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石棺チョルノービリ(チェルノブイリ)はカミのハコ

2022/3/3・木曜日・・・追加添加文・・・

ウクライナ(Ukraine)=烏克蘭・宇克蘭

キエフ(Kyiv)州=「吉和」=吉倭・吉輪・吉環・吉窪・吉話・吉佗

          キチワ=「⋃=ワ」?・・・Ukraine?

          「⋃=ワ」=数学、集合族の和集合、合併集合

                   合併(union=⋃ M ≡ ⋃ λ ∈ Λ M λ)

                   AB  

        =「青地林宗」

          が訳した地誌『輿地誌略』

         青地 林宗(あおち りんそう)

         安永四年(1775年)

         ~

         天保四年二月二十二日(1833年4月11日)

             仁 念 貳  阡捌陌參拾参肆拾壹(壱)

             年=ネン=歳=サイ=差異

             月=ゲツ=解通

             日=ジツ・ニチ・ひ=比・非・卑・被・秘・斐

         蘭学者

         名  盈(エイ・みちる)・・・盈盈・盈虧・盈虚・盈月・盈満?

         字  子遠

         通称 林宗(リンソウ)

         号  芳滸(ホウコ)

         伊予松山藩出身

         父 松山藩医

         青地 快庵

         漢方医


         娘 五人

         長女「粂」の夫は坪井信道

         次女「三千子」の夫は伊東玄晁

         三女「秀子」の夫は川本幸民

         四女「宮子」の夫は高野長英

         宮子は結婚後半年目

         嘉永二年四月七日

        (1849年4月29日)、32歳早世

         五女「信子」は

         十一歳で病没

         ↓↑

        「青地林宗」

         20歳

         江戸幕府

         通詞

        「馬場 佐十郎」に弟子入り

         天文学、蘭語を学ぶ

        「杉田 立卿」の私塾・天真楼

        「宇田川 玄真」の私塾・風雲堂

         に学ぶ

         26歳

         父、「快庵」死亡

         松山藩医の家を継ぐ為一時帰郷

         5年間松山藩医

         職を辞し遊学

         47歳

         幕府の招聘を受け

         天文台訳員

         蘭書(西洋学術書)の翻訳に従事         

        「ゴローニン」の

        『日本幽囚記』翻訳

         ↓↑

         1811年(文化八年)

         千島列島を測量中の

         ロシアの軍艦

         ディアナ号艦長

        「ヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴロヴニン」

            1776年4月19日

               ~

            1831年7月11日

               コレラで死去。55歳没

         ↓↑

       国後島で

         幕府役人調役

        「奈佐瀬 左衛門」

         に捕縛、箱館で幽閉

         幽閉中に間宮林蔵に会見

         村上貞助

         上原熊次郎

         にロシア語を教えた

         1813年

         ディアナ号副艦長

         ピョートル・リコルド

         により、ロシア側が捕らえた

        「高田屋嘉兵衛」

         らの日本人と交換解放

        「ゴローニン事件」

         ↓↑

         後

        「青地林宗」は

         水戸藩主

         徳川斉昭に召し抱えられた

         天保四年二月二十二日(1833年4月11日)

         死去、享年59

         大正四年(1915年)

         従五位追贈

         蘭学訳書が増え

         日本にない言葉を訳す際

         個々人で訳語、造語を懸念し

         訳語の適正化と統一を目的とした組織

        「同志會」・・・同詞・同史・同誌・道史=蝦夷史?

