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陌捌拾萬歳前の「曙象(あけぼのぞう)」滋賀県多賀町

2022/1/5・水曜日・・・追加添文・・・

象形・形象・・・字形・・・

ナゼ、「象」の「形」なのか・・・? 

象=(呉音でザウ、漢音でシヤウ)

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陌捌拾萬歳前の「曙象(あけぼのぞう)」滋賀県多賀町

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 新石器時代の土器

 幾何学模様が線で描かれ

 北ヨーロッパから

 シベリア

 北アメリカにかけて分布する類型の土器

 ドイツ語でこの種の土器を

 「Kamm Keramik」

 とよばれ

 1930年代の和訳

 「櫛目文土器」

 と呼ばれる

 粘土紐

 押印文

 による装飾のも存在

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 アケボノゾウ

 アケボノゾウ(学名:Stegodon aurorae)

 約250~100万年前

 日本列島に生息していた

 ステゴドン科

 ステゴドン属

 ゾウ類

 漢字

 ショウ

 ゾウ

 かたち

 かたどる

 大きな耳と長い鼻を持つ動物

 ようす・ありさま・しるし

 かたどる・のっとる・なぞらえる

 のり・道理・おきて

 通訳・・・?

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 象(かたち)

 象(かたど)る

 ある物の形を写し取る

 形をまねて、おなじように作る

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 意象=心の中で巡らせた思い・思考

 気象

 具象=実際に目で見ることのできる形

 形象=視覚で見た認識の形・容貌・姿

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 印象批評

  芸術作品の直観的批評

  十九世紀後半のフランス文芸批評の手法

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 有象無象=有形、無形の全てのもの

      数が多く

      ありふれた人や物のことを

      卑しめる言葉

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 心象風景=経験や感覚、感情などが元になって

      生み出される風景

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 森羅万象

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 象牙之塔=芸術至上主義の人々の孤高と静寂の境地

      研究熱心な科学者、研究者室などの

      閉鎖社会

      批評家

      サント=ブーブが

      フランスの詩人

      ヴィニーの生活を批評した言葉

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 象箸玉杯(ゾウチョギョクハイ)

      贅沢な生活を表す言葉

      贅沢な欲求が生まれ始めること

      象牙の箸

      宝石の杯

      殷の名臣の

     「箕子」は

     「紂王」が象牙の箸を作ったことを聞き

      箸だけでは満足できず

      宝石の杯を作り

      食事や住居も贅沢になり

      最後には

      世界の全てのものを集めても

      満足しなくなるだろうと恐れた

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 女の髪の毛には大象も繋がる

 (女の髪の毛で足を繋がれ

  動けなくなった巨象を

  煩悩にとらわれ

  悟れない人にたとえた仏教経典

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 α+象+β

 像=イ+象=人+象

 勨=象+力=夫役(ぶやく)がゆるやかなさま

 嶑=山+象=山の名・・・山名像全

 潒=氵+象=漂う・流れる・水が揺れ動く

       水の広大なさま


 橡=木+象=とち・くぬぎ・・・

       櫟・橡・櫪・椚・椢

       木+β=「十八・壹拾捌」+β

       β=樂・象・歷・門・国(國・圀)

       樹皮は深く縦に裂け

       若枝には褐色毛を密布


 豫=予+象=予+象=ヨ・ショ・シャ

       われ・ゆるす

       かねて

       あらかじめ

       あたえる

       預・・・預言書

       異字

       𠄛(古字)・𠄝(同字)

       𢄮・𢘕・𪜱


 襐=衤+象+=着飾る・美しい装飾


 䂊=矛+象+=やり・やす

       槍・鉾・鋒・矛・鑓・戈

       weapons・arms

       lance=槍騎兵が用いた槍(やり)

       spear=槍

       javelin =槍投げ槍


 蟓=虫+象+=蚕(かいこ・サン)・大型の蟻


 櫲=木+予+象=樟(楠・クスノキ)科

          の常緑高木

 鐌=金+象+=器の鈕(取っ手)

         鈕=つまみ・釦(ぼたん)

 䴂=象+鳥=水鳥・䴂鵰・鸏䴀

 鱌=魚+象=似魟、而鼻長

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 異体字「像・𤩪・𤉢・𧰼・𤊱」

 声符「象=像・襐・橡・勨・𩞧・潒・𢠽」

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 現象=ゲンショウ=源生・現生・元正

 現像=ゲンゾウ=幻像

 象牙の印鑑

 象眼=ゾウガン=象嵌=造岩

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    弦蔵=玄奘(ゲンジョウ

    602年~664年3月7日

    陳留郡(河南省)

    緱氏県出身

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    父 陳 慧(恵)の四男(末子)

    614年(大業十年)

    度僧の勅に応じ

   「大理卿(タイリケイ)

    鄭 善果(テイ ゼンカ)」

    認められて出家

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    唐代の訳経僧

    戒名 玄奘

    俗名 陳 禕(チン イ)

    諡  大遍覚

    尊称 法師・三蔵

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   「大唐西域記-道昭-鳩摩羅什-玄奘」

    西域、印度(インド・天竺)

    への求法僧

    三藏法師

    仏教の経蔵・律蔵・論蔵

    の三蔵に精通し

    法相(ホッソウ)宗開祖

ー↓↑ーーーー

 619年

 蜀の成都に居住

 622年

 具足戒(ぐそくかい)受戒

 623年

 長安の大覚寺で

 道岳(ドウガク)法師より

 『倶舎論(くしゃろん)』を学ぶ

 624年

 仏教諸種の疑点解明のためインド留学を決意

 627年(貞観一年・or629年)秋八月

 長安を出発

 天山南麓(なんろく)を経由

 ヒンドゥー・クシ山脈

 を越え

 インド北辺から中インドに入り

 630年

 マガダ国

 ナーランダー僧院に至る

 シーラバドラ(戒賢)法師と対面(634年?)し

 『瑜伽師地論(ュガシジロン)』

 を中心に学ぶ

 635年

 東インド~南インド~西インドを経由し

 インド半島一巡の旅を終える

 638年

 ナーランダー僧院に戻り、師と再会

 ジャヤセーナ(勝軍(しょうぐん)居士(こじ)

