蝦夷地の改名・・・ホッカイドウ・・・
2022/12/15・木曜日・・・追加添文・・・
早朝、起きて外の景色
昨日の雨で雪解けだった景色が
アッと云う間に銀世界へ逆戻りのドカ雪・・・
玄関の前が吹き溜まりも加わって1メートル半は埋まった・・・
除雪が終わって
昼のニュース
イラン・・・宗教家による「リンチ」・・・
思想家による「リンチ」・・・
法律家による「リンチ」・・・
「日常生活者」による「リンチ」・・・
地球の何処かで「ボク自身の理解」では許せないような・・・
人間の命を奪い、そして奪い合いをしている・・・
二枚舌で弥栄(いやさか)ホイホイ・・・ 舌禍で身を亡ぼすヒトビト・・・
↓↑ 乱絶=亂絶 乱=亂 舌=𤔔・・・統合する? 「ノ+十+口」=「爫+龴+冂+厶+又」・・・? ↓↑ 乱=亂=釠・・・薍=艹+亂 舌=𤔔=金・・・ 𤔔=𡡗・亂(乱)・𤔧・𢿢・𢿳・𤔲 𤳞・覶・辭(辞)・𤕅・𤕌 乱(簡体字・新字体) 乨・乿・灓 ↓↑ 薍 薍=艹+亂 源順『倭名類聚抄』 荻に、「和名 乎木(をぎ)」 小野蘭山『本草綱目啓蒙』 「荻 ヲギ ヲギヨシトモ云 古歌ニハ フミゝグサ ヤマシタグサ カゼキゝグサ トハレグサ ネカラグサ ノモリグサ メサマシグサ ツユヤグサ ネサメグサ カゼモチグサ と云」 漢名の本来の区別 芽生えを菼(タン) 長じて 薍(ガン)・蒹(ケン)・薕(レン) 穂が出たものを 萑・雚(カン) アシ(葦・蘆・芦) と オギ(荻) は、形体も生態もよく似ている 歴史的漢名では厳密に区別していない 通称乃至混称 芽生えを荻芽(テキガ)・食用 雚(カン)・萑(カン)=オギ(荻)の意 『礼記(内則)』 肉の調理で 巻いたり敷いたりする材 日本 ススキ 薄木・薄・芒 須々木・周々木・鈴木 と同じく屋根葺きに用いた 埜音(やね) ↓↑ 「付記合えずの見事」 「うがや ふきあわせずのみこと うがや ふきあえ ずのみこと) 鸕鶿草 葺 不合 尊」 地神五代の5代目 日向三代の3代目 神武天皇の父
↓↑ 彦火火出見尊(火折尊、山幸彦)の子 母 豊玉姫 『先代旧事本紀』 異母弟 武位起命 ↓↑ 叔母 玉依姫 との間に 彦五瀬命 稲飯命 三毛入野命 彦火火出見尊(神武天皇) を得た 父と末子は 同名の 彦火火出見尊 崩じ 吾平山上陵に葬られた ↓↑ 鵜戸神宮(宮崎県日南市) 産屋の跡 ↓↑ 彦 波瀲 武鸕 鶿草 葺 不合 尊 ひこ なぎさ たけ うがや ふきあえず+の+みこと 『日本書紀』 ↓↑ 天 津日高 日子波限 建 鵜葺草 葺不合 命 あまつひこ ひこなぎさたけ うがや ふきあえず 『古事記』 ↓↑ 彦 波瀲 武 鸕鶿草 葺不合 尊 ひこ なぎさたけ うがや ふきあえず 『先代旧事本紀』 ↓↑ 彦 瀲 尊 ひこなぎさ+の+みこと 『古語拾遺』 ↓↑ 『日本書紀』 鸕鶿草葺不合尊が誕生した産屋は 全て 鸕鶿(う)の羽を 草(かや)としてふいたが 屋根の頂上部分を いまだふき合わせないうちに生まれ 草(かや)につつまれ 波瀲(なぎさ)にすてられた 母親の 豊玉姫が 「彦波瀲武鸕鶿草葺不合 (ひこなぎさたけうかやふきあえず)」 と名付けたという。 ↓↑ 「記紀」に事績記述はなく 系譜上のみの存在 ↓↑ 「した」・「げ」・「おと」・「をぎ」 ↓↑ たそがれ(黄昏)の 軒ばの をぎ(荻)に ともすれば ほ(穂)に出でぬ秋ぞ 下(した)に事とふ 式子内親王 『新古今和歌集』 ↓↑ 雲まよふ 夕べに秋を こめ ながら 風も ほに出でぬ 荻の うへかな 慈円 『新古今和歌集』 ↓↑ 秋風の ややはだ寒く 吹く なべの ↓↑ なぶ=並ぶ 古事記 景行 「日々(かが)なべて 夜には九夜(ここのよ) 日には十日(とをか)を」 筑波の道=つくばの道(みち) 「菟玖波」の・・・「未知」? 「通句葉=蹲(つくば)」の未知? 蹲=足+尊・・・足利 尊氏? あしかがたかうじ 口+龰+酋+寸 口+止+酋+寸 口+龰+八+酉+寸 口+龰+丷+酉+寸 口+止+八+酉+寸 口+止+丷+酉+寸 シュン ソン うずくまる・つくばう・しゃがむ あつめる・あつまる ためらう・しりごみする 蹲循(シュンジュン) 低く据えられた 手水鉢(ちょうずばち) ↓↑ 連歌の異称? 日本武尊(やまとたけるのみこと) が 筑波を過ぎて 甲斐(かい)に着いた時 「新治(にいはり) 筑波(つくば) を過ぎて 幾夜か寝つる」 と歌ったのに対して 御火焼(みひたき)の 翁(おきな)が 「かがなべて 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を」 と答えた 「是を以ちて その老人を誉(ほめ)て すなはち 東(あづま)の 国の造(みやつこ)を給ひき」 コレが連歌の初め・・・? 