         を提唱

         ↓↑

        「青地林宗」の 

         主な著作

        「格物綜凡」

        「気海観瀾」(日本初の物理学書)

        「気海観瀾補数」

        「万国地志」(杉田立卿と共著)

        『輿地誌』(地誌、65巻)

        「輿地誌略」・・・・・・キエフ=吉和

        「医学集成」

        「依百乙薬性論」

        「和蘭産科全書」

        「居家備要」

        「金備輿地誌」

        「工斯牛痘編」

        「工斯貌爾觚

        「公私貌爾内科書」

        「昆斯貌觚凡例」

        「衆家経験千方」

        「製剤篇」

        「西洋奇器叢記」

        「遭厄日本紀事」

        「泰西医家書目」

        「地学示蒙」

        「内科嚢記」

        「訶倫(ほーるん)産科書」

        「奉使日本紀行」

         ↓↑

         交流者

        杉田 玄白

        伊東 玄朴

        宇田川 榕菴

        青木 周弼

        坪井 信道

        高橋 景保

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キエフ(Kyiv)州=「計由」表記

        =「山路 諧孝」

         の重訂萬國全圖=重訂万国全図』

         明治四(1871)年

         1846 年に出版された

         ゲルマニア人の

         率(ソル)と半毒(ハンドトゲ)

         の合作図を元とし

         フランス・イギリス・オランダで

         出版された地図も参考とした記述

         安政二年版(木版筆彩)

         との主な相違点は

         地名等の訂正

         検索の便のための世界諸国の色わけ

         明治四年版(木版色刷)

        「山路 諧孝」

          安永六年(1777年)

          ~

          文久元年5月30日(1861年7月7日)

          幕府天文方

          通称 弥左衛門

             山路 徳風の子


          文化六年(1809年)八月

          暦作測量御用手伝

          文化七年(1810年)

          天文方

          文政十二年(1829年)

        「高橋 景保」

         の

        「シーボルト事件」による失脚後

        「蕃書和解御用」を引き継ぎ

        「蕃書調所」が「天文方」から分離独立

         天保八年(1837年)

         寒暖計製作

         天保九年(1838年)

         オランダの天文学者

         ペイポ・ステインストラの著

        『天文学の原理』(1771年)を

         9年の歳月をかけて

         翻訳し

        『西暦新編』を完成

         弘化三年(1846年)

         嫡男の

        「山路 彰常」も天文方に任じられた

        「渋川景佑」と

        『寛政暦書』の編纂や天保暦改暦

         嘉永二年(1849年)

         鉄砲奉行・箪笥奉行を兼務

         安政元年(1854年)

         品川で望遠鏡の実験で

         眺望図を幕府に献上

         安政五年(1859年)

         隠居

         晩年

         電信機の研究

         航海暦の編纂

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プリピャチ

 ウクライナ

 「チョルノブイリ(chornobilʹ)」

 =

 「チョールヌイ(chornyi、黒い)」

  +

 「ブイリヤ(byllia、草の葉または茎)」

 =「黒い草」

1986年4月26日午前1時23分 (UTC+3)