 に「唯識(ゆいしき)」論典を学んだ

 640年

 東インド

 クマーラ王の招聘

 王宮に1か月ほど滞在

 中インド

 シーラーディーティヤ(ハルシャバルダナ)

 戒日王に招かれる

 641年

 プラヤーガで

 75日の

 無遮大会(ムシャダイエ)に参列

 秋に帰国の途

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 645年(一説に643年)・・・六四五年=乙亥の変

              大化の改新

 長安に帰都

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 仏像、仏舎利

 サンスクリット原典は

 総計520夾(キョウ)

   657部

 645年2月1日

 高句麗遠征準備の

 太宗皇帝(李世民)に洛陽で拝謁

 3月

 長安に戻り

 弘福(グフク)寺に住し

 仏典の翻訳準備

 5月2日

 『大菩薩蔵経』

 の翻訳着手

 訳場を

 弘福寺、弘法(グホウ)院

 慈恩寺

 玉華寺

 に移し

 訳経組織のもとに翻訳従事

 訳出仏典総数

 『瑜伽師地論』

 『成唯識論』

 など

 瑜伽唯識の論典を中心に

 計75部

  1335巻

 中国歴代翻訳

 総数の4分の1弱に相当

 彼以前の訳を

 旧訳(クヤク)

 彼以降の訳を

 新訳

 見聞録

 『大唐西域記』

 664年(麟徳一年)2月5日

 63歳(or65歳)寂滅

 門下

 『成唯識論』

 事実上の

 法相宗初祖となった

 「窺基(キキ)

ーーーーー

 「人希見生象也(『韓非子』解老・紀元前3世紀)」・・・?

 生きている間に滅多に象を見る者はいない

 ・・・だから人はその存在を「想像」するより他にない・・・象

 実「像=人+象」で

 実「象」ではない・・・って?

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 象徴=ショウチョウ=省長

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 象潟 読み方きさかた/きさがた

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 「曹操」・・・曹(船)を操る

 の息子に

 「曹沖」・・・曹(船)は水の中

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 「孫権」が巨象を送り届け

 曹操はその重さを知る方法を

 臣下たちに訊ねたが

 誰も答えることが出来なかった

 曹沖は

 「象を大きな船の上に積んで

  その吃水にしるしをつけ

  象の代わりに

  石をその吃水のところまで積み込んで

  石の重さを計算すると

  象の重さがわる」

 と・・・

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 アルキメデス

 風呂場で

 「浮力の原理」を発見

 「比重の概念」を規定

 「わかった、わかったぞ!」

 「ヘウレーカ(ηὕρηκα!)

  ヘウレーカ!」

  輩雨例得化?

 と裸で街中を燥いでマワった

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 ローマ軍の

 「シラクサ」・・・白草・白日・知等矩差?

 攻囲戦の中で

 「私の円をこわすな!」

 (Noli turbare circulos meos!)