「連歌弁義(1770)」 ・・・双方問答で相唄った、ってコトが連歌? それにしても 「東国の国造=地方長官」任命とは? 九夜(ここのよ=キュウヤ 久弥・救耶・球也)? 十日(とをか=ジュウニチ 拾似地=足化)? ↓↑ 菟玖波集 つくばしゅう 南北朝時代 准勅撰連歌集・二十巻 二条良基 が 救済(ぐさい・キュウセイ) の協力を得て編集 文和(ぶんな) 五年(1356) 三月付けの序文を有し 冬から翌年の春に完成 所収の作品 『日本書紀』所載 「日本武尊(やまとたけるのみこと)」 と 「秉燭者(ひともせるもの)」 との唱和をはじめ 奈良朝、平安朝、鎌倉の各時代を経て 種類は 付句(つけく) 発句(ほっく) のほか、少数の 雑句をあわせて 総句数2190句 鎖(くさり)連歌、百韻、千句、一万句 などの 長連歌は そのうちの優れた部分を 二句、付句として採用し まま 三句、四句続きで収めてある 作者名の明らかな者が約450名 30句以上の入集(にっしゅう)者は 救済、尊胤(ソンイン)、良基、道誉 尊氏(たかうじ)、為家、善阿(ぜんな) ↓↑ ↓↑ なぶ=靡ぶ=なびく・耶靡台國 なべて=全般に・総じて・一般に ↓↑ 秋風の ややはだ寒く 吹く 荻の うはばの 音ぞ悲しき 藤原基俊 『新古今和歌集』 ↓↑ 西行(1118~1190)『山家集』 をじか(雄鹿)ふす はぎ(萩)さくのべ(野辺)の 夕露を しばしも ためぬ をぎの うはかぜ(上風) ↓↑ あたりまで あはれ し(知)れとも いひがほ(顔)に をぎの をと(音)こす あきの夕風 ↓↑ をぎのは(葉)を ふきすぎてゆく 風の おと(音)に 心みだるゝ 秋のゆふぐれ ↓↑ しも(霜)がれて もろく くだ(砕)くる をぎの は(葉)を あらく わ(分)くなる かぜの おと(音)哉 ↓↑ 身にしみし をぎの おと(音)には かは(変)れども しぶく風こそ ゲには 物うき ↓↑ 荻の おと(音)は 物おもふ われか 何なれば こぼるゝ露の 袖に おくらん 釠 𠃶・𠃹・𠃿 𠦨・𠦸・𠧎(古字) 𠧏(古字)・𠮗(古字) 𡄹・𢮣 ↓↑ 𢿢・𢿮 ↓↑ 𤔐・𤔒 𤔔・𤔦・𤔬 ↓↑ 𤕅 ↓↑ 亂=爫+龴+冂+厶+又+乚 爫+龴+冂+厶+又+乚 爫=爪 マ=矛 ム=私 爫+龴+冂+厶+又・・・統合 亂(みだす) 亂(みだれる) 亂(みだりに) 恚乱・恚亂(イラン) 怒りで心が乱れ、苛立つこと 憒乱・憒亂(カイラン) 心が乱れて落ち着きがなくなること 惛乱・惛亂(コンラン) 道理を判断できないために 物事を乱すこと 悩乱・悩亂(ノウラン) 悩み苦しみ、心が乱れること ↓↑ 辭=𤔔+辛 辤=受+辛 辝=台+辛 ↓↑ 覶=𤔔+見 ↓↑ 𡡗=女+𤔔 亂=𤔔+乚=乱 𤳞=𤔔+田 覶=𤔔+見 辭=𤔔+辛=辞典・辞書 ↓↑ 䜌+女 娈童=被当作女性玩弄的美貌男孩 catamite (boy as homosexual partner) kept man gigolo(ジゴロ) ジゴロ(仏: gigolo ) 女から金を得て生きている男 女から金を巻き上げて生活する男 女にたかって生活する男 女から巧みに援助を得る男 ヒモ つばめ 異体字 娈・奱・𡢛・𡤣・𡤨・㜻・𡡗・𠮖 簡体字 娈 䜌𠮖戀欒蠻巒㪻矕鸞 攣㱍鑾彎曫臠孿𣀵灓 𨷻 䜌+α=孌・變(変) ↓↑ 𤔔=ノ(へつ)のツのマの冂(国際)のムのヌ ↓↑ 「マ」の漢字の意味は? 「表裏反転の左右上下斜め」の文字・・・ 「マ」⇒「ム」⇒「ワ」⇒「ク」⇒「7」 「マ」の漢字の意味は?・「左右上下斜め表裏反転」の文字 2019-06-14.html ↓↑ 2019-06.html 亂・쯙・𡡗・𤔧・𢿢・𢿳 𤔲・𤳞・覶・辞・𤕅 𤔔=治也・幺子相乱、𠬪治之也 读若乱同・一曰理也 𤔔=理也 ↓↑ 𤔧=シ・ジ・ことば・やめる 辭・𤔲・辞・辝・辤・𦧦 説(と)く、分かるように順序立てて話す 説明 說也(…說者釋也) 𤔬+辛・猶理辜也 分かり易く述べる、説明 その言葉や文章 挨拶(アイサツ)をして去る 暇乞(いとまご)いをする 「辞去(ジキョ)」 誘いや求めを丁寧に理由を述べて断る 「辞退(ジタイ)」 𤔭=𤔔=𤔬𤔦𠧏𠧎𤕍𤔪𠮗𤔒𤔐𢮣𠦸𠭟=舌 乱れているものを秩序ある状態にする 治(おさ)める ごちゃごちゃしているものを すっきりさせる 舌=口に入れたモノの仕分け ↓↑ 舌=千+口・・・吀=口+千=バ 羊が鳴く・羊の鳴き声 =哶=口+卝+干 口+艹+干 =咩=口+羊=ビ・ミ 乙咩=おとめ 比咩=比売=ひめ 比売大神=比咩神=姫(ひめ)大神 舌=千+口 イ+一+口 ノ+十+口 口の中にある器官 物の味を認識 咀嚼や発声などの機能器官 舌(ことば) 