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霧の交叉点・・・立ちん坊・・・朝七時半~

2022/11/16・水曜日・癸酉・・・追加添文・・・

朝から霧の中の

交通安全の交叉点での立ちん坊・・・

視界3メートル

子供たちの登校人数が少ない・・・

親が車で登校させているのかも

女の子がランドセルを背負って近づいてきたので

挨拶

おはようございます

おはようございます

何年生なのッ

一年生です

そうですか、転ばないようにイってらっしゃい

ありがとう

・・・霧の中に少女が消えていった・・・


 ・・・五月十七日の庭、アッと云う間に緑色に覆われだし、梨の枝々に白い花が咲き始めだし、遅咲きの八重桜の蕾は少し裂れてピンク色を見せだし始めた・・・ピンネッシリにはまだ少し白い雪筋・・・夕方、三笠の従姉と、彼女の息子が食糧を携え、訪問してくれた。感謝です・・・玄関の外に出た従姉が帰り間際に、「隣の土手にはタンポポ(蒲公英=ホコウエイ・鼓草=つづみぐさ)が満開で、黄色い絨毯を敷き詰めている」って。去年はマバラで、それほどでもなかったタンポポ・・・それに、ナンで、「タンポポ」なんだか?・・・「淡頬・旦頬」?、「蛋保穂(布・圃)=たんぽぽ」の「蛋(タン)=鳥、亀、蛇などが出産した丸い形の殻のある卵の蛋黄(タンコウ・黄身)・蛋白(タンパク)」、「蛋=中国の南方で水上生活をする部族・蛋民」、「皮蛋 (ピータン) =アヒルの卵に木灰、石灰、塩、泥などを茶の汁でこねたものを塗りつけ、発酵させた食品・卵白は褐色の寒天状、卵黄は暗黄緑色に固まる・中国料理の前菜に用いる」・・・?  ナルホド、ザ、ワーァルド・・・「目玉焼き」かぁッ・・・「片面だけ焼いた(an egg fried sunny- side up)・両面焼いた(a fried egg, an egg fried easy-over)」と「モカ珈琲(コーヒー・coffee)」・・・  「蒲公英=タンポポ」  「蒲=かば=掛葉・河馬・萱場・樺・椛・庇   ↓↑      加波=日下の浦(氵+甫)」           ミズの甫(はじめ・すけ)              甫=事のはじめ・起こり                苗木の根を立ててかこう形                苗木の形、植樹のはじめ                屮(芽ばえ)+田                苗を育てる畑・苗代(なわしろ)   ↓↑ ??伊藤博文=俊輔・春輔・・・      滄浪閣(ソウロウカク)=1890年(明治二十三年)      足柄下郡小田原町(神奈川県小田原市)      に建てられた伊藤博文の別邸      ・・・李垠(リギン・1897年10月20日~1970年5月1日)      大韓帝国最後の皇太子・日本の王族、李王      大日本帝国陸軍中将・大韓帝国時代の称号は英親王      李氏朝鮮第26代国王で   ↓↑ 初代大韓帝国皇帝高宗の第七男子・・・   ↓↑ 「李恨」じゃぁないョなッ・・・  「公(おおやけ・きみ)=ハ+ム」  「英(はなぶさ=花房・䇦・萼・纐纈)     はな=嵌名・花・華・鼻        洟        端        塙        蘤=艹+白+爲            (為=なす・する・ため・つくる・なる               イ・ハ・バ・カ・ケ               ひいでる」・・・   為=爲・なす・する・ため・つくる・なる・ゐ=ヰ=イ    云為(ウンイ)・営為(エイイ)・敢為(カンイ)    行為(コウイ)・作為(サクイ)・所為(ショイ)    人為(ジンイ)・当為(トウイ)・無為(ムイ)    天為(テンイ)    有為(ユウイ)・(ウイ)    為政(イセイ)・為体(エタイ)    為替(かわせ)    為着(せ・しきせ)・為手(して)    為出来(す・しでか-す)    為所(しどころ)    為る(す-る)    為ん方無い(せんかたな-い)    為(ため)・為体(ていたらく)    為す(な-す)    為せば成る(なせばなる)    為る(な-る)    為人(ひととなり)    為(つくり)    為政者(イセイシャ)  「名のり」   さだ・しげ・す・すけ・た・ち・なり・ゆき  ・・・「卵黄=蛋黄」と、「卵白=蛋白」・・・花なら「タンポポ」と云うよりは、  「白い花弁」に囲まれた  「黄色の蕊(はなしべ・雄蕊、雌蕊→はなしべ=噺部・話部・譚部      蕊=艹心心心、      蘂=艹心心心十八)」  の、  「マーガレット」かも・・・   ↓↑  「マーガレット(Marguerite・マーガリート)   キク(菊)科の半耐寒性多年草   和名はモクシュンギク(木春菊)・・・木の春の菊                     記に貼る規矩   原産地はカナリア諸島   17世紀末にヨーロッパへ渡り、・・・1600年代後半   フランスで品種改良され・・・・・・・仏蘭西   パリデージーと呼ばれている」・・・・paris daisy   ↓↑   フランスで呼称されている   「マーガレット」は、   「フランス菊」で   日本で言う   「マーガレット」   とは違う植物   「女神アルテミスに捧げられた花」   「白色の一重咲き、黄色やピンクのもの、   八重咲き、丁字咲き、オペラ咲き」  がある・・・   「フランスの『マーガレット』は    オックス-アイ-デイジー」・・・Ox eye daisy   ↓↑  フランスでマーガレットと呼ばれている花  フランス菊(和名)=Oxeye daisy・・・ox(牡牛)+ eye(目)                      daisy(雛菊)               ox=去勢された牡牛(労役牛)            Oxeye=丸い花芯のある                キク科植物の総称            marguerite  日本でマーガレットと呼ばれている花  木春菊(和名)=Paris daisy          marguerite  「マーガレット(木春菊)は葉に切れ込みが有り   フランス菊(ギク)には葉に切れ込みが無い   マーガレット(木春菊)は茎が木のようになり   フランス菊(ギク)は1本ずつ立ち上がる」  ・・・兎に角、牛の眼は黄色の雛、と云うコトだな・・・  「ox(牡牛)+ eye(目)+daisy(雛菊)」  「ギリシャ語の真珠=マルガリーテスに由来」  「花占いで・・・好き、嫌い、好き…と   花弁(はなびら)を毟(むしら)れていくハナ」  ・・・「花占い」の歌・・・???・・・ ーーーーー  ・・・「過去の出来ごと」を勉強し、「現在の出来ごと」も研究している人々って、スゴイねっ!・・・ブロガー(Blogger)の皆さん、尊敬したい・・・当然だが同時に「文字」と「モジ=門司・紋次・紋二・悶時・聞耳」を研究している人々も・・・モジのトキアカシ?  以下も以前も参照、参考にして添付しているモノはホトンドが「有一記経出阿?(ウイッキペデア)&他のブログ記事」からのモノで、「ーー↓↑ーー・・・ーー↓↑ーー」の範囲は「自説」ではありません・・・「ジセツ」は「・・・」の「?」と「イチャモン?」の部分のみです・・・アシからず、ゴメンなすって、おクンナさい・・・ ーー↓↑ーー  隋王朝・・・隋=阝+ナ+エ+月・・・「月=肉・舟」?  ↓↑  高祖  楊堅・・・楊=十+八+日+一+勿・・・「勿=なかれ・モチ・ブツ」       堅=臣+又+十+一・・・「臣=おみ・とみ・ジン・シン」  の  北周時代の爵号である  隨(随)国公に因む・・・隨=阝+辶+ナ+エ+月                 「辶=辵」「月=冃・肉・舟」              「左=ひだり=㔫(ナ+ヒ・匕・七)」              随=阝+辶+ナ+月                 「辶=辵」「月=冃・肉・舟」  ↓↑  隨(国)は地名  唐の時代までは「隨」の略字として  辵部(しんにょう、辶)を省いた  「隋」と相互に通用され  さらに  「隋」から  「エ」を省いた・・・「エ」=「工作・工事・工文」の道具           「ナ+ヒ」=サ=「左」の俗字  「陏」の字が・・・「ナ=一(イチ)+丿(ヘツ・ヘチ)」              はらいぼう(丿)=ひく・ヘツ・ヘチ           「月=冃(ボウ)=被(かぶせ)もの            おおう=おほう=覆・蔽・蓋・幕・弇」  用いられる事もあり  後、  中唐以降に  「隨」・・・・・阝+左+月+辶(辵)  と  「隋」・・・・・阝+左+月  とは区別され  地名は・・・シンニュウ=之繞・侵入・浸入・滲入・進入・新入  ↓↑           繞=糸(いと・シ)                 堯(たかい・ギョウ)  ↓↑           繞=糸+土+土+土+兀                 土=十+一               兀=たかい・ゴツ・コチ・ゴチ               兀=高くつき出たさま                 「兀立=屹(キツ)                     一心                     直向(ひたむ)き                 「兀=人(儿)が頭(一)を                    つき出している意                    禿げ・禿山         傲兀(ゴウゴツ)・突兀(トッコツ)  ↓↑     兀子(ゴシ)・兀兀(コツコツ)・兀立(コツリツ)  「隨(随)」・・・辶=辵=漢字構成で               左から下にかけて               置かれるものの総称             辵=彡+ト+人           「随所=ズイショ=随処」にある            随身=ズイシン=護衛、警備員            随神門=邪悪なものを防ぐ神をまつる門            随心供仏=仏心に常に供養すること            随心転=心ままに常に従うことを            随求堂=ズイグドウ=随求菩薩の霊廟            ↓↑            隧道=ズイドウ=トンネル(tunnel)  王朝名は・・・・・・・無シンニュウ(辶=辵)  「隋」と固定した・・・隋=阝+ナ+エ+月(冃・肉・舟)             「隋書=ズイショ=随所=随処」  その後、  高祖  楊堅が  「隨」字に  含まれる  「辵部」に  「走る」という字義があって  前代迄の寧所に  遑なく東奔西走した歴代を・・・  髣髴させるために・・・髣髴=よく似ていること・近似  ↓↑            ありありと思い出すこと                はっきりと脳裏に浮かぶこと                あるものを見て                類似の別のものを思い起こすこと  ↓↑            姿や形がぼんやりと見えること  これを去り、  自らの王朝を  「隋」  と名付けたとする・・・説  及び  「辵部」には  平穏に歩を進める字義があり  一方で  「隋」には  供物としての  「肉の余り」・・・月=ニク=肉(ジク=字句)=にく=似句                ↓ 肉=冂+人+人                宍(シシ)=ウ+亠+八                      う づ はち(やつ)                      宇都葉知                      宇都志国玉神                  (うつしくにたまの神)                  大物主命=大国主の別名                  宇都志日金析命                      金の分析?                  大綿津見神の子                  阿曇連(むらじ)らの祖                  宇津・宇須・宇受・渦             宇都宮=栃木県宇都宮(二荒山神社)             下野(しもつけ)=下毛野             平安時代後期            『宇豆宮・宇都宮明神』として祭祀             下野薬師寺=「三戒壇の一」                   「道鏡」が                   「宇佐八幡宮神託事件」後                   当寺に左遷された場所           月=冃(頭巾=づきん=亠記務?)  という字義があり、  楊堅は  改字によって  却って  王朝の命運を縮めた?・・・附会説  これが  宋朝の儒学者たちの  儒教的史観に依る  革命解釈に適合するものとして喜ばれ  以降はこの  楊堅の改字説が?・・・定説なった・・・らしい・・・ ーー↓↑ーー  隋の皇室(隋書による)  「楊」氏は・・・鮮卑族?   ↓↑  ・・・中国北部に存在した遊牧騎馬民族          五胡十六国時代、南北朝時代には南下し          北魏などの王朝を建てた          東胡の滅亡により建国 紀元前209年          烏丸山と鮮卑山に逃れ          烏丸族と鮮卑族に分裂          檀石槐による統一   2世紀          北魏の建国    386年          建武三十年(54年)          鮮卑の大人(部族長)の          於仇賁(オキュウホン)が          都、洛陽に上って朝貢          光武帝から王に封じられた          ↓↑  ↓↑          楊貴妃・・・鮮卑族?                ペルシャ系、                ウィグル人?                ソグド人(sogd)?          719年(開元七年)          ~          756年7月15日(至徳元載(元年)六月十六日)          唐代の玄宗皇帝の皇妃          姓は楊          名は玉環          ライチ(茘枝・リーチ・れいし)が大好き          ライチは          ムクロジ(無患子)科の果樹          漢方で「延命皮」と記録          正月の          羽子板の羽根つき羽根のおもり          果実の外側の皮を          水につけて揉むと泡が出る          昔は洗剤の代用          子供は  ↓↑      作った泡でシャボン玉とばし・・・  後漢代の官僚  「楊震」の子孫・・・楊(やなぎ)が震(ふるえる)   ↓↑       小野道風?or柳沢吉保?  「楊震」は、  かつての教え子が  「誰も知らないことですから」  と賄賂を渡そうとしたところ、  「天知、神知、我知、子知、   何謂無知  (天地の神々が知っている。   私とあなたも知っている。   誰も知らぬとどうして言えよう)」  と言って拒否した・・・  「四知の逸話」  で有名な人物・・・  その後、  楊氏は北魏初期に  「武川鎮」・・・武の川(かわ・セン)を鎮(しずめる)  へと移住し、  楊堅の父  「楊忠」・・・・「楊=木+昜(ヨウ)」、「忠=中+心」           楊=玉を掲げて魂振りする意             これを上から覆って妨げ             害を人に及ぼすのが「傷・殤」            「昜=玉光の下に放射する形               神の威光を示すのが陽」  に至る  武川鎮とは北魏において  首都・平城を北の  「柔然」・・・・・然(しかるに)、柔(柔らかし)  から  防衛する役割を果たしていた軍事基地 ーー↓↑ーー  北魏において、  皇室の  拓跋氏を・・・・拓の跋=草を踏んで野山を歩き回る              「跋渉」              荒々しく踏みにじる              「跋扈 (バッコ) 」              書物の末尾に記す文章              あとがき=跋文・序跋・題跋  「元(もと)の氏(うじ)」  に変えるといった風に、  鮮卑風の名前を  漢民族風に改めるという  漢化政策が行われた  ↓↑  北周ではこれに反発し  姓名を再び  鮮卑風に改め、  漢人に対しても  鮮卑化政策を行った  この時、  漢人である  楊氏にも  普六茹(ふりくじょ)  という姓を与えられた・・・  普六茹とは  鮮卑語で  「ヤナギ(楊)」のこと  楊堅も、  「那羅延(ナラエン)」・・・・奈良に延長・延ばす?  という鮮卑風の小字を持っていた  楊氏については  「元々は鮮卑の出身で本来の姓が   普六茹であり、   北魏の漢化政策の際に付けられた姓が   楊である」・・・という説・・・ ーー↓↑ーー  隋の建国  楊堅の父  「楊忠」は  北魏が  西魏・東魏に分裂する際  (後にそれぞれ北周・北斉が取って代わる)  に  「宇文泰」・・・宇文泰(うぶんたい)   ↓↑     正始二年(505年)           ~          恭帝三年十月四日(556年11月21日)          北魏・西魏の政治家          字は黒獺、黒泰          鮮卑人・実質的に北周の基礎を築いた          帝位には就いていないが、          廟号は太祖          559年には文帝と追諡           ↓↑          宇の文の泰(天下泰平・安泰               泰然・泰山)  ↓↑     「泰=龹+氺」=やすい・おおきい・タイ  に従って  西魏の成立に貢献し、  大将軍を務め、  隋国公の地位についた  ↓↑  568年  楊忠が死去し  楊堅が  大将軍  北周の  随国公の地位を受け  北周の  武帝は宿敵の  北斉を滅ぼし、  更に南の  陳を滅ぼす前段階として  北の  突厥への遠征を企図  ↓↑  576年  武帝崩御  武帝の跡を継いだ  宣帝は  奇矯な人物で、  5人の皇后を持っていた  その1人が  楊堅の長女の  麗華で  宣帝の側室である  朱満月が生んだ  太子の  「宇文闡(後の静帝)」・・・宇の文の闡                闡=ひらく・あける・セン                  ひろ(広)める・ひろまる                  闡弘(センコウ)                  あきらか・明らかにする  を育てた  宣帝の奇行は留まる所を知らず、  在位8ヶ月で退位  静帝に位を譲り、自らは  天元皇帝・・・・・・・・天の元  を名乗って政務を放棄  ↓↑  静帝の後ろに立つ  丞相の  楊堅への声望が高まる  580年  宣帝が崩御  楊堅は  静帝の摂政として  北周内の全権を掌握  反発する  「武川鎮」軍閥内の有力者たちは  楊堅に対して反乱  最も大規模なものが  尉遅迥  によるもので、  一時は楊堅の押さえる  関中地域以外の全てで反乱が起きたが、  楊堅は各個撃破し  北周内に於ける覇権を握った ーー↓↑ーー  同年末に  随国公から  随王へと進み  北周の兵権を与えられ、  581年  静帝より禅譲を受け  隋を建国  これ以降は  楊堅を諡(おくりな)の  「文帝」・・・・・・・・・「文の綴」?  