 と云って殺された

 紀元前287年

 マグナ・グラエキア

 の自治植民都市

 シケリア(シチリア)島

 シラクサ

 生まれ

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 球と

 外接する円柱との

 体積

 表面積の比は

 いずれも

 2対3

 アルキメデスの墓標

 この球と円柱の形で作られた


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 原文は

 by 「ウィキペディア(Wikipedia)」

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 ・・・「JFK暗殺」・・・「暗殺の連鎖」・・・不都合な人間の抹殺・・・「古人大兄皇子(?~大化元年九月十二日・645年10月7 日)・古人皇子・古人大市皇子・吉野太子とも呼称・舒明天皇の第一皇子・(厩戸皇子の子?とも)・母は蘇我-馬子の娘、蘇我-法提郎女(ほほてのいらつめ)・大臣、蘇我入鹿と従兄弟・娘は倭姫王(天智天皇の皇后)」・・・「蘇我 善徳(敏達天皇九年・580年~?」、「蘇我蝦夷(用明天皇元年・586年~皇極天皇四年六月十三日・645年7月11日)、入鹿(推古天皇十八年・610年~皇極天皇四年・645年・6月12日)」と、「蘇方定(ソホウテイ)・592年~667年)」の履歴の重なりだが・・・586~667=87・・・59歳、35歳、75歳・・・幅を広げれば「蘇我馬子(欽明天皇十三年・551年~推古天皇三十四年五月二十日・626年6月19日」の「645-551=94」の重なる期間の「蘇 我≠蘇 定方」・・・「蘇生」・・・そして、高句麗の「淵蓋蘇文=センガイソブン=泉蓋蘇文=泉蓋金」・・・「泉(いづみ)の蓋(ふた)を採って蘇(よみがらせる)文(ふみ・あや・ブン)」・・・日本書紀の記録は「伊梨柯須彌(伊梨柯須弥=いりかすみ)」・・・「水源の霞み」?・・・ ーーーーー  「我(われ・ガ)・蘇(よみがえる・ソ)」・・・  蘇(そ)=古代の日本で作られていた乳製品   ↓↑  相当に乾燥し長期保管に耐える       加熱濃縮系列の乳加工食品       酥とは同一の物では無い       チーズとしての蘇(ソ)       大般涅槃経の乳製品・・・涅槃(ネハン)                   (ニルヴァーナ)                   涅=氵+日+十+一                   槃=舟+几+又+禾(ノ十八)        nirvāa=吹き消すこと・吹き消された状態        ニルバナ=似留花(把名・鼻・洟・塙)             似る場名(地名)→蘇州・蘇聯         蘇聯=ソ連邦成立1922年12月30日           露西亜革命1917年11月7日            日本承認=1925年1月20日                1925年5月23日午前11時11分                北但馬地震=但馬地震・M8           米国承認=1933年11月                1933年3月23日                授権法(全権委任法)が成立                1933年3月3日                三陸地方地震・M8.1       文武天皇が(700年)に      「蘇」を税として全国で作るように       使いが派遣       典薬寮の乳牛院という機関が       生産を担って       薬や神饌としても使われた       仏教祭事には       蜜と混ぜられて使用・・・「蘇我+蜜蜂」      「蘇は乳を煮詰めた       乳製品で美味しいもの」・・・?       『大般涅槃経』の記録の五味       乳→酪→生酥→熟酥→醍醐・・・醍醐味(ダイゴミ)       酥は醍醐の原料で       蘇と酥は別もの・・・       生産地       摂津国・味原(あじふ)の       乳牛牧      (ちちうしまき、ちちゅうしまき)       古代東国で牛が飼育され      『延喜式』によれば       東国すべての国で蘇を貢納       蘇=牛乳を煮詰めたもの       酥=牛乳を煮詰めるときに         出る被膜(乳皮)を集めたもの       蘇と酥が混同されるのは       発音が同じであり       乳製品が「涅槃経」の中で書かれ       後世になって文献を本に       復元された為・・・諸説・・・       蘇酥同一・・・       蘇をさらに熟成・加工して       醍醐(チーズ様の乳製品)       も作られた・・・       cheese(チーズ)・・・       地異圖・地位図・・・地位(置)圖→チズ(地図)       地衣図       高山帯の最高部で、       地衣類や       苔(コケ)類が生え・・・苔=コケ=虚仮・鱗・蘚       高等植物は       ほとんど生育しない地帯       地衣類       菌類と藻類の共生体・・・金類と毛類?       