チェルノブイリ

原子力発電所4号炉

原子力事故



事故死亡者数、約73万4,000件

・・・参考文献のほとんどは「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」・・・

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 ・・・「毛唐(ケトウ)」・・・「毛唐人(ケトウジン)→唐人(からびと←韓人)」で、「毛色の変わった人たち」、あるいは「外国人・異国人」の異称・・・「差別用語」であるらしい・・・「モノの道理のわからない人」の「罵(ののしる)・罵倒(バトウ)」するコトバ・・・差別用語らしいが「漢人(カラビト)も筏(いかだ)浮かべて遊ぶといふ、今日そ(ぞ)、和我(わが)、背子(せこ)、花かづら、せよ(万葉集・四一五三)」が「からびと=漢人・唐人・韓人」であるらしいとは?・・・それに、  「漢人毛(からひとも)   筏(いかだ)   浮而(うかべて)   遊(あそぶ)と   いふ(云)   今日(けふ)   曽(そ・ぞ)   和我(わが)   勢故(せこ)   花縵(はなかづら)   世奈(せな)」・・・    奈と余  の「写本」があるらしいが・・・ボクが勝手にヨムなら  「蘇我(そが)=我よみかえる」  「背子(いもこ)=背(そむく・背信)の子」      妹子=小野妹子=蘇因高←素因考・訴因考  「花蔓(葛・鬘)=はなかづら・はなづる」           花鬘(南蛮王孟獲の娘)           蔓=葡萄などの             巻きヒゲ(vine・tendril)             イモなどの             巻きひげ(runner)             メガネなどの             つる・耳かけ(temple)             つる=てがかり・てづる                脈・筋             かづら(葛・蔓)=つら・つる             蔓脚類・蔓小豆・蔓蟻通             蔓牛・蔓梅擬・蔓夏枯草             蔓桔梗(つるぎキキョウ)     「まろき木にツルつけし      所所      あるものを指さして(折たく柴の記)」  ・・・それに「から人」とは、日本で  「櫛(くし・フシ)   薬(くすり・ヤク)」などを交易し   神人(じにん・シンジン)   寄人(よりうど・キジン)」となり,  「交易,海上交通に従事する   宋人(大陸中国人)が   北九州、越前の敦賀などに住みつき、   この人々も唐人(からびと・トウジン)と通称された」  とある。  熟語には・・・  「唐人笛=チャルメラ・喇叭(らっぱ)」、  「唐人髷=江戸末期から明治末ごろまで行われた       少女の髪形       髷を左右にふっくらと結い、       元結の代わりに毛で       十文字に結び留めた」  とある・・・「神人・寄人・少女の十文字の髪形」・・・  またまたハナシが拡大してトンでしまう・・・兎に角、ブログ記事で調べた結果は・・・  「天平勝宝二年(750年)、第十二次遣唐使、藤原清河を大使、吉備真備・大伴古麻呂を副使に任じられる」時代である・・・   ↓↑ ーーーーー  天平勝宝二年(750年・庚寅)  三月三日(上巳節)  「三日   守   大伴   宿祢   家持   之   舘   宴歌   三首」   ↑↓  の  一首  天平十九年(747年・丁亥)  三月三日(上巳節)の作・・・上の巳(蛇・蝮)  4153  「漢人毛(からひとも)→漢人の毛   筏(いかだ)    →異化拿・医科拿      浮而(うかべて)  →不治・藤・不時・冨士   遊(あそぶ)    →阿蘇尾   と   いふ(云)     →問い-移付・委付・異父                 医夫・医父   今日(けふ)    →化附・化符・懸符   曽(そ・ぞ)    →素・祖・措              楚・訴・遡              鼠   和        →倭・窪・羽・話   我(わが)    →我・吾・割             曽(蘇)の和の我→蘇我             曾 我   勢故(せこ)    →勢(いきお)い              の              故(ゆえ)              背子なら「背叛の子」?    