申し立て奉る・・・モウシタテマツル・・・上申書
2021/12/17/・金曜日・・・追加添文・・・
「中国大陸」の「カンジジジョウ」・・・
「発声・発音でのコミュニケーション」よりも
communication
「視覚・文字でのコミュニケーション」が
込視喩似形重処務?
「much better」
猿女=宇受女=うづめ=渦目・・・鳴門海峡の渦・・・猿田彦の死因
↓↑
猿=猨=犭+爰(爫+一+友)
蝯=虫+爰(爫+一+友)
𧳭=豸+爰(爫+一+友)
㨬=扌+袁(土+口+𧘇)
褤=衤+袁(土+口+𧘇)
𫞤=犭+土+𧘇
𤝌=犭+元(一+兀)
𤟗=犭+受(爫+冖+又)
𤠔=犭+員(口+貝)
𧳷=豸+員(口+貝)
𪻅=犭+貟(ム+貝)
猱=犭+柔(矛+木)
猴=犭+侯(イ+ユ+矢)・・・矣=ム+矢
沙流
砂留
↓↑
・・・「申-不害(シン-フガイ)」と云う「漢字名」の人物は実在、存在したのか?・・・名前からして「申(さる)は害(そこなう・ガイ)モノでは不(ない)」か、「害では不(ないこと)を申す」・・・古代中国には「示唆的、恣意的な漢字名」の「人物の名」の記録が多いが、記録的には「申不害」は「法治主義者」であったらしい・・・「申命記(モーゼの十戎・律法)」・・・「申(さる=沙流・猿・猨・猴・もうす・シン)」が重なっているのだが・・・漢字使用には何ら不思議ではないが・・・?・・・ 以前にも書き込んだが、不思議に思う「姓」は「何皇后(カコウゴウ・?~189年)」の「何?」である・・・ ↓↑ 「後漢の十二代霊帝(劉宏)の 何皇后、諱は不明」、 諡は「思」、 諡号夫の諡を重ねた 「霊思(何)皇后」・・・例史何?・・・交合・咬合・乞合 「荊州南陽郡宛県(河南省南陽市)」の出身 父は「何真」・・・・・・眞とは何? 母(舞陽君)は 「何真の後妻」 子は少帝「弁」・・・・・弁(わきまえる・ベン) 異母兄は「何進」・・・・進むのは何処 異父兄は「何苗(朱苗)」・・・何のナエ・・・アカ苗 朱苗=牛木艸田 ギュウモクソウデン 義有記相伝? 疑(欺・戯) 鰞(鶖=秋鳥) 記紀宋伝 主記日下伝? うしきくさかんむりた 得史記日下無理多? 久坂玄瑞? 妹は 「張譲・・・譲って張る?→高野長英の諱は の 「譲(ゆずる)」? 子 張譲=弓長言襄? (養子?→とり子) 諭見重言襄?・・・福沢諭吉? の妻」 重聶(耳)?=文公(晋公) 元は晋の分家筋 武公の代に本家を 滅ぼして自ら晋公 武公の子 献公と北方遊牧民族の 狄(白狄)の娘 狐姫の間に生まれた 献公には太子であった 異母兄の 「申生」・・・サル生まれ? 驪姫に父毒殺未遂の 罠にはめられ 自殺させられた 異母弟の 「夷吾(恵公)」 がいた ・・・これって「ナニ?」であるのか・・・? 「光和元年(178年~184年)・・・光和→比借理和(話) 熹平七年を光和と改元・・・・・熹(あぶる・キ) 平(たいら・ヘイ) 七年 光和は霊帝時代の 三番目の元号 三月、 西邸・・・・・・・・・・・西氐(氏一)の邑 で 西周(あまね)の家? 売官開始=銅臭政治」・・・金+同が臭(自一人)い? 混同・近藤(勇)? 「光和三年 (180年=庚申年?)・・・第十三代・・・壱拾参臺→壱與? 成務天皇五十(伍拾)年? 稚足(チソク)彦尊? 若帯(ジャクタイ)日子天皇? ↓↑ 第十三代征夷大将軍=徳川家定 文政七年(1824年 )四月八日 「甲申」年 第十二代将軍=徳川家慶の四男 家慶は14男13女の子持ちだが 生き残ったのは徳川家定のみ 嘉永六年(1853年) 家慶が黒船来航後に病死し 徳川家定が 第十三代征夷大将軍に就任 ↓↑ 1800年=「庚申」年? 日本=寛政十二年 中国清=嘉慶五年 白蓮教徒の乱=紅巾の乱 1796年~1804年 乾隆帝が 「劉之協」の捕縛を命じ 「ヘシェン(和珅)」の兄弟の 「ヘリェン(和琳)」を派遣 白蓮教を鎮圧 (劉之協の束縛)? フランス革命戦争真只中 (French Revolutionary Wars) 1792年4月20日~1802年3月25日 革命フランスvs反革命対仏大同盟 一連の戦争 霊帝(劉宏)の・・・・例定・例綴? 