地衣植物       藻類と菌類との共生体       菌類によって大部分が       構成される地衣体を形成し       岩石や樹上に生育する植物群       地衣体が未分化で       基物に固着するチズゴケ       枝状のサルオガセ・リトマスゴケ       葉状のイワタケ・カブトゴケ       など   ↓↑  ↓↑  cheese(チーズ)  独語 ケーゼ Käse  仏語 フロマージュ fromage  伊語 フォルマッジョ formaggio  西語 ケッソ queso  羅語 カーセウス caseus  希語 チューロス τυρος  希語 フェッタ Feta(山羊のチーズ)  露語 スイール сыр  露語 スゥイル сыр  蘭語 カース KAAS  ベンガル語 チャーナ(手作りのカッテージ)  ヒンディ語 パニール(手作りのカッテージ)  丁抹語 オスト ost  諾威語 オスト ost  瑞典語 オスト ost  芬蘭語 ユースト juusto  タミル語 パンニール (インドのチーズの一種)  羅馬尼亜語 ブルンザ brânză  波斯語 パニール پنیر  愛蘭語 カーシュ cáis  愛蘭語 カース cáis  立陶宛語 スーリス sūris  ヒンディー語 パニール पनीर  捷克語 スィール sýr  ヘブライ語 グヴィナー גבינה  斯洛伐克語 スィル syr  捷克語 シール sýr  スワヒリ語 ジビニ jibini  エスペラント語 フロマーヂョ fromaĝo          カッテージチーズ  捷克語 トゥヴァロフ tvaroh   ↓↑  「蘇 定方」も、・・・「蘇(よみがえる)=艹+魚+禾」          類字は「蘚(こけ・セン)=艹+魚+羊」=苔  「定方=テイホウ・ジョウホウ」だが、  「定レ方」の「レ点」で訓読すれば  「ホウテイ・ホウジョウ」で  「よみがえる(蘇)」だろう・・・?  「方定=ホウテイ=方綴・方程・法廷」・・・・方位・方角  「ホウジョウ=法帖・豊饒・北條・方城・北城・方丈」 北城=ホクジョウ=北上→北帰行→松浦武四郎                     北紀行・北帰航         松浦武四郎=北海道へ六度渡来         文化十五年二月六日        (1818年3月12日)    1818生年 戊 寅(己・丙・甲)    0003生月 乙 卯(甲・ ・乙)    0012生日 甲 戌(辛・丁・戊)申酉=空亡          ~         明治二十一年        (1888年2月10日)    1888没年 戊 子(壬・ ・癸)    0002没月 甲 寅(己・丙・甲)    0010没日 辛 亥(戊・甲・壬) ーー↓↑ーー↓↑ーー  ・・・そして、蝦夷地に北上したのは「榎本武揚(えのもと たけあき・1836年10月5日(天保七年八月二十五日)~1908年(明治四十一年)十月二十六日)・元幕臣、明治維新政府官僚、海軍中将、正二位、勲一等子爵・通称は釜次郎・号は梁川(リョウセン)・異名は榎、釜を分解した夏+木+金+八(郎)」・・・  四稜郭(シリョウカク)・・・「定方」?の稜郭  箱館戦争の際に  蝦夷共和国(箱館政権)が  明治二年(1869年)  北海道函館市に築城した堡塁  新台場、神山台場、新五稜郭などとも呼ばれる  五稜郭を援護する支城  東照宮を守護する為に  洋式築城法により築かれた  建設監督は  大鳥圭介、ブリュネ大尉  ↓↑  榎本武揚  伊能忠敬の弟子であった幕臣  榎本武規(箱田良助)の次男  ↓↑  生年1836 丙 申(己・壬・庚)  生月0010 丁 酉(庚・ ・辛)  生日0005 丙 子(壬・ ・癸)申酉=空亡  ↓↑  箱館戦争=五稜郭の戦い=己巳(キシ)の役  慶応四年・明治元年~明治二年(1868年~1869年)  戊辰戦争の新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘  干支が「戊辰~己巳」に替わった  ↓↑  1868年12月4日、約3,000名が「鷲ノ木」に上陸  1868年10月22日夜、峠下で戦端  1868年10月26日、五稜郭へ無血入城  ↓↑  1868年12月15日、蝦夷地を平定し、箱館政権を樹立  1868年 戊 辰(乙・癸・戊)食神 月支合金  0012月 甲 子(壬・ ・癸)偏印 年三合水  0015日 乙 亥(戊・甲・壬)印綬 年害  ↓↑  1869年 6月27日、箱館政権降伏  1869年 己 巳(戊・庚・丙)傷官 支合水  0006月 庚 午(丙・ ・丁)偏財 生日沖  0027日 己 丑(癸・辛・己)傷官 支合火  ↓↑  没年1908 戊 申(己・壬・庚)食神・日三合  没月0010 壬 戌(辛・丁・戊)偏官・月害  没日0026 甲 寅(己・丙・甲)偏印・年沖 ーー↓↑ーー↓↑ーー  蘇我稲目(506年頃~570年3月22日)  蘇我馬子(551年~626年6月19日)  河上娘  刀自古郎女(=河上娘?)  蘇我-法提郎女・・・ナゼ、「法提郎女」なのか?               「法廷牢序」?           提=手にぶら下げる・提出・持ち上げる             上に動かす・提昇             引き出す・引き出して注目させる             提起・提案・提供             さげる・テイ・ダイ             提琴・提携             差し出す・持ち出す             提案・提起・提供・提言・提示             提出・提唱・前提             先に立って引き連れる         「提督→底度久御魂(そこどくみたま)」             溺死の「猿田比古」   川堀  杲安  蘇我善徳(580年~?  蘇我 倉麻呂(雄当)  蘇我蝦夷(586年~645年7月11日)  蘇我入鹿(610年~645年6月12日)  ↓↑   ↓↑       643年11月       入鹿は斑鳩宮を襲い       山背大兄王と       その厩戸(馬宿・聖徳太子)の       一族を滅ぼした  ↓↑  蘇 定方(592年~667年)  本貫、冀州武邑県  蘇邕の子  ↓↑   邕(ヨウ・ユ)  蔡邕・・・蔡倫=宦官・字は敬仲  (サイヨウ   ↓↑   132~192年) ↓↑  ↓↑      50年?~121年?  ↓↑      紙の発明者         「和帝」のとき・・・倭帝=ワテイ=倭綴          尚方令(帝室技芸長官)          元興一(105)年          竹木簡、白絹などに代えて          樹皮、麻頭、魚網、襤褸などから          紙をつくり、和帝に献上          初元一(114)年          龍亭侯          長楽太僕 (卿)          安帝即位とともに          帝の祖母を陥れたことで  ↓↑      服毒自殺                  建寧三(170)年  「霊帝」の郎中  東観で書物の校定  熹平四(175)年  「諸経の文字平定を奏請し  みずから書して  石に刻み太學の門外に建てた(熹平石経)  董卓に召されたが  董卓の誅死後、投獄され獄中で死亡      ↓↑      「董卓」をたよった      「丁原」は      董卓の策で部下の      「呂布(?~198)」に殺され      董卓は「王允」に唆された      「呂布」に殺された      呂布は「劉備」or「曹操」の軍に殺された ーーーーー   邕=巛+邑(口巴)=ヨウ・ユ・・・三く=くくく    異体字=巛+口+囗           3×9=弐拾七(漆)    周囲を川(巛)や堀で囲まれた都市    ふさぐ・周囲を囲って封じ込める    やわらぐ・なごむ    ピンイン(Yōng)付属形態素    川の名に用いる    邕江=広西・チワン族自治区にある川の名       広西チワン族自治区南寧の別称       広西南寧の別称邕剧       広西チワン族自治区の       粤(えつ)語による地方劇       邑(ユウ・オウ)=むら・くに・・・阝 ーー↓↑ーー↓↑ーー  邕=武帝(543年~578年6月21日)       北朝北周の第三代皇帝    武帝の諱は「邕(ヨウ)」    姓は「宇文」    西魏の   「宇文 泰」の四男    姓  宇文    字  爾羅突    諡号 武皇帝    廟号 高祖    生年 大統九年(543年)    没年 宣政元年六月一日       (578年6月21日)    父  宇文泰(ウブンタイ)    母  叱奴(口七女又)太后    皇后 阿史那(アシナ)皇后    側室 李皇后、庫汗姫       馮姫、薛世婦       鄭姫(北斉の南陽王-高綽の寡婦)    子    宣帝    宇文贇・・・贇=斌(文武)+貝(目八)           =イン・よし・すばらしい・美しい    宇文贊(漢王)    宇文贄(秦王)    宇文允(魯王)    宇文充(趙王)    宇文兌(蔡王)・・・兌=八+兄=蔡王               =かえる・よろこぶ・するどい                ダ・タイ・エツ・エイ                兌換・易の八卦の一                沢・少女・秋                方角で西 ーー↓↑ーー↓↑ーー  宇文 化及(ウブン カ-キュウ)        宇文 化 及・・・宇宙の文化を及ぼす?  隋の政治家、軍人  隋末の混乱期に独立し  皇帝を僭称  「許」を建国・・・・・許=言+午(ノ一十)=うま=馬                       宇摩合  宇文智及・・・宇文智-及  宇文恵及・・・宇文恵-及  の兄、  宇文士及・・・宇文士-及  の異母兄   ↓↑  北周の  左翊衛将軍  宇文述  の長男  代郡  武川鎮(内蒙古武川県)に生まれ  長安で育った  長安では「軽薄公子」と呼ばれ  幼少の頃より  楊広の寵愛を受け  煬帝の即位後は  太僕少卿に任じられた  大業十二年(616年)  父(宇文述)が死去  右屯衛将軍に任命   ↓↑  大業十四年(618年)  叛乱を避け  江南の江都(揚州)に逃れ  大興城へ帰還しようとしない  煬帝  に対し  司馬徳戡・趙行枢・薛世良  らによる反乱が計画  「宇文化及」はその指導者に推戴された  「宇文化及」は弟の  「宇文智及」とともに  「煬帝」を弑殺  「煬帝」の弟である  蜀王秀の子  「秦王浩」を擁立し・・・「秦の王の浩(ひろい・おおきい)」               ハタの王の浩(氵+告)  自ら  大丞相となり北上  王世充・李淵・李密  らの勢力に阻まれ  長安に入ることはできなかった  「宇文化及」は  「楊-浩(秦王浩)」を毒殺し・・・陽侯氏→薩摩→島津  魏県を根拠地として自ら  皇帝に即位  国号を  「許」  元号を  「天寿」と定めた   ↓↑  天寿二年(619年)  竇建徳に  聊城で敗れ  智及ら部下は処刑  自らは子の  宇文承基・・・承基・・・基を継承・承諾・承知  宇文承趾・・・承趾・・・趾(足止)を継承  とともに  「襄国」に運ばれて斬首  「化及」の首は  突厥に嫁いだ  「文帝」の宗室の娘である  義成公主  に送られた   ↓↑  武徳二(619)  隋の反臣  北周系の門閥  宇文述・・・・宇の文を述(のべる)  の長子  隋末に各地で反乱が起ったとき  「化及」・・・化して及ぶ   は  北帰を望む軍人らを率いて  江都にいた  煬帝を殺した  「化及」は  煬帝の甥  「楊浩」  を擁立して  北帰しようとしたが  途中で  「楊浩」を殺し  みずから帝位についた  国を  「許」と号し  年号を  「天寿」と称し百官を任命  「竇建徳 (トウケントク)」  と戦って敗れ、斬殺された   ↓↑  隋の貴族  「煬帝」の殺害者  「宇文化及」   ↓↑  父の  「宇文述」  は  煬帝の寵を得て貴顕の地位に上った  「宇文化及」も  右屯衛将軍を授けられたが  弟の  「宇文智及」  とともに非行多く  軽薄公子とよばれた  大業(605~616)末年  煬帝は反乱情勢に阻まれ  江都(江蘇省江都県)の離宮から  動かず  「宇文化及」  は北帰を望む近衛軍の将兵に擁されて  「煬帝」を殺し  帝の甥  「浩」を奉じて北上  魏県(河北省大名県)で  「浩」を殺し  自ら即位し  「許国」を建國したが  「竇建徳(トウケントク)」  に滅ぼされた   ↓↑  皇帝を僭称し  「許」を建国  宇文智及  宇文恵及  の兄  宇文士及  の異母兄 ーー↓↑ーー  宇文元(荊王)=周武帝宇文邕的第七子=武帝  武帝(ぶてい)=宇文邕          北朝・鮮卑系の宇文氏が建国した          北周の第三代皇帝          姓は宇文          諱は邕(ウオウ・ユ)          西魏の実力者          宇文泰の四男          独裁の従兄         「宇文護」を          572年に誅殺、親政し         「皇帝」号をやめ、         「天王」を採用・・・「天皇」?          