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脳ミソの臨界点

2023/1/14・土曜日・・・追加添文・・・

干支暦の「60干支」の決定・・・

年始は寅月の節入り日から始まる・・・

 月の十二支

 X月甲寅朔(X月の1日=朔は甲寅の日)

ーーーーー

 神武 元年  1月   1日   0~ 1~3時前 3~5時前

    辛酉 ・庚寅 ・庚辰 ・丙子・丁丑  ・戊寅~

    年干支 月干支 日干支 時干支

 紀元前660年2月11日(グレゴリオ暦)

 紀元前660年2月18日(ユリウス 暦)・ユリウス日=1480407

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 月の十二支

 X月甲寅朔(X月の1日=朔は甲寅の日)

  月の干支の決定     時間の決定

  年の干         日の干

    甲 乙 丙 丁 戊⇔甲 乙 丙 丁 戊

    己 庚 辛 壬 癸⇔己 庚 辛 壬 癸

    年 年 年 年 年 日 日 日 日 日

    ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓ ↓  ↓

 寅月=丙 戊 庚 壬 甲⇔丙 戊 庚 壬 甲=寅時干

 干  寅 寅 寅 寅 寅⇔寅 寅 寅 寅 寅 午前3~5

 節入り日~

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 干支

 臨沂県(リンギケン)から出土した

 銀雀山漢墓竹簡

 および

 武帝七年(元光元年、紀元前134年)

 暦譜竹簡の例が最古・・・

 ↓↑

 太初(タイショ)

 前漢

 武帝の元号

 紀元前104年~紀元前101年

 元年夏五月に太初暦への改暦

 元封七年を太初元年とした

 太初暦で

 顓頊

 暦の十月歳首を

 正月歳首に改めた

 太初元年は

 前年の十月~十二月までの

 15月間

 存在することになった

 それに

 干支をあてはめた

 以下の4種がある

 丙子=『漢書』

 甲寅=『史記』

 丁丑=紀元前67年から

 単純に

 60年サイクルの

 逆算=戊寅=『史記』

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 紀元前221年

 干支=庚辰

 日本

 皇紀440年・・・・・・・四百四十=四百四拾

 孝霊天皇   70年・・・七拾=漆足

 中国

 秦 - 始皇  26年・・・二十六=念陸

 斉 - 斉王建 44年・・・四十四=肆拾肆=肆足肆・・・建

 ↓↑

 紀元前221年

 ローマ暦(キリスト生誕前~後退年数)・・・(-Ⅹ年)

 ↓↑

 「アシナ

  と

  ルフス

  レピドゥスが

  共和政ローマ執政官に就任した年」

 「ローマ建国紀元535年」

 「仏滅紀元=326年」

 ↓↑

 脳ミソの臨界点(固液臨界点)が存在・・・

 ↓↑

 2019-01-02 20:57:50

 古事記字源

 ・・・2019年1月1日・・・

 「戊戌・甲子・戊戌」・・

 紀元前219年(壬午・始皇二十八年)・・・


 ・・・名前の「漢字の変」・・・?・・・「田+斎(齋)?=デンサイ」or「田+齊(斉)?=デンセイ」・・・「デンサイ=傅(伝・傳)差異=典歳・゚典差違」・「デンセイ=傅(伝・傳)世・伝声」・・・「齋・斎(いつき・清める・サイ)・潔斎・斎王・斎戒沐浴・書斎」⇔「齊・斉(ひとしい・束ねる・セイ・うず=渦・へそ=臍=ヘソ=毘・毗=田+比)・均斉・一斉・斉唱」・・・「毘・毗=田+比」・・・「毘佐(ヒサ)・毘連(ヒレン)」・・・田を比べ連なる・・・「田齊(立田・たつた・たつだ・たてだ・タサイ・太齋)」・・・  「田斉(デンセイ)=戦国時代  ↓↑        紀元前386年            田氏が            姜姓呂氏の            斉(姜斉または呂斉)を滅ぼして建国            国号は斉(齊)であるが            西周・春秋時代の            呂斉と特に区別する場合に            嬀斉・・・嬀=女+為=悪賢い・キ・ギ  ↓↑        ↓↑  「嬀五姓=陳・胡・田・姚・虞」                 舜の後裔の                 嬀満=嬀滿                (本姓は嬀・胡公満)                 は                 周の建国時に                 武王によって                 陳公に封建され  ↓↑        ↓↑   胡公の諡を得た            または            田斉と呼ばれる            戦国時代中期            湣王の頃に東帝を称し            戦国七雄の一            首都は呂斉の時と同じ            臨淄(リンシ)」・・・氵+甾=くろ・くろむ  ↓↑        ↓↑    「齊国・紀元前1046年~紀元前386年   周代、春秋時代、戦国時代初頭に   山東省を中心にした国   周建国に貢献した太公望(呂尚)によって建国」・・・  「南朝の一   479年~502年   蕭道成(ショウドウセイ)が   宋の譲りを受け建国   建康(南京)が都」・・・  「北朝の一   550年~577年   高洋が   東魏の譲りを受け建国」・・・  ↓↑        ↓↑    「経済(ケイザイ)・在民救済(キュウサイ)」・・・    済=氵+斉(齊)=済む・浄水・濁りがない・清浄  「清水に魚棲まず」だが、太公望の釣り糸に針は無し・・・?  ↓↑        ↓↑    「太公望=呂尚(リョショウ)   紀元前1021~紀元前1000年頃   古代中国・周の軍師       ・斉(齊)国の始祖       ・都城  営丘   「六韜三略=虎の巻」の著者・・・   本姓は姜氏、支族は呂   姓は姜、氏は呂   字は子牙(牙)、諱は尚   別名「師尚父」   謚は太公・斉太公・姜太公     武成王(760年に唐の粛宗から追贈)   周の師=軍事長官・軍師   元は人   周に仕える以前は   殷の   帝辛 (紂王)・・・紂(チュウ)=糸+寸=糹+一+亅+丶              異体字「𩋰」              しりがい・馬や牛の尻にかける緒   に仕えていた   帝辛の悪政を嫌い立ち去り   陝西省   宝鶏の・・・・宝の鶏   釣魚台で・・・尖閣諸島⇔釣魚群島・釣魚島・釣魚台列嶼?               陝西省中の宝鶏市の位置は               内陸で海は無い               北緯34度21分 東経107度22分   太公望が釣りをしていたところ   西方の周の   西伯昌 (文王) に出会い   周の軍師として   西伯昌 (文王) の子の   発 (武王) を補佐   殷の諸侯である   方の進攻を防いだ   殷を牧野の戦いで打ち破り   軍功によって営丘(山東省淄博市臨淄区)   を中心とする   斉(齊)に封ぜられ   隣接する   莱の族長の攻撃を防いだ   彼の死後   丁公が跡を継いだ

