭王が国書を送り届け、国交断絶を伝えてきた」  「三十七年、倭兵猝至風島、抄掠邊戸。又進圍金城急攻。   王欲出兵相戰、   伊伐   康世曰  「賊遠至、其鋒不可當、不若緩之待其師老」   王然之、閉門不出。   賊食盡将退。命康世率勁騎、追撃走之」     ↓  「三十七年(346年)、   倭兵が突如として   風島に来襲、辺境の民家で掠奪を侵した。   また、進軍して   金城を包囲し、激しく攻撃して来た。   王は出兵して合戦することを望んだが、   伊伐飡の   康世が  「賊は遠方より到来しており、   その先鋒と当たるべきではありません。   これを油断させて緊張を緩めさせ、   賊軍の疲労を待てば良いのです」   王はこれに同意し、門を閉ざして出撃せず。   賊は食糧が尽きて退却した。   康世に命じて強靭な騎兵を率いて、   賊軍を追撃させ、これを敗走させた」  「四十七年夏四月、王薨」     ↓  「四十七年(356年)夏四月、王が薨じた」 ーーーーーーー↓       上古代日本のカバネ       「ヒコ(彦、比古、日子)」       「ヒメ(比売、日女、媛)」       「ネ(根、禰)」       「ミミおよびミ(耳、見、美)」       「タマ(玉、多模)」       「ヌシ(主)」       「モリ(守)」       「トベ(戸部、戸畔)」など        カバネは名称の語尾に付く ーーーーー↓      ヤマト王権が確立      カバネ制度      王権との関係・地位を示す称号      制度化したのは      成務天皇      国造(くにのみやつこ)      県主(あがたのぬし)      ワケ(和気、別)      稲置(いなぎ)などが定められた      允恭天皇の時代に      臣連制が導入      公・君(きみ)      臣(おみ)      連(むらじ)      直(あたい)      首(おびと)      史(ふひと)      村主(すぐり)などが定められた      この改革により以前の      ワケ(和気、別)はキミ(君、公)姓      国造・県主はアタイ(直)姓      臣連制の中で最も有力な者に      大臣(おおおみ)      大連(おおむらじ)の姓が与えられた      その他のカバネとしては、      百済滅亡後に帰化した      百済王族に与えられた      王(こにきし)などがある ーーーーー↓     ヤマト王権から明治維新まで命脈を保った姓     藤原 朝臣 永敏(大村益次郎)     藤原 朝臣 利通(大久保利通)     菅原 朝臣 重信(大隈重信)     源  朝臣 有朋(山縣有朋‎)     越智 宿禰 博文(伊藤博文)     真偽は?     天皇及び朝廷に仕えるため     氏・姓が復古的に用意されたという意味合いが強い     明治政府は、     1870年(明治三年)     平民苗字許容令     1872年(明治五年)の     壬申戸籍編纂の     二段階によって    「氏(シ、うじ)=姓(セイ、本姓)=苗字=名字」の     一元化を成し遂げ、     旧来の氏・姓を公称することを自ら廃止した    「壬申戸籍」以後、     旧来の姓は、それと     一体化していた     旧来の氏と共に、     法的根拠をもって一本化され    「氏(シ、うじ)=姓(セイ、本姓)=苗字=名字」に     氏姓制度としいて日本国民全員に確立したのは     1875年(明治八年)     平民苗字必称義務令によってである ーーーーーーーー↓       「酸塊(すぐり)はスグリ科の植物 ーー↓

 枕草子  狩衣。・・・  衲の・・・  袈裟。・・・  出居の・・・  少將。・・・  いみじく・・・  肥え・・・  たる・・・  人の・・・  髮・・・  おほ・・・  かる。・・・  琴の・・・  袋。・・・  六・・・  七・・・  月の・・・  修法の・・・  阿闍梨。・・・  日中の・・・  時・・・  など・・・  行ふ。・・・  又・・・  おなじ・・・  ころの・・・  銅の・・・  鍛冶。・・・ ーーーーー  ・・・

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