578年          陣中にて病を得て崩御          皇太子の         「宇文贇(宣帝)」が新たに即位          ↓↑          第三十代         「敏達天皇」          宣化天皇三年(538年?)          ~          敏達天皇十四年八月十五日(585年9月14日?)          在位          敏達天皇元年4月3日          572年4月30日?           ~          585年9月14日?          和風諡号は          渟中倉太珠敷尊         (ぬなくらのふとたましきのみこと)          沼名倉太珠敷命          別名、他田天皇   ↓↑  武帝=宇文邕     突厥と同盟して北斉を攻撃     儒教・仏教・道教     に関する討論会を開き     儒者・僧侶・道士の優劣を競わせた   ↓↑  天和七年(572年)  地方から首都長安に戻った  「宇文護」  を誅殺し  親政を開始   ↓↑  建徳三年(574年)  道教と仏教をともに廃止  仏教・道教の研究機関として  通道観を設置  120名の通道観学士を選任  寺院の破壊と財産の没収  僧侶の還俗を行って財産を没収  税賦を逃れる目的で  僧籍に入る者を還俗させて税を取り  財政改善を狙った  (三武一宗の廃仏)   ↓↑  建徳二年(573年)  陳の  宣帝  陳頊  が  将  呉明徹を遣わして  北斉軍を討ち破り  寿陽など江北の九郡を奪った  陳の攻撃で弱った北斉に  これらの富裕な土地を  奪還する能力が欠如していると  「武帝(宇文邕)」は  建徳四年(575年)  北斉への本格的な攻撃を開始  建徳五年(576年)  平陽と晋陽を奪い  建徳六年(577年)  首都の  鄴を包囲  北斉を滅ぼし  北魏の東西分裂以来  四十数年ぶりに華北統一  武帝(宇文邕)は  北斉の旧皇族である  高一族や  北斉の臣下たちに  寛大な処置で臨み  最後まで北斉に忠実だった者は厚遇  李徳林  は法律制度を整備するために重用  旧北斉領内においても  仏道二教の廃毀を断行 ーー↓↑ーー  邕=武帝  北朝北周の第三代皇帝  武帝(宇文邕)  周礼を理想  鮮卑への復古も標榜する  北周朝の政策に則って  仏道二教を廃止  武帝は、道教の外護者であり  通道観においても  道教の経典研究を行い  道教典籍を編纂  『無上秘要』という道教類書   ↓↑  宣政元年(578年)  彭城で陳軍を破って  呉明徹を捕らえた  武帝(宇文邕)は呉明徹を  懐徳公に封じ厚遇  突厥に親征を企てたが  罹病し、間もなく崩御  享年36(満34歳没)   ↓↑  没後の仏教説話  武帝の崩御後  数種の説話伝承が流布  廃仏皇帝の因果応報としての  末路を示す伝説  冥界説話や応報説話  寿命のある人が  誤って閻魔王のもとに送られ  審判の結果  その誤りが判明して  蘇生し、見聞したさまを語った・・・  武帝の話説によれば  彼を煽動した  衛元嵩は、閻魔王の管轄外にあって  武帝の受けているような  地獄での仏罰を受けていない  三界をくまなく捜索しても、  その姿を発見し得ない・・・ ーーーーー  武帝の崩御  皇太子の宇文贇(宣帝)が即位  暗愚の息子・・・  即位した宣帝は  武帝を支えていた一族群臣を粛清  即位の翌年  579年  皇太子の  宇文闡(静帝)に譲位  自らは  天元皇帝と称した  実権は外戚の  随国公  楊堅が掌握・・・  580年  宣帝は22歳で崩御  8歳の静帝の下で  楊堅は兵権を掌握  隋王の称号を与えられ  581年  楊堅は静帝より禅譲を受け  隋を建国  北周は滅亡  北周皇族の宇文氏は  静帝を初めとして  楊堅によって皆殺しにされた  例外として  虞国公の  宇文興  (宇文韜(宇文泰の祖父)   の兄の   宇文阿頭   の孫、   宇文仲   の子)、  宇文洛(字は永洛)  父子の系統のみは許され  唐に仕えて存続した・・・ ーー↓↑ーー  「党錮の禁」  166年(延熹九年)~169年(建寧二年)  ・・・・宦官と儒教の学徒の官僚と対立し、官僚たちを党人と言い、党人が宦官によって禁固・・・ ーー↓↑ーー  武内  宿禰   ↓  蘇我  石川(宿禰)  満智  韓子  高麗  稲目・・・武烈天皇八年       (506年頃)         ~       欽明天皇三十二年三月一日       (570年3月22日)       財務に手腕を振るい       王辰爾を遣わして船賦を数え記録       諸国に屯倉を設置  馬子   境部摩理勢・法提郎女・堅塩・小姉  蝦夷   倉麻呂   古人大兄皇子  入鹿   倉山田石川麻呂・赤兄・連子・日向・果安       姪娘       元明  ↓↑  兄=あに=昆・豈・詎・晜・阿似・阿爾・阿仁・王仁           詎=キョ・ゴ・なんぞ           晜=兄             昆(晜)孫の子(七代後)  玄孫(やしゃご)・・・曾孫の子(四代後)  来孫(らいそん)・・・玄孫の子(五代後)  昆孫(こんそん)・・・来孫の子(六代後)。