ーー↓↑ーー  舜の後裔の  嬀満(本姓は嬀・胡公満)は  周の建国時に  武王によって  陳公に封建され  胡公の諡を得た  ↓↑  紀元前670年  陳の公子  完が  斉に亡命  ↓↑  陳氏(田氏)が成立  陳完  ↓↑  陳穉  陳湣  陳須無  陳無宇  ↓↑  田開  田乞  田恒  田盤  田白  田悼子  ↓↑  紀元前386年  田氏が正式に諸侯  ↓↑  太公 前386~前385・・・太安万侶・太閤  田剡 前384~前375・・・剡=けずる・するどい・エン・セン  桓公 前374~前357・・・桓武天皇  威王 前350~前320・・・懿徳天皇?  宣王 前319~前301・・・本居宣長  湣王 前300~前284・・・湣=氵+昬=氵+民+日              異体字「涽・㬆」・・・黄昏                ビン・ミン・ベン・メン                mixed, confused, pity  襄王 前284~前265・・・譲る・・・高野長英  王建 前265~前221・・・日本建 ーー↓↑ーー  田 横(デンオウ)・・・田(た・デン)の 横(よこしま・オウ)                他伝      横嶋・邪・王  ?~紀元前202年    干支=己亥    日本=皇紀459年=孝元天皇十三年    中国=前漢=高祖五年  戦国時代の斉王の一族  楚と漢が天下を争った時期  斉国の支配者(王)  兄 の田栄  従兄の田儋  と共に郷里の  狄県で挙兵  田儋が  斉王となった  田儋は  秦の  章邯・・・・章=立つ日の十        邯=甘(あまい・阿毎)の          邑(むら・くに・阝)  に包囲された  ↓↑  魏王  魏咎・・・魏=禾+女+鬼       咎=处+口         異体字「𧧖・䛮・皋」              ・・・皋(とが)=皐(さつき)?                瑞皐=高野長英=瑞皋         とが・とがめ・とがめる・キュウ         罪・あやまち・とがめ         咎殃(キュウオウ)・咎戒(キュウカイ)         災咎(サイキュウ)         罪咎(ザイキュウ)         天咎(テンキュウ)  を救援し敗北戦死  ↓↑  斉王建の  弟である  田假を王に立てが  田栄はそれに激怒  ↓↑  田栄も  秦の  章邯に追われたが  楚の  項梁に助けられ  田栄は  田假を攻撃し  田假は  楚に逃げた  田栄は  田儋の子の  従子の  田巿を王に立て  宰相となり  ↓↑  田横は将となって  斉を平定  ↓↑  楚の  項梁は  秦の  章邯を攻撃しようと  斉の  田栄に救援を求め  田栄は  楚が  田假を殺せば  兵を出すという条件を出したが  楚の  項梁はこれを拒否し  ↓↑  秦の  章邯に敗れて戦死  ↓↑  項梁の甥の  項羽は・・・項梁→項羽(楚)⇔劉邦(漢)  斉の  田栄を恨んだ  ↓↑  楚の  項羽が  秦の  章邯を下し  秦王を殺し  諸侯王を立てた  斉王の  田巿を  膠東王に配置換えし  項羽軍に従軍した  斉王の一族の  田都を斉王に立て  項羽に下っていた  斉王建の孫の  田安を済北王に立てた  項梁の件があった  田栄は王になれず  王になれなかった  陳余と共に  項羽を恨んだ  田栄は  陳余に兵を与えて  趙で反乱を起こさせ  田栄も斉で反乱した  田栄は  田都を  楚に追い払い  田安を殺害  従子の  田巿をも殺害し  自分が斉王となった  ↓↑  項羽は怒って  斉の  田栄を討ち破り  田栄は逃亡し  平原県の住民に殺害された  項羽は  斉の城郭を焼き  通過する所を悉く攻め滅ぼし  斉の人間は  項羽に背き  田横が斉の兵を収め  項羽に反撃  漢王の  劉邦が  項羽の  本拠の彭城を落としたので  項羽は斉との戦いをやめて反転  田横は  斉の城を取り戻し  田栄の子である甥の  田広を王に立て  宰相となって政治を決めた  ↓↑  漢の将  韓信が  趙を落とし  斉を攻めようとしていたので  斉は  歴山のそばに兵を集めて阻もうとした  漢は  説客の  酈食其を派遣して  斉との同盟を持ちかけ  田横はそれを受け  漢と停戦  しかし  韓信は  斉へ侵攻し、斉の軍を撃破  斉王の田広  と  宰相の田横  は報復として  酈食其を煮殺し  高密へ逃亡  項羽は斉を救うため  龍且  と  周蘭  を派遣したが  韓信に破れて  龍且は  灌嬰の軍勢に討たれ  周蘭は  曹参によって捕獲  斉王田広は  高密から脱出するも捕らえられ  田横は自らが斉王になったが  漢将  灌嬰に撃破されて  梁の  彭越の元へ落ち延び  斉は漢によって平定  ↓↑  高祖五年(紀元前202年)  漢王劉邦は  項羽を滅ぼし  諸侯によって皇帝に立てられ  彭越は  梁王となった  田横は殺されるのを恐れ  食客500人と共に  海上の島へ逃亡  高祖劉邦は  田横らが  斉に影響力を持っているのを憂慮し  使者を出して  罪を許すことを約束  劉邦は兄を殺された恨みのある  酈商に対して  田横に手を出そうとしたら処刑すると命じ  田横に伝えた  ↓↑  田横は  食客二人と共に劉邦の元へ向い  劉邦のいる洛陽まで30里ばかりの所で  田横は状況をかんがみ  自殺した  食客は  田横の首を劉邦に奉じた  劉邦は  食客二人を都尉に任命  田横を王の礼で葬った  食客二人は彼の墓のそばで自殺  島に残る食客500人を召し出したが  田横が死んだことを知ると  全員自殺  ↓↑・・・イスラエルの反乱・・・?       