で呼ぶ  ↓↑  南北統一  ↓↑  北周の  武帝により  南北統一への道筋は引かれていたが、  文帝は細かい準備を丹念に進めた  ↓↑  南朝の  陳では  宣帝が  北周末期より江北への進出を試みていたが、  文帝は  陳の間諜を捕縛しても  衣服や馬を給して厚く礼をして送り返し、  陳とは友好関係を保った  582年  文帝は陳に討伐軍を派遣したが、  陳の  宣帝が崩御し  討伐を中止して  使者を派遣して弔意を表し  軍を撤退  ↓↑  北の突厥に対しては  長城を修復して防備  584年  文帝は長城を越えて突厥を攻撃  突厥内部に介入し  東西に分裂させた  ↓↑  淮河  と  長江を結ぶ  邗溝(かんこう)  を開削して補給路を確保  南朝の  梁から分裂し、  北朝の傀儡政権となっていた  後梁を併合  文帝は連年に渡り  農繁期になると  軍を南下させる気配を見せて  陳軍に常に  長江沿岸に大軍を  配置させる事を繰り返させる事で  人心を動揺させて  収穫を減らさせ、  さらに間諜を使って  民家に放火させたりし  陳の国力を衰退させた  皇帝が  宣帝の子の  陳叔宝  で愚帝だったため  陳は内部からも崩壊  ↓↑  588年  文帝は  陳への遠征軍を出発させ  遠征軍の総指揮官は  文帝の次男  楊広(煬帝)で、  51万8000という大軍の前に  589年  陳の都  建康・・・建業・犍康・・・首都「建業」→「建康」に改名  が陥落  陳の皇帝  陳叔宝は井戸に隠れている所を捕らえられ  西晋滅亡以来273年  黄巾の乱以来405年  の分裂時代が終結  ↓↑  開皇の治  文帝の治世  7世紀初頭  隋帝国  煬帝時の領土  隋末の農民反乱地域と群雄の拠点  文帝は即位した直後から  次々と改革  ↓↑  611年  煬帝は  文帝が手がけていた  高句麗遠征を以後  3度にわたって行なった  612年から本格的に開始された  高句麗遠征は  113万人の兵士が徴兵  来護児  宇文述・・・宇の文の述  らが指揮官として  高句麗を攻めた  1回目の遠征は大敗  兵糧不足で撤退  613年  煬帝自身が軍を率いて  高句麗を攻めるが結果は得られず  614年  3度目の遠征では  高句麗側も疲弊していた事もあって  煬帝に恭順の意を示したが、  煬帝が条件とした  高句麗王の入朝は無視され、  煬帝は4回目の遠征を計画  ↓↑  相次ぐ反乱と群雄割拠  隋の滅亡  煬帝の施政による度重なる負担に民衆は耐えかね、  遂に第2次高句麗遠征からの撤兵の途中に  かつての  煬帝の側近  楊素の息子  楊玄感  が  黎陽で反乱を起こして  洛陽を攻撃  これを  煬帝は隋軍を派遣し鎮圧  楊玄感は敗死  ↓↑  従属していた  突厥が北方で反乱  煬帝は自ら軍を率いて北方に向かうも  突厥軍に敗れて洛陽に撤退  616年  各地で反乱  反乱軍の頭領は各地で群雄割拠  楊玄感の参謀を務めていた  李密(北周八柱国・李弼の孫、     関隴貴族集団の上位の1人     楊玄感の敗死後に、     洛口倉という     隋の大食料集積基地を手に入れ     多数の民衆を集めた)  ↓↑  李密と激しく争っていた  西域出身で隋の将軍を務めていた  王世充  高句麗遠征軍から脱走し、  同じ脱走兵たちを引き連れて  河北に勢力を張った  竇建徳  隋の  太原留守(たいげんりゅうしゅ)であった  李淵(唐の高祖)  などが独立勢力となった  ↓↑  反乱に対して  煬帝は最初は鎮圧に努めたが、  その処理が反徒の殺戮政策だったため、  逆効果を招いた  隋軍では対処しきれなくなり、  煬帝は江都に行幸してここに留まり、  反乱鎮圧の指揮を執った  煬帝が南方に行幸した事は  実質北方を放棄して逃走したも同じであり、  北方の反乱はますます激しくなり、  遂に  李淵により首都  大興城までもが落とされ、  李淵は表面上は  煬帝を尊んで太上皇とし、  煬帝の孫  楊侑を即位させた  ↓↑  煬帝は次第に酒と宴会に溺れて国政を省みず  諫言や提言する臣下に対して  殺戮で臨み民心を失った  煬帝に従って  江都に赴いていた  隋軍は多くが北方の出身者であり  彼らはそんな煬帝を見限り  重臣の  宇文化及を擁立し  618年  謀反  煬帝は縊り殺された  ↓↑  江都にいた隋軍は  宇文化及の主導の下に  秦王  楊浩を擁立し、  北へと帰還することを望んだが、  途中で  竇建徳の軍に大敗して消滅  煬帝の死を聞いた  李淵は、  楊侑から禅譲を受けて  唐を建てる  洛陽にいた  越王  楊侗は、煬帝の死を受けて  諸臣に推戴され皇帝となったが(恭帝侗)、  619年  王世充に簒奪され  隋は完全に滅びた  煬帝の  「煬」の文字は、  「天に逆らい、民を虐げる」という意  李淵によって贈られた諡  ↓↑  煬帝の孫のひとりである  楊政道(斉王楊暕の遺腹の子)のみ、  唯一生き延び  突厥の  処羅可汗の庇護を受けたが、  630年  突厥が滅亡すると、  楊政道は唐に帰順して、  官職を賜った。  ↓↑  文帝(楊堅、在位581年 - 604年)  煬帝(楊広、在位604年 - 618年) 文帝の子  恭帝侑(楊侑、在位617年 - 618年) 煬帝の孫  恭帝侗(楊侗、在位618年 - 619年) 煬帝の孫、楊侑の兄  楊俊(よう しゅん、571年 - 600年6月)  隋の文帝(楊堅)  と  独孤伽羅(ドッコカラ)の間に生まれた  三男  仏教を崇敬したが  後、  贅沢奢侈、法令を破り、民衆を苦しめ堕落  秦孝王  死後  ↓↑  長子の  楊浩は  618年 隋皇帝  秦王、河陽都尉を継承  「宇文化及」の乱のときに帝位につけられ   宇文化及が帝号を僭称すると、殺害された」  ↓↑  宇文化及(ウ-ブンカ-キュウ)?  隋末の混乱期に皇帝を僭称  許を建国  宇文智及、宇文恵及の兄、宇文士及の異母兄  北周の左翊衛将軍  宇文述の長男  代郡  武川鎮(内蒙古-武川県)に生まれ  ↓↑  次男の  「楊湛は済北侯、滎陽太守」  ↓↑  女(むすめ)の  永豊公主・・・永の豊の公主?  字は阿 祗・・・    ↓ ↑    阿僧祇(あそうぎ・asaṃkhyeya)       「数えることができない」の意       「成仏するまでの時間の長さ」である       「三阿僧祇劫」=10の59乗    数の単位の一    阿僧祇・・・時代や地域により異なる    日本では一般的に    10の56乗    10の64乗    とする人もいる・・・?    阿僧祇は   「阿僧祗(あそうし)」    と書かれることがあるが、   「祗」は誤り・・・?    一 十 百 千 万 億 兆 京 垓 𥝱(秭)    穣 溝 澗 正 載 極 恒河沙    阿僧祇    那由他 不可思議 無量大数   (計21単位)    日本人苗字=アギナ=Agina    阿支奈・阿藝奈・阿祗奈・安慶名・阿祇奈    ↓↑  1000=千=阡=仟  ・・・「鮮=数の単位・百の10倍・数の多いこと        阡・仟は大字として用いる        千に一つ・千も万もいらぬ.  ・・・「鮮=あざやか・セン・魚+羊        異体字=鲜・仙・尟・赻・鱻・尠        簡体字=鲜        声符=「羴」=鮮・癬・蘚・𩆵        熟語=鮮少=わずか・ほんの少し    ↓↑  「あざやか(鮮明)   技術、動作などがきわだっているさま   容姿などが目立って美しいさま   採りたての魚・肉・野菜(新鮮)   生魚(なまざかな)・・・ナマのマナ(うお)=眞名・壬生=みぶ   生肉(なまにく)・・・・ナマのジク(にく)=字句・宍=しし   鳥や獣の新しい肉   魚のナマス(膾・鱠・齏・韲・生須・生巣)・・・鯰   (魚の赤身、白身に調味料を合わせて生食料理)   潔(いさぎよ)い・汚れがない・善(よ)い   美しい・艶(あで)やか・見目(みめ)よい   華(はな)やか   少ない・乏(とぼ)しい   稀(まれ)   尽きる   若死に   奉(たてまつ)る=献   大きな山から離れている小山・離(はな)れ山   新鮮=シンセン=新撰・浸染   鮮=魚+羊・・・生魚、生肉   尟(セン)に通じ、少ない・僅か=毫   乏(とぼ)しい・欠しい・・・欠乏の意」   「朝鮮」   ・・・「鮮=物請う・物乞う・朝廷に物乞う人々の国?」・・・  鮮=あざやか・すくない  取りたてで生きがよい  生生 しい  鮮魚・鮮血・新鮮・生鮮  形、色がくっきりしている  あざやか・・・「痣・字」也化(哉掛・鰥化)・・・?    鰥(ヤ)=大魚の名・魴鰥(ホウカン)類 鯤(コン)        やもめ・やもお=妻のない男・男やもめ        鰥寡(カンカ)・鰥居・鰥夫        や(病)む・悩(なや)む  鮮明・鮮緑・鮮烈  すくない・鮮少  名のり=あきら・き・まれ・よし  「羊のにおい」という意  「鮮=においのする魚・なま魚」・・・  「貉(バク)国に産する魚の名」  若死にしたさま・短命のもの  「鮮者」=「若死にしたもの」  「鮮民」=「財産を持たない、孤独な人」  「羊羊羊=三羊」  鮮  数の単位で百の10倍・数の多いこと  「阡・仟」は大字として用いる  千に一つ・千も万もいらぬ  あざやか・セン  魚+羊  異体字.鲜・仙・尟・赻・鱻・尠  簡体字. 鲜  声符、羴・鮮・鮮少     癬=疥癬     蘚=蘇我・耶蘇 ーーーーーーーーー  ↓↑ ↓↑ ↓↑  大化六年(650年)  穴戸の国司  草壁醜経・・・・日下部の醜の経  が  白雉を献上・・・・史露(魯)記事(生地)?  ↓↑  天智四年(665年)  長門国の初見  穴門とは海峡(関門海峡)  穴門国造の領域と、  阿武国造の領域  をあわせて、  七世紀に  穴戸国・・・・宍戸(ししど)=肉戸  が設置され  七世紀後半に  長門国に改称・・・  ↓↑ ↓↑ ↓↑  古事記  仲哀天皇-注亜意(蛙異)?  ↓↑  第十四代-仲哀天皇  帶中日子天皇、  坐穴門之豐浦宮及筑紫訶志比宮、治天下也。  此天皇、  娶  大江王之女・大中津比賣命、  生御子、香坂王、忍熊王。  二柱。  又娶  息長帶比賣命 是 大后生御子、  品夜和氣命、  次  大鞆和氣命  亦名  品陀和氣命。  二柱。  此太子之御名、  所以負  大鞆和氣命者、初所生時、  如  鞆宍生御腕、・・・鞆=国字で表外漢字・とも・ほむだ             ほむた=鞆(革+丙)=とも             丙=脚が張り出た台の形             丙=一+内(人+冂)               火+冂=竈・窯=穴+羊+灬(烈火)               鞆=ふいごう=韛・蹈鞴・踏鞴               台座               両足を逆Y字形に開いたさま               魚の尾びれ           鞆(とも)=弓を射る時に左手首の                 内側につけ、矢を放ったあと                 弓の弦が腕や釧に当たるのを                 防ぐ道具                 古語では「ほむた・ほむだ」                 鞆の字は国字                 革製の丸い形で、                 革紐で結びつける装身具で武具           類字は「柄」=がら・え・つか・ヘイ                  器物の手で握る部分                  取っ手・斗柄・葉柄                  手中に握る権力・勢い                  権柄・国柄・執柄                  とらえて材料にするもの                  笑柄・談柄・話柄                  関係=がら・間柄・家柄                  「へた=蒂・蔕」に繋がる部分  故著其御名。是以知、坐腹中定國也。  此之御世、定淡道 之 屯家也。  其大后  息長帶日賣命者、當時歸藭。  故、天皇坐 筑紫 之 訶志比宮、  將擊熊曾國之時、  天皇 控御琴而、建內宿禰大臣 居於沙庭、  請藭之命。於是、大后歸藭、  言教覺詔者  「西方有國。金銀爲本、目之炎耀、種種珍寶、   多在其國。吾今歸賜其國。」  爾天皇答白  「登高地、見西方者、不見國土、唯有大海。」  謂爲詐藭而、押退御琴不控、默坐。  爾其藭大忿詔  「凡茲天下者、汝非應知國。汝者向一道。」  於是、建內宿禰大臣白  「恐我天皇、   猶   阿蘇   婆勢・・・・・・・・阿蘇の婆(波女)の勢   其大御琴。   (自阿至勢以音)。」  爾稍取依其御琴而、  那摩那摩邇  (此五字以音)  控坐。故、未幾久而不聞御琴之音、  卽擧火見者、既崩訖。  爾驚懼而、坐殯宮、更取  國之大奴佐 (而奴佐二字以音)、  種種求生剥・逆剥・阿離・溝埋・屎戸・  上通下通婚・馬婚・牛婚・鷄婚之罪類、  爲國之大祓而、  亦建內宿禰居於沙庭、請藭之命。  於是、教覺之狀、具如先日  「凡此國者、坐汝命御腹之御子、所知國者也。」  爾建內宿禰白  「恐我大藭、坐其藭腹之御子、何子歟。」  答詔  「男子也。」  爾具請之  「今如此言教之大藭者、欲知其御名。」  卽答詔  「是、天照大藭之御心者。   亦底筒男・中筒男・上筒男、三柱大藭者也。   此時其三柱大藭之御名者顯也。   今寔思求其國者、   於天藭地祇亦山藭及河海之諸藭、   悉奉幣帛、我之御魂、坐于船上而、眞木灰納瓠、   亦箸及比羅傳此三字以音多作、皆皆散浮大海、以可度。」  故、備如教覺、整軍雙船、度幸之時、海原之魚、不問大小、  悉負御船而渡。爾順風大起、御船從浪。  故其御船之波瀾、押騰新羅之國、既到半國。  於是、其國王畏惶奏言  「自今以後、   隨天皇命而、   爲御馬甘、   毎年雙船、   不乾船腹、不乾柂檝、   共與天地、無退仕奉。」  故是、以  新羅國者、定御馬甘、  百濟國者、定渡屯家。  爾以其御杖、  衝立  新羅國主之門、  卽以墨江大藭之荒御魂、  爲國守藭而祭鎭、還渡也。  故其政未竟之間、其懷妊臨產。  卽爲鎭御腹、取石以纒御裳之腰而、  渡筑紫國、其御子者阿禮坐。(阿禮二字以音)。  故、號其御子生地謂 宇美也、  亦所纒其御裳之石者、  在 筑紫國 之 伊斗村也。  亦到坐  筑紫  末羅縣 之 玉嶋里而、  御食其河邊之時、當四月之上旬。  爾坐其河中之礒、拔取御裳之糸、  以飯粒爲餌、  釣其河 之 年魚。  其河名謂小河、  亦其 礒名謂 勝門比賣也。  故、四月上旬之時、女人拔裳糸、  以粒爲餌、釣年魚、至于今不絶也。  於是、  息長帶日賣命、於倭還上之時、因疑人心、  一具喪船、御子載其喪船、先令言漏之  「御子既崩。」  如此上幸之時、  香坂王・忍熊王 聞而、思將待取、進出於斗賀野、  爲宇氣比獦也。  爾香坂王、騰坐歷木而是、大怒猪出、  堀其歷木、卽咋食其香坂王。  其弟忍熊王、不畏其態、  興軍待向之時、赴喪船 將攻 空船。  爾自其喪船下軍相戰。  此時忍熊王、以 難波吉師部之祖・伊佐比宿禰爲將軍、  太子御方者、以 丸邇臣之祖・難波根子建振熊命爲將軍。  故追退到山代之時、還立、各不退相戰。  爾建振熊命、權而令云  「息長帶日賣命者 既崩。故、無可更戰。」  卽絶弓絃、欺陽歸服。  於是、其將軍既信詐、弭弓藏兵。爾自頂髮中、  採出設弦一名云 宇佐由豆留、更張追擊。  故、逃退逢坂、對立亦戰。  爾追迫敗於沙沙那美、悉斬其軍。  於是、其忍熊王與伊佐比宿禰、共被追迫、  乘船浮海  歌曰、  伊奢阿藝 布流玖麻賀 伊多弖淤波受波 邇本杼理能  阿布美能 宇美邇 迦豆岐勢那和卽入海共死也。  故、建內宿禰命、率其太子、爲將禊而、  經歷淡海 及 若狹國之時、  於  高志前之角鹿、造 假宮而坐。  爾坐其地 伊奢沙和氣大藭之命、  見於夜夢云  「以吾名、欲易御子之御名。」  爾言禱白之  「恐、   隨命易奉。」・・・隨の命、易(かえ)奉(まつる)?  亦其藭詔  「明日之旦、應幸於濱。獻易名之幣。」  故其旦幸行于濱之時、  毀鼻  入鹿魚、  既依一浦。  於是御子、  令白于藭云  「於 我給 御食 之 魚。」  故亦稱其御名、號 御食津大藭、  故於今謂  氣比大藭也。  亦其  入鹿魚 之 鼻血臰、  故號其浦 謂 血浦、  今謂 都奴賀也。  於是、還上坐時、其御祖  息長帶日賣命、釀待酒以獻。  爾其御祖  御歌曰、  許能美岐波 和賀美岐那良受 久志能加美  登許余邇伊麻須 伊波多多須 須久那美迦微能  加牟菩岐 本岐玖琉本斯 登余本岐 本岐母登本斯  麻都理許斯美岐叙 阿佐受袁勢 佐佐如此歌而、  獻大御酒。  爾建內宿禰命、  爲 御子 答 歌曰、  許能美岐袁 迦美祁牟比登波 曾能都豆美  宇須邇多弖弖 宇多比都都 迦美祁禮迦母  麻比都都 迦美祁禮加母 許能美岐能美岐能  阿夜邇宇多陀怒斯 佐佐此者酒樂之歌也。  凡  帶中津日子天皇之御年、  伍拾貳歲。  壬戌年六月十一日崩也。  御陵在河內  惠賀 之 長江也。  皇后、御年一百歳崩、  葬于狹城楯列陵也。 ーー↓↑ーーー  イルカ(海豚・鯆)  ギリシャ語  delphinus(デルピーヌス・デルフィーヌス)  dolphin  鼻先のとがったイルカ  マイルカ  porpoise(プロポイス)  シイラ・・・シイラ(鱪、鱰=魚+暑、署)  学名 Coryphaena hippurus  スズキ目・シイラ科  中国語  「鯕鰍(チーチォウ・qíqiū)」と表記  台湾語  「鬼頭刀(クイタウトー)」と呼ばる  英名  「Dolphinfish」は  イルカのように船に寄ることから  スペイン語  「Dorado・黄金」  ハワイ  「マヒマヒ(Mahi-mahi)」と呼ばれる  ↓↑  背びれを持たないイルカ  セミイルカ属(背美海豚属・Lissodelphis)  シロハラセミイルカ(白腹背美海豚・L. peronii)  ↓↑  イロワケイルカ(色分海豚・Cephalorhynchus commersonii)  ↓↑  クジラ目ハクジラ亜目マイルカ科  イロワケイルカ属(セッパリイルカ属)に属する  ↓↑  カマイルカ(Lagenorhynchus obliquidens・鎌海豚)  クジラ目ハクジラ亜目マイルカ科  カマイルカ属(Lagenorynchus)  背びれの形が草などを刈る  鎌に似ていることに由来・・・  ↓↑  ネズミイルカ(鼠海豚・Phocoena phocoena)  ネズミイルカ(Porpoise)  クジラ目ハクジラ亜目ネズミイルカ科  ネズミイルカ属に属する小型のイルカ  英語では  「Harbour Porpoise(港のイルカ)」  ↓↑  いるか座  ↓↑  スナメリ(砂滑)=ネズミイルカ科  イシイルカ=ネズミイルカ科に属する  ↓↑  イルカの歯はおよそ80本 ーー↓↑ーー  武内宿禰が後見の  太子(応神天皇)は  イザサワケ  と名の交換を行った  (易名説話)  太子が角鹿(敦賀)の仮宮を営んでいると、  夜の夢に  イザサワケが現れて名を交換するよう告げられ  太子が承諾すると  イザサワケは翌朝に浦に出るように言い、  太子が言われたとおりにすると  浦には一面にイザサワケの献じた  入鹿魚(イルカのマナ)があった・・・蘇我入鹿  これにより太子はイザサワケを  「御食津大神(みけつのおおかみ)」  と称え、のちにその名が  「気比大神」となった・・・  イルカが当時より  食料(「御食(ミケ)の魚(ナ)」)  とされていた・・・  古事記では、  鼻を怪我したイルカの血の臭いから  座礁した浦を  「血浦(ちうら)」と名付け、  これが転じて  「都奴賀・敦賀(つるが)」  という地名が生まれた   日本書紀では   都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)  に由来する  ↓↑  ギリシア神話  イルカは  アポローン  アプロディーテー  ディオニューソス  ポセイドーン  アムピトリーテー  の聖獣  トリートーンは  上半身が人間で下半身がイルカ・・・ ーーーーー  ・・・???・・・