晜孫  仍孫(じょうそん)・・・昆(晜)孫の子(七代後)  雲孫(うんそん)・・・仍孫の子(八代後)  ↓↑  晜孫(昆孫)=本人を1世とすれば            7世(6代後)の末裔   ↓↑  藤原不比等に嫁ぎ  武智麻呂、房前、宇合の三男を儲けた  母親  蘇我 娼子(そがのしょうし・そがのまさこ)  蘇我 媼子(そがのおんし・そがのおうなこ)  「娼子=媼子」は同一人物   ↓↑  蘇我氏の血縁  持統天皇(大叔父       蘇我倉山田石川麻呂の外孫)  に不比等が取り立てられ  後年  藤原仲麻呂が  石川年足を取り立てたのも  彼女の血縁による・・・  蘇我氏(石川氏)自体は  天武天皇の皇統断絶  女系で藤原氏を通し  血統(蘇我氏)を伝えたのは  蘇我稲目の娘の  蘇我堅塩媛  蘇我堅塩媛―桜井皇子―        吉備姫王―皇極天皇―天智天皇…   ↓↑  「娼子=媼子」の   ↓↑  父は蘇我連子=蘇我連子(そがのむらじこ)         推古天皇十九年(611年)?          ~         天智天皇三年(664年5月)         名前は連=むらじ=武羅自・牟羅志         氏姓=蘇我朝臣         蘇我倉麻呂(蘇我雄正)の子  母は未詳  兄は蘇我安麻呂  夫は藤原不比等  長男は藤原武智麻呂  次男は藤原房前  三男は藤原宇合(馬飼)   ↓↑  藤原馬飼(宇合・宇摩合)  霊亀二年(716年)八月  第九次遣唐使の  遣唐副使  (遣唐押使は多治比県守)  (遣唐大使は大伴山守)  霊亀三年(717年)六月~七月ごろ入唐  十月に長安到着  養老二年(718年)十月  遣唐使節一行は九州に帰着  養老三年(719年)正月に復命  藤原宇合は  正五位上に昇叙  遣唐使節としての入唐を通じ  「馬養」から「宇合」に改名・・・   ↓↑ ーーーーー  蘇 定方   ↓↑  660年  熊津道大総管  百済征討で  城山から海をわたって  熊津口に上陸  真都城に進軍  百済義慈王・・・孝、泰、隆、演、豊璋          勇(百済王善光・帰化)          などの6人の王子          他、庶子41人          父親、武王の死により即位          唐から         「柱国・帯方郡王・百済王」の称号  と  太子の隆  は一旦  北方に逃走  泗沘城を包囲  義慈の子の泰が抗戦しようとしたが  義慈王は開門して降伏  百済の将軍の  禰植と義慈は唐軍に降り  泰も捕らえられ  百済王義慈・隆・泰  らは  東都洛陽に送られた ーー↓↑ーー  百済  義慈王は  ↓↑  黄帝の子の  少昊・・・少昊(ショウコウ)       中国古代の五帝の一人       姓は己  金天氏・・氏は金天氏      (鳳鳥氏・青陽氏・窮桑氏・雲陽氏)       とも称す       名は摯(シ・鷙・質)、玄囂       号は「昊(皞・皓・顥)」とも      「朱宣・少昊(太昊の徳行継承による)」  の  子孫である  ↓↑  新羅軍に  649年8月  道薩城(忠清北道槐山郡)付近で大敗  651年  唐に朝貢した折  高宗から  新羅との和睦を進める璽書を送られた  後も新羅との争い  655年  高句麗・靺鞨と組んで  新羅の30城を奪った  驕慢になった義慈王は  酒色に走り朝政を顧みなくなった・・・  これを諫めた  佐平の成忠(浄忠)を投獄  660年  唐の高宗は  蘇定方に大軍13万を与え  新羅の  武烈王・金庾信  の軍5万と連合(唐・新羅の同盟)し  百済を征討  百済軍は  白江(錦江の支流)に  迎撃したが大敗  唐・新羅軍が首都の  泗沘城(忠清南道公州市)まで迫ると  義慈王はいったん  太子(隆)とともに北方へ逃亡  百済王の第2子の  泰が自ら王を名乗って  泗沘城を固守したが  太子の子の  文思が隆に相談し  唐軍が去ったとしても  自立した泰に害せられることを恐れて投降  泰も開城して投降し  逃げのびていた義慈王も諸城をあげて降伏  百済は滅んだ  義慈王は妻子とともに長安に送られ  その年のうちに唐で病死  「金紫光禄大夫・衛尉卿」  の爵号を贈られ  洛陽市かその近くに葬られた  隆には  司稼卿  の爵号が贈られた・・・  ↓↑  百済滅亡後  豊璋が倭国の軍事援助で  復興戦争  白村江の戦い(663年)で大敗  唐は  百済旧領に  熊津都督府を置いて  羈縻州としたが  百済遺民を慰撫するため  665年  義慈王の王子の  扶余隆を  熊津都督  百済郡公  熊津道総管  兼  馬韓道安撫大使  として  旧百済王城の  熊津城に入れ  その統治に当たった  後、新羅の勢力が強くなり  都督府は撤退  高句麗、百済の地は  新羅、渤海、靺鞨  に分割され  百済の影響は  朝鮮半島から完全に消滅  677年2月  唐は扶余隆の封爵を  かつての  百済国王と同じ  光禄大夫  太常員外卿  熊津都督  帯方郡王  に格上げし  熊津都督府を回復しようとしたが  既に百済旧領は  新羅領となっており  隆は熊津城に帰ることが出来なかった  682年  隆は洛陽に没し  輔国大将軍の爵号を追贈  武則天が  隆の孫の  扶余敬に  衛尉卿を授けて  帯方郡王に封じたが  旧領の回復は全く出来ず  子孫も断絶した  1920年  扶余隆の墓誌が洛陽で出土  中国正史や『三国史記』  等には記載されていない  隆の経歴や爵号、生没年などが判明 ーーーーー  善徳女王(ゼントコジョオウ)  647年2月17日(旧暦1月8日)  新羅の第27代の王  在位、632年~647年  新羅初の女王  姓は金  諱は徳曼  真平王の娘  母は金氏の  葛文王、福勝の娘の  摩耶夫人  王配は  水月  葛文王  朴欽飯  3人姉妹(三国史記では長女       三国遺事、花郎世記では次女      で、男兄弟はいない)  632年1月  先王死去したときに男子がなく  父母ともに  王族である聖骨の男子がいなく  徳曼が  呪術者的性格・・・鬼道?・・・三つの「予言」  に期待され  王位を継いだ  即位して後に  聖祖皇姑の号を  国人?  から奉られた ーーーーー  ・・・???・・・