ユダヤ人は       ローマへの納税を拒否       ローマ皇帝の像の刻まれた貨幣を       不使用       反ローマの姿勢を徹底した       ゼカリア(ゼーロータイ・カナイーム)      「熱心党」の過激派が       ローマによるガリラヤ地方での       ユダヤ人殺害       ローマ総督による       エルサレム神殿からの財宝略奪などで       紀元66年       第一次の反乱       マサダにはギリシャ時代に要塞が造られ       これをヘロデ大王が奪い       要塞兼冬の宮殿として大改築      「マサダ=砦」       第一次の反乱ときは       ローマ兵の駐屯陣地       熱心党の      「シッカリ派(短刀派)」の       967名がこれを奪取して立て篭もった      紀元70年      ローマによる神殿の破壊      エルサレム鎮圧      マサダは抵抗  ↓↑  ↓↑      マサダの要塞      南北600m      東西の広いところで300mの菱形      北に三段テラス型の宮殿      西にも宮殿      貯蔵庫、ローマ式浴場、貯水装置     「シッカリ」派が占拠し     「シナゴーグ」が整備      周りは二重の城壁で取り巻いた  ↓↑  ↓↑      第一次ユダヤ戦争で      ローマに降った      ユダヤ人・・・裏切り者・・・?      反乱しなかった人々      抵抗しなかった人々           無抵抗で殺されていった人々      アウシュヴィッツ      ビルケナウナチス      ドイツの強制絶滅収容所(1940年-1945年)      では反乱を起こさなかった・・・      ナゼ・・・?      ・・・無抵抗で無慈悲に         殺されていった人々は         まだ生きていけると考えていたのか?         同じ人間が         同じ人間を殺す・・・?        「敵」の概念とはナニ?         ・・・損得利害関係で相対する生物?         ・・・怨恨を凌駕するモノ・・・         ・・・無慈悲・無字比・・・?            慈悲は無用・・・?  ↓↑  ↓↑      ユダヤ側の指揮官・・・?      ガリラヤの      ヨタパタの陥落によって      ローマ軍      ティトゥス・      フラウィウス・      ウェスパシアヌス     (Titus Flavius Vespasianus      39年12月30日~81年9月13日)      己亥(戊甲壬)比肩正財 胎⇔辛巳      丙子(壬 癸)印綬偏財 絶⇔丁酉      己亥(戊甲壬)  正財 胎⇔壬辰      ローマ帝国の皇帝(在位79年~81年)  ↓↑  ↓↑      モーツァルト 「わたしは、ただ、かんがいています」?      「じゃ、行くけれど」       歌 テレサ・ベルガンサ・バルガス        (Teresa Berganza Vargas         1935年3月16日~)・・・?         乙亥(戊甲壬)偏財正財沐浴         己卯(甲 乙)偏印正財 絶         辛卯(甲 乙)  正財 絶  ↓↑  ↓↑      フラウィウス朝      第2代の      ティトゥス皇帝の軍隊           に投降した      ヨセフスという者が      マサダ      の生き残りの話などをもとに     『ユダヤ戦記      1世紀      ユダヤ人フラウィウス・ヨセフス      によって書かれた      ユダヤ戦争の記録、全7巻』      を記録・・・  ↓↑  ↓↑     「ユダヤ人たちは      異教徒の下では暮らせないとし      誇り高い死を自ら選ぶ      陶片に名前を書いたものを籤として引き      当たった者たち      10人が      それぞれのグループの者を刺し殺した      その10人がさらに籤を引き      当たった1名が他の9人を殺し      最後にその1人が      自ら命を絶った      生きながらえたのは      7人の女性と子供だった・・・      砦の攻防後      ユダヤ人の世界各地への離散が加速  ↓↑  ↓↑      現在      イスラエル軍      夜にこのマサダの遺跡に上り      片手に銃、片手に聖書を持ち      大地に見える     「マサダは二度と陥落させない」      という     「火文字」を視る?・・・大文字焼き?     「アウシュヴィッツ・強制絶滅収容所      (1940年~1945年)」     「アウシュヴィッツ第二強制収容所」     「アシュケナジム      ユダヤ系の      ディアスポラのうち      ドイツ語圏      東欧諸国などに定住した人々、その子孫      語源は      創世記10章3節      歴代誌上1章6節     「アシュケナズ」・・阿修(羅)化名字?     (新共同訳      新改訳での表記)      口語訳で     「アシケナズ」・・・足化名事・・・?      と表記      単数形は     「アシュケナジ」・・阿修(羅)化名字? ーー↓↑ーー  劉備が  曹操に敗れ  孫権に援軍を求め  諸葛亮を派遣した  諸葛亮は  田横の最期を例に挙げて答えた・・・  孫権  「劉豫州(劉備)はどうして   曹操に仕えないのか」  諸葛亮  「田横は   斉の壮士にすぎなかったが   義を守って屈辱を受けず   まして   劉豫州は   漢王室の後裔   ・・・   どうして   曹操の下につくことができようか」  258年  諸葛誕が当時  魏を支配していた  司馬氏に対し反乱を起こし敗死した時  その手勢数百は、降伏を拒絶し  「諸葛公のため」と  従容として死んでいった  これは  田横とその食客にも比べられた・・・  戦わずして「自殺」とは  「陸軍中野学校の精神(忍者)」とは異なる・・・  だが、いずれも  「国家組織」を弄ぶ  支配階級に洗脳された「傭兵」である・・・ ーー↓↑ーー