花縵(はなかづら) →葉名化通覶   世奈(せな)・・・ →世の奈(なんぞ・ナ)              世の余(あまり・ヨ)       奈と余」の写本があるらしい・・・    ↓↑   藤原範兼・・・嘉承二年(1107年)           ~          永万元年(1165年6月6日)          四月二十六26日(1165年6月 6日)          公家          藤原-南家-貞嗣流          従三位大学頭          刑部卿   の  「和歌童蒙抄」・・・童は蒙の抄   で   この歌は  「罪を滅ストイヘリ。見内典。   舎衛園の   兢伽河(ガンジス河=恒河)ニ   三月三日(上巳節)   ソノ水ヲ   河ノホトリニシテ   逍遥スレバ   諸罪を滅ストイヘリ」   と注した後に、   「曲水に    そひて    さかづきを    ながすといふに、    此歌は    舟にのりて    あそびぬとよめり」  「三月三日(上巳節)   ソノ水ヲ   河ノ   ホトリニシテ   逍遥スレバ   諸罪を滅ストイヘリ」・・・    ↓↑  ガンジス河東岸の  「摩裕羅城」には  「殑伽河」の水を引く池があり、  池の水を浴びると、  「生福滅罪」  の効果があると信じられていた・・・    ↓↑  万葉集  巻十九  四一五三  漢人(からびと)も  ふね  を浮かべて  遊ぶ  とふ  今日  ぞ  吾  背子  花(はな)  蔓(かづら)  せよ  ↓↑  大伴-宿禰-家持  ↓↑  漢人(からびと)も   筏(いかだ)  浮うかべて  遊ぶ  とふ・・・・・とふ・とう  今日  そ(ぞ)  わが  背子  花蘰(はなかずら)  せよ    ↓↑  背子  (せこ)・・・?  ↓↑    兄子(えこ・ケイシ)        夫子(フシ・ゆうこ)・・・?        ↑   ↑       太夫(た-ゆう)=芸能人、 遊女に対する 称号、敬称 朝廷の五位の通称 古代この位の者が 儀式や芸能を 司ったことから 神事や 祭りの司会者 神職 古代中国の 周の小領主 晋の県の地方長官 唐の 従二品~従五品下の総称 現代中国の医者  ↓↑  背子(せこ)  女性が男性を親しんでいう語  夫や恋人をさす語  兄弟姉妹の間で  兄または弟をさす語  男同士が  互いに親しんで呼ぶ語  ↓↑  背子(ハイシ)  奈良時代  女子が礼装の際に着用した  袖のない短い上衣  後には、短い袖をつけた  唐衣(からぎぬ)の前身  唐衣(からぎぬ・トウイ)の異称  ・・・???・・・コンガラガッテしまうが・・・「からびと・ケトウ(懸問う)・南蛮・メリケン・異人・赤蝦夷・西洋人」・・・兎に角、「つる・つら」は伸びて他の木々に絡みつく・・・ ーーーーー  旧約聖書  舊約(旧約)  サムエル記=撒母耳記 第4章 4:1 イスラエルびとは出て ペリシテびとと戦おうとして、 エベネゼル・・・・ 畔(ほとり・ハン・辺)に 陣をしき、 ペリシテ・・・・・ びとは アペク・・・・・・阿部句・阿倍句?          安部矩・安倍苦?          阿陪功・安陪垢?          阿毎句          阿毎九→阿毎王朝?  に陣をしいた。 4:2 ペリシテ びとは イスラエル びとに むかって 陣備えをしたが、 戦うに及んで、 イスラエルびとは ペリシテびとの前に敗れ、 ペリシテびとは戦場において、 おおよそ 四千人を殺した。 4:3 民が陣営に退いた時、 イスラエルの長老たちは言った、 「なにゆえ、  主(あるじ・ぬし・シュ)は  今日(きょう・コンニチ・本日)、  ペリシテびとの前に  我々(われわれ・ガガ)を  敗られたのか。  シロ・・・・  へ  行って  主(あるじ・ぬし・シュ)  の  契約の箱・・・・・啓訳・敬訳・計約           景約・継約           圭訳→桂小五郎?              木戸孝允  を  ここへ  携えてくることにしよう。  そして  主(あるじ・ぬし・シュ)を  我々(われわれ・ガガ)の  うちに迎えて、  敵の手から  救っていただこう」。 