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鎮魂歌(Requiem・レクィエム・Dirge・ダージ)


2022/3/30・水曜日・・・追加添加文・・・

・・・2016年11月1日・・・「十一月一日」・・・

丙 申(己・壬・庚)

戊 戌(辛・丁・戊)

丁 亥(戊・甲・壬)

↓↑

dirge(ダージ)= 葬送歌・哀歌・悲歌・葬送曲・埋葬歌・挽歌

         蠍火(さそりび)

・・・今現在、NHKの「22:25・ブレイブ・勇敢なる者、冤罪弁護士」を観終わったが、「勇気を持って世界を変える日本人に迫るシリーズ『ブレイブ』」、「日本の刑事裁判の有罪率99.9%、14件もの無罪判決」を克ちとってきた「今村核」氏・・・スゴイなぁ~ッ・・・「勘違い」を「正(糺)す」のには・・・だが、「弁護士のアタリマエの仕事」である・・・「検察官・裁判官」もだが、本来、その「仕事の重さ」は「裁判官」だろう・・・「皮相=ヒソウ=日宋=悲壮=悲愴」と云う漢字は、「怪しい=あや(怪・奇・竒・恠・妖・文・理・斐・彪)しい」コトバではある・・・むかし、友人に「アンタはモノの観方が皮相的なんだョねッ」と云われたコトがある。だが、その時は「皮相的」自体のコトバの意味がワカラなかった・・・個々人の経験的な事象、事態は「生活レベル」での軽重が随分と異なっている。「プライド(?)の軽重」も・・・「10円の価値」が個々人の生活状況によって異なるのは当然だが・・・ボクは「10円、1円」で泣く思いをするが、「1000円単位で生活」しているヒトの困惑などを理解するコトは無理であったし、無理であるカナ。だが、事情は何であれ、その時点での個々人の「死ぬ思い」は同じであるらしい。それは、「死ぬオモイにも、異なった生活のレベル」がある、と云うコトらしい・・・   モモちゃん、ごめん・・・鎮魂の絵だけれど・・・鎮星(土星)に逝ってんのカナ・・・

 「悲哀」・・・「悲(かな)しい」と「哀(かな)しい」は訓は同じでも、漢字自体の構成も意味も異なるだろう・・・だが「熟語」になって重なってしまった・・・「喜怒哀楽」は「主観的な個々人の感情のコトバ」であるらしく、それらを「共感、同感」出来る人もいるだろうが、「客観的に一般化」は出来ない・・・「特殊、個別」的な出来ごとの「共感」は、人生での同じ時間枠の経験、時間がズレテいても同じような経験が必要だ・・・相手の「喜怒哀楽」を「共感」するのは、自分自身が、「未知」で、それらに「遭遇」するまでは難しい・・・「遭遇」しても「尚、且つ」である・・・自分自身の痛さは「殴られて初めて解る」・・・ダレも「我が身を抓(つね)らない」が・・・