 春秋戦国時代  戦国の七雄  七カ国-秦・斉・楚・魏・趙・韓・燕  位置     魏  燕     趙   勃   朝   秦 韓 斉 海 黄  鮮     蝦夷           海   倭・邪馬台      楚    秦(     ? - 紀元前206年)  斉(紀元前386年 - 紀元前221年)  燕(紀元前1100年- 紀元前222年)  楚(     ? - 紀元前223年)  魏(紀元前403年 - 紀元前225年)  趙(紀元前403年 - 紀元前228年)  韓(紀元前403年 - 紀元前230年)  ↓↑  春秋十二諸侯  ↓↑  魯=  斉(姜斉)=  晋=  秦=  楚=  宋=  衛=  鄭=  陳=  蔡=  曹=  燕=  呉=  ↓↑  戦国七雄  秦 楚 斉(田斉) 燕 趙 魏 韓  ↓↑  他+α  ↓↑  越 中山 杞 曾 邾 滕 唐 栄 単 沈 莱  英 六 庸 邢 古蜀 西周公 東周公  ↓  英国(エイコク)  国姓 偃姓  国都 英(安徽省       六安市       金寨県)  周代に存在した諸侯国の一

 皋陶(コウヨウ)      ・・・皐=白+=+十+=           さわ・さつき・コウ           さつき=皐月=五月           すすむ・たか           異体字          「皋=白+一+人+十」          「咎・𣽎・睾・臯・𦤗・鼛」           水辺の平らな地・岸・湖畔        「皐」はトンボ(蜻蛉)            ヤゴ(水蟣・水蠆・スイタイ)         の形象に思えるけれど・・・?   ・・・司法(裁判)をつかさどる      官吏(司空・司寇)・・・倭寇・元寇?      獬豸(カイチ・シエジー・獬廌)     『論衡(ロンコウ)』・・・後漢時代の  ↓↑  ↓↑ 王充(27年~1世紀末頃)が著した         全30巻85篇(1篇は篇名のみで散佚)        「実証主義」の立場から         自然主義論、天論、人間論、歴史観         など多岐多様を説き         非合理的な        「陰陽五行思想、災異説」などを        「迷信論として批判」・・・?        「儒学批判」は当然だが・・・        「王充の死後2世紀末に         本書が世に出た         蔡邕が         呉(蘇州)で入手         会稽太守の         王朗が同地で一本を発見」  ↓↑  ↓↑  ↓↑  ↓↑         ・・・時代によって実証出来る範囲は         五感で感知できる範囲のモノであり         広大な宇宙や微細な         原子、中性子などのモノは         それらを発見できる         電子機器の         発明を待たざるえない・・・        「王充の批判」は         五感で直接感知出来ない         モノの変化の諸機能性の         諸作用、諸反作用の        「諸反応」の         認識としての整合性の類推であった        「実証認識」はその枠内にあった・・・        「陰陽五行思想、災異説」も         また        「モノの変化の哲学」であり        その「合理性・実証性」は        観える範囲の        「類推的な科学性的認識」であった        「陰陽五行思想、災異説」は        天地人の観察を根拠にしたモノである        天=宇宙天体の存在と運行軌道の観察        地=地球上の生物、無生物の観察        人=人間社会の相互諸関係の観察        それらの見えない力の類推認識である        「神の存在」        や        「絶対者の存在」は        諸存在の        相互的作用の        動的な初源起動の認識説明の        「代名詞・比喩」であった・・・        「不思議・不可解・奇妙・不気味」        な現象は         今現在生きている        「人間の限界認識の枠内のコト」        でしかない・・・        しかも、        過去的経験と少なくても        「加減乗除」の理屈と        「時間」と「空間」と「距離」の理屈        「共通言語の操作」での事物、事象の        相互情報と相互確認での        その合理的認識理解が無ければ        その合理的知識理解が無ければ        「不思議・不可解・奇妙・不気味」は        個々人のレベルでワンサカであるだろう        「喜怒哀楽」の根源は        「自己存在」の「敵対者」と対峙し        「損得・利害」の        「綱引きの+-」で        「理性」で認識することによってのみ        理解できる・・・        「尊徳」には時間が必要だ・・・  ↓↑  ↓↑  ↓↑  ↓↑        テレパシーって、相互理解の手段か?        ・・・スマホは誤解とフェイクの道具?        smartphone(スマートフォン)        通話機能以外に        インターネット        スケジュール管理        など多機能を有した携帯電話・・・  ↓↑  ↓↑  ↓↑  ↓↑        そして        「敵対者」とは        同時に        「自問自答、自己反省の自己」であり        「自我」        「エゴ(ego)」        「セルフィッシュ(Selfish)」        「わがまま・利己的・自分本位」        である、と言うコトを        敵対、対象から得た        あるいは与えた        「イタさ」の        「自己認識」でもある        ・・・        無自覚な        「敵対、対峙者」は        相手の「寛大さ」をいいことに        わがままな        思いあがりで        to be haughty(ホーティ)        高慢な・横柄な・不遜な        have a haughty air        不遜な態度をとる        behaving in a proud unfriendly way        威張ったり        驕ったりする        「つけあがる」・・・        人間は「喜怒哀楽」の草鞋を履く        凸凹な「つけあがり」の        履歴的な生き物・・・        躓(つまづ)かねば気が付かない・・・        躓=足+質=つまずきころぶ・しくじる        異体字        「踬・胝・疐・𨂤・䠦・𨆦・𨆑・柢」        躓顚(チテン)        蹉跌        「奢る者は久しからず」        日本には「平家物語」があるが・・・        人種は問わない「奢る者は久しからず」  ↓↑  ↓↑  ↓↑  ↓↑      中國哲學書電子化計劃     「https://ctext.org/lunheng/zh」     『論衡(ロンコウ)』         ・・・『後漢書』卷四十九             王充王符仲長統列傳第39         荒唐無稽・唐突      の記録では「獬豸」      姿は大きいものは牛      小さいものはヒツジに似ている      全身には濃くて黒い体毛が覆う      頭の真ん中には長い一角を持つ      一角獣 この角を折った者は死ぬ      麒麟(キリンビールの神獣)に似る      水辺に住む      人が紛争を起すと      角を使って      理が通っていない一方を突き倒した後      そのヒトを食べる・・・      正義や公正を象徴する祥獣となった      獬豸     「豸」=足の無い虫や背中の長い獣を意味         本来は「廌」と書く     「廌」=「法治(灋治)」の「治」と同音         「法(灋)」の正字にも含まれ         中国人は         「法治」の精神を         「獬豸=カイチ」を使って表現     古代中国では法律を執行する役人が     被った帽子(法冠)に「獬豸」が飾られ    「獬豸冠(カイチカン・獬冠)と称した     清の時代の役人の着物にも     獬豸が刺繍されていた     副葬品として     カイチの工芸品を選ぶ人もいた     寺ではカイチの化身として     ヒツジを飼育  ↓↑ ↓↑     台湾で「法治」の精神的象徴、「カイチ」     朝鮮半島では    「ヘテ・ヘチ=海駝」とよばれる     羊や牛の姿ではなく     獅子形で     頭に角を持たない     文献上、朝鮮でも一角獣     造形された像は     角がなくなることが多い・・・  ↓↑ ↓↑  の後裔によって樹立  春秋時代  楚の付庸国  後  楚の成王によって滅亡  楚の  成王?は  二十六年(紀元前664年)  「六、英を滅ぼした」・・・六国・英国? ーーーーー  ↓↑  「夫れ賢聖、筆を下して文を造るに、   用意詳審なれども(意を用ひ詳しく審れども)、   尙ほ未だ盡くは實を得るべからず。   況んや倉卒に言を吐くをや、   安んぞ能く皆、是ならん。   皆は是なる能はざるに、時人難ずるを知らず。   或いは是なるも、意沉みて見難きに、   時人問ふを知らず。   賢聖の言を案ずるに、上下相ひ違ふこと多く、   其の文、前後相ひ伐つ者多し。   世の學者、知る能はざるなり」  ・・・  「專ら、文言の解釈を覚え習うばかりで、   疑問や批判を持つことを知らない」  ・・・知っていただろう・・・     批判は権力の弾圧で出来ないコトも・・・  「同時代の人は批判することを知らなかった   ・・・ことばが冗長、真意を測りがたいのに   疑問を持つことを知らなかった」  ・・・疑問を持つ以前に     知識知力、識字力を与えられなかった・・・     同時代の人の権力、権威批判はあった     ・・・同支配階級での叛乱、        クーデターである・・・ ーーーーー  ・・・???・・・


 ・・・お袋の命日、六年目・・・昭和天皇(1901年・明治34年4月29日~1989年昭和64年1月7日)の崩御の日、三十年目・・・「七草の日」ですか・・・「七草」の「雪が積もった田地」には「ナズナ(薺)」は見えず、サラサラの粉雪、眩しくキラキラと落ちてくる・・・「ナズナ(薺=艹+齊=異体字は萕=艹+文+丿+二+亅=荠=艹+文+丿+亅」?・・・「齊・儕・䶒・齎・穧・䭣・𪗉・擠・𧓉・齌・臍・齋・𪗋・櫅・霽・齍」・・・「薺=はまびし・ハマビシ科の一年草・なずな・アブラナ科の越年草・春の七草の一つ」・・・