4:4 そこで 民は人を シロ・・・ つかわし、 ケルビム・・・化留備務(武・夢・ム)(kelvin)  ↓     毛留尾武(蝦夷・毛人)  ↓     智天使(ヘブライ語ケルブ・ケルーブ)  ↓         複数形ケルビム・ケルービーム  ↓         ギリシャ語ケルーベイム                 ヘルヴィム)            ヘルヴィム            明治の日本語訳            ヘルワィム=ヘルウィム            経留和意務(武・夢)            第二位階級の天使            中世の絵には            車輪に乗って            翼六本と            左右に広げた            手の平が描写されている            「神の姿を見る」            「神の玉座」の意        「エゼキエル書10章21節」には        「その中には四つの生き物の姿         それは人間のようなもので、         それぞれ         四つの顔を持ち、         四つの翼をおびていた         その翼の下には人の手         その顔は         人間の顔のようであり、         右に獅子の顔、         左に牛の顔、         後ろに鷲の顔         を持っていた         かたわらには車輪があって、         車輪の中に         もうひとつの車輪があるかのようで、         生き物はどの方向にも         速やかに移動することができた         ケルビムの全身、         背中、両手、翼と車輪には、         一面に目がつけられていた」  ↓      仏教なら  ↓      「景経→密教」の  ↓      「文殊菩薩」?  ↓      「宿曜経二十八宿」  ↓      「翼宿」は         南方         「朱雀の          第六宿の翼」         「朱雀門」は         「大伴門」と呼ばれていが         714年(和銅七年)         四神、南方を守護する「朱雀門」         とした・宮廷の正門         朱雀(朱鳥)は、私年号         私年号は逸年号で         「日本書紀」に記載がない年号         天武天皇が定めた元号?         「朱鳥(686年 - 686年?」・・・?         襷星(たすきぼし)         タスキ掛けとは         「X」であり         「十」である・・・  ↓      「遠来の客」の意・・・         「まろうど・まれびと」          渡来人、伴天連、南蛮人          ↓↑         「羅紗緬(らしゃめん、羅紗綿)」は          ハリスの妾         「お吉(斎藤きち)」だが          本当は看護婦の派遣要請?          ナゼ、         「唐人お吉」なのか・・・?          原作は         「十一谷義三郎」の昭和三年の小説          ヒュースケンの妾は         「お藤」          万延元年(1860年)          港崎遊郭の羅紗緬に          外国人の妻妾になることを許可         「喜遊(亀遊)」は          港崎遊郭にあった          岩亀楼の遊女          文久二年         「露をだに いとふ 倭の女郎花          ふるアメりかに 袖はぬらさじ」          と辞世を詠んで自殺・・・?  ↓      十二宮の  ↓      「獅子宮」に一足、  ↓      「女宮」に三足属す 上に座しておられる 万軍の主(あるじ・ぬし・シュ)の 契約の箱を、 そこから携えてこさせた。 その時 エリ・・・ 二人(ふたり)の子、・・・附足(垂・他理) ホフニ・・・・補附似 ピネハス・・・捻葉諏 神の契約の箱と共に、 その所にいた。 4:5 主(あるじ・ぬし・シュ)の 契約の箱が陣営についた時、 イスラエルびとは みな 大声で叫んだので、 鳴り響いた。 4:6 ペリシテびとは、 その叫び声を聞いて言った、 「ヘブルびとの陣営の、  この  大きな叫び声は  何事か」。 