最初の皇后であった 宋氏が廃されると、・・宗=ウ+木 宋史・双史・装史 創始・相思・総氏・草子? 何氏が皇后 父に車騎将軍と爵位が追贈、 母に舞陽君の称号が贈られた」 「光和六年(183年)・・・・・和の光・話項? 熹平石経=儒学七経 (一字石経・・・・・「壱時・李知事」籍経? 今字石経とも)・・「坤字・恨事」世記経? が完成(最古の石に刻んだ儒教の碑)」 「光和七年(184年)十二月、中平元年に改元」 ・・・「霊思(何)皇后は霊帝の寵妃であった王美人が劉協(献帝)を生んだコトに嫉妬し、王美人を毒殺。霊帝が激怒、宦官の取りなしでその罪を免れた」・・・ 「霊帝」とは「黄巾の乱(光和七年・184年」・・・ ↓↑ 184年 (光和七年、干支甲子年)・・・甲子夜話(正続編各百巻) 肥前国平戸藩第九代藩主 松浦清(号は 静山)の 随筆集 平戸藩主隠居後 62歳に 1821年12月11日 (文政四年十一月十七日) 「甲子の夜」 に書き起こされたもの 冀州・・・・・・・・・紀州 鉅鹿(キョロク)・・・虚録? の 張角(チョウカク)は 『太平清領書』に基づく 道教的な 悔過(懺悔)による治病(治療)で 大衆の信心を掌握し、 「太平道」は、・・・・「太平天国の乱=長髪賊の乱」 1851年1月11日 (道光三十年十二月十日) 金田村で拝上帝会は 国号を太平天国とし、 洪秀全は天王と称した 道光三十(1851・辛亥) 年末から 同治三(1864・甲子)年 14年間・・・ 数十万の信徒を 三十六個に分け、 一単位を「方」とし 軍事組織化し 武装蜂起 「蒼天已死・・・蒼天すでに死す 黃天當立・・・黄天まさに立つべし 歲在甲子・・・歳は甲子に在りて 天下大吉」 (『後漢書』七十一巻 皇甫嵩、朱儁列傳・・・コウフスウ・シュシュン 皇(おう) 甫(はじめ) 嵩(かさ・たかい) 朱(あかい) 儁(すぐれる) 第六十一皇甫嵩伝) 役所の門に 「甲子」の 二文字を書いて蜂起を扇動 「荊・揚州」で兵を集めさせていた 「馬元義(バゲンギ)」・・・馬(マタイ・マチュウ) 馬太→司馬遷・司馬江漢? 斯波撰・司馬交換? の 原義 を洛陽に送り込み、 中常侍の 封諝 徐奉 等を内応させ 3月5日に 内と外から蜂起するよう約束 張角 の弟子の 「唐周(トウシュウ)」・・・踏襲 が 宦官達に密告し 蜂起計画発覚 馬元義 は車裂き 霊帝は 三公や司隸に命じ、 宮中の衛兵や民衆を調べさせ 千人余りを誅殺し、 張角捕縛の命を下した。 2月 張角は一斉に蜂起 天公将軍と称し、 弟の 「張宝(チョウホウ)」 「張梁(チョウリョウ)」 をそれぞれ 地公、 人公 将軍とした 3月 霊帝は 「何進」を大将軍とし 将兵を都亭に駐屯させ、 八つの関(セキ)に 都尉(トイ)を置き 洛陽を守護 「皇甫嵩」 「呂強(ロキョウ)」 等の進言によって 「党錮の禁」を解き、 官界から追放されていた 「清流」知識人が 黄巾賊に合流するのを防ぎ、 且つ、これを利用 また宮中の 倉の銭と 西園の馬を出し 人材を募り、 「盧植」を・・・・盧+植→鸕(鸕野讃良) 張角がいる・・・・張政+壱與・・・黄旗(幡) 冀州方面へ、・・・紀周・紀州・既習・季秋・奇襲 皇甫嵩 朱儁 に 「豫州」・・・・・伊豫 「潁川」・・・・・潁川(エイセン)=潁水隠士 隠士の 許由(キュユ)が 帝尭(ぎょう)に 召されたが栄達を望まず、 その話を 耳の汚れとして この川で洗い清めた・・・ 潁=ヒ+水+頁 方面へと、 黄巾の勢力が強い所へ派遣 ↓↑ 桓帝と霊帝の間(146年~189年)の「倭の大乱」・・・「桓帝在位は146~167年、霊帝在位は167~189年」・・・「倭の大乱=黄巾の乱」・・・?