 ・・・「牛=うし・ウシ=丑・宇志・宇斯・大人(うし)」の漢字にコダワル・・・「宇志比古神社・徳島県-鳴門市-大麻町-大谷-字山田六六・元、八幡神社、明治以降,宇志比古神社・宇志比古=丹波比古多多須美知能-宇斯王(たんばひこたたすみちの-うし-のきみ)」・・・「イシュタル(Ishtar)=イナンナ=ニン-アンナ」、「イシス (Isis)=アセト=頭部にハトホル女神から受け継いだ牛の角と太陽円盤を持った女神として表される」、「アプロディーテー(Aphrodita)=ヴィーナス(ウェヌス・Venus)=金星=ウェヌス」にコダワル・・・「泡(アプロス=aphros)」・・・「阿波・安房・安和」です?・・・「彼女の聖獣はイルカ(海豚)・聖鳥は白鳥、鳩、雀、燕・聖樹は薔薇、芥子、花梨、銀梅花・その他、真珠、帆立貝、林檎・牡山羊や鵞鳥に乗った姿でも描写」・・・  「アナト (anatu)→アテネ=アシナ=アテナー」、「アナトは、カナン(シリア西部)のウガリット神話の主神バアルの妹であり、妻とされる、愛と戦いの女神で、狩猟の女神、豊穣の女神でもあると考えられていた」・・・「嵐と慈雨の神バアルの配偶女神」、「古くは最高神イルの娘にて妻」だったが、後に「嵐と慈雨の神バアルが信仰の中心となるとイルの娘でありバアルの妹であり妻」とされ・・・「多くの敵を殺した好戦的な女神」・・・  「アナト (anatu)の女神」=「穴戸(穴門)-豊浦宮の神功皇后(氣長足姫尊)」・・・?  ↓↑  大化六年(650年)  穴戸の国司  草壁醜経・・・日下部の醜(みにくい)経(キョウ)             醜=酉+鬼   経=糸+又+十+一             経=キョウ=今日・教・京・協・狂  が白雉を献上  天智四年(665年)  長門国の初見  穴門とは海峡(関門海峡)  穴門国造の領域と、  阿武国造の領域・・・阿武=山口県-阿武郡-阿武町?               長州  を合(あわ)わせて、  七世紀に  穴戸国が設置され  七世紀後半に  長門国に改称・・・  ↓↑  「穴戸-豊浦宮(あなと-の-とゆらのみや」  は  「関門海峡の古名。また、長門国一帯の古名」  だが、  「第十四代-仲哀天皇・・・ナゼ、「仲哀」なのか?                  イ(人)の中の悲哀?  (148年~200年3月8日   在位は192年2月11日~200年3月8日)」  の宮で、  「日本武尊の第二子」  「妻が神功皇后(氣長足姫尊)」で  「第十五代応神天皇の父親?」  ↓↑  「元年二月条、即月に、   淡路の屯倉(みやけ)」を定む・・・  (帶中日子天皇、・・・帶中日子(タラシナカツヒコ)  ↓↑         帶中津彦(タラシナカツヒコ)             帯中津彦(タラシナカツヒコ)             帶中津日子(タラシナカツヒコ)             帶中比古(タラシナカツヒコ)             帯中津日子(タラシナカツヒコ)             足仲津比古(タラナカツヒコ)  ↓↑               の命=みこと=尊   坐-穴門-之-豐浦-宮   及-筑紫-訶志比-宮・・・香椎宮・福岡県福岡市東区香椎  ↓↑           仲哀天皇の営んだ仮宮              「橿日宮(訶志比宮)」の伝承地               橿=かし・キョウ(樫・櫧)                 ブナ(椈・橅)科の                 常緑高木の一群の総称                 狭義には小楢(コナラ)属の樹  ↓↑   訶=しかる・せめる・カ         叱る  責める 呵責(カシャク)             可笑しい、変だ、奇妙だ?             訶志比=志しを比べ、叱る・吒・怒る                 こころざしを比較し、叱責             カシイ←訶思惟・訶恣意                 首をかしげる?                 頭を傾(かし)げる?                 首を捻(ひね・撚・拈)る?  ↓↑        摩訶止観・摩訶衍・摩訶不思議   治天下也)古事記」・・・  ↓↑  「アナト (anatu)の女神」、  元は  「最高神イル」の配偶者・・・イル→イリ?  「イル(イリ)は伊利・伊理・入」・・・・?  「李の理」って・・「李さん一家」・・・?  ↓↑  「唐王朝=李淵が隋を滅ぼして建国」  「隋王朝=楊堅が建国」・・・用件・要件・洋犬?      「楊堅が北周の兵権を与えられ、       581年       静帝より禅譲を受け       隋を建国」  ↓↑ ↓↑  ・・・上に述べた「各地の女神」は異音で別称だが、その実体は「同一の女神」である・・・そして、異質なモノも混合され統合された「メガミ」である・・・ ーーーーー  「イリマメ(煎り豆)」の料理・・・「壹與・臺與」・・・        煎=前(䒑+肉+刀)+灬(烈火)         =炒る・熬る・乾燥した食材を                さらに加熱して風味を出すこと                「煎る」はより熱して焦がす意                 乾煎り・焙煎  「入鹿=いるか=射鹿・・・海豚?」  ↓↑  656年・・・六百五十六=陸陌五拾陸  ↓↑           六=亠+八               陌=阝(阜)+百  ↓↑           拾=足  高麗の調進使     「伊利」之使主     「いり」のおおみ  が来朝 ↓↑  ↓↑  ↓↑  いくめ「いり」びこいさちのみこと  活 目「入 」彦 五十狭茅尊・・・日本書紀  伊久米「伊理」毘古・・・・・・・・古事記 ーー↓↑ーー  垂仁天皇  ↓↑  崇神天皇  の  第三皇子  ↓↑  崇神天皇二十九年一月一日  ~  垂仁天皇九十九年七月十四日)  第十一代天皇  在位は  垂仁天皇元年一月二日  ~  垂仁天皇九十九年七月十四日) ーー↓↑ーー  新羅の  牛頭(ごず)山に・・・牛頭=ソシモリ=蘇死母理?  鎮座していた  牛頭大王の  神霊をもたらして祀った  古代インドの  祇園精舎に由来  八坂神社は  明治維新の神仏分離まで  「祇園感神院」  「祇園社」と言った  この地域は、古代には  八坂郷といった  ↓↑  牛頭天王(ごずてんのう)  神仏習合の神  釈迦の生誕地に因む  祇園精舎の守護神  「蘇民将来」説話の  「武塔天神」と同一視され  薬師如来の  垂迹であるとともに  「須佐之男(スサノオ)」  の本地ともされた  京都東山祇園  播磨国広峰山  に鎮座して  祇園信仰の神(祇園神)  八坂神社にあたる  感神院祇園社から勧請されて  全国の祇園社、  天王社で祀られた  陰陽道では  天道神と同一視され  道教的色彩の強い神だが、  中国の文献には見られない・・・?  ↓↑  牛頭天王  京都祇園社(現八坂神社)の祭神  『祇園牛頭天王御縁起』によれば、  本地仏は  東方浄瑠璃界の教主  薬師如来で  12の大願を発し、  須弥山中腹にある  「豊饒国(日本)」の・・・「豊國=豊前+豊後」              とよくに・憮然・文語?  武答天王?・・・・・・・・武を答(こたえ)る天の王?               武に応(こた)える天の王?               武塔=ブトウ=武訳得・武等                  分等・舞踏・武闘                塔=「十+一」+「荅=答」  の一人息子として  垂迹し、姿を現した  太子は、  七歳にして  身長が7尺5寸  三尺の牛頭をもち、  三尺の赤い角を持つ  太子は王位を継承して  「牛頭天王(ごずてんのう)」・・・午頭天王=馬頭天王                   牛頭-馬頭(ごず-めず)  を名乗るが、  后をむかえようとするものの、  その姿かたちの怖ろしさのために  近寄ろうとする女人さえいない  牛頭天王は酒びたりの毎日を送るようになった  3人の公卿が天王の気持ちを慰安しようと  山野に狩りに連れ出すが、  そのとき一羽の鳩があらわれ  山鳩は人間のことばを話すことができ、  大海に住む  沙掲羅龍王・・・「沙掲羅」、「娑羯羅」と漢語に音訳?          法華経・提婆達多品に登場する          八歳の龍女は          この竜王の          第三王女で「善女(如)龍王]  の娘のもとへ案内すると言う  牛頭天王は娘を娶りに出かける  旅の途次、  長者である弟の  「古単将来」に宿所を求めたが、  慳貪な  「古単(古端、巨端)」はこれを断り  それに対し、  貧乏な兄の  「蘇民将来」・・・将来は          民(たみ・ミン)を          蘇る(読みかえる)・・・蘇我                      耶蘇  は歓待して宿を貸し、  粟飯(あわめし・ショクハン・ゾクハン)  をふるまった  蘇民の親切に感じ入った  牛頭天王は、  願いごとがすべてかなう  牛玉を蘇民にさずけ、  蘇民は富貴の人となった  ↓↑  龍宮へ赴いた  牛頭天王は、  沙掲(羯)羅の三女の  頗梨采女を娶り、  8年をそこで過ごすあいだに  七男一女の王子(八王子)を儲(もう)けた  「豊饒(ホウジョウ・ホウニョウ)国」  への帰路、  牛頭天王は八万四千の眷属をさしむけ、  古単への復讐を図った  古端は千人もの僧を集め、  大般若経を  七日七晩にわたって  読誦させたが法師のひとりが  居眠りしたために失敗し、  古単の眷属五千余はことごとく  蹴り殺された  この殺戮のなかで、  牛頭天王は  古単の妻だけを  蘇民将来の娘であるために助命して、  「茅の輪をつくって、   赤絹の房を下げ、   『蘇民将来之子孫なり』   との護符を付ければ   末代までも   災難を逃れることができる」・・・過ぎ越し祭り?  と除災の法を教示した  ↓↑  『祇園牛頭天王御縁起』  ↓↑  牛頭天王の神格  江戸時代から明治時代にかけて  復古神道の影響下で主張された  スサノオ・朝鮮半島起源説が知られるが、  神仏分離と  国家神道の政治的な影響が大きい  ↓↑  牛頭天王  平安京の祇園社の祭神で  祇園天神とも称され、  平安時代から  行疫神として崇め信じられてきた  御霊信仰の影響から  当初は御霊を鎮めるために祭り、  やがて平安末期には  疫病神を鎮め退散させるために  花笠や山鉾を出して  市中を練り歩いて鎮祭するようになった  これが祇園祭の起源・・・  ↓↑  当時は疫病は異国からの伝染と考えて、  異国由来の疫病神として  牛頭天王を祀る由来となったと考える立場もある  牛頭天王は、  子の  八王子権現や  眷属とともに  疫病を司る神とされた・・・  ↓↑  『備後国風土記』  牛頭天王  鎌倉時代後半  卜部兼方  『釈日本紀』に引用された  『備後国風土記』逸文では  牛頭天王は  武塔神とも称され、・・・漢字は「武塔神」で                 「武答神」ではない?  スサノオと同一視され  富貴な弟の  巨旦将来と・・・「巨旦=コタン=枯淡・小丹・古丹・古潭」           巨=目=取っ手のある差し金・定規           旦=日+一=あした(朝)            =元旦=元日の朝・夜明け  貧しい兄の  蘇民将来  の説話を記している  『先代旧事本紀』では  オオナムチノミコト(大国主)の  荒魂が  牛頭天王であると解説・・・  平安時代末期  『伊呂波字類抄』(色葉字類抄)では、  牛頭天王は  天竺の北にある  「九相国」の王であるとしている  ↓↑  スサノオとの習合  朝鮮半島との関係  新羅に  牛頭山という山があり、  熱病に効果のある  栴檀を産し  この山の名を冠した神と同一視する説・・・  ↓↑  『日本書紀』巻第一神代上第八段一書  スサノオ(素戔嗚尊)が  新羅の  曽尸茂利=曽尸茂梨=ソシモリ  という地に  高天原から追放されて降臨し  「ここにはいたくはない」と言い残し、  出雲の国に渡ったとの記述  「ソシモリ」は「ソシマリ」=「ソモリ」  ともいう  朝鮮語で、  牛頭または牛首を意味し、  朝鮮半島の各地に  牛頭山という名の  山や牛頭の名の付いた島がある由と関連する  ↓↑  ソシモリのソは  蘇民のソで、  蘇民は「ソの民」であるとして、  蘇民将来説話と  『日本書紀』の  スサノオの  ソシモリ降臨と関連づける説もある・・・  『三國相傳陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集』  (略称『金烏玉兎集』、『簠簋内伝』とも)  第1巻牛頭天王縁起に  詳細な説話が記され  『祇園牛頭天王御縁起』(上述)では  牛頭天王は  武答天皇の太子として登場  牛頭天皇とも表記  八大竜王の一  沙掲羅竜王の娘の  頗梨采女を妃として  八王子を生んだ・・・  その姿かたちは  頭に牛の角を持ち、  夜叉のようであるが、  こころは人間に似ていると考えられた・・・  日本仏教では、  薬師如来の垂迹とされ  牛頭天王に対する  神仏習合の信仰を  祇園信仰といい、  中世までには日本全国に広まり、  悪疫退散  水難鎮護  の神として  「祇園祭」「天王祭」「津島祭」  などと称する祭礼が各地で催されるようになった ーーーーー  ↓↑  「牛若丸」の由来・・・?  「丁丑(ひのとうし)の年、    丑(うし)の日、    丑(うし)の刻」  に生まれた  今若、乙若の兄弟  ↓↑  源 義経(源義經・ゲンギケイ)  平安時代末期の武将  鎌倉幕府を開いた  源頼朝の異母弟  仮名は九郎  実名は義經(義経)  ↓↑  河内源氏の  源義朝の  九男  幼名  牛若丸(うしわかまる)  ↓↑  生誕 平治元年(1159年)・・・?  1159 戊寅(己・丙・甲)   01 乙丑(癸・辛・己)   25 癸丑(癸・辛・己)寅卯   02 癸丑(癸・辛・己)     ~  死没 文治五年閏四月三十日(1189年6月15日)享年31  1189 己酉(庚・ ・辛)   06 庚午(丙・ ・丁)   15 壬子(壬・ ・癸)  ↓↑  改名 牛若、遮那王、義經、義行、義顕  別名 九郎、判官、廷尉、豫州(仮名)  戒名 捐館通山源公大居士  源義朝の  九男として生まれ、  牛若丸と名付けられ  母  常盤御前は  九条院の雑仕女  牛若丸は  十一歳の時  鞍馬寺(京都市左京区)へ預けられ、  稚児名を  遮那王(しゃなおう)  と名乗った  ↓↑  衣川の戦い(ころもがわのたたかい)  文治五年閏四月三十日(1189年6月15日)  陸奥国  衣川館で  藤原泰衡が  源義経主従を討った戦い  閏四月三十日  500騎の兵をもって  10数騎の  義経主従を  藤原基成の  衣川館に襲った(衣川の戦い)  義経の郎党たちことごとく討たれた  館を平泉の兵に囲まれた義経は、  一切戦うことをせず  持仏堂に籠り、  正妻の  郷御前  4歳の女子を殺害  後、  自害。享年31  ↓↑  鎌倉四代将軍九条頼経  「寅年」「寅の日」「寅の刻」に生まれた  三つ「寅」が並んで  「三寅(みとら)」と名付けられた・・・ ーーーーー  ↓↑ ↓↑  「襲津彦」・・・津波の襲来の諺(ことわざ・ゲン)?  「襲=龍+衣」・・・リュウのイ(ころも)→劉の意(威)  「津=氵+聿」・・・サンズイ(氵・水)のハジメ(初)  「彦=立+ノ+彡」・・・「毘古・比古              彦=ゲン=諺(ことわざ)」   ↓↑  「襲(おそ)う津(みなと)の彦(びこ・ひこ)」  「かさねる(襲)、みなと(津)、びこ(彦)           へそ(毘)いにしえ(古)」  「襲津彦=シュウシンゲン=州秦解務・葺箴言」  「津=つ・シン・しる・しずくとなってしたたる液体     水のうるおす所     浅瀬の舟着き場・渡し場     水分でうるおう・うるおす     生活をうるおす金     手当金     舟着き場・渡し場・津渡・河津・入津・要津     体から出る液体・つば・汗     津液     次々と湧(わ)き出て潤(うる)おす     「興味津津」     「津波・津津浦浦」」 ーー↓↑ーーーーー↓↑ーー   ↓↑     ↓↑   葛城     襲津彦  (かづらき の そつひこ)  生没年不詳  4世紀末~5世紀前半頃の  「記紀」等に伝わる古代日本人   葛  城 長 江 曾都毘古  (かづらきのながえのそつびこ・葛城襲津彦)  玉手臣・的臣・生江臣・阿芸那臣の祖  若子宿禰(わくごのすくね) - 江野財臣の祖   ↓↑   比古布都押 之信   命  (ひこふつおしのまことのみこと)が   尾張  連  (おわりのむらじ)らの祖である   意富那毘  (おおなび)の妹   葛  城 高 千那毘売  (かづらぎのたかちなびめ)  を娶して生んだ子は   味 師内   宿禰  (うましうちのすくね)で、   山 代 の内  臣  (やましろのうちのおみ)  の祖   ↓↑   木 国  造  (きのくにのみやつこ)の祖の   宇豆比古  (うづひこ)の妹、   山 下 影  日売  (やましたかげのひめ)を娶して生んだ子が   建 内  宿 禰  (たけうちのすくね)   ↓↑  ↓↑  建内宿禰の子は九人  男七人  女二人   ↓↑   波多 八代   宿禰  (はたのやしろのすくね)は、   波多 臣  (はたのおみ)   林   臣  (はやしのおみ)   波美  臣  (はみのおみ)   星 川  臣  (ほしかわのおみ)   淡海  臣  (おうみのおみ)   長 谷部 君  (はつせべのきみ)  の祖   ↓↑  ↓↑   許勢 小柄  宿禰  (こせのおからのすくね)は、   許勢 臣  (こせのおみ)   雀  部 臣  (さざきべのおみ)   軽 部 臣  (かるべのおみ)  の祖   ↓↑  ↓↑   蘇賀 石 河   宿禰  (そがのいしかわのすくね)は、   蘇我 臣  (そがのおみ)   川 辺 臣  (かわべのおみ)   田中  臣  (たなかのおみ)   高 向  臣  (たかむくのおみ)   小治 田 臣  (おはりだのおみ)   桜  井 臣  (さくらいのおみ)   岸 田 臣  (きしだのおみ)  等の祖   ↓↑  ↓↑   平群  都久  宿禰  (へぐりのつくのすくね)は、   平群  臣  (へぐりのおみ)   佐和良 臣  (さわらのおみ)   馬  御樴  連  (うまのみくいのむらじ)  らの祖   ↓↑  ↓↑   木 角  宿 禰  (きのつののすくね)は、   木 臣  (きのおみ)   都奴 臣  (つぬのおみ)   坂 本  臣  (さかもとのおみ)  の祖   ↓↑  ↓↑   久米能摩伊刀比売  (くめのまいとひめ)   ↓↑   怒能伊呂比売  (ののいろひめ)   ↓↑   葛  城 長江  曽都毘古  (かずらぎのながえのそつびこ)は、   玉 手 臣  (たまでのおみ)   的   臣  (いくわのおみ)   生 江 臣  (いくえのおみ)   阿芸那 臣  (あぎなのおみ)  らの祖   ↓↑   若 子 宿 禰  (わくごのすくね)は、   江野 間   臣  (えののたからのおみ)  の祖   ↓↑  ↓↑  玉手臣(たまでのおみ)  的臣(いくわのおみ)  生江臣(いくえのおみ)  阿芸那臣(あぎなのおみ)   ↓↑  ↓↑  建内宿禰が先祖   ↓↑  「古事記」では建内(武内)宿禰の子   ↓↑  玉手 臣・・・玉手箱  的  臣・・・的=いくは           あてる・まと(真訳)・テキ  生江 臣・・・生江(イクエ)・・・意句得・幾重?         生江 家道女        (いくえ の いえみちめ・生没年不詳)         奈良時代~平安時代初期         の女性         生江鎌取の娘         越優婆夷=越の国の在家の              女性の仏教信者              越前国足羽郡江下郷出身              天平勝宝九年(757年)              聖武天皇の一周忌に際して              母の              生江大田女ととも              願主として              法華経100部800巻              瑜伽論1部100巻              を東大寺に献上              のち              平安京内の市で              妄りに罪福             (善因楽果と悪因苦果の道理)              を説き人心を惑わせたとして              延暦十五年(796年)              本国の越前国に送り返された  阿芸那臣・・・阿芸那臣(あぎなのおみ)  らの祖   ↓↑  武内宿禰  葛城氏  および  その同族の祖は  履中天皇(第16代)  反正天皇(第17代)  允恭天皇(第18代)・・・  の外祖父である   ↓↑  「葛城襲津彦」は  対朝鮮外交で活躍した・・・  『百済記』の類似名称の記載から  実在性が指摘   ↓↑  『日本書紀』では  「葛城襲津彦」、  『古事記』では  「葛城長江曾都毘古(曽都毘古)」  や  「葛城之曾都毘古」  と表記  他文献では  「ソツヒコ」が・・・そとびこ=外毘古?  「曾頭日古」  「曾豆比古」  「曾都比古」  とも表記されるほか、  『紀氏家牒』逸文では  「葛城長柄襲津彦宿禰」  と表記・・・  『日本書紀』所引の  『百済記』に  壬午年(382年)の人物として見える  「沙至比跪(さちひこ)」が  通説では  「襲津彦」に比定・・・   ↓↑  神功皇后六十二年(262年)  干支二運を繰り下げた  訂正紀年で  西暦382年  にあたる   ↓↑  玉田宿禰  『日本書紀』  允恭天皇五年七月十四日条  襲津彦の孫  雄略天皇七年是歳条では  襲津彦の子   ↓↑  系譜に関して『日本書紀』に記載はない  『古事記』孝元天皇段では、  建内宿禰(武内宿禰)の子  7男2女のうちの  第八子  記紀に母に関する記載はない  『紀氏家牒』逸文では  荒田彦(葛城国造)の女の  葛比売  『新撰姓氏録』では  右京皇別 玉手朝臣条等において  武内宿禰の子  子のうち、  娘の  磐之媛命(石之日売命)は  仁徳天皇皇后  履中天皇・反正天皇・允恭天皇  を産んだ  『日本書紀』では、  襲津彦の子  または  孫に  玉田宿禰  『古事記』では子に  葦田宿禰   ↓↑  武内宿禰の系譜  武内宿禰が  後世(7世紀後半頃か)に創出された人物  稲荷山古墳出土鉄剣によれば人物称号は  「ヒコ→スクネ→ワケ」  と変遷するべきで  「襲津彦」の位置が不自然で  原系譜では  襲津彦  が  武内宿禰の位置にあったとする説・・・   ↓↑  『日本書紀』では、  神功皇后・応神天皇(第15代)・仁徳天皇(第16代)  に渡って  襲津彦の事績が記録   ↓↑  ↓↑  神功皇后五年三月七日条  新羅王の人質の  微叱旱岐(みしこち)  が一時帰国したいというので、  神功皇后は  微叱旱岐に  襲津彦をそえて新羅へと遣わしたが、  対馬にて  新羅王の使者に騙され  微叱旱岐に逃げられてしまう。  襲津彦は怒り、  使者3人を焼き殺し  蹈鞴津(たたらつ)に陣を敷いて  草羅城(くさわらのさし)を落とし、  捕虜を連れ帰った  (桑原・佐糜・高宮・忍海の4邑の漢人らの始祖)   ↓↑  神功皇后六十二年条  新羅からの朝貢がなかったので、  襲津彦が新羅討伐に派遣  『百済記』(百済三書の1つ)を  引用(『百済記』に基づく一連の主文作成の際、     襲津彦の不名誉のため作文を止めたものか)   ↓↑  『百済記』逸文  壬午年(382年)  貴国(倭国)は  沙至比跪(さちひこ)を遣わして  新羅を討たせようとしたが、  新羅は美女2人に迎えさせて  沙至比跪を騙し、  惑わされた  沙至比跪はかえって  加羅を討ってしまった  百済に逃げた  加羅王家は天皇に直訴し、  怒った天皇は  木羅斤資(もくらこんし)  を遣わして  沙至比跪を攻めさせた・・・  「一云」  沙至比跪は天皇の怒りを知り、  密かに貴国に帰って身を隠した  沙至比跪の妹は皇居に仕えていたので、  妹に使いを出して  天皇の怒りが解けたか探らせたが、  収まらないことを知ると  石穴に入って自殺した・・・   ↓↑  応神天皇十四年是歳条  百済から  弓月君(ゆづきのきみ)が至り、  天皇に対して奏上するには、  百済の民人を連れて帰化したいけれども  新羅が邪魔をして  加羅から海を渡ってくることができないという。  天皇は弓月の民を連れ帰るため  襲津彦を加羅に遣わしたが、  三年経っても  襲津彦が帰ってくることはなかった   ↓↑  応神天皇十六年八月条  天皇は襲津彦が帰国しないのは  新羅が妨げるせいだとし、  平群木菟宿禰(へぐりのつく)  と  的戸田宿禰(いくはのとだ)  に精兵を授けて加羅に派遣した  新羅王は愕然として罪に服し、  弓月の民を率いて  襲津彦と共に日本に来た   ↓↑  仁徳天皇四十一年三月条  天皇は百済に  紀角宿禰(きのつの)を派遣したが、  百済王族の  酒君に無礼があったので  紀角宿禰が叱責すると、  百済王はかしこまり、  鉄鎖で酒君を縛り  襲津彦に従わせて日本に送った・・・   ↓↑  『万葉集』では  襲津彦に関連する1首  強弓の伝説的武将の歌   ↓↑  葛城の 襲津彦真弓  荒木(新木)にも  頼めや君が 我が名告りけむ   ↓↑ (かづらきの そつびこまゆみ  あらきにも  たのめやきみが わがなのりけむ)  『万葉集』巻十一 2639番(原文万葉仮名)   ↓↑  「葛城の襲津彦が使う   新木の強弓のように、   私を妻として頼りにしておいでなので、   それで私の名を口に出されたのでしょう」  男を確実に獲得した女の歌・・・   ↓↑  『古事記』では  「葛城長江曾都毘古」  『紀氏家牒』逸文では  「大倭国葛城県長柄里(奈良県御所市名柄?)  に住したので  「葛城長柄襲津彦宿禰」と名づけた・・・  葛城地方の  長柄(長江)地域との関係  襲津彦の子孫のうち、  仁徳皇后の  磐之媛命が履中・反正・允恭  を産んだ・・・  襲津彦男子の  葦田宿禰の娘の  黒媛も  履中の妃となった  天皇家外戚として  葛城勢力・・・   ↓↑  『日本書紀』では  襲津彦に関する  朝鮮外交伝承が記されている  『百済記』所載の  「沙至比跪」の記載の存在   ↓↑  允恭天皇(いんぎょうてんのう)  仁徳天皇六十四年?~允恭天皇四十二年一月十四日)  第十九代天皇  在位  允恭天皇元年十二月~同42年一月十四日)   雄朝 津間稚 子 宿 禰 尊  (おあさづまわくごのすくねのみこと)   男浅 津間若 子 宿 禰 王  (古事記)  中国の歴史書  『宋書』・『梁書』  に記される  倭の五王中の  「倭王済」に比定・・・   ↓↑  仁徳天皇の第四皇子  母は  葛城襲津彦の女  磐之媛命(いわのひめのみこと)  履中天皇、反正天皇  の同母弟   ↓↑  皇后   忍 坂  大 中  姫  (おしさかのおおなかつひめ・稚渟毛二派皇子の女)  第一皇子 木梨軽皇子      (きなしのかるのみこ)皇太子  第一皇女 名形大娘皇女      (ながたのおおいらつめのみこ)  第二皇子 境黒彦皇子      (さかいのくろひこのみこ)  第三皇子 穴穂皇子      (あなほのみこ・安康天皇)  第二皇女 軽大娘皇女      (かるのおおいらつめのみこ)  第四皇子 八釣白彦皇子      (やつりのしらひこのみこ)  第五皇子 大泊瀬稚武皇子      (おおはつせわかたけるのみこ・雄略天皇)  第三皇女 但馬橘大娘皇女      (たじまのたちばなのおおいらつめのみこ)  第四皇女 酒見皇女      (さかみのひめみこ)   ↓↑  妃  弟姫(おとひめ・衣通郎姫(そとおりのいらつめ)  皇后の妹  『古事記』では   藤 原  琴 節  郎  女  (ふじわらのことふしのいらつめ)  と同一人物・・・   ↓↑  都は   遠  飛 鳥 宮  (とおつあすかのみや)  奈良県  高市郡  明日香村飛鳥?  飛鳥の地に宮を設けた初めての天皇   ↓↑  『日本書紀』  反正天皇五年一月  反正天皇が  皇太子を定めずして崩御  雄朝津間稚子宿禰尊  を天皇(大王)に推挙  尊は病気を理由に再三辞退  允恭天皇元年十二月  忍坂大中姫  の強い要請を受け即位  3年8月  新羅から医者を招聘、天皇の病気を治療  4年9月  諸氏族の氏姓の乱れを正すため、  飛鳥甘樫丘にて  盟神探湯(くがたち)を実施  5年7月  玉田宿禰(葛城襲津彦の孫)  の叛意が露顕、誅殺  7年12月  皇后の妹  衣通郎姫を入内  皇后の不興を買い、  藤原宮(奈良県橿原市)に住まわせる  8年2月  衣通郎姫が皇后の嫉妬を理由に  茅渟宮(ちぬのみや・大阪府泉佐野市)へ移る  天皇は遊猟にかこつけて  郎姫の許に行幸を続けたが、  10年に皇后に諌められ、  その後の  茅渟行幸は稀になった  24年6月  皇太子の  木梨軽皇子  と  同母妹の  軽大娘皇女の  近親相姦が発覚  (古事記)  木梨軽皇子を廃太子  伊予に配流(→衣通姫伝説)  42年1月  崩御  新羅王はこれを悲しみ、弔使  『古事記』『旧事紀』  に78歳  『愚管抄』『神皇正統記』  に80歳  北野本『日本書紀』に  81歳(一本68歳)・・・  陵(みささぎ)  大阪府藤井寺市国府1丁目  惠我長野北陵(恵我長野北陵)に治定  公式形式は前方後円  考古学名は  市ノ山古墳(前方後円墳・全長228m)  大阪府藤井寺市津堂にある宮内庁の  藤井寺陵墓参考地では  允恭天皇が被葬候補者に想定  考古学名は  津堂城山古墳 ーーーーー  ・・・「允-恭(イン-ギョウ)」・・・木戸孝允・・・