悪舌(アクゼツ)=悪口・暴言・ヘイト 滑舌(カツゼツ)=発声の滑らかさ 吃舌(キツゼツ)=どもること・吃人 口舌・口説(クゼツ)=口喧嘩・言い争い 口舌(コウゼツ)=話仕方・口先・口振り 口舌の争い・口舌の爭い・口論 一口両舌(いっこうりょうぜつ) 前に話した内容と 後で話した内容の食い違い 以前に言ったことを翻し 平気で異なったコトを言う人 一つの口に二つの舌がある・・・蛇・它 箝口結舌(カンコウケツゼツ) 口を閉じて何も言わないこと 「箝口・結舌」=何も言わないこと 箝口令・緘口令 顔常山舌(ガンジョウザンのシタ) 辛い処罰を受けても 君主や国への忠義を貫き通すこと 「顔常山」=顔杲卿という人物 唐の顔杲卿は 反乱軍の安禄山に捕らえられたが 唐への忠義を曲げず 安禄山を罵倒したため 舌を切られたが なお罵倒を続けた 金口木舌(キンコウボクゼツ) 弁論で人々を指導する人・言論人 金属の口に 舌の形をした木製の振り子で できた大きな鐘 古代中国で新しい政令を出すときに この鐘を鳴らして人々に知らせていた 鼓舌揺脣(コゼツヨウシン) 好き放題に思ったことを喋ること 「鼓舌」=舌を鳴らして喋ること 「揺脣」=唇を動かすこと 捲くし立てるお喋り 「揺脣鼓舌(揺唇鼓舌)」 舌先三寸(したさきさんずん) 口先だけで巧みな弁舌のこと 口だけで相手をうまくあしらったり 丸め込んだりすること 嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる 陰で舌を出す 三寸の舌に五尺の身を亡ぼす 不用意な発言は、身を滅ぼす 三寸の舌が五尺の体を滅ぼす 三寸の舌を掉(ふる)う 大いに弁舌をふるうこと 舌が肥(こ)える(したがこえる) 舌が回る
「蝦夷 (えみし・えびす・えぞ)」の改名「ホッカイ道」・・・
「蝦夷」は古くは 「愛瀰詩(えみし・神武天皇東征)」・・・ 瀰=瀰=氵+彌・・・彌=镾=長+爾 氵+弓+爾 氵+弓+一+八+冂+丨+㸚 氵+弓+一+八+冂+丨+爻 氵+弓+一+八+冂+丨+㐅+乂 氵+弓+一+八+冂+丨+㐅+丿 ビ はびこる(蔓延る) 瀰漫(ビマン) ひろい 満ちる 水が一面に満ち溢れるさま 彌=镾=長+爾 ビ・ミ や あまねし いや いよいよ つくろう ひさしい わたる とおい 月日を経る・時間の経過 広く行きわたる つくろう・おぎなう ほころびを縫ってつくろう いよいよ・ますます ゆるめる・弓のつるを緩める 弥栄(いやさか) いよいよ・さらに 歴史上の人名は 蘇我 蝦夷(えみし) 小野 毛人(えみし) 佐伯 今毛人(いまえみし) 鴨 蝦夷(えみし) 1869年(明治2年)7月17日 伊勢の 「松浦武四郎」の提案の「北加伊道」が 「北海道」として命名 明治2年8月15日 太政官布告 「蝦夷地 自今 北海道 ト被稱 十一ヶ国 ニ分割 國名郡名等別紙之通被 仰出候事」 「蝦夷 (えみし・えびす・えぞ)」の改名「ホッカイ道」・・・ 「蝦夷」は古くは 「愛瀰詩(えみし・神武天皇東征)」・・・ 瀰=瀰=氵+彌・・・彌=镾=長+爾 氵+弓+爾 氵+弓+一+八+冂+丨+㸚 氵+弓+一+八+冂+丨+爻 氵+弓+一+八+冂+丨+㐅+乂 氵+弓+一+八+冂+丨+㐅+丿 ビ はびこる(蔓延る) 瀰漫(ビマン) ひろい 満ちる 水が一面に満ち溢れるさま 彌=镾=長+爾 ビ・ミ や あまねし いや いよいよ つくろう ひさしい わたる とおい 月日を経る・時間の経過 広く行きわたる つくろう・おぎなう ほころびを縫ってつくろう いよいよ・ますます ゆるめる・弓のつるを緩める 弥栄(いやさか) いよいよ・さらに 歴史上の人名は 蘇我 蝦夷(えみし) 小野 毛人(えみし) 佐伯 今毛人(いまえみし) 鴨 蝦夷(えみし) 渡島(渡嶋)=北海道 1869年(明治2年)7月17日 伊勢の 「松浦武四郎」の提案で「北加伊道」が 「北海道」として命名 明治2年8月15日 太政官布告 「蝦夷地 自今 北海道 ト被稱 十一ヶ国 ニ分割 國名郡名等別紙之通被 仰出候事」 ↓↑ 蝦蛄(しゃこ)⇔蝦(えび)=海老=蛯(えび) 青龍蝦 田螺=たにし=つぶ 蝸牛=かたつむり=蜗牛=エスカルゴ (仏語 escargot ) マイマイ=巻き巻き =デデムシ =カタツムリ(snail) =ツブリ・・・螺(つぶ)⇔田螺(たにし・river snails) =ナメクジ(蛞・蛞蝓) 「蝦」の漢字 エビ(海老) or ガマ(蝦蟇)かえる(蛙)=蟇蛙・蟇・蟆=蟾蜍(センジョ) ↓↑ 蝦蛄(しゃこ)=蝦(えび・魵)=海老=蛯(えび) 青龍蝦 蝦夷(カイ)⇔甲斐・魁・貝 ウシエビ(牛海老)