・・・「キリスト教徒の乱」? ↓↑ 中平六年(189年) 霊帝崩御 少帝弁(劉弁)が即位 何氏は 摂政皇太后 政敵であった 董太后との争いに勝ち、 洛陽から追放 何氏の政権を支える 何進と 宦官(十常侍)が争い、 何進が 「袁紹(エンショウ)」 たちと共に 宦官(十常侍)の殺害を計画すると、 宦官とも結託していた 何苗と共に 何進の計画に反対 何進と十常侍が政争で共に滅び、 何苗も殺害された ↓ 洛陽に入った 「董卓(トウタク)」・・・董卓=サ(艸)+重+卓(ト+日+十) が権限を手中にし 董卓は董太后と同族 董太后の報復として 何氏を排除しようと 董卓は何太后を脅迫して 少帝(劉弁)・・・・・・・少帝は「弘農王」に 代わって 「陳留王(献帝・劉協)」が 皇帝に擁立 の廃位を実行し、 董太后が養育していた 献帝 (劉協・董侯・陳留王→渤海王)・・・ 皇后の姓は 「伏氏・曹氏(曹操の娘)」 青龍二年(234年)死亡 を帝位に就かせた・・・・・・・・後漢最期の第十四代皇帝 董卓は 何太后に対し、 董太后に対する振る舞いが 「孝の道」に叛くと問責し 永安宮に幽閉、殺害 何太后は霊帝の陵に合葬され 董卓は霊帝の陵の副葬品を ことごとく奪い取った・・・ (董卓伝) ↓↑ ・・・「東漢氏一族(応神天皇の条に渡来したと記されている漢人系の阿知使主を氏祖とする帰化系氏族集団 坂上氏 大蔵氏 丹波氏 等は 霊帝の末裔を自称?」 しているらしい・・・ナゼ?・・・ 「東漢氏(やまとのあやうじ)」 「倭漢直(やまとのあやのあたい)」の先祖、 「阿知使主(あちのおみ)」が子の・・・阿を知る使い主? 阿は使い主を知る? 阿部は使い主を知る? 阿毎は主の使い? 「都加使主(つかのおみ)」と・・・・・都は使い主を加える? 「十七県の人々」を率いてきた・・・・・拾七=拾漆? 「東漢氏は渡来系氏族の筆頭格」・・・・唐巻歴史? ↓↑ 漢字使用の目的は「視覚による情報伝達」である・・・その妄想は読み手の勝手であるが・・・予(預・与)見出・・・? ↓↑ 「申・何」・・・ふざけ(巫山戯)るなッ、である・・・悪巫山戯・・・「巫山(フザン)」=中国四川・湖北両省の境にある山。長江が山中を貫流し、巫峡を形成。山が重なって天日を隠蔽」・・・「戯れる(ザレル)」は、古くは「サレル・ザレル・ふざける」で、「サレル・サル」は「猿」の語源でもある(YAHOO知恵袋)・・・らしい・・・? 「サル事」ですか・・・「孫悟空」・・・「猿楽=申楽」・・・「田楽=デンガク=伝学」です・・・その他は「猿(猴・猨・沙流・然る・去る・狙・申)田彦」と「猿女=宇受女」である・・・日光の「三サル」は「みざる・きかざる・いわざる」である・・・左甚五郎の「三毛のニャんコ」は寝ている(寝たふり)らしいが・・・「見(ケン)ざる、聞(ブン・モン)かざる、言(ゴン・ゲン)わざる」は「庚申信仰の講(サンシチュウ=三尸虫を封じる為の徹夜の集会・江戸時代)」であるらしいが・・・「隠れキリシタンの生き方」だろう・・・そもそも、「猨田彦」の「子孫が大田命(おおたのみこと)→宇治土公(うじのつちぎみ)で伊勢神宮の玉串大内人」とは「?」であるが、「猿田が戯人(さるど)」、一般的な別名が「道祖神(ドウソジン)=インドの神の青面金剛(しょうめんこんごう)」である。個々特殊であった「神々」が「同祖(ドウソ)」とされ、「習合されやすいサルタヒコ(サルタン・スルタン・サルタン ・Sultan・天狗猿)」なのである・・・容貌は「中東・西洋の胡人、南蛮」である。伴天連(バテレン・神父・宣教師)の「泣いた青鬼」である・・・幕末、明治初期でプロテスタンの「牧師」も加わった・・・「墨子(ボクシ)=墨翟(ボクテキ)=道教」の発見は「清時代」であった・・・?