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鍛冶屋=smith・black-smithでなく、炭焼き屋=charcoal maker

2022/10/15・土曜日・・・追加添文・・

「風烈布(フウレップ)」は

北海道の東(ひんがし・あづま・トウ)の地名・・・問う、当う、答?

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「くず・クヅ」でもスクワレルが

「ばか・バカ・はか・ハガ」ではスクワレない・・・

「黑=黒=里+灬」

「灬=烈火=烮=列+火」

      烮=歹(歺)+刂+灬

        一+夕+刂+灬

        歺=ガツ・タイ

          ほね(骨)・ばらばらになった骨・残骨

          悪い

・・・自棄(やけ)故解(こげ)れば「クロ」・・・自暴自棄の「プ汚チン」

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「風烈布」

北海道 枝幸 郡  枝幸 町   風 烈 布

    えさしぐん えさしチョウ ふうれっぷ

    緯度:44.74225367

    経度:142.75983673

 アイヌ語

 「フーレ(赤い)・ペツ(川)」

 根室地方

 の

 「風蓮(ふうれん)湖」

 も同語源

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 黒になる前は「あか=赤・紅・朱・丹・銅」・・・

       「あか=閼伽=価値・後利益・功徳水

        淦=

        舟の底にたまった水

        中国の川の名

        淦水(カンスイ)」

       「あか=垢」・・・

       「吾我」・・・「蛙化(アカ)=カエルの変化=御玉杓子=柄杓」

 ↓↑  ↓↑  蘿、蔦、葛(arrowroot・クズウコン=葛鬱金・宇金・郁金・玉金      アロールート)は  薬(くすり)  葛籠(つづら)の原材料・・・  藤原(鎌足・中臣鎌子)  葛城皇子(中大兄皇子・天智天皇)・・・  葛=くず=屑・国栖・頽・九頭・・・? ーーーーー  ・・・アンタは人間のクズ、ってか・・・

 ↓↑  ↓↑

 1564年9月24日⇔「William(維廉)」⇔1564年4月26日

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 「蜘蛛の巣城」の顛末・・・維廉-沙吉比亜&維廉-(三浦)按針・・・

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 『マクベス(Macbeth)』・・・幕辺子?

 1606年頃・・・1600年=関ヶ原の戦い         ウイリアム・アダムス        (William Adams         1564年9月24日~1620年5月16日            (元和六年四月二十四日)        (三浦按針)  ↓↑     ↓↑     甲子(壬 癸)正官・偏財 絶⇔庚申・傷官  壬申(戊壬庚)正財・傷官沐浴⇔辛巳・食神  己丑(癸辛己)  ・比肩 墓⇔壬戌・正財   午未空亡  庚午(丙己丁)傷官・偏印建禄⇔丙午  ↓↑ ↓↑  1596年大運  3月(31歳)丙子 印綬  ↓↑  1600年大運  3月(36歳)庚辰 傷官  ↓↑ ↓↑  1598年  戊戌 劫財  6月(33歳)戊午 劫財  24日   乙巳 偏官・・・船団ロッテルダム港出航  ↓↑ ↓↑  1600年  庚子 傷官  4月   庚辰 傷官  29日   庚申 傷官・・・リーフデ号日本大分漂着  (慶長五年三月十六日)  ↓↑ ↓↑  1600年  庚子 傷官  10月   丙戌 印綬  21日   乙卯 偏官・・・関ヶ原の戦い  (慶長五年九月十五日)  ↓↑  1606年大運  3月(41歳)丁丑 偏印  ↓↑  1616年大運  3月(51歳)戊寅 劫財  ↓↑  1626年大運  3月(61歳)己卯 比肩  ↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑

 ウィリアム=William       =維廉・・・「イレン」が「William」?        ・・・「wi=ウィ」の「ウ」が聞き取れなかったのか?        維新・明治維新・昭和維新        維=糸+隹        イ        これい        つなぐ        支える・しばる・結ぶ・たもつ        つな・大づな・物をつりさげる綱        すじ・糸       「これ」と読み        あとに続く語を「強調」する  ↓↑   ↓↑  ↓↑   ↓↑         廉=广+兼  ↓↑   ↓↑  ↓↑ 广(まだれ)+兼(かねる・ケン)           レン           いさぎよい           かど           やすい           いさぎよい・行いが正しい           心が清い           かど・すみ・境目           やすい・価格が安い・廉価           かど           問題として取り上げるべき事項           理由となる事柄        「廉頗負荊(レンパフケン)」         心の底から謝罪すること         「廉頗」は人の名前         「負荊」は        「茨(いばら・棘)の杖」で打たれる         罪を背負うこと        「肉袒負荊.=肉袒して荊を負う」        「専断偏頗」        「贔屓偏頗」            頗=皮+頁             ハ             かたよる             すこぶる             かたよる・かたむく             不公平・公平でない             よこしま             いささか・すこし             すこぶる・たいへん             かなり・非常に  ↓↑   ↓↑      専断偏頗      寡廉鮮恥(カレンセンチ)・・・厚顔無恥          悪意で恥知らず          寡・鮮=少ない・・・?            稀・僅少・・・微量?            アザヤカが飛んだ・・・            字 埜化・痣八家・悝野香・鮮八家?           朝鮮⇔朝が鮮(稀・僅・微)            鮮卑(せんぴ・Xiānbēi)            遊牧民族            五胡の一            2世紀中ごろ            匈奴滅亡後に全モンゴルを支配            檀石槐            後漢末期の鮮卑族の大人            投鹿侯の子            和連の父            魁頭            扶羅韓            歩度根            騫曼            らの祖父            泄帰泥の曾祖父            支配領土を            東・中・西の3部に分けた            後は諸部族に分裂            五胡十六国時代            慕容 (ぼよう) 氏(燕)            乞伏 (きっぷく) 氏(秦)            禿髪 (とくはつ) 氏(涼)            らが華北に建国            386年            拓跋 (たくばつ) 氏が  ↓↑   ↓↑     北魏を建て華北を統一     頑廉懦立(ガンレンダリツ)        「伯夷の風を聞く者は         頑夫も志を立つる有り        (孟子・万章・下)」     清廉潔白(セイレンケッパク)     大法小廉(タイホウショウレン)     廉恥功名(レンチコウミョウ)     廉頗負荊(レンパフケン)        (史記・廉頗藺相如伝)  ↓↑ ↓↑    ↓↑ ↓↑  シェイクスピア=沙吉比亜         =舌克斯畢         =世幾須比亜  によって書かれた戯曲  勇猛果敢だが  小心な一面もある  将軍マクベスが  妻と謀って主君を暗殺し  王位を簒奪  内面・外面の重圧に耐えきれず  錯乱して暴政を行い  貴族や王子らの復讐に倒れる  実在の  スコットランド王  マクベス  (在位1040年–1057年)  がモデル・・・  ↓↑

 『マクベス』  (ファースト・フォリオに収録)  推定執筆年代は  1606年頃  ↓↑

 ダンカン  スコットランド王  マクベスを重用していたが  マクベスに暗殺される  ↓↑  在位 1034年~1040年  別号 ストラスクライド王  ダンカン1世(Duncan I)  1001年~1040年8月14日  スコットランド王  在位:1034年~1040年)  マルカム2世の長女  ベソックと  アサル領主で  ダンケルド大修道院長  クリナンの間に生まれた  ↓↑  1018年  スコットランド(Scotland)  アルバ(Alba)  カレドニア(Caledonia)  の南側  ブリトン人の  ストラスクライド王国  の王位を継承  1034年  祖父マルカム2世の死去により  ダンカン1世となり  ストラスクライドとあわせて  スコットランドと  ほぼ同じ領域を手中にした  ↓↑  1039年  イングランド北部  ダラムへの侵攻が失敗し  重臣たちの信望を失い  1040年  従弟の  マクベスに殺害された  ↓↑  1054年  ダンカン1世の息子  マルカム王子(Malcolm Canmore)  を王位に戻そうと  ノーサンブリアの  シーワード(Siward、マルカム王子の叔父)  の挑戦を  マクベスは受けた  ↓↑  1057年  スコットランド北部  アバディーン地方の  Lumphananの戦い  で  マクベスは  マルカム王子に殺された  マルカム王子は  マルカム3世として  スコットランド王となった  ↓↑  バノックバーンの戦い  アザミ(薊)の花の棘で  イングランドの  エドワード2世を退けた・・・  チョウセンアザミ(朝鮮薊)  アザミを  カルドンに改良し  さらに改良して  アーティチョークになった・・・媚薬効果  ↓↑  マルコムの  曾祖父  マルコム2世は  先住の  ピクト族  と  スコッツ族  の部族対立の  スコットランドを統一  ↓↑  伝統的な  母系相続  と  タニストリーという  王の孫まで  王位継承候補者制度を無視し  直系の長子相続に切替えようとしていた  ↓↑  しかし  男子は生まれず  マルコム2世は  王座が  前王ケニス3世  の血統や長子以外に  相続されることを危惧し  長女ベソックの長子  孫の  ダンカン  に  スコットランド王位(ハイ・キング)  を継承させた  1034年11月25日  マルコム2世は  ダンディーの  北グラームズで死亡  反マルコム派による暗殺・・・  ケニス3世はじめ  多数の王位継承権者を抹殺していた  ↓↑  マクベスは  ハイランド  中北部マリの大領主  マクベスは従兄弟の  ダンカン王の下で将軍  ダンカンは  ハイランド  南部アサルの大領主  双方拮抗の勢力  ↓↑  ダンカンは  1039年  ノーザンブリアの要衝  ダラムの攻略戦で敗北  重臣たちの信頼を落とし  1040年  また戦を起こした  ↓↑  スコットランドの  北部オークニー諸島の領主  ノルウェーの  ソーフィン伯の領土  カイスネスを略奪しようと  水軍と陸軍を北に向けた  ↓↑  ペントランド湾の海戦  ダンカン王の  水軍は敗北  ↓↑  ダンカン王の下では  スコットランド軍は  壊滅し  国民は戦費の負担に疲弊するすると  マクベスは  ソーフィン伯と会談  マクベス  と  ソーフィン伯  は異父兄弟  ↓↑  ダンカン王が  伝統的な  タニストリーの制度  によって  戴冠したのではないとする  王族不満の代弁者  ↓↑  1040年8月14日  バーグヘッドから  逃走する  ダンカン王を  マクベスは  エルギン郊外  スパイニーで捕獲  鍛冶屋の小屋で殺害・・・ ーーーーー  ダンカン・・・  ???・・・「鍛冶屋の小屋」で殺された・・・?     ・・・「化字也の胡埜」?     鍛冶屋=smith・black-smith     white-smith・gold-smith・silver-smith・copper-smith     smith=スミス=炭(墨)守(司)=black-smith?   埜(や)=林+土        木+木+十+一        十+八+十+八+十+一    異体字「野・壄・㙒」    ヤ    ショ    の    いなかや    いやしい(卑しい)    野原・広大な平地、大地    町外れ・郊外・田舎    朝廷や政府に対して、民間・在野    飾り気のない・ありのままの    田舎びた・下品な    区域・領域・範囲・分野    荒っぽい・勝手な・野暮な    動植物が自然であるさま・野生の    うとい・未開の・文化が開けていない    いなかや・別荘    沃野千里=広大な肥えた平地   「里」は距離の単位   「千里」は非常に長い距離   「沃埜千里(史記・留侯世家)」とも  ↓↑  ↓↑  ウィリアム・シェイクスピア=沙吉比亜=沙翁  (William Shakespeare)  =舌克斯畢=世幾須比亜  1564年4月26日(洗礼日)         ~               1616年4月23日               (グレゴリオ暦5月3日)  甲子(壬 癸)偏官・偏財 胎⇔丙辰  戊辰(乙癸戊)比肩・正官冠帯⇔壬辰  戊午(丙己丁)  ・偏印帝旺⇔戊寅   子丑空亡  戊午(丙己丁)比肩・偏印帝旺⇔戊午  ↓↑  井原 西鶴(いはら さいかく)  寛永十九年(1642年?月?日)  ~  元禄六年八月十日(1693年9月9日)  本名は平山藤五?  別号は鶴永・二万翁・西鵬  句風は「阿蘭陀流(オランダりゅう)」  「雀の千こゑ鶴の一声」  ↓↑  ???・・・「鍛冶屋の小屋」・・・?  ↓↑  「鞍作」・・・「鞍作止利(鳥)」・・・  ↓↑  「イマヌエル・カント(坎徳・韓図)」・・・馬具職人の四男   1755年春  『天界の一般的自然史と理論』刊行  ↓↑  「蘇我入鹿」・・・鞍作太郎=林大臣・・・記紀大臣?  ↓↑  ・・・断「韓(新羅・百済)=辰韓・馬韓」・・・  ・・・・「弁(辯・辮・辨)韓=倭」の国策・・・?  ↓↑  近松 門左衛門  承応二年  〈1653年〉  ~  享保9年11月22日  〈1725年1月6日〉  本名は杉森 信盛(すぎもり のぶもり)  号  平安堂  巣林子(そうりんし)  不移山人(ふいさんじん)  家紋は「丸に一文字」  浄瑠璃、歌舞伎の戯曲作家  「日本のシェークスピア」・・・ ーーーーー  ・・・???・・・  「心中天の網島」・「曽根崎心中」・「国性爺合戦」・・・「冥途の飛脚」・・・  「八右衛門を物事を表面的にとらえ   相手の態度次第でどうにでも変ってゆくような人間」  であり、  「無責任な放言もする」のだという解釈(藤野義雄)・・・?  (by wikipedia.org/wiki/冥途の飛脚)  ・・・


