真名仮名のカンジは「MA na ga na」
「クジラ・鯨・鯢」は哺乳類・・・魚類ではないんだ・・・
・・・イヤ~ァ、インターネットの「産経ニュ-ス」はオモシロイ、ッ。その記事、コラムにはまったく、賛同する立場ではないのだが・・・「シュゴ」と「ジュツゴ」がハッキリしているし、「立場」が明確だから・・・それに、当時、デモの翌日、喫茶店で読んだ「サンケイ新聞」、「1960年~1970年代」の三面記事には迫力のアル、街頭での事件記事には「擬音(ドドッと学生が走りだした・機動隊がドドッと)」などとも書き込まれ、「五W・一H」がハッキリしていた・・・学生仲間は馬鹿にしていたが、ボクには一番「事実」理解が出来るシロモノだった・・・ 当時の「日経新聞」は「国際情勢分析」の「資料」だったが、ボクには、その「経済記事」に対する「語彙理解不足」で「分析以前」の問題だった。「朝日・毎日」の「三面記事」はチョッと「社会派(?)きどり」なんだか、「民主的(?)きどり」なんだか、インテリ臭く「上品ぶっていた」が、「国際記事の評論」は「曖昧なヒダリ(?)」なんだか、「コウヘイ(?)」なんだか、「立場」のハッキリわからないシロモノ・・・「読売」は「巨人軍」専門情報のスポーツ新聞のタグイだと思ってホトンド目にしたことがなかった。スポーツ新聞を目にするようになったのは、名古屋で住むようになった「1975、6年」頃・・・やっと念願の「カラーTV」を質屋で手に入れ、TVでみた「プロレス」の勝負結果を仕事を手伝ってくれていた「K君」が「中京スポーツ」を見せてくれた時からだ・・・「猪木のプロレス」は「TV番組の時間枠内の最後に決着」がついていた・・・ビデオ編集じゃなく、実況中継なのに・・・一方の「馬場のプロレス」は時間枠では決着の着かない結果を知るには、翌日の「スポーツ新聞」だった・・・宗教団体らしい「某新聞」と、政治プロパガンダの「某新聞」の「見出し」の「罵りアイの文字」には驚いたけれど・・・ 当時、カネがあったから読める新聞は結構買った・・・「朝日の夕刊(東海人物三景?)」に「知り合いの女性」が載っていたと聞かされ、其の新聞記事を見たさに、「記事の載った夕刊」をサーヴィスしてくれるなら、と、「朝日」を購読の条件でとるコトにした・・・「朝日」からはベテランの人材が辞めだし、フリー記者に転向しだしたは何時の頃だったか・・・「読売」の販売員はナベをくれて一ヶ月無料・・・名古屋では駅の売店でしか買えないシロモノだったが・・・ 喫茶店の仕事をするようになってからは、一週間遅れの「ポスト」、「現代」の週刊誌を読むようになったのだが・・・仕事環境をくださった皆さんに感謝・・・デス・・・ 今現在はカネもないから情報はインターネットからの無料で閲覧できる各新聞社の「ニュース記事」と、ブログ記事・・・結構、読むのに時間がかかる・・・時たまコンピュータが固まってしまう時はどうしょうもナイ・・・電源を引っこ抜くより手がナイ・・・ ーー↓産経ニュ-スより抜粋添付↓ーー 「核心的価値観」を宣伝 中国、自由など12項目 2014.2.12 18:58 [中国] 中国共産党は「民主」や「自由」など12項目を「社会主義の核心的価値観」と位置付け、この価値観を根付かせる政治キャンペーンに乗り出した。12日付の党機関紙、人民日報などの主要各紙はそろって一面に12項目を掲げた。 改革・開放政策後の貧富の格差拡大などで「社会主義」の統治理念が形骸化していることに、党が危機感を抱いている表れとみられる。だが、改革派の学者からは「(12項目の)多くは指導部が拒否している西側の普遍的価値に近い思想で(核心的価値観に)実効性を持たせるのは困難だ」とキャンペーンの矛盾を指摘する声が出ている。 党が核心的価値観の基本としているのは、富強、民主、文明、和諧(調和)、自由、平等、公正、法治、愛国、勤勉、誠実、友好の12項目。