牡丹=ボタン=釦=button・・・
2022/9/29・木曜日・・・追加添文・・・
札幌ドーム、最期のタタかい・・・負けた・・・
腐汚沈(プウチン)の足掻きの最後は・・・
溺れる者はカクにシガミツクも・・・シガミツク・・・
徴兵拒否する人間は逃亡・・・
徴兵するプウチンは武器をㇳって殺傷現場にはイかない
チカシツでボタンを押すのか外すのか・・・
ボタンを捥(も)ぎ取るのか・・・
ムカシ、フランス映画の「ボタン戦争」って云う映画を観たが・・・
『わんぱく戦争』
(仏: La Guerre des boutons
英: War of the Buttons)
1962年公開のフランス映画
「ルイ・ペルゴー」
の小説『ボタン戦争』が原作
・・・九月二十六日(火曜日)・・・朝、三笠の従姉の息子が車で迎いにきてくれた。何処へ行くのかって、三笠市立博物館の「三笠アンモナイトの化石」を見学にです・・・場所は「三笠市・幾春別・錦町」・・・巨大な「アンモナイト(Ammonite)」、さらに圧巻の「エゾミカサリュウ(蝦夷三笠龍)=モササウルス」・・・それに「岸輝子(1895-1990)」氏の展示・・・帰宅後、ブログで調べると「新劇女優・本名 伊藤キシ・三笠市幌内生まれ・北海高等女学校卒業後上京・看護婦勤務の傍ら新劇研究所の研究生」、「1944年(昭和十九年)に青山杉作、千田是也、東野英治郎らの10人で俳優座」を結成、映画「野良犬」に出演とあった・・・「スリのお銀」役・・・「野良犬」って黒沢明監督・三船敏郎・木村功・志村喬・・・それに「空知集治監(政治犯の監獄)」・・・当時の炭鉱事情などの資料や写真、炭鉱で石炭運搬に使用されたトロッコや道具などの展示があった・・・
1906年4月1日
空知郡
幌内村
幾春別村・・・アイヌ語
「イクシュンペッ=イ・クシ・ウン・ペッ」
(それのむこうにある川・あっちの川)?
幾春から別(別れたあっちの川)
「キのハのル」のあっち(選別)の幌内
元々
「郁春別」
と書いたが
明治二十二年
「幾春別」と改めた・・・
幾が郁(有+阝)
阝=「阝(右)邑(むら・くに
ユウ)」
「阝(左)阜(おか・フ)」
「郁=右に
有る
邑(むら・くに→久爾・久邇)」
↓↑
三笠宮←・→久邇宮
明治時代前期に
伏見宮邦家親王の第四王子
朝彦親王が創立した宮家
1873年(明治六年)7月23日
~
1929年(昭和四年 )1月27日
東久邇宮(ひがしくにのみや)
久邇宮朝彦親王の第九子
稔彦王が創立した宮家
1947年(昭和二十二年)
GHQの指令により10月14日
皇籍離脱した一代限りの宮家
久邇宮良子女王(香淳皇后)=昭和皇后
東久邇宮家の
「旧蔵本・源氏物語」
↓↑
郁=あや・い・か・かおり
かおり・かおる
くに・たかし・ふみ・ゆう
香気の盛ん・芳しい
文化水準が高い、さかん
あたたかい
あや模様
中国に昔存在した地名
彧(イク)という漢字と
同じ読み、同じ意味
香気が盛んな様」
↓↑
「幌向(ほろむい)」というのは
曾(かつ)て
国鉄
「万字線」・・・萬字撰・太安萬侶→古事記?
が走っていた
万字線=国鉄運営の鉄道路線
北海道
岩見沢市の・・・磐を見て作和
佐和(佐波・茶話・騒・左和)
「志文」駅で・・・志(こころざす)文(ぶん)
地名はアイヌ語の
「シュプン・ペツ(ウグイの居る川)」
に由来する・・・鯎(鯏・うぐい)
室蘭本線から分岐し
空知郡栗沢町(岩見沢市栗沢町)の
万字炭山駅までを結んでいた
万字駅=北海道空知郡栗沢町万字仲町
(岩見沢市栗沢町万字仲町)
(いくしゅんべつ)・・・幾春、別・・・
良寛の漢詩
還鄕(帰郷)・・・環境?