↓↑ 宝亀十一年(780年)・・・タカラのカメ壱拾壱念(撚) 「宝亀の乱」 伊治 呰麻呂 多賀城陥落 延暦八年(789年) 「巣伏の戦い」 阿弖 流為(アテルイ)・・・阿(曲がった)弓の一 流為(誄・塁=本塁) 遠征軍壊滅 ↓↑ 「蝸牛角上の争い(荘子・則陽篇 白居易 の詩文集・白氏文集)」 ・・・蛮国と触国の領土争奪戦争・・・ ↓↑ やってきたのは「New Orleans」 ↓↑ 「売剣買牛(バイケンバイギュウ)」 闘牛(トウギュウ) 「愛(うし・アイ)のコリーダ」 うい=有為・憂い・初・羽衣 ・宇井・宇居
↓↑ 「コリーダ(Corrida de toros)=牛の走り」 (la corrida=闘牛) 「マタドール(matador=torero)=闘牛士」 「ピカドール (Picador)=槍士」 馬上から牛の肩の瘤に槍を突き刺し 牛を弱らせる騎士
↓↑ 犍=牛+建 𠂉+十+廴+聿 牛+廴+肀+二 牛+廴+肀+一+一 ケン 去勢した牛・去勢 犍為(ケンイ)=漢代の郡名・四川省西南 聿=イチ・イツ=肀 おさ(める) の(べる) ふで(筆) かく(書) とうとう・ついに 自分から・自ら 修める・述べる すばやい・すばやく走る 共に 従う 肀・⺻⇔書・晝・粛=肅
↓↑ オスの去勢牛=ox メスの去勢牛=steer ↓↑ 牡(オス)の牛 牡牛=雄牛(おうし・おすうし 古訓=をうじ) 牡牛(ボギュウ)=雄牛(ユウギュウ)」 種雄牛(シュユウギュウ) 雄の種牛(たねうし) 古語 「男牛(おうし・古訓=をうじ)」 bull=ox・nowt ラテン語 taurus(タウルス) bos=性別の問わない「牛」 ↓↑ 牝(メス)の牛 牝牛=雌牛(めうし・めすうし めうじ をなめ・をんなめ・うなめ) 牝牛(ヒンギュウ)=雌牛(シギュウ) 種雌牛=たねめすうし 古語 「女牛(めうし)=牸牛」 cow ラテン語 vacca 牡馬 牝馬 ↓↑
「ルイジアナ・ママ(Louisiana Mama) 」 ルイジアナ・ママ ジーン・ピットニー 1961 https://www.youtube.com/watch?v=sySmydnWlsc ↓↑ ニューオーリンズ(英 New Orleans 仏 La Nouvelle-Orleans ) 細哈連・新疴勒安 新阿爾列盎斯 新奥尔良・新奥爾良 アメリカ(亜米利加)合衆国 ルイジアナ州(State of Louisiana) 類 似阿名拾 類 字亜名集 漢字表記 禄細亜那・魯西安納・魯西阿那 魯西安那・累斯安・盧乙悉亜那 路易斯安那・路易斯安娜 南部にある同州最大の都市 メキシコ湾(英 Gulf of Mexico 西班牙 Golfo de Mexico) 墨西哥 に面し ミシシッピ川(Mississippi River) 密士失比・米西西皮・米西悉比 密斯昔必・密斯昔比・密斯必比 密士失必・美土細比 密西西比 の河口に位置する 港湾都市 穀物・綿花など ミシシッピ川流域の農産物の輸出港 ↓↑ ルイジアナ(Louisiana)の語源 フランス王 ルイ14世(Louis XIV・在位1643年~1715年) に由来 ロベール=カブリエ・ド・ラ・サール がミシシッピ川の流れるこの領域を フランス領と宣言し ラ・ルイジ アーヌ (La Louisi ane)・・・姉 The 名詞+接尾辞の~ana⇔あな・・・? ~ane⇔あね・・・? ラテン語の接尾辞 「特定の個人 対象 場所 に関(属)するもの」を指す 「Louis+ana」=ルイに関(属)するモノ ↓↑ モンロー市近郊 ワトソン・ブレイク遺跡 北アメリカの最も初期の 「マウンド」 と呼ばれる塚が築かれ アメリカ大陸最古の 複合的な構造物があった 「11のマウンド」遺跡で構成 約5,400年前~紀元前3500年頃に建設 中古期の ケイニーとフレンチマンズ・ベンド遺跡 5,600年ないし5,000年前のものと推定 狩猟採集を行っていた部族が 季節を選んで州北部で 組織化され 複合的な構造物を建設した リンカーン郡 ヘッジペス遺跡は 5,200年ないし4,500年前のものと推定 2,000年近く後 後古期で最大遺跡 ポヴァティ・ポイントが建設 現在のエップス村 紀元前1500年頃にその頂点を迎え 北アメリカでは 最初の複合構造物を造り 最初の部族文化を創った 文化は紀元前700年頃まで続いた 後 チューラ期の チェフンクト文化 レイクコーモラント文化 が続いた チェファンクト文化は この地域で大量の土器を生産し 西暦200年頃まで続いた ウッドランド中期は 南部と東部で マークスヴィル文化 北西部で フーシュマリーン文化 これらの文化は オハイオ州やイリノイ州の ホープウェル文化と同時期のもので 同文化の交易網の中に入っていた 