(共同) ーー↑ ・・・呆れるね・・・この12項目、大陸中国の「支配階級」のどこにあるんだか・・・「非民主、非文明、不和諧(調和)、不自由、非平等、不公正、非法治、不誠実」ばかり・・・「富強、愛国(排外)、勤勉(官僚)、友好(冊封)」は、そのトオリだけれど・・・「日本国」も気をつけなきゃ・・・「大正デモクラシー」の次にナニが来たんだか・・・ニッポン・・・ ーー↓産経ニュ-スより抜粋添付↓ーー 浅田真央選手をイメージした 魚「マオマオ」 ソチ五輪にちなんだ魚たちを紹介 大阪・海遊館 2014.2.13 07:58 [westセレクト] 平成2年の開館時から… 「ブルー」は真央と同級生 ソチ五輪開催にちなみ、大阪市港区の海遊館は14日から21日まで、「オリンピックな魚たち」を映像モニターで紹介する。 紹介されるのは、金メダルの「金」にちなむ「ゴールデンスナッパー」、フィギュアスケート女子の浅田真央をイメージさせる「ブルーマオマオ」「ピンクマオマオ」の計3種。これらは普段はあまり目立たないといい、海遊館は「オリンピックを応援しながら、目立たない魚にも注目してほしい」としている。 魚「マオマオ」 ーーー↓
「真魚」 空海(クウカイ・そらうみ・あきうみ) 宝亀五年 (774年) ~ 承和二年三月二十一日・旧暦 (835年4月22日) 弘法大師(こうぼうだいし)の 諡号(921年の醍醐天皇による) 真言宗の開祖 俗名(幼名)は 佐伯 眞魚(さえき の まお) 中国より真言密教をもたらす 能書家 嵯峨天皇・橘逸勢と共に 三筆の一人 母の名は 「玉依御前」 「阿古屋御前」などと称される 正確なところは不明 空海の誕生日を 「六月十五日」とするのは、 頼瑜(1304年没)の 『真俗雑記』が初見 ーー↓ 頼瑜(1304年没)・・・・? ↓ 真福寺(宝生院の全身)の 第二世 信瑜(シンユ)の命で、・・・・? 真福寺の僧 賢瑜(ケンユ)が写本・・・・・? 上・中巻を 応安四年(1371) 下巻を 1372年に写し終え、 信瑜が校正 古漢字で書かれ、 句読点や フリガナはない 上・中・下巻の 三巻 ーー↓ 古事記(コジキ・ふることふみ) 712年(和銅五年) 太朝臣安萬侶 (おほのあそみやすまろ・太安万侶) 「現存・古事記」は写本 「伊勢本系統」と 「卜部本系統」 「現存・古事記」の最古の写本 「伊勢本系統」の 1371年 (南朝の建徳二年・北朝の応安四年) ~ 1372年 (南朝の文中元年・北朝の応安五年) 真福寺の僧 賢瑜によって 写された 真福寺本 古事記三帖(国宝) 奥書によれば、 祖本は 上・下巻が 大中臣定世本、 中巻が 藤原通雅の写本(?) 道果本 (上巻の前半のみ) 1381年 (南朝の弘和元年・北朝の永徳元年) 道祥本(上巻のみ) 1424年 (応永三十一年) 春瑜本(上巻のみ) 1426年 (応永三十三年) の写本 道果本系三本は 真福寺本に近く、ともに 伊勢本系統 その他の写本 すべて 卜部本系統に属し、 祖本は 卜部兼永自筆本 (上中下三巻・室町後期写) ーー↓↑ 偽書説 上代特殊仮名遣のなかでも、 『万葉集』『日本書紀』では すでに消失している 二種類の 「モ」の表記上の区別が、 『古事記』には残存する 偽書説を否定する論拠 ただし 序文には 上代特殊仮名遣は 一切使われていない 『古事記』以外の史書 『続日本紀・弘仁私記・日本紀竟宴和歌』などでは 「太安麻呂」と記載 『古事記』序文のみが 「太安萬侶」と異なる記載 ーー 古事記・序文 序第1段 稽古照今(古を稽へて、今に照らす) それぞれの御代の事跡は異なるが 政治についての記載にはほぼ誤りはなかった ↑ 臣安萬侶言す。 それ、混元既に凝りて、気象未だ效(あらは)れず。 