 自分自身の「痛さを快感」と感じる人間もいる・・・生きている人間の肉体も精神も、プロセス的には「快=不快」の「表裏一体」の存在であるらしいのがアタリマエであるが・・・以前ドキュメンタリーのTVで観たのは「無触覚知覚障害の女の子」・・・「触覚=触感」が無い人もいる・・・肉体的に冷たさ、熱さ、痛さをマッタク感じられない病気・・・「皮膚感覚=体性感覚」、「触覚、圧覚、痛覚、温度覚」の無い病気・・・「無触覚知覚障害」・・・  「加齢」が確実に「五感覚」を鈍くしていくコトを「涅槃」まで保障しているのは「自然」であるが・・・  悲=非+心  哀=亠+口+イ+レ(丄)+乀+ノ(ノ)  ・・・多分、「哀」は口に「亠(ふた・トウ・ズ)=蓋・音略)」された「イ(人)」の「乀(ながれる・まがる・フツ・ブチ)」の「丿(ひく・ヘツ・ヘチ)」である・・・この「漢字部品」は  「丿(ノ)、乀」は  「船などが左右に揺れるさま」   漢字を書く時の筆画、筆描の動きので、   左に払うものを「丿=ヘツ=ノ」、   右に払うものを「乀=ホツ」  と云う意味らしい・・・視覚的な形象はナニかを叩く「棒(ボウ)」か、ナニかを切る「小刀(こかたな)」である・・・コレラが重なれば  「乂(かる・おさめる・カイ・ガイ)=乀+ノ」  である・・・類字は「乄(しめる)」   ↓↑  で、  「ヒソウ」、難聴のベートーヴェンの「悲愴(Grande Sonate pathétique・第2楽章・第8番ハ短調・作品13・ピアノソナタ・1798~1799年)」とは怪しい音楽である。「情熱の表出」ですか・・・漢字は「悲=非+心」と「愴=忄(心)+倉」であるが、「忄」は「小」を圧縮したようにも思える・・・心の倉がカラッポ(悲)なのか、小さい倉で、「宝石箱」なのか、「怪盗ルパン」に訊いてみたい・・・  「怪異・怪人・怪訝(ケゲン)」の「怪(カイ・ケ)=忄(心)+圣(コツ・又十一)」である。  「ア-ヤ-シ-イ=丫=「ア・鴉・蛙・亞」-「や・哉」-「シ・詞」-「イ・意」が、「あやしい=怪・奇・竒・恠・妖」、奇怪千万・・・  次ぎもナニを云っているんだか、ボクには「?」である・・・以下は「jigen net」から抜粋添付したモノだが・・・  ↓↑  子曰。  素隱行怪。後世有述焉。吾弗爲之矣。  「隠(いん)を素(もと)め、怪(かい)を行ふは、   後世(こうせい)述ぶること有らん、   吾は之れを為さず」  ↓↑  君子遵道而行。半塗而廢。吾弗能已矣。  「君子(くんし)、道に遵(したが)ひて行ひ、   半塗(はんと)にして廃(はい)す、   吾は已(や)むこと能(あた)はず」  ↓↑  君子依乎中庸。遯世不見知而不悔。唯聖者能之。  「君子(くんし)中庸(ちゅうよう)に依り、   世(よ)を遯(のが)れて知られずして悔いず、   唯(た)だ聖者のみ之れを能(よ)くす(中庸)」  ↓↑  「蓋し世道の変、   無窮に相(あい)尋(つ)ぐと雖も、   然れども本と愕(おどろ)く可く   怪(あや)しむ可き事有ること無し(論語)」 ーーーーー  ・・・???・・・