「耶蘇教」

「蘇因高」・・・小野妹子 2017-11-01 21:48:54

 ・・・「淵蓋蘇文=泉蓋蘇文」・・・「伊梨柯須彌(伊梨柯須弥=いりかすみ)」・・・? ーーーーー  淵蓋蘇文(エンガイソブン)  ?~665年(宝蔵王二十四年)  高句麗末期の宰相・将軍  泉蓋蘇文・泉蓋金  とも記される  『日本書紀』に  「伊梨柯須彌(伊梨柯須弥、いりかすみ)」  として記録  姓の「淵(泉)」は  高句麗語の  「いり(水源)」の意味  「蓋蘇文」は  高句麗語で  「かすみ」と発音したものを  漢字で当て字した・・・  姓は淵、or 泉  『旧唐書』『三国史記』  等が「泉」として  「淵」とは書かないのは  「淵」は  唐の高祖の諱(淵)を避諱した・・・  『日本書紀』に  「伊梨柯須彌」とも書かれ  「漢字訳」はもともと便宜的なもの・・・ ーー↓↑ーーー  子息  泉男生  (センダンセイ   ヨン-ナムセン)  634年~679年1月29日  淵蓋蘇文の子  兄弟間の争いのために唐に服属  字は元徳  648年  中裏小兄・・・小兄は序列の職号?  651年  中裏大兄・・・大兄は序列の職号?・・・中「大兄」皇子  656年  中裏位頭大兄・・・大兄は序列の職号?  657年  将軍  661年  莫離支・三軍大将軍  数万の兵を率いて  鴨緑江で唐軍と対峙  契苾何力  に敗れて、身ひとつで逃亡  665年  大莫離支の位を加えられ  高句麗の国政を掌握  弟の  泉男建  泉男産  と不仲となり  泉男建が泉男生の子の  泉献忠を殺害  泉男生は弟たちを恐れて  国内城に逃亡し  契丹・靺鞨と結び  子の  泉献誠  を唐に送って援助を求めた  高宗は  泉献誠を右武衛将軍に任じ  契苾何力・龐同善らに  泉男生を援助  666年9月  龐同善  が高句麗軍を破ると  泉男生は龐同善と合流  667年  薛仁貴が  泉男建を破ると  泉男生は  薛仁貴と合流して  南蘇・木底・蒼巌  の三城を落とした  高宗は  西台舎人の  李虔繹を派遣し  泉男生  をねぎらわせた  668年  泉男生  は長安に入朝  特進  遼東大都督  平壌道行軍大総管  持節安撫大使  に任ぜられ  玄菟郡公に封ぜられた  再び高句麗におもむくと  李勣とともに平壌を攻め  僧侶を使って  高句麗の内部を離間し  宝蔵王を捕らえた  長安に凱旋したのち  右衛大将軍に進み  卞国公に封ぜられた  677年  詔を受けて  遼東の地の安撫にあたり  唐の州県を置き  流民を定住させ  賦税を公平にし  労役をはぶいた  679年  46歳で死没  并州大都督の位を追贈  諡は襄 ーー↓↑ーー  642年(栄留王二十五年)  北方に  千里長城を築造し唐の侵入に備えた  唐との親善を図ろうとしていた  第二十七代王  栄留王  伊梨渠世斯(いりこせし)  ほか180人を弑害  宝蔵王を  第二十八代王に擁立し  自ら  「大莫離支(ダイバクリシ)」  高句麗末期の  行政と軍事権を司った最高官職  に就任して政権を掌握  安市城の城主だった  楊萬春  が  淵蓋蘇文  への権力集中を認めず  淵蓋蘇文は直接軍隊を率いて  安市城を攻撃  安市城を占領することができず  妥協し  淵蓋蘇文は楊萬春の職権を  楊萬春は淵蓋蘇文を執政者  として承認  淵蓋蘇文は対外強硬策を採り  高句麗に救援を  要請するために到来した  新羅の  金春秋(武烈王)を監禁  新羅と唐との交通路である  党項城を占領  644年(宝蔵王三年)  新羅との和解を勧告する  「唐の太宗」・・・・高宗?・・・唐の第3代皇帝            太宗の第九子・            母は鮮卑の拓跋を出自に持つ           「長孫無忌」の妹の「長孫」皇后  の要求を拒否  太宗が  「弑君虐民の罪」を問い  645年(宝蔵王四年)  17万の大軍を率いて高句麗に侵入  楊萬春が  安市城でこれを阻止  60余日間の防戦後  唐軍を撃退  その後  4回に亘って  唐の侵入を受けたが  楊萬春  はことごとくこれを阻んだ  643年(宝蔵王二年)  唐へ使臣を派遣  道教の道士八名と  『道徳経』を高句麗に持ちこむ  淵蓋蘇文は文化面でも功績    善徳(ゼントコ・ソンドク)女王  647年2月17日(旧暦1月8日)  新羅の  第27代の王  (在位632年~647年)  新羅初の女王  姓は金  諱は徳曼  真平王の娘  母は金氏の  葛文王  福勝の娘の  摩耶夫人  王配は  水月  葛文王  朴欽飯  3人姉妹(善徳  ↓↑  女王自らが任命した  上大等の毗曇らが  647年正月に女王の廃位を求めて内乱  上大等に代表される中央貴族に対抗して  金庾信  (『三国史記』    黄帝の子の少昊金天氏の子孫)  ら地方勢力の有力者が  女王を支援して乱の収拾に当たったが  同月八日  女王は陣中に死没  善徳と諡され  狼山(慶州市)に葬られた  在位十六年  金庾信らは  真徳女王  を立て、  正月十七日  乱を鎮圧  毗曇  ら20余名を誅殺  死後、唐からは  光禄大夫の号を追贈  ↓↑   善徳女王  仏教の保護  慈蔵法師を唐に派遣して仏法を修めさせた  帰国した慈蔵法師の発願で  645年3月  皇龍寺の九層塔を創建  女王の時代に  芬皇寺や霊廟寺が完成  霊廟寺の建立と同時に  瞻星台(天文台)を築いた・・・  640年  王族の若者を留学生として  唐の国子監に派遣  ↓↑ ↓↑  善徳女王の  3つの予知  唐の太宗が  牡丹の花の絵と種を贈って来たとき  その花には香りがないであろうと言った  「花の絵には蝶や蜂が描かれていない。   どんな美女でもその色香で男たちが群がるので、   花に群がる虫がいないことから   香りがないと解った」  と答えた。  宮殿の西の玉門池に  蝦蟇がたくさん群がって鳴いたとき  西の国境付近に賊の潜んでいることを知り  角干の閼川(アルチョン)  らを派遣して賊を滅ぼさせた  「蝦蟇(蛙)の怒った目は兵士を表し   西の国境付近には   女根谷という地名があるので   玉門池に蛙が集うのは   女根谷を兵士が侵そう(犯そう)   としている」  と解ったと答え  金庾信や毗曇  ら家臣は昂奮した・・・  自分の死の年月を予測  忉利天の中に埋めるように  と言った  群臣は忉利天の場所がわからず尋ねると  狼山の南であると答えた  後に  毗曇の内乱が起り  女王は予測の月に死亡  狼山の南に葬られた  十余年後に  文武王  によって  女王陵の下に四天王寺が建てられた  ↓↑  家族  父は真平王  母は摩耶夫人  姉/妹は天明公主(金龍春の妻)  甥は武烈王(金春秋)第二十九代国王。  妹は善花公主(第三十代百済王 武王 (百済)の王妃)  甥は義慈王 第三十一代百済王。  妹は天花公主  夫は「朴欽飯」、「金龍春」、「乙祭」  いずれの夫との間に子は無し ーーーーー  ・・・「善徳・金春秋・文武・真徳」の時代の倭国の名前の重なる人物達は・・・???・・・

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