名もなく為も無し。 誰れかその形を知らむ。 ↑ 臣安萬侶言 夫混元既凝 氣象未效 無名無爲 誰知其形 ・・・歩驟(ほしう)各異(おのおのこと)に、 文質同じくあらずと雖も、 古を稽(かむが)へて風猷を 既に頽れたるに縄(ただ)し、 今に照らして典教を絶えむとするに 補はずといふことなし。 ↑ 雖歩驟各異 文質不同 莫不稽古以繩風猷於既頽 照今以補典於欲絶 ・・・ここに天皇(天武)詔(の)りたまひしく 「朕(われ)聞きたまへらく、 『諸家のもたる帝紀および本辞、既に正実に違ひ、 多く虚偽を加ふ。』といへり。 今の時に当たりて、 其の失(あやまり)を改めずは、 未だ幾年をも経ずしてその旨滅びなんとす。 これすなはち、 邦家の経緯、 王化の鴻基なり。 故これ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、 偽りを削り実(まこと)を定めて、 後葉(のちのち)に流(つた)へむと欲(おも)ふ。」 とのりたまひき。 時に舎人(とねり)ありき。 姓(うぢ)は 稗田(ひえだ)、 名は 阿禮(あれ)、 年はこれ 二八。 人と為り聡明にして、 耳に度(わた)れば 口に誦(よ)み、 耳に拂(ふ)るれば 心に勒(しる)しき。 すなはち、 阿禮に勅語して 帝皇日継(すめらみことのひつぎ)及び 先代旧辞(さきつよのふること)を 誦み習はしめたまひき。 ↑ 於是天皇詔之 朕聞諸家之所 帝紀及本辭 既違正實 多加虚僞 當今之時 不改其失 未經幾年 其旨欲滅 斯乃邦家經緯 王化之鴻基焉 故惟撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉 時有 舍人 姓 稗田名阿禮 年是廿八 爲人聰明 度目誦口 拂耳勒心 即勅語阿禮 令誦習帝皇日繼 及先代舊辭 内容の区分 ・・・ここに、旧辞の誤りたがへるを惜しみ、 先紀の謬り錯(まじ)れるを正さむとして、 和銅四年九月十八日をもちて、 臣安麻呂に詔りして、 稗田阿禮の誦む所の勅語の 旧辞を撰録して献上せしむるといへれば、 謹みて詔旨(おほみこと)の随(まにま)に、 子細に採りひろひぬ。 然れども、 上古の時、 言意(ことばこころ) 並びに 朴(すなほ)にして、 文を敷き句を構ふること、 字におきて すなはち難し。 ↑ 於焉惜舊辭之誤忤 正先紀之謬錯 以和銅四年九月十八日 詔臣安萬侶 撰録 稗田阿禮所誦之勅語舊辭 以獻上者 謹隨詔旨 子細採摭然、 上古之時 言意 並 朴 敷文構句 於字即難 ・・・大抵記す所は、天地開闢より始めて、 小治田(をはりだ)の御世に訖(をは)る。 故、天御中主神 (あめのみなかぬしのかみ)以下、 日子波限建鵜草葺不合命 (ひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと)以前を 上巻となし、 神倭伊波禮毘古天皇 (かむやまといはれびこのすめらみこと)以下、 品蛇御世(ほむだのみよ)以前を 中巻となし、 大雀皇帝 おほさぎのみかど)以下、 小治田大宮 (をはりだのおほみや)以前を 下巻となし、併せて 三巻を録して、謹みて献上る。 臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。 ↑ 大抵所記者 自天地開闢始 以訖于小治田御世 故天御中主神以下 日子波限建鵜草葺不合尊以前 爲上卷 神倭伊波禮毘古天皇以下 品陀御世以前 爲中卷 大雀皇帝以下 小治田大宮以前 爲下卷 并録三卷 謹以獻上 臣安萬侶 誠惶誠恐頓首頓首 和銅五年正月二十八日 正五位 上勲 五等 太 朝臣 安萬侶 ーー↓↑ 1979年(昭和五十四年)1月に 奈良市 此瀬(このせ)町より 太安万侶の 墓誌銘が出土・・・・??? 