 ???⇔惺+窩⇔こじき⇔姜+沆⇔隠晦曲折・・・贋作

 ↓↑  曖昧糢糊(アイマイモコ)・・・贋(雁貝)+作(イ乍)  曖=日+愛           贗(鴈・かり・ガン)     日+爫+冖+心+夂    アイ    おおう    かげる    くらい    ・・・どうして「日+愛」が           「くらい=暗い・昏い・晦い・儚い」           になるんだか?    ぼんやりくらい    はっきりしない    おおう・かくす・さえぎる  ↓↑  昧=日+未・・・ 未=ミ・ビ  ↓↑ ↓↑       いまだ            ひつじ(未)            まだ            十二支の八番目            方位は南南西            時刻は午後二時、前後の二時間            動物は羊(ひつじ)            ヒツジ(羊、綿羊、学名 Ovis aries)            ウシ科ヤギ亜科の            鯨偶蹄目            角をもち            食肉、羊毛のために家畜化されている            1875年(明治八年)            外国人ル・ジャンドルが            軍用毛布のため羊毛の自給の必要性を説き            大久保利通によって下総に牧羊場が新設  ↓↑ ↓↑      ↓↑          「いまだ~ず」と読み          「まだ~ない・まだ~していない」の意          「いまだし」と読み          「まだである・まだです」の意          「いまだしや」と読み  ↓↑ ↓↑     「まだであるか」の意  昧=日+‡+八    日+一+木    日+十+十+八    マイ    バイ    くらい    くらい・光がわずかでくらい    くらい・おろか・物事を知らない    戯作三昧    無知蒙昧    無知愚昧  ↓↑  糢=米+莫    米+艹+旲    米+艹+日+大    ボ    モ    かた    のっとる    模糊(もこ)=あいまいでぼんやりしたさま  ↓↑  糊=䊀+月    米+胡    米+古+月    米+古+月    米+十+口+月    米+十+口+月  ↓↑  藤原惺窩(ふじわら せいか)・・・  ↓↑ 惺=忄+星・・・心の星・・・?      ・・・立身の辨の保志・・・?      忄+日+生      セイ      さとる      しずか      さとる・はっきりとわかる      しずか・心が落ち着いている     窩=穴+咼       穴+冎+口       宀+八+咼       宀+八+冎+口       カ       あな       いわや       かくす       かくまう       むろ       あな・いわや・むろ       くぼみ       眼窩(ガンカ)       ・・・「頑・顔・岩・岸・丸・元・雁・願・含・ガン」化            雁(がん・かり・異字は鴈)       すみか・身をかくすところ  ↓↑    物をかくす・かくまう  ↓↑    贋作=にせもの=贋物  戦国時代から江戸時代前期にかけての儒学者  家名の冷泉を名乗らず  中国式に本姓の  藤原および籐(とう)を公称  ↓↑  生誕 永禄4年1月24日(1561年2月8日)  死没 元和5年9月12日(1619年10月19日)       大運1616年9月(55歳)~乙未・比肩  庚申(戊壬庚)正官・印綬 胎⇔己未  己丑(癸辛己)偏財・偏官 衰⇔甲戌  乙酉(庚 辛)  ・正官 絶⇔壬辰   午未空亡  壬午(丙 丁)印綬・傷官長生⇔丙午  ↓↑  改名 粛(諱)  別名 惺窩・北肉山人・柴立子     広胖窩(号)     歛 夫(字)  ↓↑  姜沆(きょうこう・カン・ハン・Gang Hang)  1567年6月23日(明暦:隆慶元年5月17日)  ~  1618年6月27日(明暦:万暦46年5月6日)          大運1615年12月庚子劫財  丁卯(甲 乙)偏官・偏財 絶⇔戊午  乙巳(戊庚丙)偏財・正官 死⇔戊午  辛未(丁乙己)  ・偏印 衰⇔癸巳   戌亥空亡  甲午(丙 丁)正財・偏官 病⇔戊午  ↓↑  朝鮮李氏王朝中期の官人  字は  太初(テチョ)・・・太(おほの)初(はじめ)?  号は  睡隠(スウン)・・・睡(ねむる・いねむり)隠(かくす)                     証拠隠滅  1593年  朝鮮王朝の文科に合格  1597年  慶長の役(丁酉再乱)  刑曹佐郎の要職  全羅道で  明の将軍  楊元への食糧輸送任務に従事  日本軍の進撃によって  全羅道戦線が崩壊し  一族で避難中に  鳴梁海戦後に  黄海沿岸へ進出していた  藤堂高虎  の水軍により捕虜とされ  海路日本へ移送された   ↓↑  日本で  伊予国大洲に拘留  のち伏見に移送  藤原惺窩  と交流  約3年にわたる  俘虜生活の見聞(日本制度や情勢)は  『看羊録』にまとめられた  ↓↑  1600年(慶長五年)四月  伏見を立ち  対馬を経由して  朝鮮に帰国  再び仕官はしなかった  ↓↑  『看羊録』  日本で見聞したこと  日本の内情や国土の特徴  諸大名の情勢などを細かく記録  朝鮮王朝に対する  提言集的な側面が強い・・・?  ↓↑  『看羊録(かんようろく)』  日本の内情を秘密裏に  本国政府に報告した文集  1598年  豊臣秀吉の  朝鮮出兵時に捕虜  京都伏見に幽閉  京都相国寺の  藤原惺窩  との対話や  京都方広寺の  耳塚  のことなどを記録にとどめ  1600年  帰国した姜沆は  みずからを罪人として  この文集を  「巾車(きんしや)録」   ・・・巾(はば・頭巾)の      車(くるま)の      録(金+录・金+彐+氺)?  と題したが  門人が  漢の  蘇武・・・蘇(よみがえる)の武(たける)

 ↓↑    蘇武(ソブ)       紀元前140年頃?~紀元前60年       前漢時代の人・字は子卿       父は衛尉の蘇建       子は蘇元・蘇通国       兄は蘇嘉       杜陵(陝西省)の人       字は子卿(しけい)       武帝に仕え(前100)中郎将として       匈奴に使節として行き       19年間抑留       その間       降伏をせまられたが節義をまげず       拒否し、       片足を斬られ       北海(バイカル湖)のほとりの       荒野に追放されて       羊を飼わされ・・・「看羊録」       雁(がん)の足に       便りを結んで故国に送り       苦難の抑留生活

 ↓↑    ↓↑

      昭帝が即位し

      匈奴との講和が成立し

      帰国

 ↓↑   典属国・・・

 ↓↑   に拝せられた

 ↓↑   典属国=秦、前漢の官職名

      降伏した周辺異民族を掌る

      属官には

      九訳令がいた

      武帝元狩三年

      匈奴の

      昆邪王が降伏すると

      属国を増設

      都尉、丞、候、千人の官を置いた

      成帝河平元年

      大鴻臚に統合

 ↓↑   典属国廃止・・・

 の節義(セツギ)・・・説戯(戲・魏・記・紀)?

 になぞらえて

 「看羊(カンヨウ)録」・・・観葉・官用・韓用?

 と名付け後世に伝えた

 ↓↑

 見聞中の様々な情動を  漢詩にしている  「日本はどんな才能   どんな物であっても必ず   天下一を掲げる   壁塗り   屋根ふき   などにも天下一の肩書が付けば   多額の金銀が投じられるのは普通だ」  と綴った・・・  ↓↑  「看羊録」  1597年  「慶長の役」の際に捕らわれた  李氏朝鮮の官人  姜沆(カンコウ)  によって書かれた  大洲  ・・・愛媛県の大洲市     愛媛県の南予地方に位置     伊予の小京都     と呼ばれ     肱(ひじ)川(かわ・セン)・・・比字化話?     の流域にある     大洲城を中心の城下町     北緯33度30分22.6秒     東経132度32分40.3秒     大洲(おおず)地方     縄文、弥生時代の     田合(たごう)遺跡     巨石が崇拝される     高山メンヒル     市内50数箇所に     巨石や巨石群が構築     大化の改新(645年後)     伊予国宇和郡に属し     866年     喜多郡となった     矢野郷・久米郷・新屋(にいや)郷     (倭名類聚抄)     大洲肱川三大鵜飼・・・鵜飼⇔鸕飼?                ・・・鸕野讃良=持統天皇                     讃岐・愛媛県=伊豫         長良川鵜飼(岐阜県岐阜市)         肱川鵜飼(愛媛県大州市)         三隈川(大分県日田市)     源平の合戦     1185年     河野通信(みちのぶ)が     比志城(ひじじょう)に立てこもり     平氏を退けた(予章記)     鎌倉時代     伊予国守護     宇都宮豊房が     1330年着任から240年近く支配     大津地蔵嶽(じぞうがだけ)に城を築いた     後     大野直之、小早川隆景、戸田勝隆     らが城主となった     1595年     豊臣秀吉の重臣     藤堂高虎が     板島(宇和島)から     大津(大洲)に入り     1609年     淡路国州本城から     脇坂安治に引き継ぐ・・・     1617年     加藤貞泰(さだやす)が     米子から大津へ転封     明治維新まで12代、250年余り     大洲は加藤氏の治政  ↓↑ ↓↑     日本の陽明学の祖     儒学者     中江藤樹も十歳のとき     加藤貞泰とともに大洲に移り     二十七歳まで大洲で暮らし     門人たちに「大学」を教えた・・・     勤王藩として     慶応四年(1868年)     鳥羽・伏見の戦い     に参陣     坂本龍馬が運用した     蒸気船     いろは丸     大洲藩の所有で     海援隊に貸与していた・・・  ↓↑ ↓↑     大洲藩出身の     武田斐三郎     江戸時代末期の学者     北海道函館市の     「五稜郭」の設計を担当     洋式兵術の指導的役割を担った  ↓↑ ↓↑ ↓↑    「大須=大洲」文庫・・・大須観音        岐阜⇒名古屋  で監禁  大坂、伏見へと移され  抑留生活を続け  見聞した  日本の情勢や風俗についての詳細な記録  ↓↑  姜沆(カンコウ・キョコウ)  韓国読みは「カンハン」  (1567~1618)  ↓↑  李氏朝鮮  儒家の生まれ  朝鮮の  科挙試験に合格  赴任先で  日本軍に追い詰められ  李舜臣の軍勢に合流する予定のところを  藤堂高虎  に捕らわれ捕虜となった  ↓↑  姜沆(カンコウ)  三十歳  身なりの良さから日本に連行  その際に  彼の子供  「竜」  と  「愛生」  は海に投げ捨てられ溺死させられた  ↓↑  連行された  大洲(愛媛県大洲市)  に着くと  攫われた朝鮮人が千余人  ↓↑  日本の僧侶が筆談によって素性を訊くと  日本ではまだ知られていない  朱子学者であることが分かり  藤原惺窩  (江戸朱子学の祖・林羅山の師   藤原定家の12代目の子孫)  らが、彼の教えを請い  江戸幕府の思想的となった・・・  ↓↑  姜沆(カンコウ)  自分の節度を曲げず  日本語の勉強も一切しなかった  1600年  釈放され朝鮮に帰国  ↓↑  「看羊録」  秀吉に対する罵詈雑言が並べ立てられ  中国の故事が連発  日本人に対する憎悪と蔑視の本・・・  ↓↑  日本は「倭」  日本人は「倭奴(ウェノム)」  秀吉は「賊魁」  日本の地理、歴史、文化、信仰     各大名の出自、食邑、性格  等の記録  後  徳川吉宗のころの  朝鮮通信使が  「看羊録」  が江戸の町で売られているのを見て  「賊の偵察に行った本を   賊に読まれては意味がないではないか」・・・  ・・・贋作・・・