・・・一般的に「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿像と共に「青面金剛像」が表されている・・・ 「石申」は「甘徳とともに、世界最古級の星表を制作」、「石申=一名石申夫・紀元(公元)前4世紀魏国人・战国(時代の)天文学家、占星家,著有に(天文)八卷」、 「石申 121個の星の位置を決めた 最も早く太陽の黒点を観測 彼は 黒点は 太陽の中心で起きる日食で、 外に広がると考えた」 ・・・黒点の拡大=日食・・・ ↓↑ 日食を 陽と月が重なる現象としてはいなかった・・・? ↓↑ 「彼の本には 八巻からなる「天文」 一巻からなる「星図 (浑天图, 渾天図) 一巻からなる「石の星表」 (石氏星経) がある 後の二冊の本は、 彼の学派の支持者によって書かれた・・・ 彼の本はほとんど残っていない 重大なもののいくつかは 「開元占経」に保存されている」 ↓↑ 「唐代成立の占星術書『開元占経(中国語版)』には、 甘徳(史記天官書には斉の人 徐広は史記注釈で魯の出身 書誌学者 阮孝緒の七録では楚の人) の 『天文星占』と、 石申 の 『天文(別名、石氏星経(中国語版)』 をまとめたとされる文献が収録され 「甘石星経(中国語版)」の名で呼ばれている」 「甘徳の 『甘氏四七法(一巻)』、 『歳星経』 などの著書があったが現存しない」・・・らしい・・・ 以上も以下も参照、参考は「ウイッキペデア」や、その他のブログ・・・ ーーーーー ↓↑ 馬王堆漢墓に 副葬された 帛書に 天文に関する記録(五星占) が含まれ記述の一部が 「甘石星経」と共通 『隋書文志・晋書』天文志に 3世紀 晋の武帝・司馬炎の頃に・・・司馬である 呉の太史令 陳卓が、・・・・・陳卓=卓に陳列(並べる) 石申・甘徳 および 殷の 占星術師 巫咸の星図を総合し、 その後 星官の標準を定めた さまざまな 星表・星図が、 「石申・甘徳・巫咸」の名を掲げて制作された・・・ 579年 「甘石星経(星の手引書・参考書)」は 「馬顯(バケン) によって書かれ、 暦の本の付録・・・ 甘徳は 紀元前364年 木星近傍に暗い星があることを記録 木星の衛星を発見・・・? ーーーーー ↓↑ 申不害(シン フガイ) ?~紀元前337年 中国戦国時代の韓の政治家 昭侯に仕えた宰相 申不害は下級身分 才能を見込まれ師匠に推挙され、 昭侯に拝謁 昭侯は弱国である 韓をよく治めるための方法を問うと 申不害は 「君たるものよく為さじ、 よく知らず」 と答え 法を整備し 公平な論功行賞を行えば 国は自然に治まると説いた・・・ ↓↑ 韓 戦国七雄のうち 最弱国 隣国の 魏と秦に怯えていた 申不害が宰相の間は 国勢は安定し、 領土も少しずつ拡張 ↓↑ 申不害の 法律至上主義は 韓非に継承され その思想は 始皇帝によって 国政に用いられた 著書に 『申子』二篇があったとされるが、 現存していない・・・? ↓↑ アレクサンドリア図書館 (Βιβλιοθήκη τῆς Ἀλεξανδρείας Bibliothḗkē tês Alexandreíās) 紀元前300年頃 プトレマイオス朝の ファラオ(パロ)、 プトレマイオス1世によって エジプトの アレクサンドリア に建てられた 世界中の 文献を収集することを 目的として建設 古代最大にして 最高の図書館・・・・石上宅継(大納言)の 芸亭=芸亭院(うんていいん) 藝(ゲイ・技)ではなく 芸(ウン・香草・植)で 本(巻物・書籍)の紙の 害虫駆除、 虫除けの香草の意味 平城京(奈良県奈良市)に設置 自宅のとした 阿閦寺(あしゅくじ)の 内の東南隅に建てた 日本最初の公開図書館 武蔵国-金沢文庫(横浜市金沢区) 鎌倉幕府執権 北条実時(北条義時の孫)が設立 公開図書館 江戸時代、 徳川家康は 金沢文庫の蔵書を 大量に江戸城 紅葉山文庫(1602年)へ移転 江戸幕府の図書館 紅葉山文庫=「御文庫」 仙台藩で 青柳文庫創設 図書館には 多くの 思想家や作家の著作、 学術書を所蔵 当時、所蔵文献は パピルスの巻物 蔵書は 巻子本にして・・・・「巻子の本」 およそ 70万巻・・・ アルキメデス エウクレイデス ら世界各地から学者が集まった 一大学術機関で 薬草園が併設・・・江戸幕府の 「1855年(安政二年) 