左京四條 四坊 従四位・・・・・・・従「四=肆→罒?」位 下勲・・・・・・・・下勲→下訓→解訓 五等・・・・・・・・五等→語等 太・・・・・・・・・ふとい・タイ・タ 朝臣 安萬侶 以 癸亥年 七月 六日・・・・・・己巳? 卒 之 養老七年 十二月 十五日 乙巳・・・・・・オトミ・イツミ ↓ 『続日本紀』の記載には 養老七年 秋七月 庚午(七日)・・・?・・・コウゴ 卒 ー↓↑ 賢瑜 信瑜 ー↓↑ 真福寺 正式名称は「北野山真福寺宝生院」 真言宗の寺院 元弘三年(1333)に 現在の 羽島市の大須郷に 僧 能信が創建したのが始まり ↓ 開山(カイザン)の・・・・・・改竄 能信(ノウシン・のうしん)の 志をつぎ 古典や伊勢神道関係の書籍を書写、収集 これらは 真福寺文庫(大須文庫)とよばれる 真福寺本「古事記」は 弟子の 賢瑜に書写させ 信瑜が校訂 永徳二=弘和(コウワ)二年 八月七日 死去 五十歳 ーー 真福寺(羽島市) 1371年~翌1372年にかけて、 僧 賢瑜によって 古事記三帖が書写 ーー 1612年(慶長十七年) 徳川家康の命令で 元は、 尾張国 長岡庄 大須郷(岐阜県羽島市大須)にあったものが、 犬山城主の 成瀬正茂(隼人正)によって、 ーー↓↑ 天正十三年(1585年) 羽柴秀吉(豊臣秀吉)の攻撃で四散した 根来衆五十名を与えられ、 十七歳にして一軍の将となった この鉄砲隊が後に 根来組といわれる 百人組の部隊 天正十八年(1590年) 小田原征伐で功を挙げ、 豊臣政権に服従した 家康が関東に移封されると 下総国 葛飾郡 栗原4000石を与えられ 江戸では 四谷に屋敷を与えられて、 組下の根来組を 内藤 新宿に配置し、 甲州街道の防衛にあたった ーー↓↑ 成瀬正茂(隼人正)が 真福寺の一院である「宝生院」を 名古屋城城下に移転した際、 古事記(真福寺本古事記)や 古典籍、絵画の殆どを移動させ、 真福寺のある地名 「大須」も移動された ↓ 1892年(明治二十五年) 大須大火により 本堂、 五重塔と 仁王門を 焼失 第二次世界大戦の 名古屋大空襲によって再度焼失 後、 1870年(昭和四十五年)に 本堂を再建・・・? ーー↓ 現存古事記は 真福寺の僧 賢瑜(ケンユ)が写本・・・? ー↓ 本書の発見は 尾張藩士で 本居宣長の門人 稲葉通邦・・・・・?いなば・通報・通法 (イナバ・ミチクニ)・・・? 原本は 縦24㎝横15㎝ 紙数 上巻44枚 中巻50枚 下巻36枚 斐紙 押界巻末の糊継目に 宝生院の僧 「賢瑜書写」の記載あり ーー 真福寺 第二代 信瑜の命令によって 賢瑜が書写 賢瑜の年令から、 上、中両巻は 応安四年(1371)、 下巻は 応安五年(1372) ー 真福寺(大須観音)の 二代住職 信瑜が 修行に行った 東大寺 東南院で、 南北朝時代の 1371~72年 弟子の 賢瑜に書写させた 東南院は当時、 真言密教の中心 古事記写本は 『真福寺本・伊勢本 伊勢一本・吉田家本』その他がある 古事記上巻は 三重県の神宮文庫所蔵の 春瑜本と・・・・・・・・? ーーー以下は 橿原日記 平成24年6月28日 http://www.bell.jp/pancho/k_diary-6/2012_06_28.htm さんの記事からボクが興味があった箇所があったので参照参考抜粋させて貰った部分デス ーーー↓↑ ・・・奈良国立博物館では特別展示 「古事記の歩んだ道」が開催されている・・・ ↓ 大須観宝生院の所蔵の 古事記上巻抄 ↓ 「古事記上巻抄」 本文は『古事記』のうち、 建御雷神が 建御名方神を追って 諏訪に至り、 大国主神をして国を譲らせた一節を抄出 つぎに「諏訪社事」と題して、 同様のことを記した 「先代旧事本紀」の文を抄出し、 旧事記の最古の写といわれているもの 鎌倉末期の書写になるものと推定 