 「本草綱目(ほんぞうこうもく)=中国の本草学史上において、分量がもっとも多く、内容がもっとも充実した薬学著作・作者は明朝の李時珍(1518年~1593年)で、1578年(万暦六年)に完成、1596年(万暦二十三年)に南京で上梓・中国では何度も版を重ねた・日本でもそれらが輸入されるとともに和刻本も長期に亙って数多く出版・それら和刻本は3系統14種類に及ぶ・慶長十二年(1607年)、林羅山が長崎で本草綱目を入手し、駿府に滞在していた徳川家康に献上・これを基に家康が本格的に本草研究を進める契機となる」・・・家康は「本草綱目」の研究者・・・ほんぞうこうもく・・・本増綱目・・・  「本草綱目の作者の李時珍は、約27年間の歳月をかけ、三回も書き直し、800種以上の文献を参考した」  「全52巻   収録薬種は1892種(374種は新収)   図版1109枚   処方11096種  (うち8000余は李時珍自身が収集、確定した)   にのぼる。   薬物ごとに   釈名(名称の考証)   集解(産地の注解)   正誤(それまでの文献における間違いを訂正)   修冶(製造方法)   気味・主治・発明   処方(民間に流布される処方を収集)   などの項目が立てられている。   なお、   第52巻には   人体の薬物利用について、   35の部位が収載されている」  ・・・by wikipedia.org/wiki/本草綱目・・・  漢字の同音・・・  「なづな=名綱=名の綱目⇔綱目=大要と細目・綱は大綱(おおづな・タイコウ)、目は網(つな)の目・物事の大要と細部・物事を分類・整理するときの大きな区分けと小さな区分け」・・・  「項目=辞典・事典・辞書・字引・字典などの見出し語」・・・  「項目=物事を、ある基準で区分けしたときの一つ一つ・資料の項目別整理・その事柄を 目的別や種類別に分類して取り上げるもの・項と目=国や地方公共団体における歳入・歳出予算の項に区分し、さらに目に区分」・・・  ↓↑  「田齊・田斉・田齋・田斎」を再検討・・・「電池・デンチ」を再検討?・・・電気モータ(Electric motor・motor・仏語moteur・独語Motor)の電源・・・電池自動車・電気自動車の時代・・・?  ↓↑  「おもてなし」の漢字は「遇(あう・グウ)」とも当て字をすると、訪問してくれた三笠の従姉が教えてくれた・・・  なるほど、「未知との遭遇」である・・・「遇=グウ=寓(宮・寓意)・隅(隅田川・隈本・隈元・大隈・逢隈)・偶(木偶・木偶の坊・偶数・偶然)・愚図」・・・デクで、グズはボクの人生カモ・・・  ↓↑  七草  せり=芹=セリ      =Water dropwort=セリ科  なずな=薺=ナズナ(ぺんぺん草)       =Shepherd's Purse=アブラナ科  ごぎょう=御形=ハハコグサ(母子草)         =Cudweed=キク科  はこべら=繁縷=コハコベ(小蘩蔞)         =chickweed=ナデシコ科  ほとけのざ=仏の座=コオニタビラコ(小鬼田平子)           =Nipplewort=キク科  すずな=菘=カブ(蕪)       =Turnip=アブラナ科  すずしろ=蘿蔔=ダイコン(大根)         =Radish=アブラナ科  タネツケバナが入っている例がある・・・  ・・・以上も以下も・・・by wikipedia.org/wiki/本草綱目・・・  ↓↑  七草の一  ナズナ(薺、学名:Capsella bursa-pastoris)  アブラナ科ナズナ属の越年草  別名  ペンペングサ(ぺんぺん草)  シャミセングサ(三味線草)  田畑や荒れ地、道端など至るところに生える  ムギ栽培の伝来と共に  日本に渡来した  史前帰化植物と考えられている・・・  名前の由来  夏になると枯れること  つまり夏無(なつな)から  撫でたいほど可愛い花の意味  撫菜(なでな)からなど、諸説・・・  「ぺんぺん」は三味線を弾く擬音語  花の下に付いている果実の形が  三味線の撥(ばち)に似ている・・・  英名のShepherd's purse  「羊飼いの財布」の意味  学名の種小名の語義も同じ・・・  ↓↑  貝原益軒は  『大和本草』で  宋の詩人  蘇軾を引用し  「『天生此物為幽人山居之為』コレ味ヨキ故也」  (大意=天は世を捨て暮らしている人の為に      ナズナを生じた」これは味が良いためである)  ↓↑  民間薬として陰干ししたのちに  煎じたり、煮詰めたり、黒焼きするなどしたものは  肝臓病・解熱・血便・血尿・下痢・高血圧・止血  生理不順・腹痛・吐血・便秘・利尿  目の充血や痛みに効き  各種薬効に優れた薬草として用いられる  ↓↑  江戸時代  旧暦四月八日に  糸で束ねて行灯の下に吊るし  虫除けのまじないにする習俗が広くあった  ↓↑  子供のおもちゃとしての利用  果実が付いた花茎を折り取り  果実の柄を持って下に引くと  柄がちぎれて  皮でぶら下がった状態になり  多数の果実をぶら下げた状態にして  花茎を持ってくるくる回す  (でんでん太鼓を鳴らすように)  と、果実が触れ合って  ちゃらちゃらと  小さな音がする  ↓↑  ぺんぺん草も生えない  荒廃した場所で  育つナズナでさえも生育しない様子から  何も残っていない状態  一切合財が残らない状態を揶揄した表現  「…が通った後はぺんぺん草も生えない」・・・ ーー↓↑ーー  α+齊(斉)  ↓↑  經世濟民(ケイセイサイミン・経世済民)  「世を經(おさ)め、民を濟(すく)う」  「経国済民」  ・・・形成催眠・形勢災民・・・?  略して  「經濟=経済=Economy」      economy=節約・倹約      practice [use] economy・倹約する      時間・労力などの無駄を省くこと      効率的な使用      economy=節約・倹約・経済・景気      動き、言葉などの簡潔さ、無駄のなさ      ikɑ́nəmi=イカーナミ           易化、蛙、波           如何、鴉、並           烏賊、鴉、那美           以下、亜、並    ⇔「商売=trade・business・commerce」  「済民」  人民の難儀を救済すること  「済」=救う、援助  「経世済民」  ・・・「大塩平八郎(中斎)」のラン・・・乱⇔覧・・・  通称は平八郎、  諱は正高、のち後素(こうそ)  字は子起  号は中斎  家紋は揚羽  ↓↑  東町奉行  跡部山城守良弼・・・跡の部の山の城の守、良い弼⇔粥?  ↓↑  紂(チュウ)=糸+寸=糹+一+亅+丶        =緒=糸+者=糸+十+一+ノ+日        =𩋰=革+糸+寸         しりがい・馬や牛の尻にかける緒  ↓↑  緒=お・いとぐち・ショ・チョ    いとぐち・物事の起こりはじめ    緒戦・由緒    すじ・つづき・つながり  ・・・「緒方洪庵」の「適塾」から福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出した・・・日本最初の病理学書『病学通論』を著し種痘を広め、天然痘の予防に尽力・・・安政五年(1858年)のコレラ流行に際しては『虎狼痢治準』と題した治療手引き書を出版し医師に配布するなど、日本医学の近代化に努めた  杉田玄白が蘭学草創の当時を回想して記し、大槻玄沢に送った手記。 上下2編  「蘭学事始」・「解体新書」解体新書. 四巻 キュルムス著 杉田玄白・前野良沢・中川淳庵・桂川甫周訳 小田野直武画 東武 須原屋市兵衛 安永三(1774)刊 五冊・原著はクルムス(J. A. Kulmus)著『解剖学表』(Anatomische Tabellen. 1732)のオランダ語    分解と組み立て・解剖と整形    ↓↑    緒=お・糸・紐・長く続くもの    由緒・由来    「糸の盛り上がった部分」    「糸を結び留めた先端」    情緒の緒・緒言         著書・著作・著者         諸々・諸人・諸国・諸君・小諸川  緒=糸+者      者=者+丶    お・いとぐち・ショ・チョ    物事のはじまり・発端・いとぐち    緒言・緒戦・緒論・端緒・由緒    ある事から引き起こされる思い    情緒・心緒・緒言・情緒  ↓↑  穉=禾+犀=稚=チ    異体字「𥠧・蕛・稺」    穉い=わかい・穉い=いとけない    おさない者・稚児・稚拙  ↓↑  湣公(ビンコウ)  中国の諸侯の諡号  湣公 (杞)  湣公 (陳)  湣公共 (宋)  湣公捷 (宋)  文公 (戦国魯) の別号  ↓↑  湣=氵+昬=氵+民+日  ↓↑異体字「涽・㬆」・・・黄昏    ビン・ミン・ベン・メン    mixed,confused,pity?  ↓↑   ↓↑    confusing(状況)     or    confused(主体)…?    That confused me    give a confused explanation    わけのわからない説明をする・・・  ↓↑   ↓↑    pity=哀れみ・同情(for・on)    It's a pity=残念だ=What a pity!    pity    恵沢・慈悲・哀れ・憐れ・憫れ・情け    惻隠・お情け・御情け・憐憫・憐愍    惻隠の情・憐情・哀憐・憫諒・愍諒    哀愍・哀憫    哀びん・哀みん・哀れみ・憐れみ    ↓↑    ・・・もう、こうなると、コジキには    「unnecessary pity=不必要な憐れみ」  ↓↑であるカナ・・・  ↓↑  聚斂=集めて収めること・収斂  ↓↑ きびしく租税を取り立てること     「聚斂之臣」=重税を厳しく徴収し            人々を苦しめる役人・官吏      ↓↑     「聚斂の臣あらんより      寧ろ盗臣あれ(礼記・大学)」     重税を取り立てて     人民を苦しめる家臣よりは     主家の財をかすめ取って     私腹を肥やす家臣のほうが     まだしも害は少ない・・・?・・・     合法で収奪するも     詐欺で収奪するも同じだが     収奪相手が異なる・・・  ↓↑  周王朝の祭器  夏・殷・周  と伝わった  九つの鼎  九つの鼎=後世の玉璽・王位の象徴  ↓↑  藺相如の「和氏の壁」・・・強国はどちらか?  「璧に瑕」はあるのか・・・「和氏(日本)の壁」  南北半島人は  人(人質)も  璧(仏像)も  返すハズがない・・・信義無用の支配階級の隣国?  ↓↑  三十五年(B.C.280)  秦の  「白起(武安君)」・・・新羅の血統の祖?  が趙軍を破った  司馬錯の  隴西(ロウセイ)=大隴山の西  の部隊  (秦の西方の地域にある   大隴山のふもとの   冀戎(キジュウ)   豲戎(カンジュウ)   氐(テイ)   羌(キョウ)  と呼ばれる異民族部隊で  蜀  を伝って  楚  の  黔中(ケンチュウ)を攻め占領  楚は  漢水以北の土地  上庸(ジョウヨウ)の土地を献上  ↓↑  三十六年(B.C.279)  秦の  「白起(武安君)」・・・新羅の血統の祖?  が楚を伐ち  鄢(エン)  蠟(トウ)  西陵(セイリョウ)  を占領・・・  ↓↑  燕の楽毅  魏、韓、趙、秦、楚  ら  斉に攻勢  ↓↑  田單(デンタン)  齊の首都  臨淄の市場の役人  ↓↑  斉を・・・・・・・李氏?  攻め落とした  燕の・・・・・・・日本?  楽毅は・・・・・・楽しく毅(つよし)・学期?  税金を安くし・・・朝鮮半島人の?  法を整備  善政を敷き  斉人たちが・・・・朝鮮一般人?  納得して  燕に仕えた・・・・大日本帝国に? ーー↓↑ーー  ・・・なんか、パロディ・・・「もじる」?  パロディ=parody・ギリシア語 παρωδια)  他の芸術作品を  揶揄や風刺、批判する目的を持って模倣した作品  あるいはその手法・・・  既成の他人の  作品、芸風、文体・韻律などの  特色を残し  全く違った内容を表現し  風刺・滑稽に作り変えた文芸作品 ーー↓↑ーー  田單(安平君)は  首都・臨淄から  安平(アンペイ)城に逃亡し  更に逃れ  即墨(ソクボク)逃げた  齊の七十城が降伏し  齊の前王の息子  法章が逃れた  莒(キョ)の街  と  即墨(ソクボク)の街が  齊国に残った  ↓↑  四頭の馬が引く戦車に  三人が乗って戦う  戦車戦で  燕の  楽毅は  齊の戦車の車輪の軸を攻撃破壊  齊軍は不利となって敗走・・・  ↓↑  齊軍の  田單(安平君)は  鉄で車軸を補強し  即墨(ソクボク)に逃亡・・・  三年間  籠(篭)城守備・・・篭=竹が立つも甲の尻尾が右に曲がる?  ↓↑  燕の  昭王が死亡  燕の新王の  恵王は  楽毅に代わりに  騎劫(キキョウ)  を  即墨(ソクボク)に派遣  楽毅は  長期戦の  処罰を恐れ  趙国に亡命・・・  ↓↑  『劓(ギ)』=鼻切りの刑  ・・・スサノオ(須佐之男)は鼻から生まれた・・・  『刖(ゲツ)』=足切りの刑  ・・・孫臏(ソンピン)=孫子がこうむった・・・  『黥(ゲイ)』=刺青刑  ・・・魏志倭人伝の「倭人の鯨身」  『挖眼(アツガン・アチガン)』=眼えぐりの刑  ・・・目から生まれた天照大御神・月読命・・・  ・・・片目、隻眼の伊達政宗、柳生十兵衛・・・  ・・・座頭市・・・  『刵(ジ)』=耳削(そ)ぎの刑  ・・・耳なし芳一(みみなしほういち)・・・平家の落ち武者     小泉八雲⇔濃い墨や句摸・・・?  ↓↑  燕は  齊の降伏兵の鼻を削ぎ城への最前列に配置  ↓↑  劓(鼻削ぎ)・剕・刖・臏(脚切り)  黥・墨(入れ墨)  腰斬刑  ↓↑  周代五刑  墨(ボク・刺青)  鼻(ギ・鼻削ぎ)  宮(キュウ・性器切除)  刖(ゲツ・足切り)  殺(サツ・死刑・斬首)  ↓↑ ↓↑  凌遅・臠割・剮・寸磔・礫(切り刻み・八つ裂き)  車裂・轘・分屍(車裂き・五牛裂き)  斬首・大辟・殊死・棄市(打ち首)  腰斬(腰切り)・剥皮(皮剥ぎ)  炮烙(銅柱焼き・格子焼き・焼鏝)  ↓↑  烹煮(釜茹で)・・・石川五右衛門  剖腹(腹裂き)  抽腸(腸引き)  射殺(射殺し)  沈河(沈め殺し・溺殺)  絞縊・絞刑(絞殺)  鴆毒(毒殺)  黥面・入墨(顔面入れ墨)  割鼻・劓(鼻そぎ)  刵(耳そぎ)  截舌(舌きり)  挖眼(眼えぐり)  断手(手切り)  断指(指切り)  刖足・剕・臏・斬趾(足切り)  宮(性器切除)  幽閉(膣閉)  枷項(首かせ)  笞杖(鞭打ち)  廷杖・敲(棒打ち)  鞭扑(鞭打ち)  人食(人食い)  獣咬(咬み殺し)  拷訊(拷問)  梟首(晒し首)  戮屍(死体を辱める)  火焚(火あぶり)  鑿顚(ノミ打ち)  断脊(脊椎切り)  活埋(生き埋め)  刷洗(ブラシかけ)  騎木驢(串刺し)  鋸割(鋸引き)  灌鉛(鉛流し込み)  又流(島流し)  贖(罰金)  烙印(焼印)  醢(塩漬け)・・・・高橋景保・大塩平八郎  腊(干し肉) ーーーーー  ・・・???・・・  田單(安平君)は  燕軍の  騎劫(キキョウ)  を策略で蹴散らし  齊国を復興させた ーーーーー  ↓↑  新齊王に  襄王(田法章)・・・父の「湣王(ビンオウ)」は  が就任      「淖歯(トウシ)」に殺害され  在位は       淖歯=楚の臣で               齊の援軍だったが            湣王(田地)を殺し            燕との間で斉の土地や財宝            を分奪  前284年~前265年  太史の敫(キョウ)の娘を  皇后(君王后)とし  太子の  建を産むが  恋愛で  昏(婚)礼・・・女+昏⇔昏・黄昏(たそがれ)  の儀式を踏まえてず嫁いだので  父親の  太史の敫(キョウ)は  娘と縁切り、家族として扱わなかった  ↓↑  「・・・   單に是れらの善が有って   王もこれを嘉する   單の善は王の善」  ↓↑  齊の王室は田氏  ↓↑  田單=安平君  は王室と同じ姓を持つ縁者・・・  ↓↑  巖下の  「珠を貫く人」は・・・玉造の技術者=元祖和人?  襄王に的確な助言  ↓↑  田單(安平君)は  貂勃(チョウボツ)を  王のもとに  任子(保証人・人質?)とした  九人の  「佞臣=ネイシン=侫臣」の・・・佞=侫⇔俀⇔倭      traitor      crafty courtier  「田單=安平君」を中傷を退け  齊王を諫め  田單(安平君)を擁護 ーーーーー  ・・・???・・・七草の日・・・  はまびし/ハマビシ科の一年草/なずな/アブラナ科の越年草  「薺=艸+齊=荠=萕」・・・  齊・儕・䶒・齎・穧・䭣・𪗉・擠  𧓉・齌・臍・齋・𪗋・櫅・霽・齍  ・・・


