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2016年・・・同根は「プチブル意識」って?

2022/07/26・火曜日・・・追加添文・・・

無差別「murderer」・・・「the death penalty」・・・

昨夜のNHK・・・

・・・「緒方貞子」さん・・・凄いなぁ~ッ・・・

配偶者 緒方四十郎

親族 犬養毅(曾祖父)

芳澤謙吉(祖父)

犬養健(大叔父)

緒方竹虎(義父)

 ↓↑ 

「はなせば、わかる」・・・の孫娘・・・

「はなしてもわからなヤツラには」・・・

 ↓↑

 犬養 毅

 1855年6月4日

 (安政二年四月二十日)

 ~

 1932年5月15日(76歳没)

      大運1924年4月(68歳)甲戌食神

 乙 卯(甲 乙)傷官・傷官 死⇔壬申比肩

 辛 巳(戊庚丙)印綬・偏財 絶⇔乙巳傷官

偏官・偏印・偏財

 壬┏子(壬 癸)  ・劫財帝旺⇔丙子偏財

 丙┗午(丙 丁)偏財・正財 胎⇔甲午食神

   寅卯空亡 虚宿      軫宿

 ↓↑

 備中国

 賀陽郡

 川入村

 (岡山県岡山市北区)

 慶應義塾中退

 (慶應義塾大学)

 統計院権少書記官

 所属政党

 (立憲改進党)

 (中国進歩党)

 (進歩党)

 (憲政党)

 (憲政本党)

 (立憲国民党)

 (革新倶楽部)