古訓および朱のオコト点等を附し、 古事記古訓研究の資料としても重要 ↓ も、あわせて展示されていた 古事記上巻は三重県の神宮文庫所蔵の 春瑜本と 大須観宝生院の所蔵の 古事記上巻抄も、あわせて展示 前者は室町時代の 応永三十三年(1426)の写本、 後者は14世紀の鎌倉時代の写本 ーー↓ 弘長三年(1263) 花山院通雅『古事記』中巻を得て書写し、自ら校す 文永三年(1266) 大中臣定世、『古事記』上下巻を書写する 文永五年(1268) 卜部兼文、花山院通雅の『古事記』中巻を書写し、 校点を加える 文永七年(1270) この頃『古事記上巻抄』なる 弘安四年(1281) 一条殿、 卜部兼文からその子 兼方への 相伝の本(『古事記』中巻)を書写校合する 弘安五年(1282) 大中臣定世、一条家の『古事記』中巻を書写する ここに上中下巻完備し、 子の 定忠を経て 孫の 親忠に伝わる 応安四年(1371) 賢瑜、翌年にかけて 『古事記』三巻を書写する(真福寺本) ↓ 真福寺(宝生院の全身)の 第二世 信瑜(しんゆ)の命で、 真福寺の僧 賢瑜(けんゆ)が写した 古漢字で書かれ、 句読 点やフリガナはない 上・中・下巻 ーーー 以下はブログ記事の頭だしから抜粋改作・・・ 賢瑜(ケンユ)に類字する漢字 ー↓↑ ぎっくり腰のツボ 腎兪(ジンユ) ツボ(腎兪・ジンユ)は、 第二腰椎棘突起の下から、外に一寸五分のところ 骨盤の左右の一番高い(腸骨稜)を結んだ高さが 第四腰椎で、そこから 二つ上の第二腰椎の棘突起の下縁から外に一寸五分 ツボの取り方 腎兪は 背の中心の「命門」から 1.5寸、約3.44センチ外に寄った部 腎兪 腰痛・腰の冷え・ギックリ腰などの障害に効果 他にも 生理痛・月経不順・不妊症・切迫流産・習慣性流産 更年期障害・疲労・だるさ 腎臓の病気(腎炎、ネフローゼ、尿蛋白等) 疲労・耳鳴り・ 腎兪穴(ジンユケツ) 足の 太陽膀胱経に属す 第23番目の経穴 特に腰痛に改善効果のツボ 腎兪 腎臓に関係するツボ 婦人科系の症状に効果的なツボ ホルモンバランスや 自律神経を調整 女性特有の 「生理不順・生理通・尿失禁・不妊」 男性ならば「ED(インポテンツ」にも・・・ ーー↓産経ニュ-スより抜粋添付↓ーー 「影の銀行」デフォルトか、 中国49億円分償還されず 2014.2.13 00:24 [海外経済] 【上海=河崎真澄】 12日付の中国紙、上海証券報によると、吉林省の信託会社が大手行の中国建設銀行を通じ、国内の個人投資家らに販売した金融商品のうち2億8900万元(約49億円)分が満期に償還されなかったことが分かった。 高利回りをうたった「影の銀行(シャドーバンキング)」の中心である「理財商品」で、何らかの救済措置が取られなければ、初のデフォルト(債務不履行)に陥る可能性もある。 償還できなかったのは吉林省信託が組成し、山西省の石炭会社に投資した金融商品「松花江」の一部で、7日に満期を迎えた。商品の総額は満期が来ていない分も含め9億7300万元。石炭会社は経営難で自力での償還は困難な情勢だ。 中国では1月末に、30億元規模の理財商品がデフォルトに陥りかけたケースがあったが、中国当局の指示とみられる正体不明の投資家が現れて元本が保証された。今回の吉林省信託もデフォルト回避のための救済策を探しているという。 中国では4兆元分の理財商品が年内に満期を迎えるが、このうち約5千億元分に償還のめどが立たないとの見方がある。投資家保護を名目にデフォルト懸念の金融商品を、当局などがどこまで救済し続けるかは不透明。市場関係者は「デフォルト問題で負の連鎖が起きる危険性がある」として、警戒を強めている。
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