 本日、1/8のニュース・・・「史上最遠の天体の接近撮影に成功・雪だるま形・太陽から65億キロの史上最も遠い天体・探査機ニューホライズンズが撮影・@NatGeoMagJP・NASAの無人探査機が、撮影ナショジオ」・・・いか、ナンカ、関連があるのかな・・・  ↓↑  ・・・教育番組・・・  田中 久重(たなか ひさしげ)  寛政十一年九月十八日  (1799年10月16日)   ~  明治十四年  (1881年11月7日)  ↓↑  己未(丁 乙 己) 偏官偏財 墓⇔辛巳  甲戌(辛 丁 戊) 傷官偏印 衰⇔戊戌  癸酉(庚 辛) 印綬 病⇔乙巳 戌亥=空亡  ↓↑  発明家  「東洋のエジソン」・・・  ↓↑  トーマス・アルバ・エジソン     (Thomas Alva Edison,      トマス・アルヴァ・エディスン…富増・蛙留話鴉・重字寸?       ↓↑      1847年2月11日        ~1931年10月18日)      丁未(丁 乙 己)比肩比肩 冠帯⇔辛未      壬寅(戊 丙 甲)正官傷官 死⇔戊戌      丁丑(癸 辛 己)  偏官 墓⇔丙午       申酉=空亡  ↓↑  「からくり儀右衛門」  と呼ばれた  芝浦製作所(東芝の重電部門)の創業者 ーー↓↑ーー  筑後国  久留米(福岡県-久留米市)の  鼈甲細工師・・・鼈甲=「べっこう=別項・別稿」細工の詞?  田中弥右衛門の長男  幼名は  儀右衛門  嘉永六年(1853年)  佐野常民・・・・常の民  の薦めで  蘭学狂いの  鍋島直正・・・鍋(なべ・名部)の揣摩(しま)         金+咼(冎+口)     縞(糸+高)・志麻         咼(よこしま・くちがゆがむ・カ・カイ)            「冎=字形に穴にはまりこむ関節の骨」           簡体字「呙」           異体字「剮・和・喎」・・・和?・・・なごむ           咼、渦、過、鍋、禍、堝、蝸、窩           窩=あな・あなぐら・カ(クヮ)・ワ             腋窩(エキカ・エキワ)             眼窩(ガンカ・ガンワ)             蜂窩(ホウカ)             窩主(けいず)買い=盗品と知りながら             売買すること・その商人             故買(コバイ)・系図買い         直(すぐ・ただち)正(ただせ)  が治める  肥前国  佐賀藩の・・・嵯峨・性・差雅・・・相模・佐上  精煉方に着任  日本初の  蒸気機関車  蒸気船の模型を製造  反射炉の設計  大砲製造  元治元年(1864年)  佐賀から久留米に帰り  久留米藩の  軍艦購入  銃砲の鋳造に携わった  ↓↑  跡部 良弼  (あとべ よしすけ)  寛政十一年十月二十一日(1799年11月18日)  ~  明治元年十二月二十日(1869年2月1日)  ↓↑  己未(丁 乙 己)傷官印綬  衰⇔戊辰  乙亥(戊 甲 壬)印綬偏印  絶⇔乙丑  丙午(丙   丁)  劫財 帝旺⇔癸亥   寅卯=空亡  ↓↑  旗本、幕臣  肥前  唐津藩主  水野忠光  の六男・・・666  老中  水野忠邦の実弟  通称は季十郎・大膳  官位は従五位下  山城守、信濃守、能登守  甲斐守、伊賀守、遠江守  に遷任した  ↓↑  大塩の乱  (天保八年二月十九日・1837年3月25日)で  責任を問われることはなく  後は  大目付を経て  勘定奉行に栄進  勘定奉行在任中の  天保十三年(1842年)  翌年に予定された  十二代将軍  徳川家慶の  日光東照宮  謝参準備のため日光に赴く途中  下総  古河の宿場本陣に宿を取ったが  幕府の威光を盾(傘)に  参勤交代で  既に同宿場の本陣に入っていた  陸奥  仙台藩主  伊達慶邦  を強制的に退去させ  後日  伊達侯から幕府に強硬な抗議  ↓↑  天保の改革  (1830年~1843年)  天保九年  農村復興を目的とした  人返令  奢侈禁止を諮問  天保十二年  (1841年)  大御所  十一代将軍・・・11・十一・拾壱・足壱?  徳川家斉・・・家の斉(齊・斎・齋)?  が死去  ↓↑  五月十五日  十二代将軍  徳川家慶は  享保・寛政の改革の趣意に基づく  幕政改革の上意  水野は幕府各所に  綱紀粛正と奢侈禁止を命じた  ↓↑  水野 忠邦(於莵五郎)の側近  寛政六年六月二十三日  (1794年7月19日)  ~  嘉永四年二月十日  (1851年3月12日)  甲寅(戊 丙 甲)偏官偏印 長生⇔辛亥  辛未(丁 乙 己)傷官劫財  衰⇔辛卯  戊寅(戊 丙 甲)  偏印 長生⇔丁卯   申酉=空亡  ↓↑  鳥居 耀蔵が町奉行  寛政八年十一月二十四日  (1796年12月22日)  ~  明治六年  (1873年10月3日)  丙辰(乙 癸 戊)傷官正財 冠帯⇔癸酉  庚子(壬  癸)正官偏印  病⇔辛酉  乙丑(癸 辛 己)  偏財   衰⇔戊子   戌亥=空亡  ↓↑  徳川家斉の側近  別名 忠耀(諱)・胖庵(号)  蝮の耀蔵、妖怪(渾名)    ・・・天保十四年閏九月十四日       水野は老中職を罷免されて失脚       諸改革は中止  ↓↑  跡部 良弼は  兄の  水野忠邦が失脚後も  政治的命脈を保ち続け  兄が重用した  鳥居耀蔵と  そりが合わず  個人的に  鳥居と敵対していたために  失脚は免れた・・・?  ↓↑  氐宿(テイシュウ・テイシュク)     ともぼし     二十八宿の一     東方青龍七宿の第三宿     距星はてんびん座α星     星官(星座)の氐は     天秤(てんびん)座     α星、ι星、γ星、β星の4つの星で構成     氐=Root=天の根・青龍の胸及び前足  ↓↑  氐=氏(人が前にかがまる)+一(下の面)    氏+一    人が身をかがめて地面に手を触れること?  ・・・氏の一(はじめ)?  氐族=中国の民族の一・チベット系     氐・低・底・抵・邸・岻・砥⇔氐=土台・基礎?  氏(シ)=薄い刃物?       祖先を同じくする同族集団・・・氏⇔民=冖+氏                      氏=ノ+𠄌+弋(一乀)       同一血族の系統  氐=氏+一    人が身をかがめて地面に手を触れること?    平伏している様・・・?  氒=氏+十=ね・ケツ・カチ    ・・・氏の十族?   =橛(杭)・・・棒状の歩行用のステッキ・・・?    厥=その・それ・まがる・まげる・ぬかずく      厥角・屈      ・・・「蕨=わらび・和良比」なら          薇(ぜんまい)・・・          発条(ぜんまい)で          巻貝・ヤドカリの貝・蝸牛(かたつむり)         「蝦=海老=えび=蛯は国字」・・・蝦夷.      中国北方の異民族の名「突厥(トッケツ・トックツ)」      石を発掘する・ほる・つくす      つきる(素問・陰陽離合論)      陰根厥き、火敦起きる      病名。