 立憲政友会

 称号 正二位

 勲一等旭日桐花大綬章

円満解決の背負う名・・・? 2016-06-15 17:39:43 | 古事記字源 ・・・「此処まで来たなら、それじゃぁ、シナリヲを云って聞かせやしょう。この際、Mさん、アンタは徹底的に悪役を演じなさい。自ミントウと公メイトウは徹底的に善人を演じなさい。そうすれば結果の選挙はナントかなるでしょう。アンタは後世にでも名誉を回復すればイイ。彼は大物の政治家だった、と再評価されるに違いない。カクさんとまでは云わないが、後世のお膳立ては、我々ジャーナリストがアンタの功績と、その執った立場との評価を記録として遺しておくから」、「それほど云うなら、私をトコトン責めて貰いましょう。幕引き後はヨロシクお願い致します」・・・「平成二十八年・1916年」の「丙申=ひのえさる・ヘイシン」の「猿芝居」・・・  富豪に成った成金も、権力の頂点を極めた立身者も、同根は「プチブル意識」である・・・そして、ボクもアンタも「エゴな意識」は同根かも・・・ ーーーーーー  「ウイッキペデア」から少々改作して抜粋、添付  「勾股弦の定理(Pythagorean theorem)   鉤股弦の法 a²+ b²=c²」の証明・・・背負う名・・・は「証明の仕方は何十通り~何百通りもある」らしい・・・だが「勾股弦=鉤股弦」の漢字の意味は「周髀算経」の「円=まる=丸」が前提の文字である・・・「髀(骨+卑)=バイ・ヒ・ヘイ=太もも・大腿・大腿骨」・・・「雞髀=正規には是=雞腿」、「雞髀、雖-然意思-正確、但也-不是-正規-寫法、正規-寫法-是-雞腿」・・・「髀」は「鶏(にわとり)の腿(もも)」・・・「骨は卑弥呼(卑彌呼)」、「雞=鶏=にわとり」は「隋書倭(イ+妥)人伝」の   ↓↑  「開皇二十年(600年)、   倭王姓-阿毎(阿部・阿倍)、   字多利思-比孤、・・・?字-多利-思-比孤   ↓↑          ウ-足 -思-比孤               烏(兎)=太陽と月の円周の                   比(毘・備・尾)拠                促 思 比較 円の弧               宿曜経の二十八(七)宿の足               ↓↑   ↓↑          宇多里火句・歌理引く?               討たれ彦→彦根城主、井伊直弼                    吉田松陰・久坂玄瑞                    江藤新平                    西郷隆盛・大久保利通                    板垣退助・伊藤博文・・・               ・・・歴史上は数限りなしだが、              高野長英・高橋景保・・・   ↓↑-----       浮世絵師の       うた+かわ       ↓↑       歌川 広重=安藤重右衛門=安藤広重             寛政九年(1797年)             ~             安政五年九月六日(1858年10月12日)       ↓↑       歌川 国芳=井草芳三郎             寛政九年十一月十五日(1797年1月1日)             ~             文久元年三月五日(1861年4月14日)         国芳が56歳の時に         四十七士の赤穂浪人が揃う忠臣蔵を         西洋画の技法で描こうとし         派手な見得を切る大石内蔵助ではなく、         実在の人物として         リアルに描こうとしたが、         派手な浮世絵を見慣れている人々にとって         写実的な肖像画は受け容れられず、         打ち切りとなった・・・   ↓↑-----   ↓↑             項垂れ比古・・・磔刑のキリスト                     山上の垂訓             字多の利を思う、とは・・・             うた・ウタ・宇多→石田三成の妻             正室の、            「皎月院(こうげついん)=うた」             で、その父親は            「宇多頼忠」・・・   ↓↑-----  ・・・「隋書倭(俀)国伝」であった・・・「俀=イ+爪+女」である・・・   ↓↑   號-阿輩雞彌    (あわきみ)」・・・・?阿波(安房・安和)の記視               「阿毎=あまい=阿倍                   阿交意」の輩の彌  「王妻-號-雞彌、・・・雞=にわとり=鶏                鶏の声を畏れた悔やんだのは               「ペテロ」である                ↓↑               「鶏鳴狗盗」の食客の                鶏の鳴き声で               「函谷関」の開門で                救われたのは               「孟嘗君=田文(デンブン)」                ?