出家離國訪知識
一衣一鉢凡幾春・・・一衣一鉢凡幾春
今日還鄕問舊侶
多是北邙山下人
↓↑
閒庭(カンテイ)
百花 発(ひら)き
余香 此の堂に入る
相対して共に語る無く
春夜
夜将に央(なかば)ならんとす
家を出で國を離れて
知識を訪ね
一衣一鉢、
凡そ幾春ぞ・・・・・政治犯の歎きカモ?
今日、鄕に還りて
舊侶を問はば
多くは是れ
北邙(ほくばう)山下の人・・・墓の人
市来知村
(いちきしり)・・・イチのキを知る=一衣一鉢の凡幾春
の一部が合併
二級町村制
空知郡
三笠山村
となる(三村合併)
1882年(明治十五年)
空知(そらち)集治監(監獄)が置かれ
囚人は近くの
幌内(ほろ ない)・・・「ポロ・ナイ(親の川・大きい川)」
炭山や道路建設などに従事
北海道開発初期の労働力となった
監獄中心に市街が形成された「監獄町」・・・
↓↑
1890年(明治二十三年)
三笠(市来知村)から、富山の人、「福島磯次郎」が美唄川南岸に移住し、渡し守を開業し「美唄(沼貝村)」を誕生させたらしい・・・「美葉意の唄」ではなく、「沼の貝=カラス貝」だった・・・
「1926年(大正十五年)6月11日に沼貝村は美唄町に改称」されたんだ・・・そう、昔のハナシではない・・・
1921年(大正十年)
12月13日
ワシントン会議
日本・米国・英国・フランスの四か国条約が調印
日英同盟が廃棄
12月24日
第45議会召集
1921年(大正十年)
10月
国際ペンクラブ、ロンドンにて結成
12月
出隆「哲学以前」
魯迅「阿Q正伝」・・・なんで、「阿のQの正伝」なんだか?
西南学院高等部ができる
浜松市で
ナウマン象の化石が発掘
宮中某重大事件の決着・・・
宮中某重大事件
裕仁親王(皇太子、昭和天皇)
の妃に内定していた
「久邇宮良子女王(香淳皇后)」・・・久邇の宮の良い子
家系に
色盲の遺伝があるとし・・・色盲=シキモウ=史記望
=色覚異常
色覚の三要素(赤・緑・青)
ある系統の色覚を欠く状態
元老
山縣有朋
らが女王及び同宮家に婚約辞退を迫った・・・
12月25日
宮田輝誕生、NHKアナウンサー・参議院議員
・・・28日にはオフクロも生まれたが・・・
ーーーーー
博物館見学の後は
「三段滝(サンダンダキ)」への見学だったが、山中の山道の景色はまるで「葛飾北斎」が生きていたらきっと描くだろうと思われる「北海道三笠~桂沢の富嶽三十六景」・・・それにドライブマニアだったらキット、この上下、左右彎(湾)曲、トンネルが続く山道を走ってみたくなるだろう。まるで遊園地のジェットコースターなみのミチ・・・「ふたまたやま(二股山)」を挟んで視える峠の光景は「北斎のアングル」そのもの・・・雪が降ったら、冬の景色はどうなるのか?・・・こんな山道は冬は閉鎖だろう・・・?