 ↓↑  「賊魁秀吉は   尾張州中村郷の人である   嘉靖丙申年に生まれた   容貌が醜く   身体も短小   容貌が猿のようであった・・・   生まれたとき   右手が六本指であった   成長するに及び   『人はみな五本指である    六本の指に何の必要があろう』   と言って、刀で斬り落としてしまった」・・・?   ルイス・フロイスも  「秀吉多指症説」と記録・・・  ↓↑  「賊魁秀吉は   尾張州中村郷の人である   嘉靖丙申年に生まれた   容貌が醜く   身体も短小   容貌が猿のようであった・・・   生まれたとき   右手が六本指であった   成長するに及び   『人はみな五本指である    六本の指に何の必要があろう』   と言って、刀で斬り落としてしまった」・・・?   ルイス・フロイスも  「秀吉多指症説」と記録・・・   ↓↑   「秀吉多指症説」は  島津 義弘(しまづ よしひろ)の記録にも・・・  天文四年七月二十三日(1535年8月21日)  島津貴久の次男  戦国大名  島津義久の弟  島津氏の第十七代当主  島津氏十八代当主  島津忠恒(家久)の父  剃髪して  「惟新斎」と号し・・・惟新⇔維新・・・惟⇔維・・・  「惟新公(いしんこう)」と敬称で呼ばれた  戦国(安土桃山)時代の屈指の猛将で  「鬼島津」とも・・・  ↓↑  姜沆(カンコウ)  1600年二月  釈放され、朝鮮に帰国  「関ヶ原」以前  姜沆が朝鮮に帰国する直前  藤原惺窩が  小早川秀明と対面し  「内府(家康)は、やがて明年には再挙し   朝鮮を侵そうとしている」  と聞いて  諸大名との対立を回避し  和議を結んだ場合  大名たちの兵力を削ぐ目的で  朝鮮に兵を送る可能性があると指摘・・・ ーー↓↑ーー  中国の姜(キョウ)姓  「神農氏の母が   姜水に住んでいたので   姜氏が発生」  平民と峻別するため  帝の神農は姜     舜は姚  のような血族の祖を示す標識として名のった  ↓↑  朝鮮の姜姜(カン)  姜(カン)  チンギス汗  韓国の韓と同じ  「上に立つ、尊大な」の原義  ↓↑  「姜姓は中国で最も古く   祖先は中国古代の神話によれば   有益な薬草を試し調べ   農耕を庶民に教えた神農   あるいは   漢民族共通の祖と言われる   黄帝   と争って敗れた   非漢民族の代表者   炎帝   発祥   中国のはるか西北方の   天山北路   チベット系の羌(キョウ)族」  「中国の先史社会にあって   姜姓   姫姓   は最も有力な姓で   姜姓の始祖である炎帝は   姜水(岐水)の水源にある   高い山(陜西省岐山)に天上から降臨し   その子孫は下流の平原に出て   農業を営むようになった」とあり。  ↓↑  『中国姓氏考 そのルーツをさぐる』   女性始祖の出産した場所によって得た姓  「姚」  「姜」  「姜、神農は姜水に居り、   因りて以て姓となす(『説文解字』)」  「炎帝の母   女登(ジョトウ)華陽に遊び   陽に感じて   炎帝を   姜水に生む(『帝王世紀』)」  ↓↑  『中国姓氏事典(姜(キョウ))』  「上古   炎帝神農氏が   姜水(岐水=陜西省岐山県西部に源発)   のほとりで長じたためこの姓が生まれた   周代   斉に姜姓を名乗るものがいた」  「姓氏起源分類一覧」の  「帝王あるいは諸侯の領地名   又はそれと関連する   邑名、河川名、山名等から転用したもの」   に  「姜」あり ーーーーー  ・・・???・・・姜=羊+女・・・  羊=ひつじ=未・・・日辻・燈辻・・・  街灯問題?・・・・  「チョ・グク」・・・父為娘隠・・・


 シマの大臣・・・揣摩・志万・・・の太尽(他意訊)・・・  ↓↑  「I MY ME」・・・「私は(が)・私の・私に」・・・私=厶

 ↓↑  曖=日+愛    日+爫+冖+心+夂    ・・・日=囗+一       爫=爪       冖=ワ       心=㣺=忄       夂=攵=𠂉+乂    アイ    おおう    かげる    くらい    くらい    ぼんやりくらい    はっきりしない    おおう・かくす・さえぎる

 ↓↑  鯨偶蹄目  偶蹄目(ウシ目)  と  鯨目(クジラ目)  クジラ目とカバからなる系統  からなる  ↓↑  愛=爫+冖+心+夂    㤅=旡+心    爱=爫+冖+友     アイ     いとしい     うい     おしむ     かなしい     まな     めでる     いとおしむ・いとしむ     いつくしむ・かわいがる     かわいがって大切にする     めでる・好む・味わい楽しむ     おしむ・おしんで大切にする     いとしい・いとおしい     かわいらしい・かわいらしく思う     まな     とてもかわいがっている     とても大切に育てている     愛屋及烏(アイオクキュウウ)=溺愛・盲愛     愛及屋烏(アイキュウオクウ)=     愛月撤灯(アイゲツテットウ)=月を愛して灯を撤す     愛財如命(アイザイジョメイ)=財産を命と同等に扱って大切にする     愛多憎至(アイタゾウシ)=愛や恩を多くもらいすぎると               憎しみやねたみを生む     愛多憎生(アイタゾウセイ)=愛多ければ憎しみ生ず     愛別離苦(アイベツリク)=     愛楊葉児(アイヨウヨウニ)=浅い知識のままで                真理を追究しようとしないこと     屋烏之愛(オクウのアイ)=溺愛、盲愛     甘棠之愛(カントウのアイ)=すぐれた為政者を人々が慕う気持ち                甘棠=林檎の木     強食自愛(キョウショクジアイ)=     彊食自愛(キョウショクジアイ)=     敬天愛人(ケイテンアイジン)=     兼愛交利(ケンアイコウリ)=全ての人を愛して                互いに利益を与え合うこと                兼愛=全ての人を愛する意                墨子が儒教の               「仁愛」を差別愛と批判して唱えた思想               「交利」はお互いに利益を与え合うこ                出典 『墨子(兼愛・中)』     兼愛無私(ケンアイムシ)=     三千寵愛(サンゼンチョウアイ)=玄宗皇帝の三千人の美女の寵愛を                  楊貴妃が独り占め     三千寵愛(サンゼンのチョウアイ)=     舐犢之愛(シトクのアイ)=親が自身の子を溺愛すること     相思相愛(ソウシソウアイ)=     尊尚親愛(ソンショウシンアイ)=     忠君愛国(チュウクンアイコク)=     寵愛一身(チョウアイイッシン)=三千の寵愛一身に在り     氾愛兼利(ハンアイケンリ)=全ての人々を平等に愛すること     汎愛博施(ハンアイハクシ)=     冰炭相愛(ヒョウタンソウアイ)=     氷炭相愛(ヒョウタンソウアイ)=     墨子兼愛(ボクシケンアイ)=     和顔愛語(ワガンアイゴ)=     和顔愛語(ワゲンアイゴ)=     男は度胸、女は愛嬌・・・  ↓↑  昧=日+未    日+一+木    マイ    バイ    くらい    くらい・光がわずかでくらい    くらい・おろか・物事を知らない    戯作三昧    無知蒙昧     無知愚昧  糢=米+莫    米+艹+旲    米+艹+日+大    ボ    モ    かた    のっとる    模糊(もこ)=あいまいでぼんやりしたさま  ↓↑  糊=䊀+月・・・糊=のり=ノリの同音のスベテ    米+胡・・・・・・ 胡=えびす=恵比寿               貊=豸+百                 豸+一+白               貃=豸+白               貉=豸+各                 熊に似た猛獣の名                 静かであるさま               貊=ゑびす                 蛭子・蛯子=ひるこ                 夷・戎・狄・羌・蕃・蛮・蠻       ・・・「蛭子・蛯子=ひるこ」の死は半島利権の放棄?    米+古+月    米+古+月    米+十+口+月    米+十+口+月  ↓↑  未=一+木・・・未艶=ミタイ=御體・みたい・見鯛             御他意=聖母マリア          鼠移=イエス・キリスト          子丑寅卯辰巳午未⇔申酉戌亥⇔子          1 2 3 4 5 6 7 8  9 101112⇔13            一二三四五六 七八九十     ミ     ビ     いまだ     ひつじ     まだ     ひつじ     十二支の八番目     方位で南南西     時刻で午後二時、前後の二時間     動物で羊(ひつじ)    「いまだ~ず」と読み    「まだ~ない」    「まだ~していない」    「いまだし」と読み    「まだである」    「まだです」の意    「いまだしや」と読み    「まだであるか」の意    地名    丁未(ていみ)    伯太町-未明   (はくたちょう-ほのか)    東城町帝釈未渡   (とうじょうちょう-たいしゃく-みど)  ↓↑