 ・・・シンシンと雪が積もった朝、外に出て庭を見わたしてもモモちゃんの足跡は無い・・・女王の崩御は「十一月一日」だったけれど・・・「Kyrie eleison」・・・「鎮魂歌(requiem・レクイエム・ラテン語Requiem・レクィエム)=安息の歌曲・葬送の歌曲」、「鎮魂(慰霊・死者を悼む」・・・「レクィエム→霊悔(躯)意慧(恵)務?」・・・日本神道では「生者の魂を体に鎮める鎮魂、生者の魂の活性の魂振(たまふり)・御たましずめ(生き霊の鎮静)、御たまふり(生き霊の活性)」・・・ムカシの「日本人(?)」の考え方は「対象存在」とソレを「存在認識」する生きている人間の認識思惟の整合的、合理的なモノだった。「色(五感認識)即是空(無規定の存在)=空(対象存在)即是色(規定された対象思惟認識)」、「色=シキ=識」、「空=クウ・コウ・ク=句得・故有・具」=「矩宇(クウ)」・・・死者の為ではなく、生きているモノに対するコトバであるらしい・・・確かに、「鎮魂式」を行うとは、愛しいモノを失って、悲しみに涙を流し、落ち込んでいる「遺され生きている者のタメの鎮魂の儀式」であるカナ・・・遺族、親族、友人でなくても、御近所の知り合いが集って「涙(泪・涕)」を誘われ、流すのは、「遺されて生きているモノに対する鎮魂のナミダ」である。そして、喪に集会した人々自身の「己の鎮魂」に、である・・・「泣き屋」と云う「不思議な職業」もあるらしいが、他人の「喪=(十口口一丄乀ノ)or(亠口丄口レ乀ノ)」は「おまつり」、生き残(遺)ったモノの「協同体のevent・festival・celebration・fete」だから不思議ではない。元気づけに遺族を囲んでドンチャン騒ぎもする・・・「祀り・祭り・奉り・政り」・・・「鎮魂・鎮星=土星」の漢字・・・ナゼ、「土星(ドセイ・Saturn・♄ฺ・♄)」なんだか、公転周期が29.46年(約30年)、球体の周りの「輪(わ・リン)=七輪(内側から順にD環,C環,B環,A環,F環,G環,E環、2009年10月現在、12本の環が確認)」は「15年毎(ごと)に一度、観(視)えなくなる」、数字的には「(29.5)÷4≒7.37」・・・占星術の土星周期の七年目、7年目の休耕、(7×7)+1=49年目と次(接)ぎの1年の50年目のヨベルの安息年・・・「鎮星(チンセイ)=填星 (テンセイ) =」・・・クロノス、山羊座の守護星、彼の祭日(12月17日~24日)期間には奴隷も自由が許された・・・「Kyrie eleison」・・・  「土星=英語(Saturn・サターン)・・・      星座記号は「♄・♄ฺ→ち」に似ている      ラテン語(Saturnus・サートゥルヌス)      ギリシア語(Κρόνος・クロノス)」      アラビア語(ズハル)      「農耕の神、時の神       衛星のタイタン (Saturn VI Titan) は       6番目で、太陽系では2番目の大きさ       XVIIのパンドラ (Pandora) 衛星は       最近発見(1980年10月)された」  「填=土(十一)+真(眞→ヒ+目+乚+八)=塡     うづめる・ふさぐ・みたす・はめる・テン」     填塞 (てんそく) ・填補・充填・装填・補填  「鎮=金+真(眞→ヒ+目+乚+八)     しずめる・しづまる・おもし・おさえる・チン」     鎮圧・鎮火・鎮護・鎮魂・鎮座・鎮守    ・鎮静・鎮痛     重鎮・風鎮・文鎮  ↓↑  「真鍮(シンチュウ)」の「シンバル(cymbals)=鐃鉢(ニョウハチ)=鐃(バツ) 」・・・「シンボル(symbol)=象徴」ではないが、突然の大響音では、うるさいカモ・・・「ペルシャの市場」は兎に角、「京劇の孫悟空」は矯激、挟撃音の驚愕音である・・・  ↓↑  「真」と「眞」の漢字だが、次の漢字もあった・・・


 「真実」と「眞実」はマサニ、漢字の「シンジツ」が行政として、法律として「人名付(附)与」として揺れ動いていた、いる、のだ・・・「賦与・扶余」だけじゃぁなく・・・「文書記録の専門職業」ではあるが、行政事務方の「記録役人の仕事」も大変である・・・裁判官と検察官・・・「司法行政」での「記録文言」が僅かに異なっていても「無罪か有罪」の境目に「被疑者」は立たされている・・・有罪、冤罪、そして無罪、放免・・・誤まって重罪判断判決を宣告した人間は贖罪も懺悔もしないかも・・・ナゼ、「保釈金制度」、「執行猶予」があるんだか・・・「救済」はダレのタメのモノなのか・・・親鸞に訊ねてみたい・・・なるほど、「絶対他力本願」って、「人」を救えない「エゴ」だったらしい・・・  その、「イイ加減さのハナシ」がブログ検索したら出てきたので、その概要を添付する・・・原文は「真(眞)」の漢字を検索したら容易に「発見=ハッケン=八卦務?」出来るだろう・・・ ーーーーー  ↓↑  昭和17年6月17日国語審議会  昭和21年11月16日内閣告示された当用漢字表  昭和23年1月1日戸籍法施行規則         「眞」は出生届に使用許可         「真」は出生届に使用不許可  昭和24年4月28日当用漢字内閣告示、字体表で  昭和24年6月29日回答         「眞」は出生届に使用許可         「真」は出生届に使用許可  昭和52年1月21日国語審議会、新漢字表試案に         「真」が収録         「眞」も収録         「真=眞」  昭和54年3月30日国語審議会報告、常用漢字表案         「真=眞」となっていたが



 の字体に変更  昭和56年3月23日国語審議会、常用漢字表 「真=眞」となっていたものが


「眞」→目→「月(冃)+一+L+八」  冃(づきん・ボウ)         平成16年9月27日戸籍法施行規則          旧字の「眞」の字体が変更         「目」の下の部分が          あいた当用漢字表の字体に戻された         「目」の下の部分がくっついた         「眞」は、          昭和56年10月1日~平成16年9月26日          の間だけ、子供の名づけに使えた          新字の「真」          旧字の「眞」          変更の字体 