南西方向の人々との交流で 弓と矢がもたらされた この時代に最初の墳墓が建設 世襲的政治 宗教の指導力を高めるため 儀式の中心として最初の 壇状マウンドが建設され 政治的な権力が統合され始めた 西暦400年までに 南部では ベイタウン文化と共に ウッドランド後期が始まった 人口が劇的に増加 コールズ・クリーク遺跡 ウッドランド初期の墳墓の上に建設 特権階級が出現し その権威を強調した・・・ ルイジアナ地域 ミシシッピ期では プラークミン文化 カドー・ミシシッピ文化 が現れ 広範にトウモロコシ栽培が採用された ミシシッピ州西部 ルイジアナ州東部 におけるミシシッピ川河谷下流域の プラークミン文化は 西暦1200年頃~1400年頃まで続いた ルイジアナ州 ウェストバトンルージュ郡 メドラ遺跡 ミシシッピ州 エメラルド・マウンド ウィンタービル遺跡 ホリーブラフ遺跡 がある ↓↑ プラークミン文化 ミズーリ州 セントルイス近郊 カホキア遺跡 に象徴されるミシシッピ文化中期と同時代 この文化に所属していた人々は ナチェズ族 タエンザ族 の先祖 西暦1000年まで 周北西部の フーシュ・マリン文化 カドー・ミシシッピ文化へと進化し 現在のオクラホマ州東部 アーカンソー州西部 テキサス州北東部 ルイジアナ州北西部 などに広がっていた 前史時代とヨーロッパ人による 最初の接触時の 「カド族」 の直接先祖と カド語を話す オクラホマ州にいるカド族は 同族 ルイジアナ州の地名 アチャファライア ナケテシュ カドー ホウマ タンジパホア アボイル はインディアン言語で使われていた単語の音訳 ↓↑ ルイジアナ地域 1528年 スペインの パンフィロ・デ・ナルバエス が率いた探検隊が ミシシッピ川河口に到達 1542年 エルナンド・デ・ソト のスペイン探検隊が ルイジアナの北部と西部を通り カド族やトゥニカ族と遭遇 1543年 ミシシッピ川を下ってメキシコ湾に達した 17世紀後半 フランス人 と フランス系カナダ人 の遠征隊が 地域支配 宗教 交易の目的を持って ミシシッピ川 メキシコ湾岸に拠点を築いた ↓↑ 1682年 フランス領カナダから 南下したフランス人 ロベール=カブリエ・ド・ラ・サール がルイ14世にちなんで ルイジアナと命名 1699年 カナダから来たフランス軍人 ピエール・ル・モワン・ディベールヴィル が最初の恒久的開拓地 モーレパ砦 をミシシッピ州ビロクシ近郊の オーシャンスプリングス に設立 ミシシッピ川河口にも ラ・バリーズ(フランス語 航路目標) という小さな砦を建設 1721年 川を航行する船を導くため 木造の高さ62フィート (19 m) の灯台を建設 フランス領ルイジアナは ミシシッピ川流域 から カナダに至る広大な領域で いくつかの交易拠点の網の目によって構成 フランス開拓地の目的 スペイン領テキサスの スペインとの交易 ルイジアナへの スペインの進出阻止 フランス系 アカディア人は ルイジアナ州南部の アチャファライア盆地など湿地に入植し ケイジャン と呼ばれるようになった フランス開拓地からさらなる探検 ミシシッピ川やその主要支流沿いに ルイジアナから北に セントルイス周辺の イリノイ・カントリー と呼ばれた地域にまで前身基地ができた ↓↑ 1722年 フランス領 ルイジアナの首府を ニューオーリンズ市 (フランス語 ヌーヴェル・オルレアン 新オルレアン) に移転 約80年間 ニューオーリンズから フランスとスペインが交互に植民地経営 1720年 ドイツ人移民が ジャーマン・コースト ミシシッピ川沿いの地域に入植 ↓↑ フレンチ・インディアン戦争 七年戦争 フランスは カナダ植民地と (ニューオリンズ付近を除く) ミシシッピ川以東の地を イギリスに割譲 残りの ニューオーリンズ市 ミシシッピ川以西も 1762年 フォンテーヌブロー条約で スペインに譲渡 カナダ東部沿海 アカディア植民地 (ノヴァスコシア州 ニューブランズウィック州 プリンスエドワードアイランド州) のフランス系住民は 1765年 英国王に対する忠誠表明を拒んで強制追放 ルイジアナ南西部の アケイディアナ地域に大挙移住 ルイジアナの フランス系人口は増大 アカディア人の子孫は ケイジャンと呼ばれている スペインは カトリック教徒の移民を得ようとし アカディアからの移民を歓迎 スペイン領 カナリア諸島からも イスレニョ と呼ばれた島人が 1778年~1783年 移住 スペインを支配したナポレオンは 1800年 サンイルデフォンソ条約 で ルイジアナをスペインから取り戻したが これはその後2年間秘密にされていた 1803年 ナポレオンは財政上の必要性などから