のぼせ(素問・六節蔵象論)      足凝り      くぼみ(窪)にひっかかる ーーーーー  ↓↑  緒方 洪庵  文化七年七月十四日  (1810年8月13日)   ~  文久三年六月十日  (1863年7月25日)  足守藩士・・・足(たり)の守(かみ)の藩(ハン)の士(シ)  医師、蘭学者  大坂に適塾(大阪大学)を開校  天然痘・・・天然=自然  治療に貢献  幼名は騂之助(せいのすけ)  諱は惟章(これあき)・章(あきら)  字は公裁  号を洪庵・適々斎・華陰  弟子から  「メース(オランダ語meester=先生」  と呼ばれた  ↓↑  豊後国の豪族  豊後  佐伯(さえき)氏・・・佐=人+ナ+工             伯=人+白・・・新羅系渡来人  の流れをくむ・・・佐伯氏=弘法大師・空海・眞魚               蝦夷族の監督官?  備中  佐伯氏  の一族  備中国  足守藩(岡山市北部)士・・・足(たり)の守?  佐伯惟因  (瀬左衛門)の三男  母は  石原光詮  の娘・「きょう」  備中  佐伯氏は  佐伯惟寛  (惟定の弟)  ↓↑・・・兄弟=緒方惟照、惟定、惟寛  ↓↑   子=惟重、女子(藤堂元則室)       佐伯惟定(さえき これさだ)       安土桃山時代~江戸時代前期       戦国武将       豊後-佐伯氏-第十四代当主       豊後国-海部郡       栂牟礼城主  ↓↑    津藩重臣       豊後佐伯=栂牟礼城主の佐伯惟教の末裔       佐伯惟教は       大友宗麟の武将で      「耳川合戦」で討死・・・耳の川・・・字選合選?       嫡子の佐伯惟定は       島津軍から       栂牟礼城(とがむれじょう)を死守し・・・木母厶牛礼           大分県佐伯市弥生(旧南海部郡弥生町)大字井崎上小倉       豊臣秀吉から感状を下された       大友義統が       朝鮮役の       敵前逃亡で       改易され       佐伯惟定も領地を失い  ↓↑    藤堂高虎の客将となった・・・  の末裔・・・  八歳のとき  天然痘にかかった・・・天(典・点・転・伝・田)念  ↓↑  文政八年(1825年)二月五日  元服し  田上惟章と名乗る・・・田の上(かみ)の惟の章             田齋・田齊の文章・・・?  十月         惟神道=カンナガラのミチ  大坂蔵屋敷  留守居役となった父と共に大坂に出る  ↓↑  文政九年(1826年)七月  中天游の私塾  「思々斎塾」・・・思々の斎(齋・斉・齊)・・・差異?  に入門  緒方三平と名乗り(のちに判平と改める)  以後は  緒方を名字とする?・・・名字の選択の根拠はナニ?・緒方さん  四年間、蘭学、特に医学を学ぶ  ↓↑  天保二年(1831年)  江戸へ出て  坪井信道に学び  宇田川玄真にも学んだ  ↓↑  天保七年(1836年)  長崎へ遊学し  オランダ人医師  ニーマン  のもとで医学を学ぶ  緒方洪庵・・・洪水の庵=いおり=廬・伊織・夷織  と号した・・・  ↓↑  天保九年(1838年)春  大坂に帰り  瓦町(大阪市中央区瓦町)で医業を開業  同時に  蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開く  天游門下の先輩  億川百記  の娘・八重と結婚  のち六男七女をもうける  ↓↑  弘化二年(1845年)  過書町(大阪市中央区北浜三丁目)  の商家を購入し  適塾を移転  ↓↑  嘉永二年十一月七日(1849年12月21日)  6日前に  京に赴き  佐賀藩が輸入した種痘を得  古手町(大阪市中央区道修町)に  「除痘館」を開き  牛痘種痘法  による切痘を始める  ↓↑  嘉永三年(1850年)  足守藩の要請で  「足守除痘館」を開き切痘を施した  関東から九州までの  186箇所の分苗所を維持し治療  ↓↑  安政五年四月二十四日(1858年6月5日)  洪庵の天然痘予防の活動を  幕府が公認し牛痘種痘を免許制とした  ↓↑  文久二年(1862年)  幕府の要請で  奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕  歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け  手塚良仙  ら七名を推薦  十二月二十六日  「法眼」に叙  ↓↑  文久三年六月十一日(1863年7月25日)  江戸の医学所頭取役宅で喀血、窒息で死去  享年五十四  ↓↑  明治四十二年(1909年)6月8日  贈従四位  ↓↑  適塾  福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎  長与専斎、佐野常民、高松凌雲  などを輩出  病理学書  『病学通論』を著作  安政五年(1858年)  コレラ(虎列剌)     ・・・虎列剌=高熱・下痢・嘔吐などを伴い            死に至ることもある・コロリ(虎狼痢)  流行で  『虎狼痢治準』  と題した治療手引き書を出版  息子たちにはまず漢学を学ばせた  万延元年(1860年)  門人の  箕作秋坪  から  英蘭辞書二冊を購入  英語学習を開始  福澤諭吉が適塾に入塾し  腸チフスを患った時  中津藩大坂蔵屋敷で療養していた彼を  診察、看病し治癒  洪庵は  西洋医学の治療と同時に  漢方処方をした  江戸で  将軍  徳川家茂の侍医  洪庵は  護身用ピストル(拳銃・短銃・短筒)を購入所持  ↓↑   妻の八重の甥は  紙幣製造に貢献した化学者の  岸本一郎(1849~1878)・・・岸本一郎?  岸本は緒方宅で育ち  幕府派遣の  英国留学生に選抜  日本の最初期の化学留学生とし  ロンドン留学  ↓↑  華岡青洲一派の  漢方塾  合水堂とは塾生同士の対立  ↓↑  次男の  緒方惟準(これよし)  慶応元年(1865年)  幕府の命令でオランダ留学  明治元年(1868年)に帰国  京都の典薬寮の医師となり  明治天皇の侍医  明治二年(1869年)  大坂に設立された  浪華仮病院(大阪大学医学部の前身)の院長  オランダの軍医  ボードイン  らとともに病院の運営  明治四年(1871年)  陸軍軍医  明治十八年(1885年)  陸軍軍医学会長兼近衛軍医長  脚気の予防策に  麦飯給食を勧めたが軍上層部と対立  明治二十年四月  陸軍を辞し大阪にて緒方病院を開設  ↓↑  第十子の  惟直はフランス語を学び  1873年  ウィーン万博で通訳  1875年  イタリアの  トリノ・・・トリの・・・  で日本語教師  翌年当地の女性と結婚  長女  エウジェニア-豊  が生まれる  1878年  25歳で死去  孫の  緒方知三郎  緒方章  はそれぞれ病理学者と薬学者である  曾孫の  緒方富雄は東京大学で血清学を研究・・・ ーーーーー  ・・・フゥ~ぅ~ン・・・  緒方先生ってボクの育った鶉の分院の医院長だったけれど・・・

ーーーーー  ・・・???・・・   ↓↑   ↓↑  「プラトン古事記をカタル(古事記字源)

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