「目」→「月(冃)+一」     「冂+三+乚+八」  どれでも「現在はOK」らしい・・・  ・・・「女真・女直」族の「金」さんにも訊いてみたいが・・・ ーーーーー  ・・・送られてくる「mail」に「Insufficient fundsAlert」の文字があったが・・・「ヴィルス」に感染して以来、個人的に知らない人のモノは開けるコトはないが・・・知らないヒトがナゼ・・・英語辞典の検索項目から拾えば・・・   ↓↑  残高不足  Insufficient fundsAlert  Attention  Warning  Notice  「警告・注意」  不十分な,不足な  insufficient evidence  証拠不十分  There're insuff  I am sorry that my explanation regarding    that is insufficient.  be insufficient  be insufficient  欠ける, 缺ける, 闕ける  an insufficient supply of food  不十分な食糧供給  不適当  insufficient protection  不適当な保護  He is insufficient to discharge    the duties of an office.  This could result in overdraft    item or insufficient funds    fees being assessed on your account.  Want to confirm this email is from  「執行猶予」  不十分な,不足な  an insufficient supply of food  不十分な食糧供給  (…に)不適当・不適切な  の力量不足  能力のない  insufficient protection  不適当な保護  He is insufficient to discharge ~ ーーーーー  ・・・???・・・ ーーーーー  ・・・「産経新聞」のブログ記事にボクにとって「緯度33°」に関する興味深い記事があったので・・・重複するが・・・  ↓↑ ーーーーー  クレタ島(北緯35度10分 東経24度5分 )  ガヴドス島(北緯34度50分 東経24度5分)   ↓↑  呉軍港・・・広島・・・  北緯34度14分26.3秒   ↓↑  音戸の瀬戸が、  1164年(長寛二年)に開通   ↓↑  第二海軍区軍港開港計画決定、  広島県に鎮守府  呉・三原  江田島が候補地として  1883年(明治十六年)から測量  1884年(明治十七年)  呉に決定  1885年(明治18年)8月4日  明治天皇が、船上から視察  1886年  勅令第31号で軍港境界決定  真木長義中将を建築委員長  佐藤鎮雄大佐を副建築委員長  とし、  1887年(明治20年)11月起工  施工業者  藤田組  大倉組(大成建設)  両社が競い合って流血騒事件  海軍主導で両社を一つの企業  「日本土木会社」  として仲介、仲裁  1889年(明治22年)3月末竣工  1889年(明治22年)7月1日  呉鎮守府が開庁  以降軍港・・・   ↓↑  1903年(明治36年)  呉海軍工廠が設立  安芸郡  和庄村・宮原村・荘山田村・警固屋村  の4村で呉港区で開発が始まり  1921年(大正10年)  呉鎮守府広支廠(広海軍工廠)が設立  広港区が、  1942年(昭和17年)  内務省直轄工事として  仁方港区が開発   ↓↑  太平洋戦争末期  アメリカ軍の爆破目標  1945年(昭和20年)3月  呉軍港空襲を受け機能停止  戦後は呉工廠は閉鎖  戦後  イギリス連邦占領軍の管轄  1948年(昭和23年)  「呉港貿易港」に指定  開港  1950年(昭和25年)  旧軍港市転換法施行により  占領軍から返還  1951年(昭和26年)  呉港は「重要港湾」に指定  1952年(昭和27年)  呉市が港湾管理者に認可   ↓↑ ーーーーー  胆振支庁(いぶりしちょう)・・・愛媛県の「日振」ではなく、                  北海道の「胆振」である  北海道に存在した支庁の一  支庁名は胆振国 に由来  人口密度は  