田舎では、町では、都会では・・・アメもヒョウもコロナもフっている・・・だけども、カサがナイ・・・
アテナとポセイドンの戦い
・・・「十三湊(とさみなと)」の壊滅・・・
ナンで「とさみなと」なんだか・・・?
「土佐港」・・・ ーーーーー 安日彦(アビヒコ)=安日王・・・我孫子(あびこ) =安日長髄彦 阿毎=阿部・安陪・安倍・阿倍・阿邊(阿辺) 阿武・安歩・焙・虻・炙 那賀須泥毘古(古事記) 登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ) 登美毘古(トミビコ) 神武東征に抵抗した河内の豪族の長 安日彦(アビヒコ)という兄がいた・・・ 鎌倉~室町期成立の 『曽我物語』に 蝦夷の祖を 流罪にされた 鬼王安日・・・・鬼室福信=?~663年=扶余福信 ↓↑ 百済の王族・将軍 義慈王の父で 百済 第三十代武王(余璋)の甥 官位は恩率(三品官)、のち佐平(一品官) 鬼室氏の祖 白村江の戦い(663年)以前に 倭国と百済の連合軍が大敗 ↓↑ 鬼宿=和名は魂緒の星(たまおのほし) 魂讚星(たまほめぼし) 二十八宿の一 南方朱雀七宿の第2宿 ↓↑ 距星はかに座θ星 とする伝承が記載 長髄彦の兄 彼と共に青森県の弘前に逃れた or 単独で津軽地方に流された・・・ 事記や日本書紀には 安日彦の名は記録されていない ↓↑ 長髄彦一人が大和で死なず 東北に落ち延びた(塩釜神社伝承) 長髄彦(兄の安日彦または兄弟2人)が 津軽に逃げてきたという伝承は 中世以降の創作・・・ ↓↑ 登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ) 登美毘古(トミビコ) ↓↑ 饒速日命の手によって殺された ・・・或いは失脚後に故地に留まり死去 自らを後裔と主張する 矢追氏による自死したという説も・・・ ↓↑ 旧添下郡 鳥見郷(生駒市北部・奈良市富雄地方)付近 あるいは 桜井市付近に勢力を持った豪族 長髄=邑の名(記紀) ↓↑ 登美夜毘売(トミヤヒメ)=三炊屋媛(ミカシキヤヒメ) 登美夜須毘売(トミヤスヒメ) ↓↑ 登美毘古(トミビコ)の 妹を ↓↑ 天の磐舟で・・・磐舟=UFO? 斑鳩の峰 白庭山に降臨した 饒速日命(ニギハヤヒノミコト) 饒速日=邇藝速日(古事記) ↓↑ 櫛玉命(くしたまのみこと) 飛行神社 京都府八幡市にある神社 飛行機の神 饒速日命と航空事故の犠牲者などを祀る ギリシャ風の拝殿を持っている 日本で最初に飛行原理を研究した 二宮忠八・・・日本で初めて動力つき模型飛行実験に成功 が創建(1915年・大正四年) 1936年(昭和十一年)・・・十一念? 忠八の死により廃絶・・・・注葉知? 1955年(昭和三十年) 忠八の息子 二宮顕次郎・・・・・・・・顕(日並頁)の 次(似素意)の 郎(良阝=邑=大里=都) ↓↑ によって再興 天照国照彦-火明-櫛玉(奇霊・奇魂)-饒 速日命 ↓↑ =邇藝速日(古事記) ↓↑ 物部氏、穂積氏、采女氏、熊野国造らの祖神・・・ ↓↑ の妻とし、仕え・・・「宇摩志麻遅命=可美真手」を産んだ 中世の武将の 伊達家が長髄彦の子孫・・・ 神武天皇が 浪速国 青雲の 白肩津に到着したのち 孔舎衛坂(くさえのさか)で迎え撃ち 天皇の兄の 五瀬命は 矢に当たって負傷、死亡 後 八十梟帥 兄磯城 を討った皇軍と再び戦い敗北 金色の鳶が飛んでき 神武天皇の 弓弭に止まり 長髄彦の軍は 眼が眩み、敗戦 ーーーーー 秋田氏の系譜 先祖に由来する 「伊駒姓」 伊駒長脛(ナガスネ)のこと 生駒市北部 奈良市富雄を勢力範囲としていた古代の王 登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)=登美毘古(トミビコ) 神武東征に対し最大の抵抗をした豪族 ↓↑ 明治維新後 秋田田子爵家が宮内庁に系図を求められ 