↓↑
三段滝(瀧)
北海道芦別市
奥芦別の滝
石狩川の支流の
芦別川の源流近くにある滝
堅い岩盤が地殻変動で
上下にずれ
河床が階段状
落差10m、幅7m
芦別川と空知川との合流点から
23km川をさかのぼった場所に存在
複雑に層を成した岩盤を縫って
激しい勢いで流れている
10個以上の滝の集合体
↓↑
芦別=アイヌ語の「アシベツ」の意味は
「アシ=灌木
=立つ」
「ベツ(別)=河川」
「三段滝」=由来は
下流から眺めると
川が立つように見える
↓↑
・・・北海道で生まれながら、あまりにも「北海道」に無知なコトが多いけれど・・・
インターネットの地図で「三段滝」の位置を確認したが、「北緯43度21分0.0秒 東経142度9分2.0秒」、平野の「美唄」とほぼ東西に並んでいたが山の中。で、この山中に耕した畑。一体何を植えているのか、マメ(豆)?・・・三笠=市来知=イチキチ=位置記知・位地紀知・・・ちなみに「美唄=沼貝」の地名はアイヌ語で「カラス貝の多く棲む沼=ピパ・オ・イ(pipa-o-i)=カラス貝・多い・もの(沼)」らしい・・・石炭もカラス(鴉・烏)も色は黒いが・・・「美唄」の地名は元々が「沼貝(ぬまがい)=カラス貝」だったが・・・「ピパ=沼貝・烏貝(ウバイ)・鴉貝(アバイ)」で、「かい=カイ=歌意・甲斐・改・繪・灰」、「セイ=貝殻」・・・「貝=目+八」・・・「三葉虫」は「巻き貝」だが、由来は「三葉虫(Trilobite・トリロバイト)=カンブリア紀に現れて古生代の終期( ペルム紀)に絶滅した節足動物・トリロバイト(trilobite)=tri(三)+lobe(葉)+ite(石)を意味・真上から見て縦に三つに割ると葉っぱが3枚ならんでいるように見える」・・・
↓↑
「ite(イテ)」が「石(イシ)」って、「石井=いわい=磐井」の「乱(527年・継体二十一年六月三日(近江毛野は6万人の兵を率いて新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため進軍したが磐井に阻止)~528年・継体二十二年十一月十一日・磐井は物部麁鹿火に斬られた)」で、「移和意の覧」だが、「磐余=いわれ=神武天皇」・・・
「イト」は「糸・怡土・伊都・井戸・伊土・異土・緯度」と云うコトだ・・・
「ITE(ite)=…の(に)住む人の・…の信奉者の・名詞、形容詞の語尾でIsrael-ite、Sem-ite・化石・塩類・爆薬・商品などの名称」
「ite=接尾辞で名詞をつくり、場所、部族、指導者、主義、組織などに関係する人(Campbell-ite,Israelite,labor-ite)」
「ite=接尾辞で名詞をつくり、石・鉱石・化石名(ammon-ite,anthrac-ite.)・…薬・爆薬名(cord-ite,dynam-ite=ダイナマイト=ノーベルの発明)」
「ite=名詞をつくり、…薬品(vulcanite)」
「ite=名詞をつくり、手足、体の一部、器官(somite)」
↓↑
「サルはアイヌ語で湿原や泥炭地・葦原を意味。サルの地名=沙流・斜里・猿払・サロベツ・佐呂間・長流川・サルキ・サルキ=湿原に生えている葦」・・・「トォ=湖や沼」・・・「ル=道」・・・「ピ=石、小石」・・・「ぺ=水」・・・
↓↑
で、豪快に飛沫を上げて流れる「三段滝(瀧)」と、その瀧に引っ掛かっている巨大な流木、まさに自然を畏怖せざる得ない光景・・・
瀧の見学後、戻る途中で「新桂沢ダム(dam)」建設現場をカってホテルが存在していたと云う山の中腹から眺めてみる・・・
従姉の運転中の息子が「きつね」と云って車の外に発見したのは「北キツネ」だった。車道に藪から出てきて逃げようともせず、ゆっくりと動く車の後からついてくる・・・子狐でした・・・