 ・・・「毎」=「ノ一(髪挿し)」+「母=はは」→「毋=莫=ない」→「毌=貫=つらぬく)・・・「午」=「ノ一(髪挿し)」+「十」=「馬=うま・ま・め・バ・マ・ゴ」・・・「牛」=「ノ一(髪挿し)」+「十」=「牛」・・・「丑=牛=うし・ギュウ・グ・ゴ=牝(ヒン・ビン)=牡・・・犍」・・・「先月29日午前4時ごろ、雷により大切な乳牛を32頭も殺されてしまった(ミズーリ州テキサス郡のブラックウェルダー牧場(Blackwelder Farms))」らしい・・・この農場は「有機農場(Organic farming・Organic agriculture)」であったらしい・・・  「牜+α」・・・「牸(めうし)は国字」・・・「牠(タ)牧(ボク・モク)牨(コウ・チン)牾(ゴ・グ)犒(コウ)牿(コク)牯(コ・ク)牲(セイ・ショウ)牴(テイ)犉(ジュン)牱(カ)牷(セン)犢(トク・ドク)特(トク・ドク)牻(ボウ)犠=犧(ギ)」・・・「朱=牛+八」・・・「生=牛+一」・・・「牸(めうし)=牜+字」・・・「物(ブツ・モツ)=牛+勿」・・・「牣(ジン・ニン・みさる・みちる)・・・  「ハトホル(Hathor)=古代エジプト神・愛と美と豊穣と幸運の女神・聖獣は牝牛」・・・「アピス (Apis) ・ハピス (Hapis) ・ハピアンク (Hapi-ankh)はメンフィスの牡牛の神で、創造神プタハ(Ptah)で、鍛冶や職人の守護神でもあり、その化身」・・・「闇の神・冥界の神=アブ・シンベル神殿の神々の像の中で、一つだけ一年を通して日が当たらない位置に祭られている」・・・「オシリス(尾示理素?→尾張が示す理窟の州?)」でもあるな・・・ ーーーーー  「牠(牛+也)=現代中国語で、代名詞の三人称単数は「tā(他)」で表すが、漢字は性別などにより「他(男性または不明)」、「她(女性)」、「牠(動物)」、「祂(神)」、「它(その他)」・・・  代名詞=名詞の代わりに使われる単語      名詞または名詞句の代わりに用いられる語      指示代名詞      人称代名詞      名に代えて、      人や事物、場所、方向、時などを示す語      I、we、you、he、she、they this、that some、any・・・不定の人や事物または数量を示す              不定代名詞      who、which・・・疑問代名詞  ↓↑  I   my   me  mine  あい・まい・みぃ・まぃん・・・  曖  昧、 観意、眞(萬・磨)音  ↓  相  謎  実意 妹務  ↓  we  our  us  ours  ぅい・あわ・あす・あわぁズ  有為・阿波・阿蘇・阿波會事           合(会・遇・遭)わず           葺き合わず=葺不合       ウガヤ--フキアエズ    日子波限建鵜--草葺不合命    彦波瀲武盧茲--草葺不合尊  you  your  you  yours  ゆぅ・ゆぅぁ・ゆぅ・ゆぅぁズ  有=ユウ=夕・酉・熊・邑・游・遊・由・又・・・云?  he  his  him  his  ひぃ・ひぃズ・ひむ・ひズ  比意=ヒイ=日意・非違・曾・碓氷・肥亥(熊本の北西?)  she  her  her  hers  しぃ・はぁ・はぁ・はぁズ  ↓  葉蛙=把鴉=嵌亜  ↓        頗和州(蘇・諏・事)  思惟=シイ=恣意・示威・私意・詞意              ム意=ヨコシマのイ  it  its  it   -  いツ・いツス・いツ  何時・乙・壱・五・伊津・伊都  they their them theirs  ぜぃ・ぜぁ・ぜむ・ぜぃぁズ  説=ゼイ=税・勢・贅・脆・済・是井・施意 ーーーーー  ↓↑  牧(まき)・・・・巻き・薪・・・臥薪嘗胆  牾(さからう)・・作掛等得・・・逆らう  犒(ねぎらう)・・音義等得・・・労う  牿(おり)・・・・檻  特(おうし・ひとり・ことに・special)    おうし・をうし・牡牛・雄牛  牨(おうし)  牯(おうし・cow・bull・ox)・・・王氏・横死・汪氏・王史    夛=おうし・まさる・まさに・おおい・タ      much・many・more than・over    押紙=おうし・おしがみ・付箋(附箋)・吸い取り紙       疑問や補足を書いて文書などに添付した紙  牴(ふれる)  犉(おおうし・黄毛黑唇的黄牛・七尺の牛)  犢(こうし)・・・子牛・高氏・孔子・公私・行使  牢(ろうや)・・・牢屋  牻(まだらうし・毛色が黑白相雜的な牛・毛色黑白相间的牛  犠(いけにえ)=犧・生贄  牲(いけにえ)  牷(いけにえ) ーーーーー  ・・・!!?・・・「牛」の合字の「扁」の漢字って・・・「モゥ~ッ!」で、わんさかでアルかな・・・ヨメんッ・・・だが、ホトンドが「牛」に関するコト(形象表意)だろう・・・字形をみれば牛の何であるかが理解出来そうだが・・・「アルタミラ(Altamira cave・北緯43度22分・1879年マルセリーノ・デ・サウトゥオラ侯爵の5歳の娘マリアによって発見)・野牛、イノシシ、馬、トナカイなど」、「ラスコウー(Grotte de Lascaux・北緯45度02分・1940年村の子供達4人によって発見・赤土、木炭を獣脂、血、樹液で溶かして混ぜ、黒、赤、黄、茶、褐色の顔料での数百の馬、山羊、羊、野牛、鹿、かも鹿、人間、幾何学模様の彩画、刻線画人間の押し手形、500点)」・・・  ↓↑  牥・牦・牧・牨・物・牪・牫・牬・㸫・㸬・㸭・㸮・㸯・𤘜・𤘝  𤘞・𤘟・𤘠・𤘡・𤘢・𤘣・𤘤・𤘥・𤘦・𤘧・𤘨・𤘩・𤘪・𤘫・𤘬  𤘭・𤘮・𤘯・𤘰・𤘱・𤘲・𤘳・𤘴・𤘵・𤘶・𤘷・牭・牮・牯・牰  牱・牲・牳・牴・牵・㸰・㸱・㸲・㸳・㸴・𤘸・𤘹・𤘺・𤘻・𤘼  𤘽・𤘾・𤘿・𤙀・𤙁・𤙂・𤙃・𤙄・𤙅・𤙆・𤙇・𤙈・𤙉  ↓↑  牝・牞・牟・㸨・𤘕・𤘖・𤘗  牠・牡・牢・牣・牤・㸩・㸪・牢・𤘘・𤘙・𤘚・𤘛  ↓↑  牥・牦・牧・牨・物・牪・牫・牬・㸫・㸬・㸭・㸮・㸯・𤘜・𤘝  𤘞・𤘟・𤘠・𤘡・𤘢・𤘣・𤘤・𤘥・𤘦・𤘧・𤘨・𤘩・𤘪・𤘫・𤘬  𤘭・𤘮・ 𤘯・𤘰・𤘱・𤘲・𤘳・𤘴・𤘵・𤘶・𤘷  ↓↑  牭・牮・牯・牰・牱・牲・牳・牴・牵・㸰・㸱・㸲・㸳・㸴・𤘸  𤘹・𤘺・𤘻・𤘼・𤘽・𤘾・𤘿・𤙀・𤙁・𤙂・𤙃・𤙄・𤙅・𤙆・𤙇  𤙈・𤙉・𤙊・𤙋・𤙌・𤙍・𤙎・𤙏・𤙐  ↓↑  牶・牷・牸・特・牺・㸵・㸶・㸷・㸸・𤙑・𤙒・𤙓・𤙔・𤙕・𤙖  𤙗・𤙙・𤙚  ↓↑  牻・牼・牽・牾・牿・犁・㸹・㸺・㸻・㸼・㸽・㸾・㸿・㹀・𤙛  𤙜・𤙝・𤙞・𤙟・𤙠・𤙡・𤙢・𤙣・𤙤・𤙥・𤙦・𤙧・𤙨・𤙩・𤙪  𤙫・𤙬・𤙭・𤙮  ↓↑  犀・犂・犃・犄・犅・犆・犇・犈・犉・犊・犋・㹁・㹂・㹃・𤙯  𤙰・𤙱・𤙲・𤙳・𤙴・𤙵・𤙶・𤙷・𤙸・𤙹・𤙺・𤙻・𤙼・𤙽・𤙾  𤙿・𤚀・ 𤚁・𤚂・𤚃・𤚄・𤚅・𤚆・𤚇・𤚈・𤚉・𤚊・𤚋・𤚌・犀  ↓↑  犌・犍・犎・犏・犐・犑・㹅・㹆・㹇・㹈・𤚍・𤚎・𤚏・𤚐・𤚑  𤚒・𤚓・𤚔・𤚕・𤚖・𤚗・𤚘・𤚙・𤚚・𤚛・𤚝・𤚞・𤚟・𤚠・𤚡  𤚢・𤚣・ 𤚤・𤚥・𤚦・𤚧・𤚨・𤚿  ↓↑  犒・犓・犔・犕・犖・犗・㹄・㹉・㹊・㹋・𤚩・𤚪・𤚫・𤚬・𤚭  𤚮・𤚯・𤚰・𤚱・𤚲・𤚳・𤚴・𤚵・𤚶・𤚷・𤚸・𤚹・𤚺・𤚻・𤚼  𤚽・𤚾・𤛀・𤛁・𤛂・𤛃・𤛄・𤛅・𤛆・𤛇・𤛈・𤛉  ↓↑  犘・犙・犚・犛・㹌・㹍・㹎・㹏・㹐・𤛊・𤛋・𤛌・𤛍・𤛎・𤛏  𤛐・𤛑・𤛒・𤛓・𤛔・𤛕・𤛖・𤛘・𤛙・𤛚・𤛛・𤛜・𤛝・𤛞・𤛟  𤛠  ↓↑  犜・犝・犞・犟・㹑・㹒・㹓・𤛡・𤛢・𤛣・𤛤・𤛥・𤛦・𤛧・𤛨  𤛩・𤛪・𤛫・𤛬・𤛭・𤛮  ↓↑  犠・㹔・㹕・㹖・𤛯・𤛰・𤛱・𤛲・𤛳・𤛴・𤛵・𤛶・𤛷・𤛸  ↓↑  㹗・㹘・𤛹・𤛺  ↓↑  犡・犢・犣・犤・犥・犦・㹙・𤛻・𤛼・𤛽・𤛾・𤛿・𤜀・𤜁  ↓↑  犧・犨・𤜂・𤜃・𤜄・𤜅・𤜆  ↓↑  㹚・𤜇・𤜈・𤜉・𤜊・𤜋  ↓↑  犩・㹛・𤜌・𤜍・𤜎・𤜏・𤜐  ↓↑  𤜑・𤜒・𤜓  ↓↑  犪・𤜔・𤜕  ↓↑  𤜖・𤜗・𤜘  ↓↑  犫  ↓↑  𤜙  ↓↑  ・・・「うし・ウシ・うし」・・・お手上げッ!・・・牛の化け物、「ミノタウルス(Mīnōtauros・Minotaurus・Minotaur)=ギリシア神話の牛頭人身の怪物・クレータ島のミーノース王の妻パーシパエーの子・ポセイドンに牡牛に発情すると云う魔法をカケられたパーシパエがダイダロスに造ってもらった模型の牝牛の中に入り、牡牛と交わって生んだ子・迷宮=ラビリンスの中に閉じ込められていた)」・・・「美濃(三野)の牡牛(タウロス)」・・・「美濃多雨露州」・・・  「美濃=1600年(慶長五年)の      関ヶ原で徳川方の      金森長近が拝領した      上有知(こうずち)に      1606年(慶長十一年)頃      小倉山城下に町割りし、      長良川の      上有知湊(こうずちみなと)を造り      船運による      物資集散の拠点として      和紙(ワシ)を中心に      商業都市として繁栄させた      1615年(元和元年)      金森長近が死没し、      後      尾張藩領となり      1911年(明治四十四年)に      美濃町となる」・・・  ・・・「岐阜県-恵那市-武並町-美濃(みの)」は     「ミ(水)・ノ(野)」が語源・・・     「美濃国」は、古くは     「三野國・三乃國・御野国」と記録     「本巣市      見延(みのべ)」に由来・・・     木簡には     「美野国」と表記・・・  ・・・「室町時代の美濃国の守護は土岐氏、守護代は斎藤氏      斎藤道三は美濃国の守護代の斎藤氏を追放し      斎藤氏を称し、美濃国を掌握      別名      長井規秀(新九郎)・長井秀龍(新九郎)      斎藤 利政(新九郎)・道三      蝮(まむし)・梟雄(キョウユウ)」  ↓↑  「闘牛=corrida de toros(コリーダ デ トロス)      toros=黄道十二宮の第二宮・牡牛座・牡牛=tauro      vaca(バカ)=牝牛      toro(トロ)=牡牛            黄道十二宮の第二宮・牡牛座・牡牛=tauro」  ・・・「matador(マタドール)=殺す・トランプの切り札・殺人者・闘牛士」って、「又、同(動)、留」だろう・・・  スペイン語・・・  馬鹿=ばか(vaca)  邪魔=じゃま(llama)  死ね=しね(cine)  失せろ=うせろ(uselo)  消えろ=きえろ(quiero)  阿保=あほ(ajo)  ↓↑  「西遊記」の「牛魔王」  白牛妖怪  体長1,000丈(3,330m)  体高800丈(2,666m)  正妻に羅刹女  側室に玉面公主  息子に紅孩児  娘に李厘  孫悟空とは義兄弟  芭蕉僭をめぐる戦いで悟空に敗れ、  仏法に帰依し、天界に護送・・・  牛魔王  号は  平天大聖(ヘイテンタイセイ)  大力王(タイリキオウ)  ↓↑  ゼウスは「白牛」に化けて  テュロスのフェニキア王  アゲーノール  と  テーレパッサの娘  「エウローペー」を誘拐、拉致し  「Europa(ユーロッパ)」を旅し廻って  クレタ島に辿り着き  エウローペーは  ゼウスの最初の妃となった  ゼウスは彼女に  タロース(Τάλως・Talōs)・・・         (ロボット・青銅の巨人・          ヘーパイストスが青銅から造った          or ダイダロスの発明)  と  必ず獲物をとらえる猟犬と  なくなる事のない投げ槍の  3つの贈り物を与えた後  再び  「白い牡牛」となって  夜空の  「おうし(牡牛)=Taurus(タウロス)」座になった・・・  「アルデバラン(後に続くもの・後に従うもの)」  「プレアデス(Pleiades)=牡牛座の散開星団   七人姉妹=昴(すばる・ボウ)」・・・              Bow雨=ボウ=暮雨・芒宇  に続く「星(アルデバラン)」・・・  ↓↑  ゼウスの愛人「イーオー=イヨ(壹與・臺與)?」は  ゼウスの妻ヘラ(ヘレン・ダイアナ)にバレないよう  イーオーを美しい「白牝牛」に変身させてしまう  イーオーはゼウスとの子、後に  エジプト王になる  エパポスを産んだ  「イーオーは   デーメーテールの像を立て、   イーオーとデーメーテール像は   エジプト人に   イシスと呼ばれるようになった」 ーー↓↑ーー