~紀元前279年                である                中国戦国時代の公族                戦国四君の一人                姓は嬀(女+爲・ギ)                氏は田、諱は文                田嬰は父親                ↓↑                天の岩戸の洞穴から                宇受女(猿女)の                ストリップと                鶏の鳴き声で                再生、蘇生したのは               「天照大神」である                ↓↑               「キリスト」死期の                三日目に生き返えった               「復活祭(Easter)」               「春分の日の                後の最初の満月の                次の日曜日に祝われる」                で                ダレが救われたのか?               「マリヤ・マリア・メリー」                である・・・   ↓↑   後宮有-女六七百人。   名-太子-為-   利歌彌-多弗利」・・・理科視-多不離(振り・付利)?  「其服飾、   男子-衣-裙襦、・・・訓従・訓需?   ↓↑        「裙襦=クンジュ」              裙=クン・も=衤(衣+君)                腰に巻く衣服・もすそ                スカート                「裙子(クンシ)」は                 坊主、僧侶が                 腰から下に                 まとう袴状の衣服」              襦=ジュ・したぎ・はだぎ                柔らかい下着                幼児のヨダレかけ                きめ細かいうすぎぬ               「襦=衣(衤)+需                繻=衣(衤)+需   ↓↑           襦袢(ジュバン)   其-袖-微小、   履-如屨形、   漆-其上、繁之於腳。・・・漆(うるし・シツ)   人庶多-跣足。   不得用-金銀-為飾。   故時-衣-膻幅、結束-相連-而無縫。   頭-亦-無冠、   但-垂髮-於-兩耳上」・・・・両耳の上に垂れるカミ  「至隋、   其王   始制冠、・・・・・・・・・・十二冠位(重似換意?)   以錦綵為之、   以金銀鏤花為飾。   婦人-束髮-於後、   亦-衣-裙襦、裳皆有○。   攕竹為梳、・・・・・・梳=けずる   編草為薦。・・・・・・・・・草を編み薦(こも)と為す                 草子(双紙)を編集して                 菰(こも)と為す?                 日下(日の下)の弧摸?   雜皮為表、・・・・・・・・・覚通比を表と為し?   縁以文皮。・・・・・・・・・附置を以て                 文の掛和(化和・比)とす?   有   弓、矢、刀、矟、弩、欑、斧、   漆皮・・・・・・・・漆(うるし・シツ)の             皮(かわ・ヒ)→掛和の比(秘)   為   甲、・・・・・・・・甲斐・甲府・山梨→纂無し                   算の利の十八                   2・9=18                   3・6=18   骨   為   矢鏑。・・・・・・・鏑矢(かぶらや)鏑=金+啇                化部等             鏑=金+啇                啇=ねもと・かな(適)う                  つ(摘)む                  テキ・チャク                  匹敵・正統・本妻                  嫡=相手・跡継ぎ                  敵=かたき                啇(啻)=帝+口?・・・                    帝=𠫦=ム+冖巾                    帝は祭壇のテーブル                啇=立冂古                  亠‖(=の縦)冖十口                を祭る適切な者                帝を祭る者                適当   雖有兵、・・・・・・・・・雖=いえども~・ただ・スイ                  虽+隹                  雖(いえど)も、                  猶(な)ほ、                  或(ある)ひは~でアル   無征戰。・・・・・無征戰=侵略(征討)戦争は無い?                戦後70年間の日本?   其王朝會、   必陳設儀仗、   奏其國樂。・・・・演奏して「其-國」は楽しむ、でアル   戸可十萬」・・・・トは「十萬」なる可(べし・べき)   ↓↑       冪(ベキ)=べき乗=累乗            数学における冪乗(ベキジョウ)   ↓↑       A²+B²=C²・・・小文字の数字 ーーーーー