 ヒツジ(羊、綿羊、学名 Ovis aries)  ウシ科ヤギ亜科の  鯨偶蹄目  角をもち  食肉、羊毛のために家畜化されている  1875年(明治八年)  外国人ル・ジャンドルが  軍用毛布のため羊毛の自給の必要性を説き  大久保利通によって下総に牧羊場が新設  ↓↑  ‡=double dagger    二重短剣符・ダブルダガー    ‡;脚注などの参照符として用いる  †=短剣符、剣標、ダガー、オベリスク    その変形の    ‡=二重短剣符、二重剣標      ダブルダガー、ダブルオベリスク  ↓↑  バイアス(bias)=偏り、かさ上げ、斜め  布目に対して,斜めに裁つこと   「偏り、偏見、傾向、 斜め、先入観」  語源は「傾斜」 abiiabi2  ↓↑  島津 義弘(しまづ よしひろ)  天文四年七月二十三日(1535年8月21日)  ↓↑  島津貴久の次男  戦国大名  島津義久の弟  島津氏の第十七代当主  島津氏十八代当主  島津忠恒(家久)の父  剃髪して  「惟新斎」と号し  「惟新公(いしんこう)」と敬称で呼ばれた  戦国(安土桃山)時代の屈指の猛将で  「鬼島津」とも・・・  ↓↑  天正二十年(1592年)  ~文禄の役  慶長二年(1597年)  ~慶長の役  朝鮮渡海戦  ↓↑  文禄の役  四番隊に所属  1万人の軍役  国元で  「梅北一揆」  軍役動員が渋滞  ↓↑  義弘は  大隅国栗野の居城を  23騎で出立  肥前国  名護屋に期日までに着到  国許の  義久らから送られてくるはずの  軍勢・軍船が延引  島津軍勢は遅陣  後  島津軍勢は  四番隊を率いる毛利吉成の後を追って  江原道に展開  和平交渉中の  文禄二年(1593年)九月  朝鮮滞陣中に嫡男の  久保を病気で失った  慶長二年(1597年)七月  藤堂高虎らの水軍と連携し  朝鮮水軍を挟み撃ち  敵将  元均  を討ち取った(漆川梁海戦)  八月  南原城の戦い  諸将との全州会議に参加した後  忠清道の  扶余まで一旦北上し  井邑経由で  全羅道の海南まで南下  十月末より  泗川守備  慶長三年(1598年)九月  泗川の戦い  董一元  率いる  明・朝鮮の  大軍  (島津報告20万人   『宣祖実録』十月十二日条    中路明軍2万6,800人及び      朝鮮軍2,215人の計2万9,015人)  を7,000人の寡兵で打ち破り  島津家文書『征韓録』で  敵兵3万8,717人を討ち取った記載  徳川家康もこの戦果を  「前代未聞の大勝利」と評した  朝鮮からの撤退決定  朝鮮の役における  最後の海戦となった  十一月  露梁海戦  立花宗茂らともに  順天城に孤立した  小西行長軍救出の為に出撃  明・朝鮮水軍の待ち伏せによって後退  明水軍の副将  鄧子龍  朝鮮水軍の主将  李舜臣  を戦死させ戦果を上げ  海上封鎖が解け  小西軍は退却に成功  作戦目的達成  島津家は加増  朝鮮の役で  義弘は  「鬼石曼子(グイシーマンズ)」  と朝鮮・明軍から恐れられていた・・・  ↓↑  関ヶ原の戦い  慶長三年(1598年)  秀吉死後  慶長四年(1599年)  義弘の子  忠恒  によって家老の  伊集院忠棟が殺害され  忠棟の嫡男  伊集院忠真が反乱(庄内の乱)  島津氏内部で  薩摩本国の反豊臣的な兄  義久  と  親豊臣、中立に立つ  義弘  の間で、家臣団の分裂  義弘に  本国の島津軍を動かす決定権がなく  関ヶ原の戦い前後で  義弘が率いたのは  大坂にあった少数の兵だけ  義弘はこの時  参勤で上京していた甥の  島津豊久らと合流し  豊久が国許に要請した軍勢などを  指揮下に組み入れた  ↓↑  慶長五年(1600年)  徳川家康が  上杉景勝を討つために軍を起し(会津征伐)  義弘は家康から援軍要請を受け  1,000の軍勢を率い  家康の家臣である  鳥居元忠が籠城する  伏見城の援軍に馳せ参じた  元忠が家康から  義弘に援軍要請したことを聞いていないと  入城を拒否し  西軍総勢4万人の中で孤立した  義弘は当初の意志を翻して  西軍への参戦を決意  ↓↑  家康が上杉征伐のために出陣し  慶長五年(1600年)七月十五日  義弘は  上杉景勝に対して  「毛利輝元・宇喜多秀家・前田玄以   増田長盛・長束正家・小西行長   大谷吉継・石田三成   らが「秀頼様御為」であるので   上杉景勝に味方する   そして、それに私も加わる。   仔細は石田三成より連絡があると存します」  という書状を送って  西軍の首謀者の一人として  毛利・石田らと共に  反家康の動きに参加していた  ↓↑  伏見城攻めで奮戦  後  濃州垂井の陣所まで進出し  義弘が率いていた兵数は  1000人ほどで  義弘が国許の家老の  本田正親に宛てた書状で  援軍を求め  新納旅庵・伊勢貞成・相良長泰  大田吉兵衛・後醍院喜兵衛・長寿院盛淳  らを始めとした  譜代衆と有志・志願者の  390人ほどの兵が国許から上京、合流  ↓↑  九月十五日(10月21日)  関ヶ原の戦い  島津隊は3,000余で  松平・井伊隊と交戦  三成の家臣  八十島助左衛門が三成の使者として  義弘に援軍を要請したが  「陪臣の八十島が下馬せず救援を依頼した」  ため  義弘や甥の  島津豊久は無礼であると激怒し  て追い返した・・・  ↓↑  関ヶ原の戦い  14時頃  小早川秀秋の寝返り  石田三成隊  小西行長隊  宇喜多秀家隊  らが総崩れとなり敗走  島津隊(300)は退路を遮断され  敵中に孤立  敗走する  宇喜多隊  小西隊の残兵が  島津隊内に入り込もうとするのを  銃口を向けて追い払い  自軍の秩序を守る一方で  正面の伊勢街道からの撤退を目指し  前方の敵の大軍の中を突破を決意  島津軍は先陣を  豊久、右備を山田有栄、本陣を義弘  で突撃開始  島津隊は東軍の前衛部隊である  福島正則隊を突破  正則は島津軍への無理な追走を禁じたが  福島正之は追撃し  豊久と激戦を繰り広げた  後、  島津軍は家康の本陣に迫ったところで転進  伊勢街道をひたすら南下  井伊直政、本多忠勝、松平忠吉  らが追撃  追撃隊の大将だった  伊井直政は重傷を負い  松平忠吉も負傷したが  島津軍を徳川軍は追撃し続けた  ↓↑  足止め隊戦法  甥・豊久  義弘の家老  長寿院盛淳らが義弘の身代わりとなり  多くの将兵も犠牲になった  家康から追撃中止の命で  義弘自身はかろうじて敵中突破に成功  大和  三輪山  平等寺に逃げ込んで  十一月二十八日まで  七十日間滞在後  帰国  義弘主従は  平等寺社侶たちからの援助によって  難波の港より薩摩へと帰還  その際に  義弘は  摂津国住吉に逃れていた妻を救出  立花宗茂らと合流  共に海路から薩摩に帰還  生きて薩摩に戻ったのは  300人のうち80数名  一方で  川上忠兄を家康の陣に  伊勢貞成を長束正家の陣に派遣し  撤退の挨拶を行わせた  退却戦は  「島津の退き口」  と呼ばれ全国に名を轟かせた  ↓↑  島津家の存続  薩摩に戻った義弘は  徳川に対する武備を国境で固め  一方で  徳川との和平交渉  義弘は  和平交渉の仲介を  関ヶ原で重傷を負わせた  井伊直政に依頼  直政は徳川・島津の講和のために奔走  福島正則の尽力もあった  一方で  近衛前久が  家康との仲介に当たった・・・  ↓↑  慶長五年九月三十日(1600年11月5日)  当主出頭要請を拒み  軍備を増強し続ける島津家の態度に  怒った家康は  九州諸大名に島津討伐軍を号令  黒田、加藤、鍋島勢  を加えた3万の軍勢を島津討伐に向かわせるが  家康は攻撃を命令できず膠着  関ヶ原に主力を送らなかった  島津家には1万を越す兵力が健在で  苦戦すれば  家康に不満を持つ  外様大名が再び反旗を翻す恐れがあった  島津家に圧力をかけていた最中  薩摩沖で幕府が国家運営で行っていた  明との貿易船2隻が襲われ沈められ  黒幕は島津家とされて  武力で島津家を潰せば  旧臣や敗残兵が  海賊集団を結成し  貿易による経済的基盤の  徳川家に対する脅しをかけた  家康は  十一月十二日(12月17日)  島津討伐軍撤退を命令  慶長七年(1602年)  家康は島津本領安堵を決定  島津氏に対する本領の安堵  忠恒への家督譲渡が無事承認・・・  ↓↑  後  大隅の  加治木に隠居  元和五年七月二十一日(1619年8月30日)  死去・享年85(満83歳没)  十三名の家臣が殉死  辞世の歌  「天地(あめつち)の   開けぬ先の 我なれば   生くるにもなし   死するにもなし」  「春秋の 花も紅葉も 留まらず   人も空しき 関路なりけり」  原文は  by wikipedia.org/wiki/島津 ーーーーー  ・・・???・・・日柱に「庚辰」「庚戌」「戊戌」「壬辰」・・・  魁罡=かいごう=会合・改号・解合・海豪・皆合・・・?   罡=罒+正    罒+一+止    コウ    ゴウ    強い・かたくて強い    岡(おか)   「天罡(テンコウ)」    星の名    北斗七星の柄に当たる部分  ↓↑ ↓↑  魁=鬼+斗    魁梧奇偉(かいごきい)    人よりも一回り大きな体格のこと。   「魁梧」は大きくて立派な体格   「奇偉」はきわめて立派なこと    出典『史記(留候世家・賛)』    ↓↑    魁塁之士(かいるいのし)    立派な体格をした人のこと   「魁塁」は他よりすぐれてたくましいこと    出典『漢書(飽宣伝)』  ↓↑ ↓↑    容貌魁偉(ようぼうかいい)    顔つきや体格が大きくて逞しく    堂々としている様子   「魁偉」は立派で大きい体格のこと    出典『後漢書(郭太伝)』           ・・・「郭の太の伝」?           郭務悰           太安万侶  ↓↑ ↓↑   魁罡殺=戊辰・戊戌       庚辰・庚戌       壬辰・壬戌  ↓↑      ↓↑  「戌=河魁」+「辰=天罡」=「魁罡」  ・・・???・・・天羅地網 ・・・  ???・・・「日本書紀、古事記」の謎の人物・・・主魁・首魁?


 ・・・恩着せがましいって・・・アンタだろう・・・  ・・・他人のために復讐(仕返し)・・・?  ・・・自己保身のタメだろう・・・KKK・・・?  「物質存在の条件」・・・有=存=在=或・・・?  「生命の条件」・・・・?  「生物の条件」・・・・?  「人類の条件」・・・・?  「人間の条件」・・・・?  「オンナの条件」・・・?  「オトコの条件」・・・?

 ↓↑  宋果・・・ソウか?・・・緒口(いとぐち)はソウなんだ?    ・・・宋=宀+木・・・宇宙の十(拾・足)の八(捌)         う=鵜(鸕)+記紀             鸕野讚良       果=田(かり・デン)+木           借り・傳(伝)・記紀  ソウカ(ソウクワ=総鍬?蘇鵜鋤?)・・・草加(日下)・総花?  漢幷州・・・幷=幷=干+干        異体字「并」        「竝(並)・倂(併)」              併合・併呑        ヒョウ(ヒャゥ)        ヘイ(ヘィ)        あわせる・ならぶ  刺史(シシ・地方巡回観察官→地方治所観察官)  ↓↑ 前漢     武帝が紀元前106年     全国に十三州を設置し     同時に設置した監察官     州の監察官や行政長官     郡大守を監察する刺史を置いて     各地を巡回させ郡大守を指導     紀元前8年     成帝の時代に刺史は     郡大守と同等の二千石の奉給に     引き上げられ     名称も    「州-牧」と改められた     牧の行政権は     郡を越えて州管轄になり     牧は州内の各郡県の内政に     直接干渉できるようになる     地方官になった・・・  ↓↑  「宋果」  字は仲乙(仲文)・・・仲(人は中)の乙(弟)  扶風郡の人  《後漢書・郭太伝》・・・郭は太の伝?  ↓↑  「宋果」は  軽はずみで荒々しい性質で  他人のために  復讐(仕返し)してやるのが好きだった  ↓↑  「郭太」から  義について諭され  懺悔感服し、叩頭して謝罪  三公の役所から招かれ  侍御史・幷州刺史  となって  彼の赴任先をよく治めた  《後漢書・郭太伝》  ↓↑  郭 泰(カク タイ)  128年~169年  後漢代の儒者  字は林宗  太原郡  界休県の人  八顧の一人  ↓↑  後漢書  編者の  范曄  ↓↑・・范曄     字は蔚宗     先祖は南陽郡順陽県(河南省南陽市淅川県)     会稽郡山陰県(浙江省紹興市柯橋区)にて出生    「言以足志、文以足言。不言誰知其志。     言之無文、行而不遠(春秋左氏伝・襄公二十五年)」  ↓↑  ↓↑     司馬遷は散文体     班固はそれを詩風の韻文体    「述」と称した     范曄は    「述」を    「賛」に改めた    「述」や「賛」は史書の体例となり     巻ごとに一つ書かれるようになった     事柄が多い巻は要約され     内容が空虚な巻は     誇張された     文章となってしまった     形式と内実が乖離し     詳細さと簡略さが符合していない     人の善悪や     歴史上の褒貶を知ろうとするうえで     この形式を利用する必要もない・・・  ↓↑  賛=㚘+貝    夫+夫+貝    夫+二+人+貝    二+人+夫+貝    夫+一+一+人+貝    二+人+二+人+貝    一+一+人+夫+貝    二+人+一+一+人+貝    一+一+人+二+人+貝    一+一+人+一+一+人+貝    サン    たすける    たたえる    ほめる    まみえる・会見する・お目にかかる    たすける・力をそえる    みちびく・引く    すすめる    たたえる・ほめる    文体のひとつ    人をほめたたえる文章    賛辞  ↓↑  が父の諱を避けて  「郭太」  「郭林宗」  と表記  ↓↑  「後漢書・郭太伝」  郭太のことを  「身長八尺、容貌魁偉」と形容  「後漢書巻六十八郭符許列傳第五十八」  ↓↑  危言覈論  (キゲンカクロン)  正しいと思う主張について  激しく議論を戦わせること  「危言」は自身の身が  危険な状況になることを気にかけず  自分の考えをはっきりと言うこと  「覈論」は激しく論じること  出典『後漢書(郭太伝)』  『後漢書・郭太伝』に  「身長八尺、容貌魁偉なり」 ーーーーー