ーー↓↑ーー  オシリス(Osiris)・・・・とはダレか?  古代エジプトの農業神  オシリスとはギリシャ語読み  エジプト語では  Asar(アサル)  Aser(アセル)  Ausar(アウサル)  Ausir(アウシル)  Wesir(ウェシル)  Usir(ウシル)  Usire、  Ausare  とも呼ぶ  イシス、  ネフティス、  セト  の4兄弟の長兄  ↓↑  オシリスは  生産の神  エジプトの王として君臨  トト神(書記神)・・・・朱鷺(鴇)神=水鳥              狒々(霏々)神=猴・猨・猿・狙・申                      沙流→讃良  の助けを受け  民に  小麦の栽培法やパン  及び  ワインの作り方を教え、  法律を作った  弟の  セトに謀殺され  遺体は13に切断され  ばらばらにされてナイル川に投げ込まれ  妻であり妹でもある  イシスによって、  男根を除く体の各部を拾い集められ、  ミイラとして復活し  イシスとの間に  息子  ホルスを産む  以後、  冥界  アアルの王・・・アアル(英: Aaru・Yaaru・Iaru・Aalu)          は古代エジプト神話の          アアルの野          葦の原野          とも言われる楽園・・・アシハラのナカツ国          葦原中国(葦 原  中  國               あしはらのなかつくに               ロ ゲン チュウゴク)          高天原(たかまがはら              コウテンゲン)          と          黄泉(よみ             コウセン)          の国の間にある世界・・・  として  死者を裁く神となった  自身の遺児  ホルスを  イシスを通じて後見・・・「イシス=石州=岩井・磐井・石井」               ↓↑              「日下部=草壁」王妃              「阿閇皇女-為後來的-元明天皇」?  セト・・・・・・・・・・「瀬戸・背徒・施訳」?  に奪われた王位を奪還し  ホルス・・・・・・・・・「珂瑠(軽)皇子=文武天皇」?  に継承させた  現世はホルス  冥界はオシリス  がそれぞれ統治   ↓↑  この神話は  エジプト人自身の記述ではなく、  ギリシアの哲学者  プルタルコスによる  「イシスとオシリスについて」  に基づくもの・・・  オシリスの偉業は  武力によらず  エジプトと近隣の国家を平和的に平定し  産業を広めた  古代のシリア王をモデル・・・  神の死と復活のモチーフ  神話において  冬の植物の枯死と  春の新たな芽生えを象徴・・・  オシリスにも  植物神(農耕神)としての面がある・・・  彼の肌が  緑色なのは  植物の色を象徴している・・・