「安日長髄を先祖」とする一族の 「秋田家の系図」 「孝元天皇-開化天皇-大毘古命(大彦命)安倍将軍 是、安倍姓元祖-建沼川別命安倍将軍」 安日王 兄 長髄彦 弟 安国 安日後孫 安東(はる)崇紙天皇御宇 賞二軍功一賜二安倍姓一致(むね)東(はる) 号二奥州日下将軍一・・・日下将軍? ↓↑ 秋田市子爵家の後見職 秋田主税(ちから)は 「当家は姓を賜って 安倍を称した 安倍姓の祖系を先に掲げ 当家の年来の慣例 これを宮内省で 秋田家の系図として納めた」 大毘古命(大彦命)の末裔の安倍姓は 奥州の安倍氏とは血脈の上ではまったく関係がない ・・・(浪岡具雄の伝承)? ↓↑ 秋田氏=本姓が安藤(安東) 古代 陸奥国俘囚の長であった 安倍貞任の子孫・・・ 中世 今の秋田県北部から青森県全域、北海道南部までを勢力圏 津軽十三湊を本拠地 とし貿易や水軍活動 「蝦夷管領」 「日の本将軍」 と称された・・・ 後、 檜山安藤氏(下国家) と 湊安藤氏(上国家) に分かれ、南部氏の勢力に押され 出羽国に本拠地を移し 天正年間の 愛季に至り、両家が合体 愛季は 天正十七年(1589) 居城を檜山(能代市)から 湊(秋田市土崎)へ移し 律令官職である 「秋田城介」を名乗った 以後 秋田氏と称するが 本姓の安倍 従来の安藤(安東)姓が併用 先祖に由来する 伊駒姓も使用・・・ ↓↑ 長脛=イギリスの長脛王 エドワード1世(Edward I) 1239年6月17日~1307年7月7日・・・130777・・・? プランタジネット朝 イングランド王 在位1272年11月17日~1307年7月7日 渾名は 「Longshanks(ロングシャンクス・長い足・長脛王 身長が190cm) Hammer of the Scots(ハンマー・オブ・ザ・スコッツ スコットランド人への鉄槌)」 エドワード1世 (イングランド王) (Wikipedia) ーーーーー 突厥=前身は 阿史那(アシナ=蘆名・芦名・葦名・足名) 烏孫→阿史那→突厥
アシナ⇔アテネ(ギリシア語: Αθήνα; Athína Athinai・古代ギリシア語=Athēnai) ギリシャ共和国の首都 アッティカ地方の古代からの都市 アテナイ=Athēnai 現代ギリシア語文語 (カサレブサ) で アシネ=Athínai 現代ギリシア語口語 (ディモティキ) で アシナ=Athína アテネはラテン語 1970年代 カサレヴサ(文語)の使用が停止されるまで 公式名称は Ἀθῆναι=アシネ([aˈθine]) カサレヴサ廃止以降 Ἀθήνα=アシナ
女神アテナ・・・ゼウスの頭頂部より 武装して鎧を纏った姿で出現 と 海神ポセイドン との争い ポセイドンは三叉の槍(海軍力の象徴)で 地を突き海水を湧き出させ アテナは オリーヴの木を生い立たせ 国王ケクロプス、住民は オリーヴの木を択び アテナの名を都市の名とした アテネ市=τὸ κλεινὸν ἄστυ=栄光の都 古代ギリシアの詩人 ピンダロスが ἰοστέφανοι Ἀθᾶναι と呼んで 「紫冠の都(en:City of the Violet Crown)」 ーーーーー 突厥=前身は阿史那(アシナ=蘆名・芦名・葦名・足名) 烏孫→阿史那→突厥
アシナ⇔アテネ(ギリシア語: Αθήνα; Athína Athinai・古代ギリシア語=Athēnai) ギリシャ共和国の首都 アッティカ地方の古代からの都市 アテナイ=Athēnai 現代ギリシア語文語 (カサレブサ) で アシネ=Athínai 現代ギリシア語口語 (ディモティキ) で アシナ=Athína アテネはラテン語 1970年代 カサレヴサ(文語)の使用が停止されるまで 公式名称は Ἀθῆναι=アシネ([aˈθine]) カサレヴサ廃止以降 Ἀθήνα=アシナ 女神アテナ・・・ゼウスの頭頂部より 武装して鎧を纏った姿で出現 