 ピタゴラス数を面積及び長さの比で表した図  青は m²-n²、  黄は 2mn 、  赤は m²+n²  右上の矢印の先で  青の長方形の  右の辺の延長線  並びに  赤と青の  円弧が交差していることで、  面積  及び  長さの比が  直角三角形の  三辺の比として  成り立っている   ↓↑

 数1に相当する長さを定め  ピタゴラス数の関係を長さで表した図  ピタゴラス数を表現する長さが  直角三角形(桃色)の  三辺として成り立っている  赤矢印が示す交点一致 ーーーーー  ・・・理屈の「背負う名」、「証明の理屈」・・・「龍宮城スパホテル三日月」は「満月」ではなく、「三日月」・・・この「三日月の弧の長さ」を「背負う目異」で「証明」せよ・・・?



 ・・・「日本の高校生が「殻無しの卵からヒナを誕生」させた!千葉県の高校生物部の研究が世界で話題に」・・・「カミさま」の「ワザ」であるカナ・・・復活・・・「太陽黄経15°→三月節→清明→4月4~5日」・・・   ↓↑ http://youpouch.com/2016/06/15/361839/ ーーーーー ・・・鶏(にわとり・ケイ)の卵(たまご・ラン)からの孵化・・・「鮒(ふ)椄(っ・殱)掛(か)通(つ)差(さ)異(い)」・・・復活の差異?・・・フッカツサイ・・・  「Ego」の始まりは「egg」・・・?  「殲=つくす・ほろぼす・セン・殺しつくす・滅ぼす・殺し尽くす・皆殺し・殲滅」・・・「殱」は俗字・・・  「歹(もとる・カツ・ガチ・いちたへん・かばねへん)」   +  「韱(やまにら・セン・人人韭戈)」・・・韭=にら=韮      「韭=非+一」→韭→业→並→丵(ほる・はり・サク)                业→並→丵                    丵(削)岩機  ・・・繊維(糸+韱+糸+隹)、「より糸」の象形+「刃のついた矛の象形と人の象形(みじん切りにする)と、地上に群がり生え揃った、韮(にら)の象形」、「微塵(みじん)切りにしたような山韮(やまにら)」から、「細く弱々しい糸」の意。  「繊維」の「繊=糸十业戈」は「纖=糸人人非一戈」の略字・・・  「籖(くじ・セン)=かずとり・数をかぞえるときに使う棒           「宝籤・抽籤・当籤・便箋(籤)」、           「籖」は「籤」の俗字・・・           「人人」→「十」   ↓↑  「キリスト」死期の  三日目に生き返えった  「復活祭(Easter)」  「春分の日の・・・・・・・・・3月20-21日後   後の最初の満月の・・・・・・の満月(十五夜)の   次の日曜日に祝われる」・・・次の日曜日・・・?   ↓↑  「春分(vernal equinox)」  は、  「二十四節気の第四」  「昼の長さと夜の長さがほぼ等しくなる」  実際には昼の方が14分ほど長い   ↓↑  旧暦(陰暦)二月の内  定気法  太陽が春分点を通過した瞬間  太陽黄経が0度となったとき  暦ではその瞬間が属する日  春分日(春分の日)  その国・地域の時差によって  1日の違いが出る  日本では  3月20日、  または  3月21日  になることが多い  恒気法では  冬至から  1/4年(約91.31日)後の  3月23日ごろ  期間としては  この日から、  次の節気の  「清明」前日まで  西洋占星術では  春分は  白羊宮(おひつじ座・牡羊座)の始まり  ↓↑  二十四節気  当初、  冬至を計算の起点にして、  1太陽年を  24等分した  約15日ごとに設けられた  これを  平気法や恒気法または時間分割法という  地球の軌道は  