ーー↓↑ーー  Organic farming、Organic agriculture) 日本の「有機農業」  法律(平成18年法律第 112号)・第二条  「化学的に合成された肥料及び農薬を使用しないこと   並びに   遺伝子組換え技術を利用しないことを基本として、   農業生産に由来する環境への   負荷をできる限り低減した農業生産の方法を   用いて行われる農業」   ↓↑  農林水産省の「有機農産物の日本農林規格」  有機農産物  1) 有機農産物    農薬と化学肥料を3年以上使用しない田畑で、    栽培したもの。  2) 転換期中有機農産物    同6ヶ月以上、栽培したもの  特別栽培農産物  3) 無農薬栽培農産物    農薬を使用せずに栽培したもの  4) 無化学肥料栽培農産物    化学肥料を使用せずに栽培したもの  5) 減農薬栽培農産物    その地域での使用回数の5割以下しか    農薬を使わずに栽培したもの  6) 減化学肥料農産物    同化学肥料を使わずに栽培したもの    有機JAS規格では有機農産物を   「生産から消費までの過程を通じて    化学肥料・農薬等の    合成化学物質や生物薬剤、    放射性物質、    遺伝子組換え種子    及び    生産物等をまったく使用せず、    その地域の資源をできるだけ活用し、    自然が本来有する生産力を尊重した方法で    生産されたもの」  ・・・「自然農法」・・・昔ながらの農業って、コト・・・ ーー↓↑ーー  「21グラム」=「二十一g(グラム)」=「弐拾壱瓦」=「弐足壱瓦」=「念壹瓦」・・・「4分の3オンス(ounce・℥)」・・・「G(ヂィ・ジィ)」・・・  ↓↑  ウイークエンドシネマ・21グラム  5/13 (土) 1:28 ~ 3:20(112分)  HBC北海道放送(Ch.1)  映画 - 洋画  ↓↑  人が死んだら、「21グラム」だけ軽くなる・・・  「魂の重さ=21g(念壹瓦)」 ・・・  ↓↑  「21グラム(21 Grams)」  2003年製作・アメリカ映画  アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督  ↓↑  「21グラム(4分の3オンス)」         アメリカの医師         ダンカン・マクドゥーガルが         魂の重量の実験した計測値  死後に失われる「21グラム(4分の3オンス)」・・・???  マサチューセッツ州の医師  ダンカン・マクドゥーガル博士が  「瀕死の結核患者が横たわるベッドを   当時の最新型の精密な秤で計量し、   死の直後の体重の変化を調べた」  「博士は6人の末期患者を計量し、   死の瞬間に立会った」  「死の前後の体重の変化を調べた目的は   魂の重さを測るためだった」 ーーーーー  ・・・???・・・「魂の重さ」=「質量=物質」・・・たしかに、「妄想・空想・思想・幻想・予想・奇想・無稽」に「質量=重さ」はない?・・・


 ・・・「魯=魚+日」にコダワル・・・「魯」は魚(さかな)の種類の「名前(なまえ・ながさき・メイゼン・ミョウゼン)」の漢字ではない。「魯」は、「魚扁」が「日」の横に並ぶ合字ではなく、「日」の上に載る「魚冠」の漢字である・・・「魯=魚(まな→真名=漢字)+日(ひ・び)=まなび」?・・・「初めにナマ-エありき」ではなく、「初めにナマ-エを付けるモノがあり、それらにナマ-エを付ける人がいた」・・・「ナマ(名真)のエ(重)」?・・・旧約聖書の「モーゼ・出エジプト記、第16章のマナ(Manna)」は天から降って来た「食糧」だったが「生贄」ではなく「カミからの恵み」?だった・・・で、「魯」は「魚(さかな・サカナ・サ仮名)」ではなく「地名」だった。しかも、その地は現在の「山東省・曲阜・青島(チンタオ・セイトウ・ドイツ語=Tsingtau)」は、「鹵地(しおち・ロチ)」だったのか?・・・「魯」は、「愚鈍な生き物である魚の物言いのことと(説文解字)」、「愚かしい・鈍(のろ)くさい・間抜けな・そそっかしい・荒っぽい」、「參也魯(曾参は魯なり・論語)」とある?・・・「孔安国」の注には「魯は、鈍なり。曾子の性は遅鈍=魯、鈍也。曾子性遲鈍」・・・周代の有力国の名が「魯」とされ、炎帝(神農氏)、黄帝の生地であり、意味が「遅鈍」とは・・・「?」であるナッ・・・しかも、「魯国」は「黄帝とその子、少昊が曲阜の地を都に定めた・夏の時代は奄国に属していた・周の武王が周王朝を開いたとき、その弟で建国の功臣、周公旦がこの地に分封」されたのに、「魯=遅鈍、鈍也」とは解せない、ナッ、である・・・「孔安国」の解釈は「?」である・・・「コウアンコク」ってダレ・・・公安獄・公案語句・抗暗黒・・・?・・・   ↓↑   孔安国(コウアンコク・生没年未詳)   魯(山東省・曲阜)の人   前漢代の学者   字は子國   孔子十一世の孫・・・・十一=イチ拾壱   父は   孔武・・・・・・・・「孔(あな・孑+乚)」は「武」   呉音で   「クアンゴク」とも読む   申公(魯国の人)について『魯詩』、   「伏生=伏勝」   について『尚書』を学ぶ   漢の武帝の時に   諫議大夫に任ぜられた   臨淮の太守にいたって没した   孔子の旧宅から発見された古文の経書を研究し   古文の家学を起した   ↓↑  「伏生=伏勝」・・・伏せて生きる?   ↓↑       伏して勝つ?            臥薪嘗胆の            第六代呉王            闔閭(コウリョ・コウロ)            の後継者の            呉王の夫差            と敵対者            越王の句践     「闔」=「閉じる」・「閭」=「門・町の一区画」     「開闔(カイコウ)=開閉               朝廷の記録所   ↓↑          鎌倉、室町幕府の職名   ↓↑  「済南の出身、もとは秦の博士   漢の文帝の時に『尚書』を良く知る者を求め、   伏勝の名があがったが   彼は90歳の老人で召すことができず   文帝は   太常に詔して、   掌故である   鼂錯を伏勝のところへ行かせて学ばせた   秦代の   焚書坑儒のさい、   伏勝は  『尚書』を壁に埋めておいたが、   漢代に掘り起こしたときには数十篇を失い、   29篇を得た   伏勝はこれを   斉・魯で教え、   済南の   張生   と   欧陽生   がその教えを   児寛   に伝えた   これを  『今文尚書』と称する」・・・?  ・・・ ーー↑↓ーー  ・・・又又、またトンだ・・・  ↑↓  「天文瓊統(テンモンケイトウ)」  元禄十一年(1698)  渋川春海 写本六巻  「春秋述暦」  寛文九年(1669)  安井算哲 松田順承 著 刊本1冊  ↑↓  「春秋述暦」  中国の春秋時代(紀元前770~403)の長暦  中国の魯国について書かれた歴史書  「春秋」に注釈をつけた書  「春秋左氏伝」  の記事にある暦に関する記述から、  授時暦で推算して  242年間をまとめたもの・・・  松田順承(生没年不詳)は、  春海が、十代のころ暦学について学んだ師  春海(この書物では安井算哲)は  この後も  「春秋杜暦考(1670)」  「書詩禮暦考(1671)」を著し、  「日本書紀暦考(1676)」  「本朝古今交蝕考(1676)  「日本長暦(1680)」  などをまとめた  ↑↓  安倍泰福(やすとみ)  (1655~1717)  陰陽寮の天文博士  安倍晴明の末裔  天和二年(1682)に  陰陽頭となり、  翌年  天和三年(1683)  全国の陰陽師を統括する勅許を得た  春海の神道の師  ↑↓  春海は貞享の改暦の功により、  幕府より  初代天文方に任ぜられた  後、暦の天文学的な基本部分を  江戸の天文方が作成し、  京都の陰陽寮で占いなど暦注をつけて  天文方が確認し、これを元に  幕府の認可をうけた者だけが  暦を刷って売ることができるようになった  ↑↓  「貞享暦」元禄十一年(1698)  渋川春海 写本七巻七冊  ↑↓  『魏志倭人伝』に  肥前国  松浦郡(末魯国)の・・・魯の末の国?  東南陸行五百里  末魯国~伊都国に対し      伊都国~奴国~不彌国・・・不彌=ふみ=文?  ↑↓  「曲阜」は、  黄帝の出身地  春秋戦国時代に  魯国の都として  800年間存在  ↑↓  曲阜市(キョクフ-シ)  中華人民共和国  山東省  済寧市  に位置  省都・済南からは約130kmに位置  泗河(泗水)が東から西へ流れている  周・春秋時代の  魯国の故地  孔子の生地  北緯35度36分  東経117度02分  ↑↓  三皇五帝の内の  炎帝(神農氏)  黄帝  とその子  少昊  が  曲阜の地を都に定めた  夏の時代は  奄国に属していた  周の  武王  が周王朝を開いたとき  その弟で建国の功臣  周公旦  がこの地に分封  魯公を称した  ただし  魯の国は息子の  伯禽  に任せ、  周公本人は  朝廷にいて  武王亡き後の不安定な政治を補佐した  この時以来、この地は  873年の長きにわたり  魯国の都城  当時の曲阜は  城壁の長さが約12kmで  四面に各3つずつ城門  城の西南は  宮殿や祠・廟など  王の建築群がある内城  城の西は  陶を作る地区  城の北は  冶金工業の地区  城の東は  軍営  残りは  市民の住居や市場  城は  周礼の規範を遵守し  「左壇右社」  「面朝後市」  の通り整えられ  「礼儀の邦」の顕著な模範となっていた  ↑↓  戦国時代末期  楚国によって滅ぼされ  楚はこの地に  魯県を置いた  前漢  皇族をこの地に封じて  魯王とし、  魯国とした  三国時代には  魯県が置かれ、  魯郡を統治する中心地となった  隋になって  「城の東に阜(おか)有り、   委曲して長さは七八里」  という由来から名を  「曲阜県」と変え  兗州(エンシュウ)に属した  明清や近代まで孔家の本拠  新中国建国で  孔家の直系子孫は台湾に逃れた  1982年に国家歴史文化名城に指定  1986年には曲阜県は廃止され曲阜市となり       済寧市の管轄下におかれた