そして 主(あるじ・ぬし・シュ)の箱が、 陣営に着いたことを知った時、 4:7 ペリシテびとは恐れて言った、 「神々が陣営にきたのだ」。 彼らはまた言った、 「ああ、  我々(われわれ・ガガ)は  災(わざわい・サイ)である。  このようなことは  今までなかった。 4:8  ああ、  我々(われわれ・ガガ)は  災(わざわい・サイ)である。  誰(だれ)が  我々(われわれ・ガガ)を  これらの強い神々の手から  救い出すことができようか。  これらの  神々は、  もろもろの災を  もって  エジプトびとを  荒野で撃ったのだ。 4:9  ペリシテびとよ、  勇気を出して  男らしくせよ。  ヘブルびとが  あなたがたに仕えたように、  あなたがたが  彼らに仕えることのないために、  男らしく戦え」。 4:10 こうしてペリシテびとが戦ったので、 イスラエルびとは敗れて、 おのおのその家に逃げて帰った。 戦死者は 非常(ひじょう)に 多(おお・おほ・タ)く、 イスラエルの 歩兵で倒れたものは 三万であった。 4:11 また 神の箱は 奪われ、・・・ナゼ、奪われたのか? エリ・・・・・ ふたりの子、 ホフニ・・・・ ピネハス・・・ は殺された。 4:12 その日 ひとりの ベニヤミン・・・ びと が、 衣服(イフク)を 裂(サ)き、 頭に 土を 被(かぶ)って、 戦場から走って シロ・・・・・ にきた。 4:13 彼が着いたとき、 エリ 道の 傍(かたわ)らにある 自分の座にすわって 待ちかまえていた。 その 心に 神の箱の事を 気づかって いたからである。 その人が町にはいって、 情報を 伝(つたえ・デン)たので、 町は 挙(こぞ)って 叫んだ。 4:14 エリ・・・ その叫び声を聞いて言った、 「この騒ぎ声は何か」。 その人は急いで エリ・・・ の所へきてエリに告げた。 4:15 その時 エリ・・・ 九十八歳・・・・98・九拾八 で、 その目は 固(かた・コ)まって 見ることができなかった。・・・盲目 4:16 その人はエリに言った、 「わたしは戦場からきたものです。  今日(きょう・コンニチ・本日)  戦場から  逃(のがれ)たのです」。 エリは言った、 「わが子よ、  様子はどうであったか」。 4:17 しらせ もたらした その人は答えて言った、 「イスラエルびとは、  ペリシテびとの前から逃げ、  民のうちには  また  多くの戦死者があり、  あなたの  ふたりの子、  ホフニ  と  ピネハス  も死に、  神の箱は  奪われました」。 4:18 彼が 神の箱のことを言ったとき、 エリはその座から、 仰向(あおむけ)に 門(かど・モン)の かたわらに落ち、 首を折って死んだ。 老いて 身が 重かった からである。・・・太っていた? 彼の イスラエルを さばいたのは 四十年・・・・・・四拾・肆拾・肆足          ヨムジュウ=読む重 であった。 4:19 彼の嫁、 ピネハスの妻は 身篭(みごも・妊娠・孕)って 出産の時が近づいていたが、 神の箱が奪われたこと、 舅(しゅう)と 夫(おっと・フ)が 死んだという しらせを聞いたとき、 陣痛が起り 身を 屈(かがめ・加賀目・クツ)て 子(こ・シ・ね)を産んだ。 4:20 彼女が 死にかかっている時、 世話をしていた女が 彼女に言った、 「恐れることはありません。  男の子が生れました」。  しかし  彼女は答えもせず、  また  顧みもしなかった。 4:21 ただ彼女は 「栄光はイスラエルを去った」  と言って、 その子を イカボデ・・・・イカボデ(栄光なし)         異化簿出         医科簿出         以下模出 名づけた。 これは 神の箱の奪われたこと、 また 彼女の 舅(しゅうと) ことによるのである。 4:22 彼女はまた、 「栄光はイスラエルを去った。  神の箱が奪われたからです」  と言った。  ↓ 第5章 5:1 ペリシテびとは 神の箱を 分捕(ぶんど)って、・・・文採って エベネゼル・・・・・・・・重部音是留 から アシドド・・・・・・・・・蘆土度              足度努 に運んできた。 5:2 そして ペリシテびとは その神の箱を取って ダゴン・・・・・・・・・・拿言・妥言・隋言 の宮に運びこみ、 ダゴン・・・・・・・・・・ 傍(かたわら・側・ボウ)に置いた。 