円ではなく  楕円であるため、  太陽の黄道上での  運行速度は一定ではなく  中国では  清朝の時憲暦から、  日本では  天保暦から、  黄道の春分点を起点とする  15度ずつの24分点に分け、  太陽がこの点を通過する時を  二十四節気とすることにした   ↓↑  太陽黄経  ↓↑ 季節 節月 グレゴリオ暦 日本   中国  315°春 一月節 立春 2月4-5日  2月4日  2月4日  330°一月中 雨水 2月18-19日 2月19日  2月19日  345°二月節 啓蟄 3月5-6日  3月5日  3月5日  0° 二月中 春分 3月20-21日 3月20日  3月20日  15° 三月節 清明 4月4-5日  4月4日  4月4日  30° 三月中 穀雨 4月20-21日 4月20日  4月19日  45° 夏 四月節  立夏 5月5-6日 5月5日 5月5日  60° 四月中 小満 5月21-22日 5月20日 5月20日  75° 五月節 芒種 6月5-6日  6月5日 6月5日  90° 五月中 夏至 6月21-22日 6月21日 6月21日  105°六月節 小暑 7月7-8日  7月7日 7月7日  120°六月中 大暑 7月22-23日 7月22日 7月22日  135°秋 七月節 立秋  8月7-8日  8月7日 8月7日  150°七月中 処暑 8月23-24日 8月23日 8月23日  165°八月節 白露 9月7-8日  9月7日 9月7日  180°八月中 秋分 9月23-24日 9月22日 9月22日  195°九月節 寒露 10月8-9日 10月8日 10月8日  210°九月中 霜降 10月23-24日 10月23日 10月23日  225°冬    十月節 立冬 11月7-8日  11月7日 11月7日  240°十月中 小雪 11月22-23日 11月22日 11月22日  255°十一月節 大雪 12月7-8日  12月7日 12月7日  270°十一月中 冬至 12月21-22日 12月21日 12月21日  285°十二月節 小寒 1月5-6日   1月6日 1月6日  300°十二月中 大寒 1月20-21日  1月21日 1月20日   ↓↑  イースター島  火山島  現地語名は  ラパ・ヌイ(ラパ・ヌイ語: Rapa Nui)  正式名は  パスクア島(スペイン語: Isla de Pascua)  「Pascua」はスペイン語で  復活祭(イースター)  モアイの建つ島  ポリネシア・トライアングルの東端  最も近い有人島まで  直線距離2000km余  周囲には島が存在しない絶海の孤島 南緯27度7分  西経109度22分  「ラパ・ヌイ」とは  ポリネシア系の先住民の言葉で  「広い大地(大きな端とも)」  かつては、  「テ・ピト・オ・ヘヌア(世界のへそ)」  「マタ・キ・テ・ランギ(天を見る眼)」  などと呼ばれた  名前は、  19世紀の後半に実際に島に辿り着けた  ポリネシア人が付けたもの・・・  1722年4月5日(享保七年二月二十日)  壬寅(己・丙・甲)  甲辰(乙・癸・戊)  乙亥(戊・甲・壬)  日曜日  先負  復活祭(イースター)の夜、  オランダ海軍提督  ヤーコプ・ロッヘフェーン  が発見  1000体を超えるモアイと、  火を焚き地に頭を着けて祈りを捧げる島人の姿  を目の当たりにする  1774年  イギリス人探検家の  ジェームズ・クック  が上陸  島のモアイの半数ほどがまだ直立していた  伝承では  1840年頃に最後のモアイが倒された・・・  「北海道・蝦夷地」が描かれていない日本地図