アメリカ合衆国に売却 ルイジアナは 1762年~1800年までスペイン領 行政官はスペイン人であったにも関わらず 新規のスペイン人入植者はほとんどなく フランス系社会が存続した ルイジアナ州は フランス系植民社会として 100年以上もっていた ↓↑ 1709年 フランスの資本家 アントワヌ・クロザー が メキシコ湾からイリノイまでの フランス領ルイジアナの商業独占権を獲得 ↓↑ 1803年 フランスが ルイジアナを アメリカ合衆国に売却 19世紀初めの ルイジアナの砂糖の生産量は少なく 比較的少数の奴隷が生産に従事 プランテーション所有者が 奴隷を購入して無給で働かせたので 間もなく一大生産地になった 奴隷は アフリカから サウスカロライナ州に連れてこられ その後に ルイジアナへと売買された アメリカ合衆国の新しい領土では 奴隷制度を違法とする連邦法があり 下院議員 ジェイムズ・ヒルハウス や論客の トマス・ペイン がこの法を強制するよう要求 が、奴隷売買はルイジアナに広まっていった ↓↑ 自由黒人女性 と 混血の娘 18世紀の コラージュ ニューオーリンズ ルイジアナ州初代知事の ウィリアム・C・C・クレイボーン は人身売買を廃止する責務を負っていたが 実行しなかった ↓↑ 1763年~1800年まで ルイジアナを統治したスペイン人は 奴隷解放民主闘争を怖れ 治安攪乱と見なすものを抑圧 植民地の民主革命の破壊工作を禁じた 1790年5月 国王令によって 奴隷であろうと 自由人であろうと 西インド諸島からの黒人の入国を禁じた その1年後 サン=ドマングで 世界史最初の奴隷による革命が成功 ハイチ建国につながった ↓↑ 「サン=ドマングの革命」 で、様々な人種の人々が大量に植民地を脱出 フランス人は奴隷を連れて逃げた 自身が奴隷所有者の 自由有色人種も逃亡 1793年 主要都市 カプ=フランセ(カパイシャン) の3分の2を焼き尽くす大火発生 1万人近い人々が永久に離島 外国の侵略や内乱 多くの人々が 東のサントドミンゴ(ドミニカ共和国) カリブ海の近くの島に移動 人種を問わず人々は 北アメリカの ニューヨーク ボルティモア フィラデルフィア ノーフォーク チャールストン サバンナ スペイン領 フロリダに移動 ↓↑ フランスの海賊 ジャン・ラフィット 1782年頃 ポルトープランスで生まれ ニューオーリンズで活躍 1791年~1803年 1,300人の避難民がニューオーリンズに到着 1795年春 ポワントクーペで暴動 農園主の家が焼かれた サン=ドマング からの自由難民 ルイ・ブノワ が 「植民地を破壊した革命思想に染まっている」 と告発され、追放 ポワントクーペ ジャーマン・コースト では不安定な状態が続き 1796年春には奴隷貿易を全的停止 ↓↑ 1800年 ルイジアナの役人は奴隷貿易の再開議論 サン=ドマングの黒人は入国を禁じた スペインが ルイジアナを フランスに戻し 農園主達は革命を恐れながら生活 1803年 サン=ドマングに対する遠征失敗 皇帝 ナポレオン・ボナパルト がアメリカ合衆国に ルイジアナを売却 ルイジアナは状況悪化 ↓↑ 1783年 アメリカ合衆国が イギリスからの独立 アメリカ人開拓者が西から東に 商品を運ぶ最も容易な方法は 平底船で オハイオ川から ミシシッピ川を ニューオーリンズ港まで運び 大洋航行可能な船に積み替えること このルートの問題点は ナチェズより 下流の ミシシッピ川は両岸ともに スペインが所有し ルイジアナにおける ナポレオンの野望は カリブ海の砂糖貿易を中心に 新帝国を造ること 1800年 アミアンの和約 イギリスが フランスに マルティニーク島 グアドループ島 の所有権を返還 ナポレオンは ルイジアナをこれら砂糖の島にとっての中継地点 アメリカ開拓地に対する緩衝地帯と見なしていた 1801年10月 ナポレオンは サントドミンゴ島を征服 奴隷制度を再導入するために 大規模な軍隊を派遣 サン=ドマングでは 奴隷革命の後の 1792年~1793年 奴隷制度廃止 フランス植民地では 1794年 法と憲法で 奴隷制度を廃止 ↓↑ ナポレオンの義弟 ルクレール が指揮したフランス軍が サントドミンゴ市民の 奴隷制度再導入に反対する軍隊に敗れ ナポレオンは ルイジアナをアメリカへ売却 ↓↑ 1800年 第3代アメリカ合衆国大統領 トーマス・ジェファーソン ナポレオンが ニューオーリンズを所有していれば アメリカは通商に不可欠な ミシシッピ川の出口を抑えられてしまう ジェファーソンは 駐フランス全権公使 ロバート・リビングストンに ミシシッピ川東岸の ニューオーリンズ市を購入し アメリカの交易のために