高知・島根・秋田・岩手の四県が高い  胆振総合振興局とし、  日高振興局=総合振興局と        同等の地位(地方自治法上の支庁)とされた  北海道内では石狩支庁に次いで二番目   ↓↑ ーーーーーー  渡党・・・・・渡邉綱=「源宛の子」  ↓↑          嵯峨源氏の「源融」の子孫              正式な名のりは             「源綱(みなもと の つな)」              通称は渡辺源次              源頼光四天王の筆頭              渡辺氏の祖              渡邉崋山・・・?              ミナモトのゲンジ?              ミナモトをアテル?              ミナモトをトカス?              酒呑童子(シュテンドウジ) 退治              源頼光の四天王の一人              羅生門の              鬼(酒呑童子=茨木童子)  ↓↑          の片腕を切り落とした?  ↓↑          典型的な出来過ぎの「源字」である  ↓↑         「源字・言辞・元治・源治」だョッ  ↓↑          金太郎・桃太郎・浦島太郎ちゃん   松前藩の歴史書  『新羅之記録』以来  和人が蝦夷地へ  渡った一党であるとされ・・・「新羅人」だろうさッ・・・  松前氏も  和人を名乗った  渡党の祖先について  日本海沿岸地域  北東北地域  からの移住者であるような  系図伝承となっている  建久二年(1192年)  源頼朝が  重犯罪人を  蝦夷地へ流刑とするように奏上  強盗などを流刑とした  頼朝の  奥州藤原氏征討から逃れた  藤原氏被官も蝦夷地に渡った・・・   ↓↑  奥州藤原氏自体が、  朝廷などから  夷と呼ばれ  戦前の研究者は、  「和人化したアイヌ=東北地方の蝦夷」  が蝦夷地へ渡った・・・  昭和25年(1950年)  奥州藤原氏のミイラ調査結果  藤原秀衡には  アイヌ人ではなく和人・・・  中世における  蝦夷の概念自体を再見直しし、  アイヌ文化を  受容した本州からの渡航者である  渡党を含むとし  渡党についての  人種的所見は不詳  『新羅之記録』  には、  源頼朝による  奥州合戦から逃れた者と  流人の子孫が  渡党である旨の記載・・・  北海道庁『北海道史第一』  1918年 には、  戦乱を逃れた和人、  漂流者及び出稼ぎ者が  渡党となったとの記載・・・   ↓↑ ーーーーー  胆振国(いぶりのくに)  大宝律令の国郡里制を踏襲し  戊辰戦争(箱館戦争)  終結直後に制定された  日本の地方区分の国の一  五畿八道のうち  北海道 (令制)に含まれた  当初は  膽振國とも表記  国名の由来  斉明天皇のころ  阿倍臣が  胆振鉏(いぶりさえ)の  蝦夷(えみし)たちを饗応したという故事  道南から道央にかけての地域に位置  胆振総合振興局管内の全域、  渡島総合振興局管内の  長万部町  八雲町のうち  旧熊石町を除く部分  後志総合振興局管内の  虻田郡、  石狩振興局管内の  千歳市・恵庭市、  上川総合振興局管内の占冠村にあたる   ↓↑  日本書紀  斉明天皇五年(659年)  阿倍比羅夫  が  後方羊蹄(しりべし)・・・「後方の羊の蹄(足の帝)」?  に郡領を置いた  後方羊蹄は  虻田郡域・・・・・・・・「アブ-タ」です、「則天武后」です  の羊蹄山付近との説・・・  一方、  胆振鉏について  新井白石は  勇払郡域(ユウフツ)に当たるとの説  千歳郡域内(恵庭市)では  蝦夷征討が盛んに行われていた  飛鳥時代から平安時代初期にかけて  茂漁古墳群(柏木東遺跡)が築かれた  の古墳群からは  土師器  須恵器  和同開珎  律令時代の  六位以下の位階を示す  帯金具などが発見  構造も  石狩国札幌郡の  江別古墳群  北東北の終末期古墳と同様の群集墳  千歳郡域では  皇朝十二銭のひとつで  平安時代に流通していた  隆平永宝  が恵庭市の  茂漁8遺跡から、  富寿神宝  などが千歳市の  ウサクマイ遺跡群から出土  当時の胆振国域では  擦文文化が栄えていた  後に  渡島半島を中心とする地域では  擦文文化  と  本州土師器文化の  混合的文化である  青苗文化が成立・・・  青苗文化を足がかりに、  主に東北地方から移住し、  本州と蝦夷との交易に携わる人々が現れ  これが渡党・・・  居住地は道南  活動範囲は  渡島半島周辺地域にも及んでいた  北海道太平洋岸  には  「日の本」・・・・・「日本」の原点は東北蝦夷です  と呼ばれる蝦夷が存在  鎌倉時代  「渡党」と「日の本」は  蝦夷管領の支配下に置かれていた・・・まだ国名は   ↓↑      「日本」じゃぁ無かった?            