「桂沢ダム(dam)=北海道三笠市・一級河川・石狩川水系幾春別川に建設されたダム・国土交通省北海道開発局が管理する多目的ダム・北海道で1909年(明治43年)~1957年(昭和32年)にかけ初めて多目的ダムとして建設された・戦後の石狩川水系総合開発計画の出発点となったダム」・・・モチロン、北海道の原生林が繁る山中だからヒグマもシカも存在しているのはアタリマエだが・・・キツネの御挨拶にには感激・・・ 「ダムの目的は幾春別川・石狩川の洪水調節、美唄原野への灌漑、三笠市・美唄市・岩見沢市等への上水道供給、芦別ダムやキムン取水堰堤によって取水された芦別川の水を芦別湖より芦別水路を通して桂沢ダムへ送水し、認可出力15,000kWの水力発電・発電事業は日本発送電の後身となった電源開発株式会社が受け持ち、桂沢発電所を管理」・・・ 「ダム湖=桂沢湖=湖上を国道452号が通り、北上すると芦別市方面、南下すると夕張市方面に至る」 ーーーーー ・・・
・・・「give and take」・・・「疑部 安堵 綴句」・・・「岐阜(義父)安土(蛙務努)帝宮(定句)」・・・「万歳=バンザイ=両手を上げて降伏する」・・・「give up=権力または他の者の所有物を諦(あき)らめ、手放すことに同意する・降参・投降・帰伏・降服・屈伏・帰服・降る・観念・屈服・下る ・伏する・降伏・望みを欠いて・万歳・降参・絶念・思断つ・観念・ 断念・参る・諦める・棄権」・・・「take up=再び始める・再開する・~を取り上げる・~を手に取る・~に乗客を乗せる・天気、景気などが回復する・よくなる・再開する・続ける・授業などが始まる」、「take up=~を取り上げる・~を取る・~を始める」・・・「希望を取り上げる」って?・・・「希望をトウ」か?・・・「ラピュタ」・・・ 「天空の城ラピュタ」の「バルス」・・・「bans(バルシュ)」・・・「葉留蘇(子)」・・・ ーーーーー 「対策を取る手立てがなく危機に陥るさま」 「万事休す・絶体絶命・万策尽きた・もう打つ手がない 手立てがない・最大のピンチ・追い詰められた 何もかも終わりだ・後がない・崖っ縁・命運が尽きる 打つ手なし・破綻・お仕舞い・終い・打つ手がない 追い詰められて・八方塞がり・行き詰まり・お手上げ ギブアップ・手も足も出ない・絶体絶命の・万事休すの」 「八方塞がりの 戦いに敗れたことを認めること 降参・参った・ギブアップ・降伏・降服・投降 白旗・帰順・お手上げ・降旗 問題が解けないまま回答を棄権するさま わかりません・降参です」 ーーーーー ・・・
・・・「理不尽」・・・「李夫人(リフジン)=中国の皇帝の夫人(側室)、孝武李夫人(前漢の武帝の夫人、李延年と李広利の妹)」、「北魏献文帝の献文帝の夫人・孝文帝の生母」、「李夫人 (北斉武成帝) 北斉の武成帝の夫人、元は東魏の孝静帝の嬪」・・・なんか「リフジン」・・・植物の名・・・ 李夫人=リフジン(rifujin) =ツルナ科の園芸植物 学名 Lithops salicola」 なんか、マーガレットに似ている・・・ ・・・「恐竜(キョウリュウ)=恐龍」・・・「今日留」・・・「乎訳諏=オトス=落す=おとす=音素」・・・「オトシどころ=もめ事や話し合いの妥協点・双方が納得する決着点・双方が要望を少しずつ譲歩し、妥協し合って決めた、両者とも納得できる条件」・・・「カンシンごと」・・・?・・・「ニンゲンのコトバ」・・・ ーーーーー 「政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来る (リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です?) Y軸 Libertarian(自由・市場主義=小さな政府)-Statist(統制主義=大きな政府) X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)」・・・? ↓↑ 「リベラル(英:liberal)とは、英語で「自由な」、「気前のよい」という意味を持つ言葉」・・・? ↓↑ 