ミシシッピ川を自由航行できる交渉を行わせ リビングストンは 200万ドルまで支払う権限を与えられた ↓↑ スペインから フランスへの ルイジアナ返還は公式には終わっておらず スペインとのナポレオンの取引は フロンティアでは秘密が保たれていなかった 1802年10月18日 ルイジアナの行政長官代行 フアン・ベンチュラ・モラレス が アメリカ合衆国からの全ての貨物について ニューオーリンズでの 預託品の権利を取り消すという スペインの意図を公にした この重要な港の閉鎖は アメリカ合衆国を怒らせ驚愕させ 西部での交易が事実上封鎖 預託品権利の取り消しは アメリカ人が法を濫用し 密貿易によって促進され フランスの陰謀ではなかった・・・ ジェファーソン大統領は フランスとの戦争を要求する世論を無視し ジェームズ・モンローを ナポレオンへの特使として派遣 ニューオーリンズ獲得を支援 買収額の上限を 1,000万ドルに上げることも認めた ↓↑ 1803年4月11日 フランス外務大臣 タレイランが ニューオーリンズ とその周辺地域のみならず フランス領 ルイジアナ全体の譲渡について アメリカ合衆国が幾ら払う用意があるかを尋ね 4月30日 総面積828,000平方マイル (2,145,000 km2) のルイジアナ全土を 6,000万フラン(約1,500万米ドル) で購入する契約 支払いはアメリカ合衆国の公債で行われ ナポレオンはそれを額面価格で オランダの ホープ・アンド・カンパニーに 100ドルにつき87.5ドルの割引価格で イギリスのベアリングス銀行に売却 最終的に フランスが ルイジアナの代償として受け取ったのは 8,831,250米ドル イギリス銀行家 アレクサンダー・ベアリングは パリで マルボワと会合し アメリカ合衆国に行って公債を回収して イギリスに運び 現金にしてフランスに渡した ナポレオンは この金で イギリスに対する戦争を始めた ↓↑ 国土の広さを倍にするような領土を 1,500万米ドルで購入 ジェファーソンの 政敵で 「連邦党」は ルイジアナ領土が価値の無いものであり 合衆国憲法では上院の承認無しに 新しい領土を獲得したり 条約の交渉をしたりすることは 許されないと主張 1803年10月20日 アメリカ合衆国上院は ルイジアナ買収を批准 ↓↑ 管轄権限移譲の式 1803年11月29日 ニューオーリンズで開催 翌日 アメリカ合衆国の ジェイムズ・ウィルキンソン将軍が ニューオーリンズの領有を受け入れ 1804年3月9日 セントルイスでも同じような儀式が行われた ルイジアナ領土は メリウェザー・ルイスが代表として出席 アメリカ合衆国政府に公式に移管 ↓↑ ルイジアナ領土 1エーカー (4,000 m2) あたり 3セント足らずで購入 戦争も無く 一人のアメリカ人の命も失われず アメリカ合衆国国土を 2倍にした アメリカ合衆国が 太平洋にまで到達する足がかりとなった ↓↑ 1812年 アメリカ合衆国の州 ルイジアナ州成立 1849年 州都が ニューオーリンズ市 から バトンルージュ市 移転 ルイジアナの大地に 綿花 砂糖のプランテーションが形成 1861年 南北戦争で 南部連合に加盟して合衆国から脱退 1862年 北軍に占領 北軍占領中 州都はニューオーリンズ市に設置 1868年 ルイジアナ州 合衆国へ復帰 1901年 州内で石油が発見 ルイジアナ州は 産油地帯となった
↓↑ 郭公=托卵・・・郭務悰 歴史上の「漢人」 「郭伋」・・・「郭=亠口一了阝(邑)」 + 「伋=イ(人)及」 ↓↑ 伋=亻+ 及 キュウ 忙しい 「孔伋=孔子の孫=子思(シシ)」 及=キュウ およぶ および およぼす ならびに ふたつ以上のものを並列させる およぶ・いたる・追いつく・達する およぼす 行きわたる・行きわたらせる いきわたる=行記亘理 行基渉 壱岐渡 亙・互・旦・渡・度 わたる=亘理・倭・和太留 ↓↑ 行=line (文字が並んだ) number (詩の)=verse numbers row (数学・数列) 基=base, understructure, fundament foot ベース・基本・基地・基盤・拠点・基礎 groundwork, foundation substructure underlying 基底・基本・基礎・基・下位・原資 基(キ)=group・radical