 魁=北斗七星の第1星    魁偉(クワイヰ)    「後漢書・郭太伝・容貌魁偉」    顔やからだが    人並はずれて大きく立派なさま    魁岸(カイガン)    ↓↑  かい(魁)     かしら・頭領     さきがけ・先鞭     北斗七星の第1星  ↓↑  かい‐い(魁偉)ヰ  「後漢書・郭太伝・容貌魁偉」  顔や身体が人並はずれて大きく立派なさま  ↓↑  かい‐がん(魁岸)  容貌の偉大なさま  ↓↑  かい‐けつ(魁傑)  容貌・才幹のすぐれていること・すぐれた人物  かい‐ご(魁梧)  かい‐ご(魁梧)  体が大きくて立派なこと・魁偉  かい‐しゅ(魁首)  かい‐しゅ(魁首)  かしら・長・首魁  かい‐すい(魁帥)  かい‐すい(魁帥)  賊徒などの長  かいすいえん‐やき(魁翠園焼)  御庭焼の一  嘉永(1848~1854)の頃  美濃  高須藩主  松平義建が  江戸角筈(つのはず)の下屋敷  魁翠園で焼かせた陶磁器・角筈御庭焼  ↓↑  かい‐せい(魁星)  かい‐せい(魁星)  北斗七星の第1星=北斗七星(Big Dipper、Plough)  ↓↑        おおぐま座の腰から尻尾を構成する           7つの明るい恒星で象られる星列           北斗・北斗星・七つの星・七曜の星           柄杓の形をして          「斗」の名が付けられている           日本では           四三の星・七剣星           3等星であるδ星を除く           6星は全て2等星

          柄杓の器の部分を作る           天枢、天璇、天璣、天権           4つを           魁(カイ)           柄の部分を作る           玉衡、開陽、揺光           3つを           標、杓(ヒョウ)           あわせて          「斗」と一字でよぶことも           神祇伯家行事傳に           北斗七星の名前とし  ↓↑       「魁𩲃𩵄䰢魓𩳐魒」  魁・・・α星(天魁星)  二十八宿の  奎星(ケイセイ)と混同され  文運をつかさどるとされた  科挙の試験で  進士首席合格者・状元・魁選  さき‐がけ(先駆け・先駈け・魁)  さき‐がけ(先駆け・先駈け・魁)  衆に先立って敵中に攻め入ること  物事のはじめとなること  特に、同類の中で先になること  さき‐が・ける  (先駆ける・先駈ける・魁ける)  他に先立って進む  他よりも先に物事をする  ひと‐ごのかみ(魁帥・首長)  (人ひと兄このかみの意)  上代における一群の人の長  首魁〈神武紀訓注〉  魁=カイ〈クヮイ〉(漢)    さきがけ    (名)いさお・つとむ    さきがけ・まっさき・第一番目    かしら    首領・首魁・巨魁・渠魁    花魁(おいらん)    大きくてすぐれている    魁偉・魁傑 ーーーーー  郭泰・・・郭=廓・曲輪・・・郭務悰・・・ダレ?  (by Wikipedia)  郭泰(カクタイ・128年~169年)  後漢代の儒者  字は林宗  太原郡  界休県の人  名儒を数え上げた八顧の一人  ↓↑  「後漢書」の  編者の  范曄(ハンヨウ・398年~445年)       魏晋南北朝時代の       南朝宋の政治家・文学者・歴史家      『後漢書』の作者       字は蔚宗       先祖は南陽郡順陽県      (河南省南陽市淅川県)の出身       会稽郡山陰県      (浙江省紹興市柯橋区)出生  ↓↑  が父の諱を避けて  「郭太・郭林宗」・・・カクタイ・・・化句臨想?  と表記  ↓↑  范曄・・・范=艹+氾  ↓↑      艹+氵+㔾         ハン         いがた         かた         のり         草の名         虫の名・蜂         鋳型・鋳造の型         のり・法則・規範       曄=日+華         異体字「曅」         ヨウ         あきらか         かがやく         さかん         かがやく・あきらか・ひかりかがやく  ↓↑      さかんなさま  范曄(ハンヨウ・398年~445年)  士族生まれ  祖先の  范晷は  西晋の雍州刺史  曾祖父の  范汪は  東晋の安北将軍・徐兗二州刺史・武興県侯  祖父の  范寧は  臨淮郡太守・豫章郡太守  父の  范泰は  宋の侍中・光禄大夫  死後は  車騎将軍を追贈  范汪は  「博覧強記にして、道理に通ず」  『尚書大事』20巻・『范東陽方』105巻  などを著  范寧は  『春秋穀梁伝集解』12巻を著し  范泰も『古今善言』24巻を著した  范曄には  兄の  范昂、范暠、范晏  末弟の  范広淵  がいた  ↓↑  范曄(ハンヨウ・398年~445年)  無神論者  『後漢書』の中で  人に諂う仏を猛烈に非難  神の不滅  因果応報  の説法を否定  仏教を信じる後漢の  桓帝を風刺  天命論にも反対  「天道の性命、聖人の難言之   況して乃ち憶測を僅かに隠す   猖狂無妄之福   宗親の汚滅を   觖一切の功を以て哉!」  『後漢書・張衡伝』で   大量に、古代の予言書を引用して   史実や論証を述べることに   張衡が反対した話を収録   陰陽の禁忌についての   誤った論を論破・・・  ↓↑  屈伯彦  の学問を学び、三年でこれを修め  墳籍(古代聖賢の手による経籍)に通じ  談論を善くし、その発音は美しかった  洛陽に遊学  賈彪  と共に  太学の冠とされた  当時河南尹だった  李膺は・・・膺=䧹+月・・・贋・雁(鴈)・鷹          广+倠+月          广+亻+隹+月  郭泰を大いに奇とし  親善を結んだ  郭泰の名は洛陽に拡散  司徒の  黄瓊が招聘し  太常の  趙典が  有道に推挙したが、応じなかった  党錮の禍で名士達が被害を受けたが  郭泰  と  袁閎だけが禍を免れた  ↓↑  建寧元年(168年)  陳蕃  竇武  が宦官との抗争に敗れて害され  建寧二年(169年)春、家で死去・享年42  ↓↑  斗と筲  容積を量る器  小さな単位を測る程度の小さな人間 ーーーーー  郭-皇后(カク-コウゴウ)  ?~景元四年(263年)  三国時代の  魏の  曹叡(明帝)の  二番目の皇后  諡号は明元皇后  涼州西平郡の出身  父は郭満  母は杜氏  叔父は郭立  従弟は郭徳・郭建  ↓↑  一ヶ月後  曹叡は死去  曹芳(斉王)は即位後  郭氏を尊んで  皇太后とし  永寧宮と称した  ↓↑  郭皇后  郭聖通  後漢の  光武帝の最初の皇后  文徳皇后郭氏  魏の文帝  曹丕の皇后・明元皇后郭氏  魏の明帝曹叡の皇后・懿安郭皇后  唐の憲宗の皇后・章穆皇后  北宋の真宗の皇后・郭皇后 (宋仁宗)  ↓↑  郭皇后  河右の豪族の娘  西平郡において叛乱が起こり  連座して後宮に没収  黄初七年(226年)  曹叡の即位後  寵愛され夫人(妃の位の一、皇后に次ぐ)  景初二年(238年)十二月  曹叡の病が篤くなると  皇后に冊立  一ヶ月後曹叡は死去  曹芳(斉王)は即位後  郭氏を尊んで  皇太后とし、永寧宮と称した  ↓↑  少帝  曹芳の時代  当初は  曹爽  司馬懿  やその息子たちが実権を握り  皇太后自身には権限がなかった・・・  正始十年(249年)  司馬懿が  曹爽にクーデターを起こし  曹爽・曹芳  らが墓参に出かけた留守に  皇太后の支持を取り付け  正当化・・・  ↓↑  毌丘倹  鍾会  など反逆者たちは  皇太后の命と称して叛乱を起こした  司馬師が  曹芳を廃したときも  名目は皇太后の令を理由としていた・・・  ↓↑  曹芳の廃位後  後継者を決定するとき  司馬師が  曹據を推したのに対し  皇太后は  曹髦を推した  皇太后と司馬師は対立したが  皇太后の主張が通り  曹髦(高貴郷侯)が即位・・・  ↓↑  諸葛誕の反乱  皇太后と曹髦らが親征する形で  司馬昭に奉戴され反乱を鎮圧  曹髦は、専権を極める  司馬昭を排除しようとして失敗  司馬昭の側近である  賈充の部下  成済に殺された  司馬昭は皇太后の令と称し  「帝が皇太后を害しようとしたため殺害された」  と理由を付け  司馬昭が  曹髦  を庶民の格式で葬ろうとすると  司馬孚は反対し  皇太后に上奏し  王の格式で葬る許可を取り付け行わせた  景元四年(263年)十二月に死去  景元五年(264年)二月  曹叡の高平陵の西に埋葬された  ↓↑  拳拳服膺  人から教わった事や言葉などを  決して忘れることなく  常に心に留めて大切にすること  「拳拳」は  丁寧に両手で捧げるように持つこと  「服膺」は  胸に付けるということから  心に留めるという意  出典『中庸(八)』  銘肌鏤骨(メイキルコツ)  銘心鏤骨(メイシンルコツ) ーーーーー  ・・・???・・・メイキルコツ(明記留兀)・・・兀?  兀⇔π(パイ・pie)・・・π

 円周率=円の周長の、直径に対する比率=π=3.14159 26535・・・  (π=ペリメトロス・ペリペレイア)  半径 R の円周の長さ  半径 r の円板の面積=πr²  ↓↑  アルキメデスは  正96角形を用いて  半径 r の球の体積=4/3πr³  ↓↑  この球の表面積=4πr²  その球の大円による切り口の面積の4倍  祖沖之(五世紀、中国)  小数点以下第6位まで弾き出した  ・・・無駄な「あんき」・・・嫌いだけれど・・・  ・・・思考、構成と判断の原材料・・・  あんき=安藝=安徽=暗鬼=安危=諳記=暗記・・・闇に記すって?


 ・・・「もののあはれ(もののあわれ、物の哀れ)」って?      モノの泡 例・・・bubble(バブル)の膨張破壊、崩壊        「阿波・安房」の例・・・                レイ=lei=ハワイ語「Leiは愛しい人                   絆・親愛・首にかける花輪」の意