雍熙元年(984年)=中国年号            永観二年(984年)=甲申年=日本年号            に入宋した日本人僧の           「奝然(チョウネン)」の           「王年代紀」が           「宋史日本伝」で           「日本史」の紹介記事?            984年11月5日           (永観二年十月十日)            円融天皇が譲位し、            第65代天皇・花山天皇が即位            各国年号            北宋=太平興国九年、雍煕元年            遼=統和二年            大理国=明政十六年            于闐=中興七年            奝然が宋の太宗に献上した           「王年代紀」が           「宋史日本伝(1345年完成)」に収録           「新唐書日本伝(1060年)」・・・日本国            も、           「王年代紀」を参照にした・・・?           「旧唐書倭国伝・945年(開運2年)6月」           ・・・倭と日本が併記   ↓↑       1295~1298年のマルコの時代   ↓↑       ジパング(Cipangu)            ジーベングォ=中国語発音の日本?   ↓↑            Chipangu   ↓↑       ジパング(Zipangu)   ↓↑       東北の奥州の金産地?or佐渡島?   ↓↑       元が遠征した東南アジアの小国家群を示す    ↓↑      「諸蕃国(ツィァパングォ)」の訛り?  室町時代  康正3年=長禄元年(1457年)  コシャマインの戦い  胆振国域のほぼ全域で  和人と蝦夷による戦いが繰り広げられた   ↓↑  江戸時代  松前藩  松前藩家臣が  蝦夷の人々と交易を行う  十ヶ所の場所とよばれる  知行地が開かれた   ↓↑  ヤムクシナイ場所・・・山越郡  アブタ場所・・・・・・虻田郡  ウス場所・・・・・・・有珠郡  モロラン場所・・・・・室蘭郡  ヱトモ場所・・・・・・室蘭郡  ホロベツ場所・・・・・幌別郡  アヨロ場所・・・・・・白老郡虎杖浜  シラヲイ場所・・・・・白老郡  ユウフツ場所・・・・・勇払郡  シコツ場所・・・・・・千歳郡南部(千歳市)             ユウフツ場所に編入された             シコツ場所に相当  シュママップ場所・・・千歳郡北部           (恵庭市穂栄、北島、林田、漁太近辺)            シュママップ場所は            石狩十三場所の一            石狩国札幌郡南部(北広島市)も含む   ↓↑  江戸時代~明治時代初頭  胆振国域の交通  沿岸部に一部地形が険しく道が途絶え  舟に乗り換える区間があった  寛政年間  山越郡と虻田郡の境を越える  長万部~虻田間の道(国道37号静狩峠の前身)  室蘭~幌別間の道などが開削  渡島国の  箱館から道東や千島国方面に至る陸路  (室蘭以西は国道37号、室蘭~苫小牧間は   札幌本道や国道36号、苫小牧以東は国道235号の前身)  が繋がっている  文化年間  勇払~千歳に至る千歳越  安政4年(1857年)  後志国小樽郡の  銭函~石狩国札幌郡を経て  千歳に至る札幌越新道(千歳新道)が開削  太平洋岸と日本海岸を陸路で結んだ  胆振国内の河川  藩政時代~廃使置県までの間  10箇所の渡船場数があり、渡し船が運行  海上交通  畿内や奥羽の  日本海側など道外方面との間に  北前船の航路が開かれ、  