ーー↑↓ー↑↓ーー  阿蘇山  32度53分  上海   31度10分  会稽東治 31~32度  ↑↓ ↑↓  会稽山  地理位置  「山海经·海经第八卷·海内东经」曰  「会(kuai)稽(jī)山、在大(楚)[越]南。   会稽山 在绍兴城南六公里,   是大禹娶妻、封禅之地,大禹陵所在。   会稽山与我国古代开国圣君、   治水英雄大禹有着不解的渊源,   蛇是大禹娶妻、封禅的地方,   同时也是大禹的陵寝所在地,   顾恺之说   会稽山  “千岩竟秀,万壑争流,   草木蒙笼其上,若云兴霞蔚”。   晋朝  贵族王羲之、谢安等定居绍兴。   南朝诗人王藉咏会稽山的诗句  “蝉噪林逾静,鸟鸣山更幽”   传诵千古。  ↑↓ ↑↓  「魯」  「愚鈍な生き物である魚の物言いのことと   説文解字等に説かれる所であり、   論語にも、   弟子の欠点を並べる箇所で  「參也魯(曾参は魯なり)」とある  周代の最有力国に  『魯』の名称が採られ、古くは佳字で  元は  「純朴な・人が良い」の意味だった・・・?  「孔子」の現実を揶揄した意味になったんだろう・・・?  ↑↓ ↑↓  山東省(Shandong)  中華人民共和国の省の一  略称は周代の国名より  魯  山東とは  「太行山脈」の東方の意・・・「太の行の簒脈」?                 太安万(萬)侶  北には渤海、 東には黄海  黄河の下流に位置  省都は済南  他に  青島  泰安  などの主要都市がある  北緯36度5分  東経120度20分  ↑↓  山東半島が  渤海  と  黄海に突き出し  遼東半島  と相対している  ↑↓  黄河が  山東省西部を貫き  山東省の北部で  渤海に流入  多くの土砂を運ぶ  黄河は自然堤防を形成し  天井川と化している  山東省で黄河に入る支流はない  このため  山東省は黄河を境に  北は海河流域  南は淮河流域  となっている  黄河  と  長江  を結ぶ大運河も省内を  北西から南東に貫いている  南西端の  微山湖は  南北120km  面積1,266平方km  の華北最大の  淡水湖  ↑↓  青島  山東半島の  南海岸の  膠州湾の東側に  小さく突き出た  半島の先端に位置  北東は  煙台市  西は  濰坊市  南西は  日照市・・・・・・・日照?→天照大神  とそれぞれ接する  ↑↓ ↑↓  魯甸県(ロデン-ケン)  中華人民共和国  雲南省  昭通市に位置  ↑↓  行政区画  下部に  10鎮  2民族郷  鎮  文屏鎮、竜頭山鎮、水磨鎮、小寨鎮、江底鎮  火徳紅鎮、竜樹鎮、新街鎮、梭山鎮、楽紅鎮  民族郷  桃源回族郷  茨院回族郷  ↑↓ ↑↓  ウルムチ  烏魯木斉  ↑↓  中国新疆 (シンキョウ)  ウイグル自治区の区都  天山山脈の北麓  古くは天山北路の要衝  1763年  清が築城  迪化(テキカ) と命名  ウルムチ市 (烏魯木齊市・Ürümqi)  新疆ウイグル自治区に位置する  地級市、自治区首府  自治区人民政府が設置されている  中国西部最大の都市  ↑↓ ↑↓ ↑↓  魯国故城  周代の国都の遺跡  紀元前1045年  周が商を滅ぼし  武王の弟  「周公姫旦」が  曲阜に封ぜられ  魯国となった  子の  伯禽が代理として封ぜられ  25世代にわたり  34人の君主が続いたき  紀元前249年  楚に滅ぼされた  ↑↓  魯国の都は四角形  城壁周囲の長さは  11771m  西周初年に着工  中央に宮殿  周囲を壁で囲み  宮殿の  前面に朝廷  後方に市街  左に祖廟  右に社禝  という、  周代の儀礼「周礼」  に従ってつくられた  都には、  東西と南北に  各五本ずつ、  計十本の道路が走り、  南北方向の真ん中の一本は、  都の中心線とし、  宮殿から  東南門を通って  高台に達する  魯城は西漢の後期まで使用され  別に  漢城が建てられ  魯城の南壁、西壁の一部は使われていた ーーーーー  ・・・???・・・ ーーーーー  名前(なまえ・希=όνομα・羅=nomen・英=name)     name=なめ・ナメ?  物や人物、土地、場所に与えられた言葉  それらの対象を区別して呼んだりする際に使用  名称、  名=物、動植物や人、場所、地域を    識別・呼称するために使う固有名詞    人名のうち、    家庭・家族(family name)を表す姓・名字    に対して、    家庭内や親族などで個人を識別する名    日本人では「下の名前」    「ギブンネーム (Given name)」    欧米人などでは    「ファーストネーム(First name)」    名(ミョウ)=平安時代から           中世の国衙領や荘園において           徴税のために設けられた単位           名に編まれた田地を名田と称し、          「名=名田」  名詞  名(な)=人、物又は事を他の人や事物と       区別するため言語を用いて、       概念を代表して標識としたもの       名前・名称・呼称       「名(な)」=ほまれ・名誉       「メイ(接尾辞的に)」~の名前  接頭辞  名(メイ)=特別に秀でた・有名な・非凡な・偉大な        名人・名解答・名シーン・名奉行  接尾辞  名(メイ)人数を数える時の助数詞  ↓↑           名前をつけることを  「名付ける・命名(メイメイ)する」という  名前=名詞  名前=人名、物名     人名のうち、     家族を表す     姓(名字)でない個人を識別する名を指す     姓を指して「名前」と呼ぶこともある  ↓↑  「名=夕(暮れ)+口」に(呼ぶ)からとする説     「口(神器)+夕(肉)」を供える儀式とする説     「ナマエ」の「ナ」は「ネ(音)」とも・・・  ・・・「タ+口(箱・匣・函・笥・簏・筺・筥・凾)」  ↓↑   「前」=「止+舟+リ」=「歬+刀」  「舟の進む前方」を「止=阻」むを意味し   これに「刀」を添えて  「先を切り裂きながら進む」の意味   後に  「歬=止+舟」の字が失われ、  「前」は前方の意味だけが残り、  「切り裂く刀」に「力」を添えた  「剪=前+力」の「きる切りそろえる・セン」になった  「揃える」は「一人前・腕前=能力」などが  「整った・完成した」の意・・・  ↓↑  「名前」は「整えられた名・完全な名・正式な名」   という意味になる・・・  ↓↑  未知な対象事象には名を付け  その存在の在り方を  認知、記憶、思惟、認識理解し、  それらの認識手段として名を付与する・・・  ↓↑  個人名  「氏・姓・名・字・諱・諡」  「氏・姓・名」=家系(family name・last name・surname)          を表すのに使われる。  ↓↑  「氏(うじ・シ)」  「姓(かばね・セイ)」  血族や一族を表し  氏姓制度は上位権力による統制に利用  「名(な・ミョウ・メイ)」  中世で  田堵が自分の所領を区別して呼んだ名田に由来  ここから  「名字・苗字」が生じた・・・  「字(あざな・ジ)」  「渾名(あだな・とおりな・nick name)」  個人を特定するために通常使われる呼び名  「通名・元服前の幼名(おさなな)」もこれ  「諱(いみな・忌み名)」  元服によって附けられ、  本名(given name・first name)」とされ  本人が使う  これらを全て並べて用いることを  複名  徳川家康=源・朝臣・徳川・次郎三郎・家康  個人が死亡した後には  「諡(おくりな・贈り名・戒名)」  や  「謚号」が附く  徳川家康  神号・東照大権現  院号・安国院殿  道号・徳蓮社崇譽  名号・道和  位号・大居士  朝廷からの  正一位・大相國一品」が贈位 ーーーーー  ・・・「名の前(さき)」って「苗字」で「姓」・・・「前(まえ)の名」って、結婚前の実家の名・・・?・・・