「自由主義(英:liberalism・リベラリズム)とは、国家や集団や権威などによる統制に対し、個人などが自由に判断し決定する事が可能であり自己決定権を持つとする思想・体制・傾向などを指す用語」・・・? ↓↑ 「尚、日本では、昔の自由至上主義(自由放任を基本とする)と異なる個人の自由意思や行動に基づいた福祉・環境・人権などの公共活動を基本とする、社会自由主義のことを特にリベラリズムと呼ぶ」・・・? ↓↑ 「日本国憲法第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」・・・? ーー↓↑ーー 「韓信(カンシン)」 漢の名将 若い頃、 町の ゴロツキ・・・「ごろつき(破落戸)=ならず者・住所や定職を もたず人の弱みにつけいる、ならずもの 荒くれ者・無頼漢・企業対象暴力を行う者 「rogue state=ならずもの国家」 「愚連隊」ってのあったが・・・ に喧嘩を売られ 争うことを避け ゴロツキの命令のまま 股の下をくぐらされた ↓↑ 目の前の 小さな侮りを忍ぶべき 「感心=カンシン=韓信」 「カンシンの股くぐり(史記)」 「堪忍辛抱は立身の力綱 堪忍の足らぬは心の足らぬ人 堪忍の忍の字が百貫する 堪忍は一生の宝 堪忍は万宝にかえ難し 堪忍は無事長久の基 ならぬ堪忍するが堪忍 なる堪忍は誰もする 忍の一字は衆妙の門 忍は一字千金の法則 ・・・屈辱を我慢(我満・臥瞞)、忍耐(認他意)するコトが 「衆妙の門」・・・プチブル意識で忍の一字? 「無事長久の基」・・・プチブル意識で長生きの基? 個々人、状況次第ではそうはイカナイカモ・・・ ↓↑ 「韓信」 中国秦末~前漢初期の武将 劉邦の元で数々の戦いに勝利 劉邦の覇権を決定付け 張良 蕭何・・・蕭何(ショウカ) 秦末~前漢初期にかけての政治家 劉邦の天下統一を輔けた 韓信を劉邦に推薦した などと漢の三傑の一人 ↓↑ 同時代に 戦国時代の 韓の王族出身の 同じく 「韓信」 という名の人物がおり 劉邦によって 「韓王」に封じられ 「韓王信」 と呼んで区別される・・・?、「韓信」が二人? ↓↑ マタクグリの「韓信」 ↓↑ 淮陰(江蘇省淮安市)の出身 秦の始皇帝の没後 陳勝・呉広の乱 紀元前209年 韓信は 項梁、 甥の 項羽に仕えて 郎中の 劉邦 配下 紀元前206年 秦の滅亡後 韓信は 項羽の下から離れ 漢中に左遷 漢王 劉邦の元へと移り 連敖(接待係)となる ↓↑ 垓下の戦い 垓下を脱出した 項羽は 烏江(安徽省・・・・暗記=アンキ=安企・安危 和県の・・・和を懸る 烏江鎮)・・・ウコウチン で自決 楚漢戦争終結 ↓↑ 紀元前202年 項羽の死が確認され 劉邦は 「本来 楚王となるべき 義帝には 御子が居ないので 韓信は 楚出身であり、 楚の風土・風習にも馴染んでいる」 として 韓信を 斉王から 楚王へと移し 故郷の 淮陰に凱旋させた ↓↑ 酈炎 酈食其の子孫と称した 范陽(河北省保定市定興県)の人・・・范陽は地名 范蠡は人名 字は文勝 霊帝の時代に存在 弁舌爽やかで 文辞と詩に巧みで 親孝行で音律に長じていた 彼を州郡の官吏として招聘したが 酈炎はこれに応ぜず 後、酈炎は病に倒れてさらに母が死去 酈炎の妻が子を産んで産熱で亡くし 妻の実家は女婿の 酈炎を訴訟 175年に州郡は酈炎を逮捕投獄 酈炎は獄死 酈炎の師、 盧植は彼の死を惜しみ 彼を称える 徳行の詩を謳った ↓↑ 紀元前201年 韓信は 「狡兎死して良狗烹られ、 高鳥尽きて良弓蔵され、 敵国敗れて謀臣亡ぶ。 天下が定まったので、 私もまた煮られるのか?」 