5:3 アシドド・・・ 人々が、 次の日、 早く起きて見ると、 ダゴンが 主(あるじ・ぬし・シュ)の 箱の前に、 俯(うつむ)き 地に倒れていたので、 彼らは ダゴン を起して、 それをもとの所に置いた。 5:4 その 次の朝 また 早く起きて見ると、 ダゴン また、 主(あるじ・ぬし・シュ)の 箱の前に、 うつむきに地に倒れていた。 そして ダゴン 両手 とは 切れて離れ、 敷居(しきい) の上にあり、 ダゴン・・・ ただ 胴体(ドウタイ) だけとなっていた。 5:5 それゆえ ダゴンの祭司たちや ダゴンの宮にはいる人々は、 誰(だれ)も 今日にいたるまで、 アシドド ダゴン 敷居(しきい)を 踏まない。 5:6 そして 主(あるじ・ぬし・シュ)の手は アシドド びと 上に きびしく臨み、 主(あるじ・ぬし・シュ)は 腫物(はれもの・シュブツ) もって アシドド その 領域の人々を恐れさせ、 また 悩まされた。 5:7 アシドドの人々は、 このありさまを見て言った、 「イスラエルの神の箱を、  我々(われわれ・ガガ)の所に、  とどめ置いてはならない。  その神の手が、  我々(われわれ・ガガ)と、  我々(われわれ・ガガ)の神  ダゴンの上に  厳(きびし・ゲン)く  臨(のぞ・リン)むからである」。 5:8 そこで彼らは人をつかわして、 ペリシテびとの 君たちを集めて言った、 「イスラエルの  神の箱をどうしましょう」。 彼らは言った、 「イスラエルの  神の箱は  ガテ  に移そう」。 人々は イスラエルの神の箱をそこに移した。 5:9 彼らがそれを移すと、 主(あるじ・ぬし・シュ)の 手がその町に臨み、 非常な騒ぎが起った。 そして 老若を問わず 町の人々を撃たれたので、 彼らの身に 腫物ができた。 5:10 そこで 人々は神の箱を エクロン・・・重句論 送ったが、 神の箱が エクロンに着いた時、 エクロンの人々は叫んで言った、 「彼らが  イスラエルの神の箱を  我々(われわれ・ガガ)の所に移したのは、  我々(われわれ・ガガ)と  民を滅ぼすためである」。 5:11 そこで彼らは人をつかわして、 ペリシテびとの君たちをみな集めて言った、 「イスラエルの神の箱を送り出して、  もとの所に返し、  我々(われわれ・ガガ)と民を  滅ぼすことのないようにしよう」。  恐ろしい騒ぎが町中に起っていたからである。  そこには  神の手が  非常に  きびしく  臨んでいたので、 5:12 死なない人は 腫物 もって撃たれ、 町の叫びは 天に達した。  ↓ 第6章 6:1 主(あるじ・ぬし・シュ)の箱は 七か月の間 ペリシテびとの地にあった。 6:2 ペリシテびとは、 祭司 占い師 を呼んで言った、 「イスラエルの神の箱を  どうしましょうか。  どのようにして、  それを  もとの所へ  送り返せばよいか  告げてください」。 6:3 彼らは言った、 「イスラエルの  神の箱を送り返す時には、  それを  むなしく  返してはならない。  必ず彼に  とが  の  供え物をもって  償いをしなければならない。  そうすれば、  あなたがたは  いやされ、  また  彼の手が  なぜ  あなたがたを  離れないかを  知ることができるであろう」。 6:4 人々は言った、 「我々(われわれ・ガガ)が  償う  とが  の  供え物には  何をしましょうか」。 彼らは答えた、 「ペリシテびとの  君たちの数にしたがって、  金の  腫物・・・・?・・・天然痘  五つと  金の  ねずみ(鼠)?・・コレラ(cholera)            虎列剌・虎烈刺・虎狼狸            漠瀉・暴瀉(潟)            ペスト            癙=疒+鼠  五つ  である。  あなたがた  すべてと、  君たちに臨んだ  災は  一つだからである。 6:5  それゆえ、  あなたがたの  腫物  の像と、  地を  荒す  ねずみ・・・・・・・移鼠(イス)=イエス            音図視  の像  を造り、  イスラエルの神に  栄光を帰するならば、  多分(たぶん)  彼は、  あなたがた、  および  あなたがたの神々と、  あなたがたの地に、  その手を加えることを  軽(かる・ケイ・キン)く  されるであろう。 6:6  なにゆえ、  あなたがたは  エジプトびと  と  パロがその心を  かたくなにしたように、  自分の心を  かたくなにするのか。  