  ククイの実・・・「苦悔の身」・・・アロハ、ッ?  ・・・諸行無常(巴:sabbe saṅkhārā aniccā)     この世の現実存在(森羅万象)は     すべて、すがたも本質も     常に流動(循環)変化するものであり     一瞬といえども     存在は同一性を保持することができない・・・     と、認識思考するのは生きている「人間の脳ミソ」・・・    「諸行」とは・・・言(ことば)の十一の日は云い歩く?     ↓↑         言葉を 拾う始めのヒの行(アン)             説法者の安行・・・生知安行?       ・・・諸=言+者(もの・は・シャ)          行=彳(テキ・少し歩む            +  彳+亍=少し歩いて立ち止まる)            亍(チョク                とどまる・たちどまる                すこし歩く・狭い歩幅で歩く)            彳+一+丁            ギョウ・・・行間・行政・行幸・行事            コウ・・・・銀行            アン・・・行灯・行燈            いく・ゆく            おこなう            しぬ            みち            やる            ゆく・いく・歩く・進む・めぐる            動かす・やる・ゆかせる            行為・行動            おこなう・する・なす            みち・道路・みちのり            ゆくゆく・歩きながら            みちすがら・ゆきゆきて            たび・旅行・航行・孝行            経る・経過する・巡(めぐ)る            行書            おこない・ふるまい・よいおこない            ならび・行列・文字列・行間            みせ・商店・仲介所・行商     ↓↑      兄弟の順序     因縁によって起こる     この世の     現象(サンカーラ)・・・太陽の光彩?・・・色     を指し    「無常」とは     一切は常に変化し・・・一切合財=一切合切=全部?     ↓↑          合財袋・信玄袋・明治歩兵の背嚢                背負い行李(桑折)           ランドセル=オランダのランセル(ransel)の訛った語           高野長英の『三兵答古知幾( 1850年)⇔戦争論』           に「担筪(らんとるす)=背負い鞄(カバン)」          「school satchel・school bag」           リュックサック          (独 Rucksack・蘭 rugzak・英 rucksack・背に負う袋)           モッコ           畚(もっこ・ふご)=縄、竹、蔓(つる)などを                     網状に編んだ運搬用具           おんぶもっこ・子守帯         「行嚢(コウノウ)」=郵袋 (ユウタイ) の旧称(郵便袋)     ↓↑    「巾着袋=外交行嚢(外交封印袋)」           笈(おい・キュウ・キフ             おいずる・ふみばこ)           背に負う物           修験者、山伏などが           仏具・衣服・食器などを           収めて背に負う箱           笈           本を入れて背負う箱           荷物や書籍を入れて背負う竹製の箱          「書笈・負笈(フキュウ)」           箱笈・板笈           箱笈は内部が上下2段に仕切られ           上段に五仏を安置           下段に念珠,香合,法具を納める           扉には鍍金した金具を打ったり           木彫で花や鳥を表わし           彩漆 (いろうるし) で彩色し           鎌倉彫の装飾を施したものも           正先達の負うものを縁笈           初心者の負うものを横笈           板笈           背負子(しよいこ)を改良           枠を組んで板をはり           背板に品物を縛りつけて檀板でしめ           反対側に背負い紐をつけたもの           箱笈           縦長の四角い箱に短い4本足をつけたもの           行脚僧(あんぎゃそう)           修験者(しゅげんじゃ)           などが旅をするときに背負って用いた     ↓↑     不変のものはない(アニッチャ)という意・・・?              豈 土 哉?             ・・・土=戊己=十+一=拾う始め(初・肇)  ・・・ソウですか・・・  ・・・執拗に「郭=享+阝=亠+口+了+一+阝」を調べる・・・執着           享=うける・あたる・あてはまる・かなう          星亨(ほし・とおる)=刺客、伊庭想太郎に暗殺          嘉永三年四月八日(1850年5月19日)          ~          明治三十四年(1901年)6月21日  ↓↑      ↓↑          庚戌(辛丁戊)比肩・偏印 衰⇔辛丑          辛巳(戊庚丙)劫財・比肩長生⇔甲午          庚午(丙 丁)  ・印綬沐浴⇔庚午           戌亥空亡   大運1896年5月⇔丙戌・偏官          壬午(丙 丁)食神・印綬沐浴⇔甲申  ↓↑       ↓↑          江戸築地の小田原町(東京都中央区築地)          左官屋の子          維新後に横浜税関長          渡英して弁護士資格を取得          明治十五年(1882年)          自由党に入り         「自由新聞」により藩閥政府を批判          明治十六年(1883年)          福島事件で          河野広中を弁護          明治十七年(1884年)          官吏侮辱罪に問われ          明治二十年(1887年)          保安条例発布で東京を追われた          明治二十一年(1888年)          出版条例違反で入獄          明治二十五年(1892年)          第2回総選挙で当選          衆議院議長          第4次伊藤内閣で          逓信相          東京市疑獄事件で辞職          明治三十四年         (1901年)6月2日午後3時過ぎ          東京市議会議長であった時          収賄などの噂?で  ↓↑       伊庭想太郎に刺殺・・・  郭文貴・・・?・・・ダレ?  ↓↑  「ニュースの解説」って?  「タマネギ談釈」か?「法螺吹きダンシャク」か?  Kuk Cho・・・?・・・ダレ・・・  プチブル社会主義者の妄想と現実・・・?  ↓↑  「ニュース(news・報道・情報)=new+s」   ・・・「ニューズ(英)・ヌーズ(北米)」       語源=方角の「北東西南」の      「North、East、West、South」       の頭文字だという意は誤解       知らせ・情報・変わったこと       消息・便り・噂(うわさ)・風聞  ↓↑    ↓↑      nouvelles(仏)     ヌーベルバーグ(仏語 Nouvelle Vague)             仏=イ+ム=佛=イ+弗                 ム(よこしま)=弗(ドル)     1950年代後半~1960年代前半     フランス     商業映画に束縛されず     自由な映画制作を行なった     若手グループの映画    「新しい波」の意     ヌーヴェルヴァーグ    (フランス語 Nouvelle Vague)     ヌーベルバーグ     ヌーヴェル・ヴァーグ     とも     ゴダール(Jean-Luc Godard)     ハンス・リュカス(Hans Lucas)    『勝手にしやがれ    (A bout de souffle・Breathless1959年)』  ↓↑    ↓↑     庚午(丙 丁)正財・比肩建禄⇔己亥 食神     丁亥(戊甲壬)比肩・正官 胎     丁亥(戊甲壬)  ・正官 胎      午未空亡    1952年6月 庚寅 正財     丙午(丙 丁)劫財・比肩建禄  ↓↑    ↓↑       neues(独)       novedades(西班牙)       novita(伊)・・・ノビタ⇔伸太?  ↓↑    ↓↑       ニュースアナリスト(news analyst)       announce       アナウンス・伝える・知らせる       ニュースや案内などの告知・御布令       情報伝達       公表・発表・・・周知       announcement       アナウンスをする       告示・告知・予告・公告       make an announcement       アナウンスを繰り返す       repeat an announcement       アナウンスメントゥ       announcement       アナウンス効果       announcement effect.       ニュース解説者       announcement  ↓↑  の  「解説(commentary・explanation)      synopsis・summary(梗概・要約)」   ・・・news commentary   ・・・news commentator   ・・・解説委員(news commentary)  って、ナニ・・・?・・・事実の説明者・・・屁理屈者?  ・・・「事実に説明」が必要らしい・・・ナゼ?  ・・・「状況、事態の発端、過程、結果      現実、事実の因果関係の      是非、真偽、真贋の可否を      自分の脳味噌のコトバで判断      理解出来ない」から・・・      ・・・Vocaboly(ボキャボリー・語彙)不足      ・・・言語文法の理解力不足  で、売文、売言の  ・・・「屁理屈・法螺吹き」のコトバの補強が必要・・・?  他にも・・・「unveil・reveal」・・・「暴く」がアル・・・?  ↓↑  by ja.wikipedia.org/wiki/  ↓↑  ロバート・クオック  (Robert Kuok Hock Nien   郭鶴年・・・郭(くるわ)の鶴(つる)の年(とし)  (カクカクネン)   1923年10月6日~)   マレーシアのクオック・グループ   香港のケリー・プロパティー   郭一族は東昇公司時代に   ジョホールの   スルタン・イブラヒム   親密な関係を築き   後も   スルタン・イブラヒムの孫   がPPBの総務部長兼取締役   トゥンク・オスマン(Tunku Osman Ahmad)   がプランギ社(Pelangi Bhd.)の会長   アジアの   製糖業・・・・・砂糖(サトウ)・・・甘いサトウ・・・   に影響力を有す・・・あまいザイバツらしい・・・  ↓↑  郭淮  ↓↑  by Wikipedia  郭 淮(カクワイ・? ~255年)  後漢末期から三国時代の  武将・政治家  魏に仕えた  『三国志・魏志「満田牽の郭伝」』    ・・・魏志「満・田・牽・郭・伝」  字は伯済・・・百済?  并州太原郡・・・并の州の太の原の郡  郭淮の一族  晋代にはそれぞれ高官  小説『三国志演義』では  自分で射た矢を  ↓↑  姜維・・・姜維(キョウイ・かんい?)  ↓↑    建安七年(202年)       ~        景元五年一月十八日(264年3月3日)       魏・蜀漢に仕えた       字は伯約       涼州       天水郡       冀県の出身       父は姜冏       妻は柳氏  ↓↑    子孫に唐の姜恪  姜維・・・  に射返され落命(『三国志演義』)  ↓↑  祖父は郭全  父は 郭縕  弟は 郭配(賈充・裴秀の妻の父)・郭鎮  子は 郭統  孫は 郭正  甥は 郭奕  姪は 郭槐(賈南風の母)  ↓↑  建安年間(196年~220年)・・・建(たける)を                  安(やすんじる)  孝廉・・・孝(十一の了と一)の       廉(廉価・かど=理由・・・事件のカド         取り上げるべき事項・理由となる事柄)  で推挙され  平原の丞  曹丕  が五官将になると  郭淮  は召し出され  門下賊曹  に加えられたが  間もなく  曹操へ付き  漢中征伐に随行  漢中制圧後  夏侯淵の司馬  としてその地に残り  劉備に備えた  劉備軍侵攻の際は病気で不参戦  219年  定軍山の戦い  夏侯淵が討たれると  郭淮  は混乱する兵士を取りまとめ  杜襲  と協力して  張郃  に司令官を代行させ  劉備の侵攻を防いだ  曹操は漢中に到着し  張郃・・・・・・・・張=弓+長  ↓↑         郃=合+阝              亼+口+阝              人+一+口+阝              コウ           「郃陽」=陝西省県名  ↓↑         陝西省を流れる川の名  に仮節し  漢中駐留軍の司令官とした上で  郭淮  をその司馬に任じた  ↓↑  220年  曹丕  が王位につき  郭淮  は関内侯の爵位を与えられ  鎮西長史(曹真の長史)に転任  征羌護軍も兼任し  張郃・楊秋を監督  賊を討伐し  関中に平和  民衆を安んじた  ↓↑  同年  曹丕(文帝)が  帝位に就く祝賀に出向いたが  途上で病気に罹り  彼が参内した頃には祝宴が行われ  曹丕は彼を咎めた  古の例を取って非難する曹丕に対し  郭淮はそれを逆手にとって弁明  曹丕に気に入られ  仮の雍州刺史に任命され  5年後に正式な雍州刺史となった  羌族らの反乱を鎮圧し  降伏者が訪れてきた  予め相手の親族関係などを  調査してから面会し  ↓↑  228年・・・・・・・干支=戊申            神功皇后摂政二十八年            皇紀888年            魏 : 太和二年            蜀 : 建興六年            呉 : 黄武七年          高句麗 : 東川王二年          新羅 :  奈解王三十三年          百済 :  仇首王十五年  蜀漢軍が祁山に侵攻  郭淮は  上邽に馳せ還った  諸葛亮は  街亭に  馬謖を派遣し  列柳に  高翔を駐屯させたが  張郃が馬謖を  郭淮が高翔を攻め  これを破った(街亭の戦い)  隴西郡の  羌族を  枹罕で破り  建威将軍に任命  ↓↑  229年  蜀の  陳式が武都・陰平を攻撃  迎撃したが  諸葛亮自ら  建威に出陣してきたため敗れ  両郡を奪われた(諸葛亮伝)  ↓↑  230年  蜀の  魏延が  羌中に侵攻  費耀と迎撃に出たが  陽谿で敗れた(魏延伝)  ↓↑  231年  諸葛亮が  鹵城に攻め  曹真  に代わって指揮官となった  司馬懿の下  戴陵や費耀とともに  上邽で  諸葛亮を迎撃したが敗れた  (「諸葛亮伝・漢晋春秋」)  羌族を手懐け兵糧を提供させ  揚武将軍に任命  ↓↑  234年  斜谷に攻めてきた  諸葛亮は  蘭坑で屯田を始めた  長安方面への攻撃計画を見破り  迎撃して防衛に貢献  諸葛亮が西方に軍を進めると  陽遂が攻撃されると予想し  これを防いだ  ↓↑  238年・・・・・  蜀の  廖化が守善羌侯の宕蕈を攻撃  王贇・游奕に廖化を挟撃させた  郭淮の上奏を受け  曹叡(明帝)は  「軍隊の配置は分離を避けるもの」  として急ぎ詔勅を下したが  届く前に  王贇・游奕は廖化に敗れた(「明帝紀」)  ↓↑  240年・・・正始元年(240年)        帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ        詔書、印綬を奉じ        倭王に拝受させた  蜀の  姜維が隴西に侵攻  これを防いだ  羌族の  迷当を攻撃  氐族3000余部を降参させ  関中に強制移住させた  左将軍に昇進  涼州の  休屠胡である  梁元碧が  雍州に帰順  郭淮は  安定郡高平に移住させることを要請  彼らのために  西州都尉の職を設置するよう取り計らった  後に前将軍へ転任となったが  州の宰領は元通り執り行なった  ↓↑  244年・・・正始四年(243年)12月        倭王は大夫の伊聲耆        掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣        掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた        正始六年(245年)        難升米に黄幢を授与        正始八年(247年)        倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣        狗奴国との戦いを報告        魏は張政を倭に派遣し        難升米に詔書、黄幢を授与  曹爽  が蜀征伐の軍を起こす  郭淮  も夏侯玄の下で先鋒として従軍  形勢不利で  郭淮は味方の軍を脱出させ  大敗させずに済んだ(興勢の役)  帰還後、仮節された  ↓↑  247年~248年・・・卑弥呼(生年不明?242年~248年)  ↓↑        姜維  と  廖化  は  蛾遮塞  治無戴  といった  羌族と手を結び  魏に侵攻  諸将が  郭淮の  軍を分けて  廖化を攻めるべきという判断に反対  郭淮はそれらの反対を退け廖化を攻撃  夏侯覇を  姜維に当たらせた  結果  郭淮の読み通り  姜維は廖化を救援し  そのまま敗走  都郷侯に昇進した。  ↓↑  249年・・・・・・卑弥呼(生年不明?~242年~248年)  夏侯玄に代わって  征西将軍・都督雍涼州諸軍事  対蜀軍戦線の総司令官  不仲だった  夏侯覇は不安を覚え  蜀に亡命(「諸夏侯曹伝・魏略」)  陳泰と協力し  蜀の  句安らを降参させた  ↓↑  250年  車騎将軍・儀同三司に昇進  都督雍涼諸軍事を兼務  陽曲侯に封じられ  子が亭侯に採り立てられた  ↓↑  251年  王淩が  皇帝廃立を目論んで  司馬懿に討伐され  自害(王淩の乱)  郭淮の妻が王淩の妹で  妻は罪人として  中央に赴くよう要請  郭淮の配下や周辺の部族長が  挙って郭淮の下へ押し寄せ  助命を嘆願したが  郭淮は聞き入れなかった  妻が雍州を離れることになった際  子供たちが額から血を流すほどに  叩頭して請願したため  郭淮はそれを見過ごすに忍びず  妻を取り返した  司馬懿に言上し  司馬懿はその言を受け  彼らの罪を不問とした(『世語』)  ↓↑  255年  死去  大将軍を追贈  貞侯と諡された  子が跡を継いだ  郭淮の一族は  晋代にはそれぞれ高官に昇った・・・ ーーーーー  郭淮 (カクワイ)  妻は王夫人で王凌の妹  王允の姪にあたる女性  郭淮との間に5人の男子を儲けた  後に王凌はクーデターを画策し  自殺  弟に郭配、郭鎮、郭亮  甥たちも含めた  郭一族は  魏晋に栄達 ーーーーー  郭解の子孫  郭解は一族皆殺しにされたはずであるが  子孫を名乗る者が後漢書に立伝  ↓↑  郭 伋・・・「イ+ 伋」、汲、級、吸、扱  字を細侯  郭解が移住した茂陵の人  郭解の玄孫(孫の孫)  父の  郭梵は蜀郡太守  ↓↑  郭 伋  字を細侯  郭解が移住した  茂陵の人  郭解の玄孫(孫の孫)  父の  郭梵は蜀郡太守  ↓↑  郭 伋  前漢哀帝・平帝の間  三度遷って  漁陽都尉・・・現在の北京市、天津市、河北省の一部に相当  ↓↑  王莽  新王朝時  上谷の太守  并州牧に遷った  (漁陽・上谷は隣接   匈奴・烏桓と境を接し   侵略が多く統治の難しい場所   并州は漁陽らが含まれる   幽州の隣であり   異民族に悩まされていた州)  ↓↑  新王朝が滅び  更始帝  更始帝は  郭伋を召して  左馮翊に任命し  民を鎮撫させた  ↓↑  更始帝が破れ  光武帝が即位  雍州牧として  異民族と境を接する  涼州へ赴任し  呼び戻され  尚書令に任命され度々諌争した  ↓↑  建武四年(28年・戊子)・・・建武                後漢の光武帝劉秀の                最初の元号  中山太守  建武五年(29年・己丑)  漁陽太守に遷った  ↓↑  郭伋は信賞必罰を徹底  盗賊の首領を次々と誅した  ↓↑  匈奴に対し  兵と馬を整備し  攻守の計略を徹底した  在職五年間で人口は倍になった  ↓↑  建武九年(33年・癸巳)  潁川郡で盗賊が多発  郭伋が太守として赴任  ↓↑  郭伋  潁川郡に到着し  群盗の罪を赦すと言い招き寄せ  赦しを乞うた群盗を  郭伋はみな帰農させた  ↓↑  郭伋は勝手に群盗を赦したことを  光武帝が咎めることは無かった  ↓↑  郭伋の名は  江南まで及び  昔赴任した  幽州冀州からも続々と  盗賊が降服  ↓↑  建武十一年(35年・乙未)  光武帝に従わない  盧芳が北方を占拠し  再度  郭伋を并州牧とし対抗させ  光武帝は  盧芳  匈奴  の難に対処できるのは  郭伋  しかいないと  朝廷へ召還することはなかった  ↓↑  盧+α・・・  ↓↑  鸕鶿草葺不合(うがやふきあえず)尊  鸕鷀草葺不合  鵜葺草葺不合  ↓↑  天津日高日子波限建-鵜葺草葺不合命  彦波瀲武     -葺不合命  彦波瀲武     -鸕鶿草葺不合尊  日子波瀲武    -葺不合命  ↓↑  鸕=盧+鳥  ↓↑  盧芳・・・新代~後漢時代初期の武将  ↓↑   字は君期       涼州安定郡三水県      (寧夏回族自治区同心県)の人       兄は盧禽       弟は盧程       北方辺境で活動       一時、皇帝を自称       新末後漢初の群雄の1人       王莽の統治期       盧芳は       武帝の曾孫・劉文伯を自称       三水県の北方民族と共に挙兵       更始二年(24年・甲申)・・・更の始、甲の申(猿)       更始帝(劉玄)が長安に遷都       盧芳は騎都尉に任命され       安定以西の鎮撫を命じられた       更始三年(25年・乙酉)       更始政権滅亡       三水の豪傑たちは       漢の皇族を自称していた       盧芳を上将軍、西平王として擁立       西羌、匈奴と和約を結び       匈奴の       単于(単于與)は配下の       句林王をして       盧芳、盧禽、盧程を       匈奴支配地域に招き       盧芳を漢の皇帝として擁立       建武四年(28年・戊子)       単于輿は       無楼且渠王を遣わし       李興、閔堪など       并州に割拠していた群雄と和親       盧芳を漢皇帝として       内地に還したいと告げ       建武五年(29年・己丑)       盧芳は       李興、閔堪らから迎え入れられ       九原県(五原郡)を根拠地とし       北方辺境を割拠し       五原、朔方、雲中、定襄、雁門       5郡を占領       建武六年(30年・庚寅)       盧芳       は腹心の五原太守       李興とその兄弟を誅殺し       腹心の       朔方太守       田颯       雲中太守       橋扈が       盧芳に反して       光武帝(劉秀)に降った       盧芳は       後漢の       大司馬呉漢や       驃騎大将軍杜茂の度重なる討伐を撃退       建武十二年(36年・丙申)       盧芳が雲中を攻略でず       部将の      「随育」       から光武帝に降伏するよう脅され       盧芳は軍を放棄し       匈奴の支配地に逃げ込んだ       建武十六年(40年・庚子)       盧芳は高柳(代郡)に入り       閔堪とその兄       閔林を使者とし       光武帝に降伏を申し入れ       光武帝は盧芳を代王に封じ       閔堪を代の相       閔林を代の太傅       に任命       盧芳らに匈奴との修好を担当させた       建武十七年(41年・辛丑)       入朝を求める       光武帝からの詔を受け       盧芳は洛陽へ向った       途中で       光武帝は       入朝は次の年      (建武十八年・壬寅)に延期       疑心を抱いた       盧芳は       代に戻って再び反逆       部下の       閔堪や閔林と数ヶ月にわたって       攻防戦       匈奴の救援を受け       妻子と共に匈奴支配地域へ引き返し  ↓↑    盧芳は、10年余り後に同地で病没  盧芳の将であった  随育(隋育・ズイイク)・・・随の育?  が寝返り  盧芳は匈奴の地へ落ちた  ↓↑  建武二十二年(46年・丙午)  郭伋  は老病であると上書し  并州牧の罷免を願った  光武帝は  郭伋を  太中大夫  に任命し、朝廷へ召還  光武帝は莫大な財を  郭伋に与えたが、  自らの死期を知って  郭伋はすべての財産を  親族へ分け与えた  翌建武二十三年(47年・丁未)  激動の時を生きた  郭伋  は八十六歳で死没  光武帝は葬式に列し  郭伋の死を悼み、墓を下賜  「後漢書・列伝二・盧芳伝」・・・ ーーーーー  郭文貴・・・?  「江沢民ファミリーの   海外資産は   1兆ドル」・・・???  郭文貴  が暴露 (2019年6月4日)  米国に亡命した中国の富豪  郭文貴は  自身のSNSで  江沢民一族が海外で  1兆ドルもの資産を有していると述べた  そのうち  5000万ドルはすでに洗浄  郭氏  4月13日  ユーチューブで発表  ↓↑  郭嘉  郭鎮、郭賀と郭禎、郭禧、郭鴻  『後漢書』列伝2・盧芳伝  ・・・???・・・