と 范蠡(ハンレイ)・・・范=艹+氾(氵+㔾) 㔾=字彙に「卽ち卩」 蠡=ひさご・レイ・ラ・リ にな・ほらがい 巻貝の一種 蠡測(レイソク) 木の芯を食い荒らす虫 =「彖+虫+虫」 彑+豕 ハンレイ・・・・凡例・判例・反例・範例 范蠡(ハンレイ)・・・春秋時代の越の政治家 氏は范・諱は蠡・字は少伯 越王の勾践に仕えた 越が呉王夫差に敗北した後 再建、夫差23 (前473) 年 呉を破って 「会稽の恥」をそそいだ の言葉を引いた 劉邦は謀反の疑いについては保留し 韓信を兵権を持たない 淮陰侯へと降格させた ↓↑ 陳豨・・・「豨=豕+希=猪野子(イノシシの子)」 「豨=楚人呼豬也」 狶・㹷・猪突豨勇 豨薟(キレン)=めなもみ キク科の一年草 秋、黄色い花が多数咲く 花を包む総苞に 腺毛があり、粘液を出す 漢方で全草を腫瘍などの薬用 もちなもみ が 鉅鹿太守に任命され 韓信を尊敬していた 陳豨は 長安の韓信の屋敷に挨拶にきた時 韓信は 陳豨に 冷遇され 劉邦への忠誠はなく 私(韓信)が天下を取るまで と言い 一計を授けた 劉邦の信頼が篤い 陳豨が謀叛すれば 劉邦は必ず激怒して自ら討伐に赴き 長安は空になる しかし鉅鹿は精兵のいる要衝であるから 容易には落ちないだろう その隙に 自分(韓信)が長安を掌握する 反乱の頻発に現れているように 天下には不満が渦巻いているので 諸国も味方に就く と・・・ ↓↑ 紀元前196年 陳豨 は 鉅鹿で反乱 劉邦は 鎮圧のために親征し 都を留守にし 韓信は、 長安で反乱を起こし 囚人を解放してこれを配下とし 呂后と皇太子の 劉盈(恵帝) を監禁して政権を奪おうとしたが 韓信に恨みを持つ 下僕がこれを 呂后に密告 呂后に相談された相国の 蕭何は 韓信に 劉邦からの使者に仕立て 「陳豨が討伐された」 と報告をさせ、 長安中に布告を出した 韓信は計画が頓挫したとし 自邸に引篭もるが 蕭何は 「病身であることは知っているが、 自身にかけられた疑いを晴らすためにも、 親征成功の祝辞を述べに参内した方が良い」 と招き 韓信はおびき出され、捕らえられた 自分を大いに買って引きとめ 大将軍に推挙してくれた 蕭何だけは信用していたため 誘いに乗ってしまった 韓信は劉邦の帰還を待たずに 長安城中の未央宮内で斬られ 死ぬ間際に 「蒯通の勧めに従わなかったことが心残りだ」? ↓↑ 蒯越(カイエツ?~214年) 後漢時代末期の武将 字は異度(イド) 荊州南郡中廬侯国の人 楚漢戦争期の説客である ↓↑ 蒯通の子孫・・・後漢末に 劉表や曹操に仕えた武将 蒯越・蒯良は蒯通の子孫 ↓↑ 韓信が斉王になった時 蒯通(カイツウ)=蒯徹(カイテツ) ↓↑ 韓信に「今なら、漢王へ 『斉を慰撫のため治めたい』 と言えば王になれる」と説き 劉邦に斉王即位を認めさせ さらに韓信を大国斉を地盤として独立させ 劉邦(漢)、項羽(楚)に対抗出来る 第三勢力の首領にし 天下を狙わせようと図るも 韓信は悩んだ末、 これに乗らなかった で、韓信に劉邦への謀反を勧めたと 誅殺されかねないとして ↓↑ 発狂を装って韓信から離れた・・・ が 「天下三分の計(蒯通=蒯徹)」を唱えた 「劉邦(漢):項羽(楚):韓信(斉)」 独立を拒否する韓信に直言 「計誠知之、而決弗敢行者、百事之禍也。」 (よく謀りよく承知していながら 決断できないのは、全ての禍根) 「夫功者難成而易敗、時者難値而易失 『時乎時、不再來。』」 (それ功業は成し難く失敗しやすい 機会は得難く失いやすい) ↓↑ 「天下三分の計(諸葛亮孔明)」 「曹操(魏):孫権(呉):劉備(蜀)」 ↓↑ と言い残し 韓信の三族も処刑された ↓↑ 韓信の死後、 陳豨の討伐を終えて帰ってきた 劉邦は、 最初は韓信が死んだことに悲しんだが 韓信の最期の言葉を聞いて激怒し 蒯通を捕らえて殺そうとしたが 蒯通が堂々と抗弁し 命は助けられた ーーーーー ・・・???・・・希望、トウ?・・・
ー↓↑ー--
・・・???・・・
↓↑ ↓↑
「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
+
(表紙・画像・音楽)」の
移転先・・・
↓↑
ボクの「古事記字源」の発端・・・
↓↑
干支歴
↓↑
追加添文
「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
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