↓↑ ↓↑ ↓↑ 「行基(ギョウキ)」 天智天皇七年(668年) 天平二十一年二月二日(749年2月23日) 仏教僧 朝廷が 寺や僧の行動を規定し 民衆へ仏教の 直接布教を禁止していた当時 その禁を破って 「行基集団」 を形成 畿内(近畿)を中心に 仏教を説き 困窮者の救済、社会事業を指導 布施屋9所 道場、寺院を49院 溜池15窪 溝と堀9筋 架橋6所 を各地に整備 当初 朝廷から度々弾圧や禁圧を受けた 後 大僧正(日本初の最高位の大僧正) 聖武天皇により 奈良の大仏(東大寺)造立の 実質上の責任者として招聘 東大寺の「四聖」の一人 ↓↑ 天平二十一年(749年) 「行基」の弟子の 「真成」 が 「行基」の 骨をおさめた 「銅製骨臓器瓶」・・・銅=金+同 製=制+衣 骨=冎+月(肉) 臓=月(肉)+蔵 器=㗊+大=器=器+丶 =噐=吅+工+吅 吅+大+吅 吅+一+人+吅 瓶=并+瓦 に 師の伝記を刻んだ 『大僧上舎利瓶記』に 「俗性は高志氏にして その考(ちち)の 諱は才智 字は知法君 の長子なり もと 百済国の王子 王爾 のすえなり その妣(はは)は 蜂田氏にして 諱は古爾比売 河内国 大鳥郡の 蜂田首 虎身の 長女なり」 中国系帰化人(百済に帰化していた中国人) の氏族 百済後裔は系譜のの装飾・・・ 『日本現報善悪霊異記』 越後国 頸城郡 出身・・・説 ↓↑ 天智天皇七年(668年) 河内国 大鳥郡 (天平宝字元年(757年) に和泉国へ分立・大阪府堺市西区家原寺町) 父 高志 才智 母 蜂田 古爾比売・・・故事(虎児)の 比(比較) 売(賣・うる・うり Bye) の長子 『大僧正舎利瓶記』 「飛鳥の朝の壬午の歳に至り、出家」 天武天皇十一年(682年) 15歳で 大官大寺で 「得度」を受け出家し 「法行」 と称し 持統天皇五年(691年) 24歳で 戒師の 高宮寺 徳光禅師のもと受戒 飛鳥寺、次に薬師寺で 法相宗を主として教学を学び 名を 「行基」と改名 ↓↑ 弟子の 「道昭」 は、入唐し 「玄奘」 の教えを受けた
↓↑ 井戸を掘り・・・井⇔并=併・併合 戸=一+尸(屍・かばね・姓) 渡しや港に船を備え 橋を架け 後の行基の事業への影響を指摘 「行基」が 「道昭」に師事したという伝承・・・ 「行基」の遺骨を納めた瓶 『舎利瓶記』 『日本現報善悪霊異記』 には記録が無い ↓↑ 大宝四年(704年) 生家を 家原寺に改め 母と大和国の 「佐紀堂」・・・日本書紀の佐紀に同? で暮らす 40歳で 生駒山 草野仙房 に母親と移り修行 43歳で母を亡くし3年間喪に服す ↓↑ 「知識結」 僧俗混合の宗教集団を形成し 近畿地方を中心に 貧民救済 治水・架橋 などの社会事業に活動 養老元年(717年)四月二十三日 宗教集団を 寺の外での活動を禁じた 「僧尼令」に違反とされ 糾弾、弾圧を受けた ↓↑ 天平二年(730年)九月 平城京の東の丘陵(天地院と推定)で 数千人~1万人を集めて説教し 民衆を惑わした(『続日本紀』) 天平三年(731年) に弾圧を緩め 翌年 河内国 狭山池の築造に 「行基」 の技術力や農民動員の力量を利用 天平八年(736年) インド出身の僧 「菩提僊那」 が チャンパ王国出身の 僧・仏哲 唐の僧 「道璿」 とともに来日 九州の大宰府に赴き 行基に迎えられた後に 平城京に入って 大安寺に住し 「時服」・・・字伏(フク=複・覆・葺)? を与えられた 天平十年(738年) 朝廷より 「行基大徳」 の諡号が授けられた (日本で最初の 律令法典 『大宝律令』の注釈書記録) ↓↑ 三世一身法が施行され 灌漑事業 聖武天皇の依頼で 740年(天平十二年) 東大寺 盧舎那仏像(大仏) 建立に協力 741年(天平十三年三月) 聖武天皇が 恭仁京郊外 泉橋院で 「行基」と会見 743年(天平十五年) 東大寺 大仏像造営の勧進に起用 745年(天平十七年) 「大僧正」の位を贈られた (『続日本紀』) 749年(天平二十一年) 喜光寺(菅原寺)で81歳で入滅 往生院で火葬後 竹林寺に納骨 多宝塔を建て墓所とした 朝廷より 菩薩の諡号 「行基菩薩」と言われ 行基は 「文殊菩薩の化身」 とも言われている・・・ ↓↑ 「行基」が建立した寺 長岡院の候補 「菅原遺跡(奈良市)」で 円形構造の 回廊跡と塀跡が発掘 柱穴15カ所による直径は 約15メートルで 円堂(他では八角堂)で 多宝塔・・・ 「行基」を供養した建物跡・・・ ↓↑ 「菩提僊那」 752年(天平勝宝四年) 聖武上皇の命で 東大寺大仏開眼供養の導師を勤めた ↓↑ 773年(宝亀四年) 「行基」没後の宗教集団に 国家の援助を与えたが 布教を禁じた 東大寺大仏殿再興の勧進に 「重源」 や 「公慶」 が語るが 仏教団体や教理などの表面から消え 民衆の伝承や寺院の 開基伝承などに伝えられている ・・・???・・・ ↓↑ ↓↑
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