 甜瓜(テンカ)・・・千の口の爪の厶がメロンって?

 瓢箪(ひょうたん)も瓜(うり)の類(たぐい)だけれど・・・

 マクワウリ(真桑瓜・Oriental melon)  北アフリカや中近東地方の原産で  紀元前2000年頃に栽培が始まり東西に伝わった・・・  SK・NK・一K・・・「チャメ」?・・・「うり」は帰化人だったろう?  「近親の利害関係の愛も憎悪怨恨」も「他人の比」じゃないから・・・?  ↓↑  敦化市(トンカシ)・・・敦煌・敦厚・惇厚  ↓↑          呉郭魚=鰉=かわスズメ              ナイルティラピア=イズミダイ・チカダイ              1946年台湾でシンガポールから              カワスズメが導入され              導入者である              呉振輝              と              郭啓彰の姓を取った              呉郭魚              の名で養殖された               鰉=ひがい・ カイ・テラピア(Tilapia)  ↓↑              異体字「鳇・鱑=魚+黄」  吉林省  延辺  朝鮮族自治州の県級市  朝鮮族が人口の約5%  市名の由来は中庸に  「大徳敦化」  あるのによる  古代  渤海国  初期の都城が所在した  ↓↑  敦煌・・・北緯40度06分 東経94度39分  (とんこう・ドゥンファン・Dūnhuang)  中国と西域との出入口  甘粛省  北西部の都市  酒泉市の管轄下の県級市  シルクロードの分岐点として  栄えたオアシス都市  近隣にある  莫高窟  敦煌文書は有名  歴史的な敦煌は  敦煌市  と  瓜州県・・・瓜(うり)の州の県(懸)  を合わせた  領域に  ほぼ重なる  ↓↑  紀元前2世紀前半  匈奴の  冒頓単于が  月氏を攻めて支配した  武帝の代  西域に積極遠征を行い  敦煌郡を設置  設置年代は  紀元前111年・・・壱壱壱・百拾壱  だが  紀元前92年ごろの  李広利  将軍の  大宛(フェルガナ)遠征の際に設置・・・説  この地の住民  漢政府により送り込まれた  窮迫農民  犯罪者で  敦煌の住民が  漢の中心地へと帰ることは禁じらた  ↓↑  五胡十六国時代  中央から自立した  西涼の首都  沙州(敦煌市沙州鎮)  瓜州(敦煌市)  と呼ばれ  西涼は  北魏  によって滅ぼされた  魏晋南北朝時代  仏教が中国に布教した時代で  この地では  竺法護などの僧が  西方よりやってくる経典の訳に励み  布教に貢献  366年  僧楽僔(らくそん)  によって  莫高窟  の掘削が始まった  五胡十六国時代から  敦煌は  張氏・索氏・令狐氏・范氏・宋氏  五家の名族によって実質支配され  名族社会を形成  ↓↑  唐代  西域への玄関口  安史の乱で  唐政府の統制力が弱まり  781年  吐蕃の侵攻を受け  786年以後70年間  吐蕃の支配下  摩訶衍  が吐蕃へ禅を伝えたが  カマラシーラ(蓮華戒)  との  サムイェー寺の宗論に敗れ  中国仏教は追放された  吐蕃が唐と対立すると  吐蕃の支配下では交易が行われず  敦煌は衰退  851年  漢人の  張議潮  が  吐蕃に反乱を起こし  独立し  唐に帰順して  帰義軍節度使に任じられた  唐政府の権威は衰え  実質的には独立勢力であった  張議潮勢力の下で交易は再開された  曹氏が・・・曹?  帰義軍  の勢力を引き継いだ  ↓↑  北宋代  タングートが  西夏を建て  1036年にこの地を占領  敦煌文書が  莫高窟の  耳窟  の中に放り込まれ  入口を塗り込められた  1227年  モンゴル帝国が  西夏を滅ぼし  元の支配下に入る  中国と西方を結ぶルートが  シルクロードから  南方の海の道へと移行し始め  寂(さび)れた  ↓↑  1900年  この地にいた  道士  王円籙(オウエンロク)  が  莫高窟中の  第16窟の壁の中に隠されていた  耳窟(第17窟・蔵経洞)  から大量の文献を発見  地方官と  王円籙は学術的見識を有さず  文書は放置された・・・  ↓↑  ウズベキスタン・ソグゾ(粟特・古波斯語・Suguda・Sogdiana)          ソグディアナ  ↓↑  桜蘭=クロライナ    (クロラインナ、Kroraina、Kroraimna)の音訳     鄯善国の首都  楼蘭(Loulan・現地名はクロライナ Kroraina)  中央アジア  タリム盆地の  タクラマカン砂漠北東部  (新疆ウイグル自治区チャルクリク)  かつて存在した都市、国家  「さまよえる湖」  ロプノールの西岸に位置  シルクロードが  西域南道と天山南路に分岐する要衝にあって  栄えた  紀元前77年  漢の影響下で国名を  鄯善(shan shan・ゼンゼン)と改称  楼蘭の名は長く用いられた  4世紀頃  ロプノールが干上がり  国力も衰え、やがて砂漠に呑み込まれた  1900年  スウェーデンの探検家  ヘディンによって遺跡が発見  ↓↑  手紙は匈奴の君主  冒頓単于が  前漢の  文帝に宛てて送ったもの中に  冒頓単于は月氏に対して勝利し  楼蘭(ロウラン)  烏孫(ウソン)  呼掲(コケイ)・・・「袁紇・烏護・韋紇」などとも記録  及び近隣の26国を平定したと宣言  この手紙は  文帝の四年(紀元前176年)に送られたもので  楼蘭は少なくとも  紀元前176年以前に形成され  月氏の勢力圏にあった  紀元前176年頃  匈奴の支配下に入った  『漢書』西域伝  西域を支配下にいれた匈奴は  焉耆、危須、尉犁  の間に  僮僕都尉を置き  楼蘭を含む西域諸国に賦税し  河西回廊に数万の軍勢を置いて  交易を支配 ーーーーー  ・・・???・・・  葛籠(つづら)  ツヅラフジのつるで編んだ  蓋つきの籠の一種  竹を使って網代に(縦横の組合わせ)  編んだ四角い衣装箱  ↓↑  つづら=葛篭・防己・黒葛・黒桂・綴ら  ↓↑  西域・・・中国洛陽、日本からみた西  高昌国  楼蘭  敦煌・瓜州・・・メロンの特産地だった?  莫高窟(バッコウクツ・Mogao Caves)      敦煌石窟  ↓↑  火焔山  烏魯木斉(ウルムチ)・ウル・ウルク            ・うり・うりく  ウズベキスタン(Uzbekistan・・・渦壁州旦?                  碓(摸)経記州譚?          オズベキスターン・Oʻzbekistoni)          北緯37度~46度          東経56度~74度          月即別・月祖伯          烏茲別克斯坦          烏茲別克  ↓↑  主要都市  首都タシュケント  アンディジャン・ブハラ  サマルカンド  ナマンガン・ヒヴァ  ↓↑  敦煌  楼蘭  キョウダン=杏壇・・・孔子廟       =教団・凶弾・教壇        狂壇・経壇・兇弾  ↓↑  粟=覀+米     ショク     ソク     ゾク     あわ・・・慌(あわ・あは)てる     ふち     もみ     イネ科の一年草     ふち・扶持米     もみ・穀物の外皮がついたままの実     つぶ・あわつぶに似たもの  ↓↑  ↓↑     地名     粟 (あわ)     粟井(あわい)・粟佐(あわさ)     宍粟(しさわ)・白粟(しらわ)  ↓↑  ↓↑     諺・・・粟(あわ・ゾク)     貫朽粟陳(カンキュウゾクチン)         財産の貯めすぎで腐る  ↓↑  ↓↑     滄海一粟(ソウカイのイチゾク)         大海一滴・九牛一毛  ↓↑  ↓↑   粟散辺地(ゾクサンヘンチ)         辺境にある小さな国   粟散辺土(ゾクサンヘンド)     辺地粟散(ヘンチゾクサン)  ↓↑  ↓↑     粟粒一炊(ゾクリュウイッスイ)         人の世界での繁栄は儚い        『枕中記』         一炊之夢         栄華之夢         邯鄲之夢         黄粱之夢         盧生之夢  ↓↑  ↓↑   ↓↑  ↓↑   斗粟尺布(トゾクシャクフ)     尺布斗粟(シャクフトゾク)         兄弟の仲の悪さの災い  ↓↑  ↓↑   布帛菽粟(フハクシャクゾク)         衣食をする上で必要なもの ーーーーー  申し訳ない・・・  ・・・滅茶苦茶な自己納得の蘿、蔦、葛のような文字の羅列・・・?  ↓↑  ↓↑  「葛=本草和名(918 年)」  vine=つる植物・つる草・かずら     自らは直立できず、他の植物に絡んだり     物の表面をはって伸びる植物の総称     vain(ヴァイン・ワイン)  それでも・・・  vine nursery=ブドウ園  vine of ore=金脈単語帳  vine peach=マンゴーメロン  vine snake=ツル蛇  vine tomato=枝付き赤茄子(トマト・苫と)  balloon vine=風船カズラ  black vine weevil=キンケクチブトゾウムシ(金毛口太象虫)           果樹につく害虫  chocolate vine=木通(アケビ)・通草  cinnamon vine=長芋(ナガイモ)  clinging vine=まとわりつく蔓         他人にまとわりつく人         そばを離れない人         ベッタリくっつくヒト         うっとしい(鬱陶しい)迷惑なヒト         邪魔になってうるさい・煩わしい         しつこい  grape vine trellis→ grapevine trellis  ivy vine=ツタのつる  jade vine=翡翠葛(ヒスイカズラ)  kudzu vine=クズ  lace-flower vine=レースフラワーバイン          イワたばこ  love vine=ネナシカズラ(菟糸=役立たず)・・・訳立たず?  Madeira vine=アカザカズラ( 藜蔓)         ウンナンヒャクヤク(雲南百薬=ユンナンパイヤオ)         オカワカメ(陸若布)         リュウキュウヒャクヤク(琉球百薬)         マデイラカズラ  matrimony vine=クコ(枸杞)  muscat vine=マスカット  ↓↑  ↓↑  蘿、蔦、葛(arrowroot・クズウコン=葛鬱金・宇金・郁金・玉金      アロールート)は  薬(くすり)  葛籠(つづら)の原材料・・・  藤原(鎌足・中臣鎌子)  葛城皇子(中大兄皇子・天智天皇)・・・  葛=くず=屑・国栖・頽・九頭・・・? ーーーーー  ・・・アンタは人間のクズ、ってか・・・


 「用心棒」も  「椿三十郎」も  「金魚の糞」に・・・トランプ・金・文・・・  「あばよ」・・・  アバヨッ!!・・・でアルが、天神様の怒りにはドウショウもない?   ↓↑  「さらばよ」の略  「また、逢はばや(あはばや)」の転  「ああ、あれは」  という感動を示す語  「あは」に  助詞の「よ」がついたもの  「按配よう(あんばいよう)」の略語・・・  「あばあば」はあばよの幼児語  「按配よう(あんばいよう)」  「さあらばよ」  「按排良い」  「失礼します   それでは   では、バイバイ   じゃあ、さらばよ   さらば   あばよ   ↓↑  「阿婆擦れ(あばずれ)」・・・「粟・安房・阿波・泡・会わ」ズレ?   ↓↑  「あば=新品」・・・熊本弁   ↓↑  「虻=あぶ    =阿部・安部・安歩・阿武・阿毎              ・・・阿毎王朝⇔煬帝(隋)    =焙・炙・危・蝱・煬   ↓↑  「網走」・・・血走り・地走り・・・「鼠、龍、吹雪、砂塵」の地走り   ↓↑     ↓↑         千葉尻         房総半島(ぼうそうはんとう)・・・阿波からの移住         南を「カミフサ・カズサ(上総)」国         北を「シモフサ・シモウサ(下総)」国         ふさふさ(総々)した毛(毛奴)         むさ(牟佐)苦しい         蝦夷(えぞ・カイ)の居住地         上総・下総         千葉=律令制以来の房総三国

        千葉・房総半島の暗闇・・・カラスの形姿?         ↓↑ 上総国(南総)            安房国(房州)全土            下総国(北総)の一部        『万葉集(天平勝宝七年・755年)』         に防人の         下総国         千葉郡の         大田部足人が詠んだ        「知波乃奴乃(千葉の野の)」と記録         奈良時代の『日本書紀・古事記』に         応神天皇が         大和国から近江国に向かう途中         山城の宇治野の丘で遠く         葛野一帯を望んでの         国見歌「千葉の」は        「数多くの葉が繁茂する」の意         葛の葉が良く繁茂し         葛の枕詞として用いられた・・・   ↓↑    ↓↑         「茅(ちがや)」が生い茂る土地         「茅生(ちぶ)」と呼ばれ         転じて「ちば」になった         葉が多く重なる「千葉」         「千葉の」は数多くの葉の意         「葛の葉」が良く繁栄したことから         「葛、葛野の枕詞」として用いた   ↓↑  「ア・パ・シリ(我らが見つけた土地)」  「アパ・シリ(入り口の地)」  「チバ・シリ(幣場のある島)」など   ↓↑  「ア・パ・シリ(我らが見つけた土地)」  「アパ・シリ(入り口の地)」  「チバ・シリ(幣場のある島)」  「チパシリ=Cipa-sir(幣場(ぬさば)の島)」   ↓↑  「chi 吾・pa 見つける・sir 島(国)」  「チ chi(ci)=吾=a(吾)」  と交代  「a pa sir」  に変化した・・・  「chipa=inaw-san(幣・棚)」  の古語で  「sir シリ=島」で  「イナウを祀った島」・・・伊能(忠敬)?   ↓↑  幣=幤=異体字「幤」  幣=敝+巾    㡀+攵+巾    八+巾+八+攵+巾    ヘイ    ぜに    ぬさ    みてぐら    神前に供える絹    贈り物・貢ぎ物    宝物・価値の高い物品    ぜに・お金・通貨・貨幣   ↓↑  「衣幣覆穿(イヘイリセン)」        遺秉 履践(実行・実践)?        遺秉=田に遺されている落穂        「彼に遺秉有り  此に滞穂有り」         彼におとせる秉あり、此にのこれる穂あり          貧しいことのたとえ  「衣幣」は使い古して敗れた衣服  「覆穿」は履物が破れ穴があくこと  襤褸ぼろになった衣服  貧しい服装  「衣幣れ履穿つ」とも  『荘子(山木)』   ↓↑  敝=㡀+攵    八+巾+八+攵    ヘイ    おとろえる    つかれる    やぶる    やぶれる    やぶれてぼろぼろになる    よわる    自分に関すること    自分側のことを謙遜していうことば    弊社    おおう・おおいかくす=蔽   ↓↑   「千金敝帚(センキンヘイソウ)」         撰金  並走・併走?   自分の地位や能力など理解せずに   思い上がることのたとえ   自分の物なら   どんなにつまらないものでも   貴重に思えることのたとえ   「弊帚」=使い古してぼろぼろになったほうき        自分の物なら        そのようなものでも        千金の価値があると考えるという意   「千金敝帚・敝帚千金」とも   『東観漢紀(光武帝)』   ↓↑   「舌敝耳聾(ゼッペイジロウ)」         絶北  治賂得?   話が回りくどくて分かりづらいことのたとえ   年老いて衰えたことを言い表す   「舌敝」は舌がぼろぼろに破れる   「耳聾」は耳が聞こえなること   話す側が疲れ   聞く方も飽きるという意   「舌弊耳聾」とも   『戦国策(秦策)』   ↓↑   「敝衣蓬髪(ヘイイホウハツ)」   ぼろぼろの服   乱れ放題の髪   身なりが汚い様子   「敝衣」はぼろぼろの服   「蓬髪」は乱れ放題でよもぎのような髪   「弊衣蓬髪」とも   「弊衣破袴(ヘイイ ハコ)」         兵 威 波来・波鼓・葉語?

ーーーーー

 ・・・???・・・

 (表紙・画像・音楽)」の

  移転先・・・

 ↓↑

 ボクの「古事記字源」の発端・・・

 ↓↑

 干支歴

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 追加添文

 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」

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