神が彼らを悩ましたので、  彼らは民を行かせ、  民は去ったではないか。 6:7  それゆえ今、  新しい車  一両を造り、  まだ  頸木(くびき)  を付けたことのない  乳牛  二頭をとり、  その  牛を車につなぎ、  そのおのおのの  子牛を  乳牛から  離して  家に連れ帰り、・・・・種痘治療法? 6:8  主(あるじ・ぬし・シュ)の  箱をとって、  それを  その車に載せ、  あなたがたが  とが  の供え物として  彼に償う  金の作り物を  一つの箱におさめて  その  かたわらに置き、  それを  送って去らせなさい。 6:9  そして  見ていて、  それが自分の領地へ行く道を、  ベテシメシ  へ上るならば、  この大いなる災を、  我々(われわれ・ガガ)に  下したのは  彼である。  しかし、  そうしない時は、  我々(われわれ・ガガ)を撃ったのは  彼の手ではなく、  その事の  偶然・・・・・?  であったことを  知るであろう」。 6:10 人々はそのようにした。 すなわち、 彼らは 二頭の 乳牛をとって、 これを 車につなぎ、 そのおのおのの 子牛を家に閉じこめ、 6:11 主(あるじ・ぬし・シュ)の箱、 および 金のねずみ と、 腫物の像 おさめた箱とを 車に載せた。 6:12 すると 雌牛は まっすぐに ベテシメシ の方向へ、 ひとすじ 大路を歩み、 鳴きながら 進んでいって、 右にも 左にも 曲らなかった。 ペリシテびとの 君たちは、 ベテシメシ・・・経出示し(詞目史) 境まで その後(あと・ゴ)に ついていった。 6:13 時に ベテシメシ の人々は 谷で小麦を刈り入れていたが、 目をあげて、 その箱を見、 それを迎えて喜んだ。 6:14 車は ベテシメシびと ヨシュア 畑にはいって、 そこにとどまった。 その所に 大きな石があった。・・・・大石蔵之助は              赤穂(あこう)の              浪人 人々は 車の木を割り、 その 雌牛を 燔祭 として 主(あるじ・ぬし・シュ)に ささげた。 6:15 レビびとは 主(あるじ・ぬし・シュ)の箱と、 その かたわらの、 金の作り物を おさめた箱を 取りおろし、 それを 大石の上に置いた。 そして ベテシメシ の人々は、 その日、 主(あるじ・ぬし・シュ)に 燔祭を供え、 犠牲をささげた。 6:16 ペリシテびとの 五人の君たちは これを見て、 その日、 エクロン・・・重句論 に帰った。 6:17 ペリシテびとが、 とが 供え物として、 主(あるじ・ぬし・シュ)に 償いをした 金の腫物は、 次のとおりである。 すなわち アシドド ために一つ、 ガザ・・・・ ために一つ、 アシケロン・・・葦毛論→項羽の馬の論 ために一つ、 ガテ・・・・・・臥出 ために一つ、 エクロン・・・・ ために一つであった。 6:18 また 金のねずみは、 城壁を めぐらした町から 城壁のない村里にいたるまで、 すべて 五人の君たちに属する ペリシテびとの 町の数にしたがって造った。 主(あるじ・ぬし・シュ)の箱を おろした所の かたわらに あった 大石は、 今日にいたるまで、 ベテシメシびと ヨシュアの畑にあって、 あかしとなっている。 6:19 ベテシメシの人々で 主(あるじ・ぬし・シュ)の 箱の中を見たものがあったので、 主(あるじ・ぬし・シュ)は これを撃たれた。 すなわち 民のうち 七十人 を撃たれた。 主(あるじ・ぬし・シュ)が 民を撃って 多くの者を 殺されたので、 民は 嘆(なげ・歎・タン)き 悲しんだ。 6:20 ベテシメシの人々は言った、 「誰(だれ)が、  この聖なる神、  主(あるじ・ぬし・シュ)の  前に立つことができようか。  主(あるじ・ぬし・シュ)は  我々(われわれ・ガガ)を  離れて  誰(だれ)の所へ  上って行かれたらよいのか」。 6:21 そして彼らは、 使者を キリアテ・・・・記理当て ヤリム・・・・・遣り務 人々につかわして言った、 「ペリシテびとが  主(あるじ・ぬし・シュ)の  箱を返したから、  下ってきて、  それを  あなたがたの所へ  携え上ってください」。 ーーーーー  ・・・

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