 ・・・「かながき ろぶん=仮名垣 魯文=カナガキ ロブン)」・・・「仮名を垣根にした魯(愚・おろ)かな文?」・・・以前にも書き込んだ人物だが、「仮の名に、臥(ふせ)て記(しる)し」、「賂(まいなう・まいない・手蔓(づる)を通して人に贈る金品・貨賂・賄賂・金品を贈る・賂遺・賂謝・賄賂・たから(宝)・貨財・金品を人に贈る・こっそり金品を送って頼みこむ)」の「文(あや・もよう・いろどり・もじ・ブン・モン・ことば・文句・金文・邦文・文様・文質・文飾・文字・ことばの綴(つづ)ったモノ・文書・詩文・序文・本・記録・書物・書籍・文献・文庫・学問や芸術の分野・文化・文明・人文・文武・もん=単位を表す・貨幣の単位=一貫の1000分の1・たび(足袋)・くつ(靴・沓・履)などの大きさの単位・一文=2.4㎝)」・・・「仮名臥記賂(ロ)文」・・・「ロ音」の漢字、随分とアルな・・・  ロ=呂・絽・侶    梠(ひさし・軒)    莒・筥=円筒状の箱    閭=さと・むら・むらざと・あつまり・あつまる      周代で、二十五家の集まり      村里の門      周代で二十五家の集まりを「里」として、      その入り口の門を「閭」といった。    賂    輅=大車・くるま・天子の乗る車      車の「長柄=ながえ=轅」に縛(しば)りつけた横木      車を引くとき胸にあてる部分    盧・鸕    櫨=はぜ・はぜの木・ウルシ(漆)科の落葉高木      ますがた・柱の上に用いる四角い木      とがた    濾・蘆    魯・櫓・艪    路    蕗=ふき=葺き・附記    露    鷺=さぎ=詐偽・詐欺・茶木    炉    芦=あし・よし=蘆    録=さかん・とる・しるす・うつす=録音・6音=ラ      ロク=六=陸・・・・・ ーー↓↑ーー  仮(かり・カ)    =イ+反(厂又)  名(な・メイ・ミョウ)=夕+口  垣(かき・オン・エン)=土(十一)+亘(一日一)  魯(おろか・ロ・ル) =魚(刀田灬)+日  文(ふみ・あや・ブン)=亠+乂 ーー↓↑ーー  「炉火純青(ロカジュンセイ)」  「炉の火炎が純青になると温度も最高に達する。   転じて学問や技芸が最高の域に達すること   名人の域に達するたとえ」  ???・・・「純青色の炎=高温」・・・青色は熱い・・・  ↓↑  ・・・「仮名垣 魯文」=「野崎文蔵」・「字は能連(ノレン)・幼名は兼吉(かねきち・ケンキチ)、また庫七(くらしち)、後に文蔵(ブンゾウ)」・・・別号は、  鈍亭(ドンテイ)  猫々道人(ミョウミョウドウジン)  和堂開珍(ワドウカイチン)  英魯文(エイロブン)  戯作書太郎(ゲサクショタロウ)  野狐庵(ヤコアン)  俳号は  香雨亭応一(コウウテイオウイチ)  狂名は・・・・「眠狂四郎=ネムリキョウシロウ」  ↓↑     「野鵟=のずり」・・・「鵟=狂+鳥」         「夜鷹=よたか」  ↓↑     「鵟=のすり・キョウ・ゴウ」  斜月窗諸兄(シャゲツソウショケイ        シャヘツソウもろえ)」  ・・・「窓(宀八ム心)=まど・ソウ             =窗(宀八)+ 囱(ノ□夂)」・・・ ーー↓↑ーー  仮名垣 魯文 (かながき ろぶん)  江戸京橋の  魚屋・・・・さかなヤ・・・「魯=魚+日」                   日→曰・白  ↓↑    まな(真魚)ヤ  ↓↑    ↓↑        弘法大師-空海の        幼名は「真魚(まお・まいお・まな)        俗名は佐伯(さえき)        法名は教海→如空→空海        法号は遍照金剛        諡号は弘法大師(921年追贈)        尊称は弘法大師、空海上人        生地は讃岐国           多度郡           屏風浦(香川県善通寺市)        没地は高野山        宗派は真言宗        父は讃岐国佐伯直氏の長、佐伯-田公        弟は法光大師-真雅  ↓↑    甥は智証大師-円珍  に生まれた  商家に奉公  放浪生活ののち作家  万延元年(1860)・・・万(萬)が延す元の年(念=弐拾)  滑稽本『滑稽富士詣』・・・滑稽=コッケイ=酷刑  維新後  『西洋道中膝栗毛』・・・ひざくりげ=膝栗毛              膝を・・・類字は「漆(うるし)」              栗毛の馬の代用に旅をすること              徒歩旅行・旅  『安愚楽鍋』  など  開化期の  世相風俗を題材にした  神奈川県庁勤務後・・・神奈川県→「漢名・漢那・換名」撰懸  『横浜毎日新聞』の記者  『仮名読新聞』  『いろは新聞』を創刊・・・伊呂波  大新聞(おおシンブン・サイシンブン)に対し、  市井の雑報、・・・市井=いちい=一位・壱位・櫟・移知意  演劇界  花柳界の  ゴシップ(gossip)・・・陰口・うわさ話・世間話  ↓↑          (新聞雑誌にのる名士などに関する)              うわさ話              人のうわさをふれ回る人              おしゃべり(女)              金棒引き=金棒を突き鳴らして              夜警や警固などをすること              ちょっとしたことを              大げさにふれまわる人              金棒引き・露払い              (かなぼうひき・つゆはらい)              行列の先頭を金棒を突き鳴らしながら              歩くヒト  ↓↑          金棒を突き鳴らしながら夜警をする人  を中心に  編まれた  小新聞(ちいさいシンブン・コシンブン)に  再度(ふたたび)、・・・二旅  戯文を連載  際物作家  享年66歳・・・六拾六・・・陸足陸  ↓↑  仮名垣 魯文 (かながき ろぶん)  1829〜1894   (文政十二年〜明治二十七年)  ジャーナリスト  文明開化の世相を風刺  毒婦ものが大人気  本名  野崎文蔵  江戸生れ  1860年(万延元)  「滑稽富士詣」で売りだし、  明治維新後は  「西洋道中膝栗毛」  「安愚楽鍋(あぐらなべ)」  72年(明治五年)  敬神愛国などを謳った  三条の教憲発布の際、  山々亭有人(ありんど)と  「著作道書キ上ゲ」を上申、  以後 戯作者からジャーナリストへ転身  75年  「仮名読(かなよみ)新聞」を創刊  「高橋阿伝夜刃譚(おでんやしやものがたり)」  などの毒婦・悪婦ものを発表  ↓↑ 1829年 (文政十二年) 江戸大火 0才 1830年 (天保元年) 伊勢御蔭参り 1才 1837年 (天保八年) 大塩平八郎の乱 8才 1839年 (天保十年) 蛮社の獄 10才 1853年 (嘉永六年) 黒船来航 24才 1855年 (安政二年) 安政江戸地震 26才 1858年 (安政五年) 安政の大獄 29才 1860年 (万延元年) 桜田門外の変 31才 1862年 (文久二年) 生麦事件 33才 1863年 (文久三年) 薩英戦争 34才 1867年 (慶応三年) 大政奉還 38才 1868年 (明治元年) 鳥羽伏見の戦い 39才 1869年 (明治二年) 版籍奉還 40才 1871年 (明治四年) 廃藩置県 42才 1871年 (明治四年) 解放令 42才 1873年 (明治六年) 徴兵制布告 44才 1876年 (明治九年)   廃刀令 47才 1877年 (明治十年)   西南戦争 48才 1877年 (明治十年)   東京大学設立 48才 1882年 (明治十五年)  上野動物園開園 53才 1883年 (明治十六年)  鹿鳴館完成 54才 1889年 (明治二十二年) 大日本帝国憲法 60才 1894年 (明治二十七年) 日清戦争 65才  ↓↑  仮名垣魯文  かながきろぶん  生年月日・・・・?  1829年1月2日   ~  1894年1月2日  満65歳没  別号  鈍亭  猫々道人(みょうみょうどうじん)  コピーライターの元祖  ↓↑   仮名垣  魯文  (かながき ろぶん  1829年2月9日(文政12年1月6日)?   ~  1894年(明治27年)11月8日?  戯作者、新聞記者  江戸の京橋生まれ  本名は  野崎文蔵 字は  能連  幼名は  兼吉、また庫七、後に文蔵と改めた  別号に  鈍亭  猫々道人(みょうみょうどうじん)  和堂開珍  英魯文  戯作書太郎  野狐庵  俳号は  香雨亭応一  狂名は  斜月窗諸兄  ↓↑  京橋の  鑓屋町に生まれる  魚屋を営む父  野崎佐吉は、  星窓梶葉という号を持ち  俳句や狂歌を好み、  文蔵も戯文や小説を好んで育った  商家の丁稚となったが、  人相見に小説家になれば出世すると言われ、  18の年に  花笠魯介文京の弟子  1849年(嘉永2年)  19歳の時に名弘めの摺物  「名聞面赤本  (なをきいておもてあかほん)」  それに先輩の文人や芝居作家に  賛助の俳句や短歌を書いてもらったが、  最後に当時82歳の  滝沢馬琴に頼んで  「味噌揚げて・・・・・・・味噌=みそ=御園・見素?   作り上手になりたくば   世によく熟れし   甘口ぞよし」・・・甘口=あまくち・カンコウ               海女䪼  緘口・箝口・勘考                 䪼=出+頁                   頬骨(ほおぼね)                   両頬の突き出た部分の骨  との狂歌を贈られた。  自作の執筆の他に、  先輩の仕事の手伝い様々などをこなし、  生活のために  古道具屋を営み、  黒牡丹という  丸薬の販売も行った  ↓↑  1855年  安政の大地震で生き埋めになりかけた  三河屋鉄五郎という版元から  地震にかかわる  「安政見聞誌」の執筆を  十両で持ちかけられ、  渓斎英泉の弟子の  英寿が見て回った様子を  魯文が書いて、  原稿料を二人で折半  当時の後援者には、  榎本総助  高野酔桜軒  豪商の  勝田幾久  津藤香以山人  などがいた  同じ  香以山人の取り巻きである、  条野採菊(山々亭有人)  河竹新七(黙阿弥)  瀬川如皐  落合芳幾  其角堂永幾  らとも親しくした  ↓↑  巻物の  草双紙や  滑稽本数十を著し、  安政年間には名を為し  1860年(万延元年)  十返舎一九流の作品  『滑稽富士詣』  『荏土久里戯』  が出版出世作となる  ↓↑  筆名は初め  「英(はなぶさ)」  または  「鈍亭」  としていた  1873年(明治六年)  仮名垣魯文  師の魯と文の字を取って「魯文」  「仮名垣」は、  柳亭種彦の  『正本製』三編  『当年積雪白標紙』  の登場人物、  赤本入道仮名垣による  (歌川豊国による   入道の挿絵と   魯文の顔とが似ていたため)  山々亭有人たちと  三題噺のグループ  「粋狂連」を結成  ↓↑  明治  十返舎一九の  『東海道中膝栗毛』をもじって、  滑稽本の手法で、  福沢諭吉の  『西洋旅案内』  『世界国尽』  を種本にした  『西洋道中膝栗毛』、  続いて当時  牛屋と呼ばれた  鋤焼きの店を中心に当時の風物描いた  『安愚楽鍋』を書く  「八犬伝」  を小形読み本に引き直した  『仮名読八犬伝』  福沢の科学入門書  『窮理図解』  をもじった  『胡瓜遣(きゅうりづかい)』  さらに福沢を元にして  『西洋料理通』  『世界都路』  などを執筆、  明治維新によって  江戸以来の戯作文芸に批判的な風潮が生まれる中で、  プロの小説家として活動した数人のうちの一人となる。  その後も江戸式合巻で  『松飾徳若譚』  などを出版  ↓↑  1872年(明治五年)  教部省から  「三条の教憲」  が出され、  愛国や実学志向を  小説で表現するようにと命じられ、  条野採菊  と共に  「著作道書き上げ」  と称する文書を提出  ↓↑  新聞人  1973年  横浜に移って、  神奈川県庁に  月給二十円で勤める  並行して  『横浜毎日新聞』に寄稿  1974年  県庁を辞めて  横浜毎日社員の雑報記者となり、  翌年に  『読売新聞』  『平仮名絵入新聞』  と同じように  庶民向けの新聞として、自ら  『仮名読新聞』  を創刊  その後  書肆磯部屋などを  資本主として東京に移した  芸妓の内幕についての記事  「猫々奇聞」  が喜ばれ、新聞で劇評を載せたことの嚆矢  平仮名中心の紙面は、  後の口語体新聞の先駆け  魯文の続き物は  『花裳柳絮綻  (はなごろもやなぎのいとのほころび)』  『夜嵐於衣花仇夢  (よあらしおきぬはなのあだゆめ)』  などの実話小説となり、挿絵は、  猩々亭暁斎  を名乗った  河鍋暁斎が描いた  1979年  高橋お伝  の死刑があり、  魯文はこれを実話小説  「高橋お伝のはなし」  と題して  『仮名読』  に連載し、  『高橋阿伝夜刃譚』  として刊行  次いで  『いろは新聞』社長  1884年  『今日新聞』  創刊し主筆  ↓↑  晩年  玩物居士と号して  古仏像や仏具を蒐集  骨董にも鑑識眼を持ち、  書画会を催して収入を得た  1890年  文壇退隠  の  名納め会を開き、  所蔵する  書画、骨董、書翰等一千点を来会者に配った  その後  都々逸の選者をしたり、  狂歌や民謡を作る弟子の集まり  「いろは連」  を戯作者など47人で組織  劇通で 『歌舞伎新報』  でも記事を執筆  酒は少しで、  甘い物も食べず、  鰻、天麩羅、  ももんじ屋の猪肉が好物  芸妓を「猫」、  九代目  市川団十郎を「団洲」、  新史劇を  「活歴」  との  「呼び名付け」の親  ↓↑  1894年没  戒名  仏骨庵独魯草文居士  谷中の  永久寺に葬られた  ↓↑ 門人  二世花笠文京(渡辺義方)  採霞園柳香(広岡豊大郎)  胡蝶園わかな(若菜貞爾)  蘭省亭花時(三浦義方)  二世一筆庵可候(富田一郎)  野崎左文  斎藤緑雨  当時の  新聞小説家は  仮名垣派  と、  柳亭種彦の門流の  柳亭派  に二分  野崎左文の書いた  伝記「仮名反故」(『列伝体小説史』所収)がある  ↓↑  広告文案・キャッチコピー  を一万枚以上書いた  若い頃は  「案文誂所」  の看板を掲げていた  ↓↑  『魯文珍報』、  さらに絵師の  河鍋暁斎と組んで  『絵新聞日本地』  という日本初の  漫画雑誌を刊行  暁斎は魯文の  『安愚楽鍋』  の挿し絵も描いた  ↓↑  作品リスト  安政風聞集(1856年)  仮名読八犬伝(-1867年)  薄緑娘白浪(1868-1872年頃)  報讐殿下茶屋聚(1868年)  西洋道中膝栗毛(1870-1876年)  安愚楽鍋(あぐらなべ、1871年)    角書に「牛店雑談(うしやぞうだん)」  松飾徳若譚(1871年)  胡瓜遣(きゅうりづかい、1872年)    角書に「河童相伝(かっぱそうでん)  世界都路(1872年)  西洋器会(1872年)  倭国字西洋文庫 (やまとかなせいようぶんこ、  なぼれおんいちだいき、1872年)  蛸之入道魚説教(1872年)  黄金花猫目鬘(こがねばなねこめかずら、1872年)  三教則の捷径(さんきょうそくのちかみち、1873年)  佐賀電信録(1874年)  格蘭氏伝倭文賞(ぐらんどしでんやまとぶんしょう、1879年)  高橋阿伝夜叉譚(たかはしおでんやしゃものがたり、1879年)  葉武列土倭錦絵(はむれっとやまとのにしきえ、1886年)  毒婦の行末(1889年)  甲府地名くらべ(出版年不明)  ↓↑ ↓↑  仮名垣魯文  文政十二  (1829).1.6. 江戸   ~  1894.11.8. 東京  幕末~明治初期の  草双紙、滑稽本作者、新聞記者  本名  野崎文蔵  滑稽本  『滑稽富士詣』 (1860~61) で認められ  明治に入って  『西洋道中膝栗毛』 (70~76)  『安愚楽鍋 (あぐらなべ) 』  などの開化風俗を描く滑稽本の代表作家  1875年  『仮名読新聞』 (『かなよみ』)   を創刊  ↓↑  仮名垣  魯文  かながき‐ろぶん  1829~1894  幕末から明治にかけての戯作者・新聞記者  江戸の人  本名、野崎文蔵  別号、鈍亭など  開化の風俗を描いた  「西洋道中膝栗毛」  「安愚楽鍋(あぐらなべ)」  など  ↓↑  仮名垣 魯文  かながきろぶん】  戯作者。本名野崎文蔵。江戸生れ  別号,鈍亭,猫々道人(みょうみょうどうじん)  花笠文京の門に入り  初め  瓦版や流行歌などを書いた。  「滑稽富士詣」で戯作者として認められ  維新後  「西洋道中膝栗毛」  「安愚楽鍋(あぐらなべ)」  を発表して流行作家となる  ↓↑  仮名垣  魯文  かながき--ろぶん  1829-1894  幕末-明治時代の戯作(げさく)者  文政12年1月6日生まれ  万延元年(1860)  「滑稽富士詣」でみとめられ  明治四年  「安愚楽鍋(あぐらなべ)」  を発表  「仮名読新聞」  「いろは新聞」  を創刊  新聞小説の前身の  「続き物」にも腕をふるった  明治27年11月8日死去  66歳  ↓↑ 江戸出身  本名は  野崎文蔵  別号に  鈍亭など  ↓↑  「高橋阿伝夜刃譚  (たかはしおでんやしゃものがたり)」  など。  格言  「貧福は賢愚によらず。   天の然(しか)ら令(しむ)るところなり(「胡瓜遣」)  ↓↑  仮名垣魯文  生年は  文政12.1.6(1829.2.9)  没年は  明治27.11.8(1894)  江戸末期から明治初年の  代表的戯作者のひとり  本名は 野崎文蔵  別号  鈍亭  猫々道人  ↓↑  江戸京橋の魚屋に生まれた  幼少から奉公に出  その先で後年の  大通人細木(津国屋)香以の愛顧を受け  戯作好きをつのらせ  花笠文京に弟子入り  戯作者の道に  出世作は  万延1(1860)年刊  『滑稽富士詣』  この作では  十返舎一九の  『東海道中膝栗毛』  に倣いながら時勢をあてこみ  横浜の異国風俗までを盛り込んだ  『西洋道中膝栗毛』(初編1870年刊)  『安愚楽鍋』(初編1871年刊)  刊行  庶民レベルの文明開化の様相を表現  明治七(1874)年  『横浜毎日新聞』 の雑報記者  翌八年には自ら編集者として  『仮名読新聞』  を創刊  ↓↑  1829〜1894(文政12年〜明治27年)  文明開化の世相を軽妙なタッチで風刺  1860年(万延元)  「滑稽富士詣」で売りだし  明治維新後は  「西洋道中膝栗毛」  「安愚楽鍋(あぐらなべ)」  ↓↑  1872年(明治5)  敬神愛国などを謳った  三条の教憲発布の際、  山々亭有人(ありんど)  と  「著作道書キ上ゲ」を上申  以後戯作者からジャーナリストへ転身  1875年  「仮名読(かなよみ)新聞」 を創刊  「高橋阿伝夜刃譚(おでんやしやものがたり)」  などの毒婦・悪婦   ↓↑  仮名垣 魯文  かながきろぶん  (1829~1894)  戯作者(げさくしゃ)、新聞記者  文政(ぶんせい)12年1月6日  江戸京橋に生まれる  本名は野崎文蔵  別号は  鈍亭  猫々道人(みょうみょうどうじん)  花笠文京(はながさぶんきょう)の門に入り、  安政(あんせい)大地震のルポルタージュ  『安政見聞誌』(1855)  『滑稽富士詣(こっけいふじもうで)』(1860)  などの作品により、戯作者として認められ  明治維新後は、  十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の  『東海道中膝栗毛  (とうかいどうちゅうひざくりげ)』を模した  『西洋道中膝栗毛』(1870~1876)  を発表  弥次喜多(やじきた)の孫が  世界の田舎(いなか)者として  港々で失敗を演ずる  滑稽譚(こっけいたん)の趣向が評判をよんだ  牛鍋(ぎゅうなべ)  を楽しむ庶民の生態をスケッチし、  開化の風俗を活写した  『安愚楽鍋(あぐらなべ)』(1871~1872)  とともに魯文の代表作  1872年(明治5)  「三条の教憲」公布後  執筆を控えていたが、やがて  『仮名読新聞』  『いろは新聞』な どを創刊・主宰、新聞記者として活躍  新聞の続き物を  草双紙(くさぞうし)化した  『高橋阿伝夜刃譚  (たかはしおでんやしゃものがたり)』(1879)  明治戯作の復活を促した意欲作  明治27年11月8日没  ↓↑  雷門船橋屋の引札  浅草雷門内に店を構えた船橋屋  引札・・・口上  (ひきふだ・現在でいう広告チラシの類)  新しい菓子を  「吟味の上に工夫をこらし」作るので、  「御賑々敷(にぎにぎしく)   ご雷駕(らいが)ありて多少にかぎらず   御求(おもとめ)を主人(あるじ)に代りて願ふ」  と結んでいる  雷門と交流のあった文人  魯文は特に関わりが深かった  出店の引札や、双六などの景品・錦絵などにも  文を寄せた  明治時代になって魯文が発行した  『魯文珍報』などの雑誌の販売所として  同店の名前が見え、両者が長く親しくしていた  ↓↑  仮名読新聞  仮名垣魯文の筆による  「かなよみちんぶん(仮名読珍聞)」  ↓↑  ・・・内菓子屋 船橋屋の主人である伊東専三、  日本橋の羅沙問屋の息子で銀座の分店を持っていた  ↓↑  江東区亀戸三丁目、  亀戸天神のすぐ側  「船橋屋」  江戸は文化二年(1805年)  十一代将軍  徳川家斉の頃、創業  船橋屋初代の勘助の出身地は  下総国(千葉県北部)の船橋で、  当時、下総国は小麦の産地 ーー↓↑ーー  ディスリスペクト (dis-respect)  「リスペクト(respect)=尊敬・重視・敬う・重んじる」  の対義語で、  「不」の意味を示す接頭辞の  「ディス(dis-)」が  付されてできた言葉  「無礼・軽蔑・軽視」  「無礼なことを言う(為る)、 蔑む」  「愚(おろ)か・鈍い」  「魯鈍・愚鈍」  「血の巡りが悪い」  ↓↑  「魯」  「中国の周の時代の国の一つ   (紀元前1055年~紀元前249年)   周の   武王の弟である   周公旦(シュウコウタン)が   領地として与えられた国   山東省西南部   都は山東省   曲阜市」  ↓↑  「魯西亜(ロシア)=Russia=露西亜」  ↓↑  「魚」の象形(「魚」の意味だが、ここでは、  「鹵(ロ)」に通じ、  「役立たずの愚かな者」と日(口)の象形」 から「鈍い・愚か」を意味・・・  「鹵」=塩を産出する西方内陸部の塩鹹地     東方、沿岸部の塩鹹地     岩塩・鹵石 (ロセキ)     奪い取る・鹵獲・大型のたて     鹵簿     しお・しおち     アルカリ性の塩分を含んだ土地     地中から出る天然の結晶を鹵     海水からとったのを塩     岩塩     鹵(しお)=岩塩・海以外から採れる天然のしお     鹵(しおち)=塩分を含んだ土地            作物が育たない塩土・塩地     鹵獲(ロカク)  「粗鹵」=荒れ地・魯に通じて,おろか       粗末(そまつ)で役に立たないこと  「鹵(しお・ロ)」の類字は「歯(は・シ)」     ↓↑  「魯」=大雑把・間抜け  紀元前十一世紀  周の  武王が弟の  周公旦に与えた領地  都は山東省の  曲阜(キョクフ)  春秋時代から国勢は振るわず、弱かったが  周の文化を最もよく伝え  孔子を生んだ  前249年  「楚(ソ)に滅ぼされた  ↓↑  魯魚の誤り  書三度写せば  魯も魚となる  烏も焉、馬となる  魯魚亥豕の誤り  魯魚帝虎の誤り  魯魚章草の誤り  焉馬の誤り  烏焉の誤り  〔抱朴子 内篇・遐覧〕  似た字を書き間違えること  字を写し間違えること  焉烏(エンウ)の謬(あやま)り  亥豕(ガイシ)の誤り  虚虎(キョコ)の誤り ーー↓↑ーー  魯  周代の諸侯国の一   (前 1055~249)  山東省の  曲阜に都  周の  武王の弟の  周公旦が封じられたのに始る  任地の  曲阜におもむいて  魯侯となったのは  その子の  伯禽 (ハクキン)  以後  34代 800年あまり続いた  春秋時代  14代  隠公から  25代  哀公までのことは  孔子が編集したという  『春秋』やその注釈書の  『左伝』に詳しい  国内では春秋時代初期の  桓公の子の  三桓氏が代々交互に権力を握り  君主の廃立さえ行い  前6世紀後半の  昭公は  三桓氏に敗れて国外に逃亡  対外的には  斉、晋、楚  の3強国の勢力に左右されていた  戦国時代  弱小国  最後の  頃公 (ケイコウ) が  (前 249) 年  楚の  考烈王に滅ぼされた  周王の権力が低下した春秋時代に  周の文化や制度を保持し続けた国 ーーーーー  魯  間が抜けている。「魯鈍」  古代中国の列国の一。「魯論」  普魯西(プロシア)  魯西亜(ロシア) ーー↓↑ーー  ?~前249年  周武王の弟で,  周王朝創設の大功臣  周公旦を始祖  山東省曲阜に都  春秋時代には  12の有力諸侯の一つ  斉、晋、楚などの圧迫を受け  国内的には  第15代桓公から出た  孟孫  叔孫  季孫  の3氏が政治を壟断(ロウダン)  軍制、租税徴収なども掌握し  公室は衰え  戦国時代には小国に転落  前249年  楚に滅ぼされた  春秋末の  孔子はこの国の人  彼が編した  「春秋」によって  各諸侯国中  歴代君侯の在位年数が伝えられる唯一の国 ーー↓↑ーー  魯  周代の諸侯国の一  姫姓・・・・・「姫」は禹の姒姓と同祖で、          黄帝、帝嚳の別姓          嚳の子孫の          后稷黄帝の姓          足跡(あしあと)の意          姬=ひめ・キ・シン・イ=姫=女+臣(目)  周の武王の弟で、  周王朝創建の大功臣である  周公旦が・・・周(まわ)る公(おおやけ)の旦(あさ)         「旦=あさ・よあけ・タン・ダン            女にふんする役者・女形・オヤマ」  曲阜(キョクフ・山東省曲阜県)  周辺の地に封ぜられたのに始まる  ただし、  周公旦は都にとどまって  周王を補佐し、  長子の  伯禽(ハクキン)が・・・伯禽=白い猛禽=白鷹・白鷲・隼  封地に赴いた  その地はもと  東夷(トウイ)の地であり、  最初は統治に苦労・・・領土は塩分の多い荒れ地  春秋時代  斉(せい)、晋(しん)、楚(そ)  などの強国の圧迫を受け  その君主であった  桓(カン)公の子孫の・・・・桓武天皇?  孟-孫(モウソン)氏・・・・孟(たける)の孫(まご)  叔-孫(シュクソン)氏・・・叔(わかい)の孫(まご)              兄弟の序列「伯仲叔季」の三番目  季-孫(キソン)氏・・・・・季(すえ・おわり)の孫(まご)                   尾張の真語?  のいわゆる  三桓氏が  国の実権を握って  公室を三分し、  季孫氏の臣下の  陽虎(ヨウコ)・・・陽虎=ヨウコ=煬虎                 (煬帝=隋朝二代皇帝                     楊広)          「煬=内を好みて礼を遠ざく             礼を去りて衆を遠ざく             天に逆らって民を虐げる」  に実権を奪われた  その後、  孔子が君権の回復を図ったが失敗し、  戦国時代には国はますます衰え  紀元前249年  楚に滅ぼされた  春秋時代、  周の王室が衰えて以後、  魯は周の文化をもっともよく伝える国 ーーーーー  ・・・だから・・・ナニ・・・「仮名垣 魯文」・・・

ー↓↑ーー↓↑ーー  ・・・???・・・    ↓↑   ↓↑  「プラトン古事記をカタル(古事記字源)   +  (表紙・画像・音楽)」の   移転先・・・ https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12  ↓↑  ボクの「古事記字源」の発端・・・ https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/11  ↓↑  干支歴 http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html  ↓↑  現在の「ボクのHP」は「モウ君の総合目次」として  モウ君の総合目次 (bake-neko.net) http://meisiki.bake-neko.net/kkmokuji.htm  ↓↑  追加添文  「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」 https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB

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