「洋学蕃書調所」 「蕃書調所」 幕府が設けた洋学研究機関 蕃書調所(蛮書調所) 1856年(安政三年)発足 江戸幕府の 直轄洋学研究教育機関 ペリー来航後、 従来の 「天文台-蛮書和解御用掛」 を拡充・・・ 当時の兵学書 造船技術書 軍事関係書 医学書 などの洋書や外国新聞の翻訳 諸外国の 調査の為に設けられた機関 安政二 (1855) 年 洋学所設置の決定に基づき, 安政四(1857)年開校 洋学の教授、外交文書の翻訳などを司った 文久二 (1862) 年 洋書調所 洋書調所を経て 開成所・・・ 「東京外国語学校(東京外国語大学)」 「東京大学」・・・ ↓↑ マケドニア の アレクサンドロス3世(大王) は アケメネス朝ペルシアを侵略し アナトリア と シリア エジプト を併合 紀元前332年 エジプト支配の中枢都市として アレクサンドリアの建設を命じ 短期間の滞在後 東方への遠征 アレクサンドリアに戻ることはなかった 紀元前323年 彼の死期 後継将軍(ディアドコイ)の一人 プトレマイオス1世 が ファラオを名乗って エジプト支配 プトレマイオス朝の 首都として アレクサンドリアを建設 図書館 学術研究所の ムセイオン ファロス島の大灯台を建造 アレクサンドリア図書館 ↓↑ 「船舶版」 ガレノスによれば、 当時のアレクサンドリアに入港した船は、 積荷に含まれる書物をすべて 一旦没収された上で 所蔵する価値があるかどうか精査された 所蔵が決定された場合には、 写本を作成して 原本の代わりに持ち主に戻し、 同時に 補償金が支払われた・・・ これらの書物が 「船舶版」と呼ばれた 図書館は 写字生を多数抱え 組織的に写本を作った 当時の写本は、 ナイル川の デルタで栽培されていた パピルスを原料とした パピルス紙を利用 同様に 他の図書館の蔵書を強引に入手した アテナイの国立図書館は 三大悲劇詩人 アイスキュロス、 ソポクレス、 エウリピデス の戯曲台本を 門外不出のものとして所蔵していたが プトレマイオス3世は 担保金をかけて それを借り出すことを認めさせた後、 それを返還する代わりに 銀15タレントという 違約金とともに 写本のみを返した・・・ ↓↑ アレクサンドリア図書館は 世界中から 文学、地理学、数学、天文学、医学 などあらゆる分野の書物を集めた 研究 幾何学の エウクレイデス、 地球の直径を計測した エラトステネス、 天動説の プトレマイオス などは、この図書館で研究 古代最高の科学者の一人 アルキメデス は主に シチリアのシラクサで活動したが、 一時的には アレクサンドリアに滞在・・・したらしい 大図書館 と併設の ムセイオンなどの学術施設は プトレマイオス朝の手厚い保護を受け、 滅亡後はローマ帝国に保護された その後、 虫害・・・・虫の害デス や 火災によって 図書館の莫大な蔵書のほとんどは、 併設されていた 薬草園 共々灰燼に帰した そして 後世の略奪や侵略による度重なる破壊で、 建物自体も失われた・・・ アレクサンドリア図書館の火災 プトレマイオス朝末期 ユリウス・カエサルの侵攻時 (ナイルの戦い ・紀元前47年) 港の艦隊の火災が延焼して焼失・・・ 後 ローマ帝国の下で復興 270年代の アウレリアヌス帝時に 内戦による被害 最悪の打撃は 4世紀末以降の キリスト教徒による 継続的な攻撃・・・ 5世紀には 当時の キリスト教徒大司教の使嗾のもとで ヒュパティアの虐殺(415年) 大図書館やムセイオンを破壊 ↓↑ アレクサンドリア図書館の分館 ラコティス地区の セラピス神の神殿 (セラペイオン、セラペウム) には、 本館をしのぐ規模の分館が存在していた 391年 異教徒の集会所と見なされ 神殿もろとも破壊・・・ ーーーーー 「サル」・・・遣り出したらキリガナイので本日はコレまで・・・
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