室蘭や苫小牧などにも寄航   ↓↑  江戸時代初期  寛永17年(1640年)  内浦湾対岸にあたる  渡島国域の  駒ヶ岳が  山体崩壊し  大津波が発生  胆振国域で多数の犠牲者  駒ヶ岳の大噴火は  寛永の大飢饉にも影響  寛文9年(1669年)6月  日高国域を中心に起こった  「シャクシャインの戦い」  胆振国域内で多くの和人が殺害  蝦夷の軍勢は  松前に向かったが、  鉄砲を主力とする  松前藩との山越郡域の  クンヌイ(長万部町国縫)における合戦  で敗北、平定・・・   ↓↑  胆振国域での火山活動  虻田郡域の  有珠山噴火  寛文3年(1663年)  明和6年(1769年)  文政5年(1822年)火砕流によって虻田の集落が全滅  嘉永6年(1853年)  樽前山噴火  勇払郡域と千歳郡域が被害  寛文7年(1667年)  元文4年(1739年)  文化元年(1804年)  蟠渓温泉  登別温泉・・・最上徳内の『蝦夷草紙』に記録   ↓↑  江戸時代後期  胆振国域=東蝦夷地       山越郡域は和人地  寛政11年(1799年)  東蝦夷地は  公議御料(幕府直轄領)  翌12年(1800年)  八王子千人同心千人頭  箱館奉行支配調役  原胤敦の弟・新助の一行が移住  苫小牧市の基礎を築いた  享和元年(1801年)  山越内関所が設置  渡島国亀田郡にあったものを移転  蝦夷地への  武器の持ち込みなどを取り締まる国内最北の関所  文政4年(1821年)  松前藩領に復し  安政2年(1855年)  再び公議御料  ホロベツ以西は南部藩  シラヲイ以東は仙台藩  が警固を担当  南部藩は  室蘭郡域(元陣)  ヤムクシナイのヲシャマンベ(分屯所)  仙台藩は  シラヲイに陣屋を設置  安政6年(1859年)  6藩分領以降、  一部が  南部藩領(虻田郡南西部、絵鞆、幌別郡)  仙台藩領(白老郡)  になっていたが、  他の各藩警固地は公議御料のまま  戊辰戦争時、  江戸開城後成立した  蝦夷共和国に  開拓奉行(室蘭奉行)が設けられ、  室蘭に250名が移住  箱館戦争終結まで開拓と守備を行った   ↓↑  明治2年(1869年)8月15日  胆振国8郡が制定  44村が含まれた  同年7月~明治4年(1871年)8月  まで道外の藩や士族などによって分領支配  明治3~4年(1870年~1871年)  本願寺道路が建設  明治5年(1872年)  虻田郡黒松内村が後志国寿都郡に移管  明治5~6年(1872年~1873年)  江戸時代の道をもとに  札幌本道が建設  明治15年(1882年)2月8日  廃使置県  山越郡は函館県の、  それ以外の全域は  札幌県の所管  となる   ↓↑  日胆(にったん)  北海道に設置された  律令制国で  日高国と胆振国を合わせて呼ぶ名称   ↓↑  施設  寺院  比叡山の僧  円仁が平安時代の  天長3年(826年)に開山  江戸時代には  蝦夷三官寺のひとつの  有珠善光寺が  有珠郡の一部だった  伊達市にある  文政年間  山越内に建立された  阿弥陀堂を起源とする  山越郡(八雲町)の  円融寺  室蘭郡(室蘭市)の  常照山満冏寺(まんけいじ)、  山越郡(長万部町)の  光明山善導寺  などが  江戸時代に建立   ↓↑  神社  神仏混合(平安朝)時代  和人が地元人とともに奉斎したと伝わる  刈田神社  江戸時代初期に建立された  弁天堂を起源とする  千歳神社  寛政年間にはすでに存在していた  大臼山神社  以下  江戸時代以前の創建   ↓↑  山越郡 諏訪明神社(現山越諏訪神社、二海郡八雲町)  山越郡 飯生神社(山越郡長万部町)  虻田郡 豊浦神社(虻田郡豊浦町)  虻田郡 稲荷神社(虻田郡洞爺湖町虻田地区)  有珠郡 大臼山神社(伊達市)  室蘭郡 崎守神社(室蘭市)  室蘭郡 絵鞆神社(室蘭市)  幌別郡 刈田神社(登別市)  白老郡 弁天社(現白老八幡神社 白老郡白老町)  勇払郡 恵比須神社(苫小牧市)  千歳郡 弁天堂→思古津稲荷大明神(現千歳神社、千歳市)  旧社格は、千歳神社が郷社である。   ↓↑  地域  郡  胆振国  八郡で構成  山越郡  虻田郡  有珠郡  室蘭郡  幌別郡  白老郡  勇払郡  千歳郡   ↓↑  江戸時代の藩  松前藩領、松前氏(1万石格)  1599年~1799年・1821年-1855年(胆振全域)  南部藩モロラン陣屋  1859年~1868年(虻田場所南西部、絵鞆場所、幌別場所)  仙台藩白老元陣屋  1859年-1868年(アヨロ場所、白老場所)  分領支配時の藩  斗南藩領、1870年~1871年(山越郡)  大泉藩領、1869年~1870年(虻田郡)  一関藩領、1869年~1871年(白老郡)  高知藩領、1869年~1871年(勇払郡、千歳郡)  分領支配時、  有珠郡、室蘭郡、幌別郡の三郡(虻田郡)は仙台藩士領   ↓↑  人口  明治5年(1872年)調査  人口6251人・・・   ↓↑  胆振国の合戦  1457年コシャマインの戦い  1669年シャクシャインの戦い ーーーーーー   ↓↑  ↓↑  日振型  海防艦  大日本帝国海軍が  第二次世界大戦で運用した海防艦  主に南方航路の船団護衛に用いられた  海軍省が定めた  艦艇類別等級では  御蔵型に含まれるが、  基本計画番号はE20bと異なる  計画時は乙型に区分されたが、  丙型海防艦・丁型海防艦の建造決定後は  区分が甲型に変更  1944年~1945年  にかけて  同型艦9隻が就役、  11隻が建造計画だったが  未成艦2隻 ーーーーー   ↓↑  愛媛県日振島  (日振諸島・宇和島沖、豊後水道大小の四島)  とハナレ磯   ↓↑ ーーーーー  北緯33度線・・・最近は「33度」に言及するブログも多くなってきているが・・・やっと、云いたい処に・・・   ↓↑  愛媛県日振島(宇和島沖、豊後水道の四島)→横島→阿蘇山(北緯33度)→横島→会稽→イズミル~アテネ~アレクサンドリア~中東イスラエル←ゴラン高原の間  を御覧アレ・・・ http://www.ac.auone-net.jp/~kiriya/kirikoji/kirikoji2.html ーーーーー  以下、「産経新聞」のブログ記事の概略引用・・・要点の文字を各行の頭出し改作にしています・・・モウシワケナイ・・・   ↓↑   (産経新聞 - 11月29日 10:03)  伊勢、出雲、諏訪、高千穂、熊野…神々つなぐ  「陽のみちしるべ」のナゾ   淡路島の伊弉諾神宮  伊弉諾神宮(兵庫県淡路市多賀)  「陽のみちしるべ」と記された石碑  春分、秋分の日の太陽が通過する  北緯34度27分23秒の緯度線に  伊勢神宮(三重県伊勢市)、  伊弉諾神宮、  対馬海神神社(長崎県対馬市)  が一直線  冬至、夏至の日の出、  日没の方角にも  伊弉諾神宮ゆかりの神社が並ぶ  伊弉諾神宮=孝至宮司   ↓↑  夏至は諏訪から出雲、  冬至は熊野から高千穂   ↓↑  各地の神社は  伊勢神宮の方角に向かって拝むた=「遥拝所」がある  伊弉諾神宮では真東を向いている   ↓↑  伊弉諾神宮を中心に  東は伊勢神宮内宮、  西は対馬の海神神社が同緯度に並ぶ  夏至には  諏訪大社(長野県諏訪市)の方角から日が昇り、  伊弉諾神宮を通過して  出雲大社(島根県出雲市)の方角に日が沈み、  冬至には  熊野那智大社(和歌山県那智勝浦町)から日が昇り、  高千穂神社、  天岩戸神社(宮崎県高千穂町)に日没する   ↓↑  春秋分の緯度線に対し、  夏至は29・30度、  冬至は28・30度と角度が1度違う  古事記や日本書紀では  イザナギノミコト、  イザナミノミコトが国生みのあと、  伊弉諾神宮に祀られ、  その子の  天照大神が伊勢の地に遷座した  十一代  垂仁天皇の時代  出雲大社も  大国主命が天照大神に国譲りしたあとに創建  いずれも  伊弉諾神宮よりも後に建てられた・・・   ↓↑  記紀の伝承を西暦にあてはめると、  伊勢神宮創建は  紀元前5年ごろ、  諸説研究では  5~7世紀・・・  ピラミッドやストーンヘンジの「知恵」  『古事記』の冒頭を飾る  「国生みの島・淡路」~  古代国家を支えた海人(あま)の営み~  にも登場する「海人」に注目  大陸と交流して  航海や製塩技術にすぐれ、  太陽や星の位置で航海していたであろう海人族は  天文に通じていた   ↓↑ ーーーーー  ・・・また、また、またの「北緯33度線」でした・・・

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