と 海神ポセイドン との争い ポセイドンは三叉の槍(海軍力の象徴)で 地を突き海水を湧き出させ アテナは オリーヴの木を生い立たせ 国王ケクロプス、住民は オリーヴの木を択び アテナの名を都市の名とした アテネ市=τὸ κλεινὸν ἄστυ=栄光の都 古代ギリシアの詩人 ピンダロスが ἰοστέφανοι Ἀθᾶναι と呼んで 「紫冠の都(en:City of the Violet Crown)」 ーーーーー 蘆名氏(あしなし) 桓武平氏系統の三浦氏から興った氏族 相模国 蘆名(横須賀市芦名、芦名城)の地名に由来 「芦名氏」「葦名氏」 「三浦芦名家」と表記される事もある 相模 蘆名氏 と 会津 蘆名氏の二つの系統が存在 通し字は 前者は「為」 後者は「盛」 蘆名 盛氏(あしな もりうじ) 戦国時代の陸奥国の武将・戦国大名 蘆名氏第十六代当主 ーーーーー 突厥=トゥルク 突厥の発祥 西海(地中海)から中央アジアへ移住 窮地を狼に救われた 烏孫=突厥 烏孫の移動ルート 『東日流外 三 郡 誌』 (つがるそとさんぐんし) 津軽地方支配の 荒吐族(あらはばきぞく) その王 阿倍氏⇒安東氏⇒秋田氏 その都 十三湊(とさみなと・青森県五所川原市の十三湖の辺り) ↓↑ 「アラハバキ」=縄文の遮光器土偶・・・ 「ナガスネヒコは 兄の 安日彦(アビヒコ)とともに 津軽に渡り 津軽の土着民 阿蘇辺族 津保化族 と併合し 荒吐族となった」・・・ 和邇氏(海神族)の協力を経て北上し 兄 安日彦(アビヒコ)とともに 青森県は津軽(東日流=つがる)に落ち着いた 大阪の十三(じゅうそう)や 十三湊(とさみなと) という地名は アビヒコの弟 トミヒコ(ナガスネヒコ)が語源 ーーーーー ・・・ 鎌倉時代後期 豪族・安東氏(津軽安藤氏)の本拠地 和人と蝦夷地のアイヌとの交易拠点 文明年間(1469~87年間・戦国時代初期 or戦国時代末期(16世紀末、17世紀初頭)・・・ 日本最古の海洋法規集『廻船式目』が 「三津七湊」について 七湊の一つとして 「奥州津軽十三湊」記録 後代 朝鮮半島や中国などと交易・・・ 遺跡は東西に延びる土塁を境に 北側には安東氏や家臣たちの館 南側には町屋が整然と配置 室町時代中期 安東氏が南部氏に敗れて支配地を失って 夷島(蝦夷地)へ逃げ 十三湊は衰微し 和人・蝦夷間の交易拠点としての地位は 野辺地湊(野辺地湾に面する湊・上北郡野辺地町域) 盛岡藩の北の門戸へ移った 大浜=大濱(青森市油川地区) 飛砂が堆積して水深が浅くなり 港としての機能は低下 16世紀後半から再び整備復興 江戸時代 岩木川を下ってきた米を 十三湊から 鯵ヶ沢湊(西津軽郡鰺ヶ沢町域)へと運ぶ 「十三小廻し」が行われた ↓↑ 『東日流外三郡誌』 興国元年(1340年・南北朝時代初期) 大海嘯(大津波)によって 十三湊は壊滅的被害 安東氏の政権は崩壊・・・ 発掘調査で津波の痕跡は無し? 興国二年以後 十三湊は重要な湊として数々の文献に記録 1993年(平成五年) 青森県古文書研究会が 同書を偽書と断じた・・・?・・・偽書を作った理由はナニ? 弘前大学の発掘調査により 正確な年代こそ不詳ながら 十三湊を襲った津波の痕跡であろう 泥の堆積が2層以上確認 津波の試練は幾度もあった・・・? ↓↑ 12世紀(平安後期) 平安期の当地域周辺に見られた 区画集落群の人為的廃絶 在地豪族層による広域支配体制の確立 鎌倉時代初頭 津軽地方一帯は 鎌倉幕府支配体制下 古十三湖の周辺地域は幕府支配下で 「西浜」と呼ばれる 13世紀初頭(鎌倉時代後期前葉) 西浜で十三湊 蝦夷沙汰職(蝦夷管領)を務めた 安東氏(津軽安藤氏)の許で繁栄 15世紀半ば(戦国時代初頭) 安東氏(津軽安藤氏)が 南部氏に敗れて支配地を失い 夷島(えぞがしま。蝦夷地)へ逃亡 十三湊は衰退 ーーーーー ・・・???・・・
Comments