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腸捻転・・・聴念・・・長年・・・帖年



 ・・・「皮膚(ヒフ)」・・・「膚=人のからだの表皮・皮膚・はだえ・物の表面・きめ・性質・気質・気性・肌が合う・ 肌で感じる・肌に粟を生ずる・肌を合わせる」・・・「うわっつら・うわべ・うすい・あさい・あさはか・おおきい・うつくしい・四本の指を並べた長さ」・・・「完膚無きまでに叩きのめす・完膚無きまでの敗戦」は負けた側のコトバ・・・「完璧な勝利(敗北)」・・・「傷のない、完全な皮膚・また、傷のない箇所」・・・多く打消しの語(ない・なき)を伴って用いる・・・「完膚無きまで=無傷なところが一箇所もないほど、傷だらけ」・・・  「完膚=カンプ=還付・乾布・姦婦・姦夫      劉迺・・・迺(の・すなわち・ダイ・ナイ)      火刑の拷問でも忠儀を守って      裏切ることをしなかった     (新唐書・劉迺)      ↓↑  中国二十四史の一  唐代の歴史を記した書・二二五巻  北宋の  欧陽脩(オウヨウシュウ)らの撰  1060年完成  仁宗の詔により  「旧唐書(クトウジョ)」  を改修・補正  本紀十巻、志五十巻、表十五巻、列伝百五十巻・唐書  ↓↑  「新唐書(唐書)   劉迺伝」   ↓↑  「完膚無きまで=身体中、火傷の箇所がないほどに          ひどく、徹底的に          火刑で皮膚に焼き鏝(ごて)をあてられた          お灸された・・・劉迺 ーー↓↑ーー  弄ぶ(もてあそぶ・ロウ)=いじくる・いじる  ↓↑   詰=詰(つ)まる・つめる・つ-まる・つむ    詰(なじ)る・なじる・づ・つめ・づめ・ずめ    キツ・キチ    難詰=手きびしく非難すること・厳しく問いつめること    面詰=問いつめる・なじる       詰責・詰問・難詰・面詰・論詰    詰屈=かがまる    詰屈    詰め切る    その場を離れず、 絶えず待機、または出仕すること    ある空間に物が隙間(すきま)なくいっぱいつめる    時間や抽象的な心的な余裕の無い状態  なじる=詰る      相手を問いつめて責める・詰問する  詰(なじ)る=過失や悪い点などを責め非難する         to blame         責める・不心得な行いを責める         容疑者を責める         咎(とが)める         不注意を咎められる         良心が咎める(詰る)         違約をなじる  詰(なじ)る=相手を質問の形で非難すること         詰る・叱る・罵る・非難する・咎める  叱責する=blame・rebuke・reprove・reproach       とがめる・なじる  暱=日+匿(匚若)=なじる・トク=慝(匿+心)    暱に作る(或字)=昵    親しい・親近・昵称・愛称    ちかずく・ニチ・ネ・ネイ・ジツ(ヂツ)・デイ    暱名=匿名・・・隠匿  詰=言+士+口=なじる  詰所=決まった場所に出向き、用事に備えて待機する     もち場に詰める ーー↓↑ーー  ・・・  「新唐書(シントウジョ)」  唐代の正史  五代の  後晋の  劉昫・・・迺(の・すなわち・ダイ・ナイ)=廼          迺=西+辶(すすむ・シンニュウ)          廼=西+廴(ひく・イン)  の手になる  「旧唐書(クトウジョ)」と区別するために  「新唐書」、「唐書」と呼ばれる  出典は示されてい ないが  「宋史日本伝」の記事から  「東大寺の僧侶   奝(大周)然」・・・・奝(大周)=大(一人)+周(冂吉)            奝(大周)=おおきい・チョウ   が宋の太宗に献上した  「王年代紀」を参照・・・ ーー↓↑ーーー    奝(大周)然(チョウネン)   (承平八(938)年一月二十四日?    ~    長和五(1016)年三月十六日    京都生まれ    平安時代中期の東大寺の僧    藤原真連の子    幼くして東大寺に入り    東南院で三論その他を学ぶ    永観一(983)年    東大寺と延暦寺の信書をたずさえ    宋商船に便乗して入宋    翌年太宗に謁し    紫衣を賜わり    法済大師の号を受けた・・・    五台山その他を巡拝し    寛和二(986)年    「釈迦如来像」    「大蔵経・5048巻」    「十六羅漢画像」    清涼寺に安置されている    「釈迦如来像」は    その将来仏    もって帰朝    永祚一(989) 年    東大寺に住した    (京都嵯峨の     清涼寺は弟子が建立)  ↓↑  奝(大周)然(チョウネン)  が宋の太宗に献上した  「王年代紀」 ーー↓↑ーー  ・・・「其王姓 阿毎」・・・  ↓↑  日本について  「旧唐書」では  「倭」  と  「日本」  が並立して書かれている  「新唐書」では  「日本伝」としてまとめられ  隋の開皇末に  天皇家の  「目多利思比孤」が  初めて中国と通じたと記録  日本の王の姓は  「阿毎」氏であること  「筑紫城」にいた  「神武」  が大和を統治し天皇となったことなどが記載  出典は示されていないが、  宋史日本伝の記事から  ↓↑  東大寺の僧侶  「奝(大周)然」   ・・・奝(大周)然(チョウネン)      天慶元年一月二十四日(938年2月25日)        ~      長和五年三月十六日(1016年4月 25日)      東大寺の僧      俗姓は      秦氏・・・秦氏=陽侯氏?      京都の出身      号は法済大師      東大寺の      観理に三論教学を      近江国石山寺の  ↓↑  元杲(ゲンゴウ)に真言密教を学ぶ      元杲(延喜十四年(914年)・・・元杲(日十八)          ~         長徳元年二月二十七日(995年3月30日)      真言宗の僧・藤原京家の出身      父は雅楽助藤原晨省  ↓↑  房号は真言房・延命院僧都とも称される  が宋の  太宗に献上した  「王年代紀」を参照した・・・  ↓↑  其王姓  阿毎氏  自言  初主號  天御中主  至  彥(彦)瀲  凡三十二世  皆以  尊爲號  居  築紫城  彥(彦)瀲  子  神武立  更以  天皇  爲號  徙治  大和州  次曰綏靖 次安寧 次懿德 次孝昭 次天安 次孝靈 次孝元  次開化 次崇神 次垂仁 次景行 次成務 次仲哀  仲哀死  以  開化  曾孫女  神功爲王  次應神 次仁德 次履中 次反正 次允恭 次安康 次雄略  次清寧 次顯宗 次仁賢 次武烈 次繼體 次安閒 次宣化  次欽明  欽明之十一年  直梁承聖元年  次海達 次用明  亦曰  目多利思比孤  直隋開皇末  始與中國通  次崇峻 崇峻死  欽明之孫女  雄古立  次舒明 次皇極  (新唐書卷二百二十 列傳第百四十五・東夷一 ーーーーー  ・・・

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