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 「イースター島」の地図は「北海道・蝦夷」の形、魚の「カスベ・エイ」に似ている・・・  ↓↑  「復活」で   ダレが救われたのか?  「マリヤ・マリア・メリー・メアリー」  である・・「お雪(マリア)」は・・・「ウイリアム・アダムス(三浦 按針)」の妻で「馬込勘解由」の娘であった・・・  ↓↑  ウィリアム・アダムス(William Adams)  1564年9月24日~1620年5月16日(元和六年四月二十四日)  甲子       三合壬    庚申(傷官)  癸酉(傷官・食神)三合辛    辛巳(食神)  己卯       支合丁    壬戌(正財)  木曜日      土曜日    仏滅       大安  ↓↑  江戸時代  徳川家康に外交顧問として仕えた  イングランド人航海士・ 水先案内人・貿易家  三浦 按針(みうら あんじん)  ↓↑  生誕 1564年9月24日  イングランド王国・ケント州・ジリンガム  1620年5月16日  肥前国平戸(長崎県平戸市)で死没  配偶者 お雪(マリア)  ↓↑  12歳  ライムハウスに移り、  船大工の棟梁  ニコラス・ディギンズに弟子入り  1588年に奉公の年限を終え  海軍に入り  フランシス・ドレーク  の指揮下にあった貨物補給船  リチャード・ダフィールド号の船長として  アルマダの海戦に参加  1589年  メアリー・ハインと結婚  娘デリヴァレンス  息子ジョン  を儲けた  バーバリー商会ロンドン会社  の航海士・船長として  北方航路やアフリカへの航海  ↓↑   ロッテルダムから極東を目指す航海のために  ベテランの航海士を募集  弟の  トマスら  と共にロッテルダムに渡り志願  航海は5隻からなる船団で行われた  ↓↑  リーフデ号の航海  ホープ号(希望・旗艦)  リーフデ号(愛)  ヘローフ号(信仰・ロッテルダムに帰還した唯一の船)  トラウ号(忠誠)  フライデ・ボートスハップ号(良い予兆・陽気な使者)  ↓↑  司令官  ヤックス・マフは  アダムスをホープ号の航海士として採用  1598年6月24日  ロッテルダム港を出航  ↓↑  マゼラン海峡を抜けるまでは  ウィリアムとトマスの兄弟は  リーフデ号に配置転換  トマスが最初乗船していた  トラウ号は  東インド諸島でポルトガルに拿捕  フライデ・ボートスハップ号は  スペインに拿捕  ヘローフ号はロッテルダムに引き返した  生き残った2隻で太平洋を横断中  ホープ号沈没  極東に到達目的を果たしたのは  リーフデ号1隻  食糧補給のために寄港した先々で  赤痢や壊血病が蔓延  インディオに襲撃され  トマスは殺害  出航時に110人  日本漂着までには24人  ↓↑  1600年4月29日(慶長五年三月十六日)  三合会局水・壬(正財)←己卯  庚子(傷官)刑←己卯  庚辰(傷官)害←己卯  庚申(傷官) ←己卯  土曜日  赤口  リーフデ号は  豊後臼杵  黒島に漂着  臼杵城主  太田一吉の出した小舟で日本上陸  太田は  長崎奉行の  寺沢広高  に通報し  寺沢は  アダムスらを拘束  船内の  大砲や火縄銃、弾薬などの武器を没収  大坂城の  豊臣秀頼  に指示を仰いだ  この間に  イエズス会の宣教師たちが訪れ、  オランダ人やイングランド人を  即刻処刑するように要求  ↓↑  五大老首座の  徳川家康が指示し、  重体で身動きの取れない船長  ヤコブ・クワッケルナックに代わり、  アダムス  ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン  メルキオール・ファン・サントフォールト  らを大坂に護送  併せて船も回航  ↓↑  5月12日(慶長五年三月三十日)  家康が彼らを引見  イエズス会士の注進で  リーフデ号を海賊船だと思い込んでいた  家康だが、路程や航海の目的、  オランダやイングランドなど  プロテスタント国  と  ポルトガル・スペインら  カトリック国との紛争の説明を  アダムスとヤン=ヨーステンから訊いて  誤解を解き  しばらく乗組員たちを投獄したものの、  処刑を要求する宣教師らを黙殺し、  幾度かにわたって引見した後に釈放し、  江戸に招いた  ↓↑  三浦按針  アダムスは帰国を願い出たが、  家康は米や俸給を与えて慰留し、  外国使節との対面や外交交渉に際して  通訳を任せたり、・・・・?この時期、アダムスは  助言を求めたりした・・・日本語は理解してたのか?              英語を理解出来る日本人は?              通訳は英語と日本語を理解する              スペイン人orポルトガル人?  ↓↑  この時期  幾何学や数学  航海術などの知識を  家康以下の側近に授けた・・・「幾何学・数学」でアル  1602年頃  日本橋  大伝馬町の名主で  家康の御用商人でもあった  馬込勘解由の娘、・・・・・・「馬込勘解由」でアル  お雪(マリア)と結婚・・・・「雪=マリア」でアル  彼女との間には、  息子、ジョゼフ(ヨセフ)・・「Joseph・寄せ附」?  娘、スザンナ(スーザン)・・「Susan・数得算」?  が誕生  ↓↑   江戸湾に係留されていた  リーフデ号沈没  ↓↑  家康の  西洋式の帆船建造の要請で  アダムスは、当初は固辞したが  伊東に日本で初めての  造船ドックを設け  80tの帆船を建造・・・・・・八十遁?  1604年(慶長九年)に完成  家康は更に大型船の建造を指示  1607年  120tの船舶を完成  この船は  1610年に  房総の御宿海岸で遭難し  地元民に救助された  前フィリピン総督  ロドリゴ・デ・ビベロに  家康から貸し出され、  サン・ブエナ・ベントゥーラ(幸運)号  と名付けられた  ↓↑  慶長十八年(1613年)  慶長遣欧使節  仙台藩主  伊達政宗が  フランシスコ会宣教師  ルイス・ソテロを正使、  支倉常長を副使として、  スペイン国王  フェリペ3世  ローマ教皇  パウルス5世のもとに派遣  1611年12月2日(慶長十六年十月二十八日)  慶長三陸地震・津波  2年後の  1613年に  「月の浦」から  サン・ファン・バウティスタ(洗礼者)号が出帆  ↓↑  スペイン人の  ビスカイノ提督の協力で  陸奥国領内  「桃生-水浜」で建造した  ガレオン船(西洋型軍船)  サン・ファン・バウティスタ(洗礼者)号  約500トン級  ↓↑  「伊達貞山治」家の記録に  建造船に関して  将軍  秀忠付きの船手頭  向井忠勝から  御内衆や  公儀大工が派遣された・・・アダムスが1607年に               120tの船舶を完成させた時の               船大工か・・・?  ↓↑  家康は、  アダムスを  250石取りの  旗本に取り立て、  帯刀を許し  相模国・・・・・・「さがみに、かみにかみて(古事記)」  逸見(へみ)・・・「逸=それる・はやる              ある場所からさっと抜け去る              逸出・逸走・後逸              横にそれて逃れる              抜けて見えなくなる              逸脱・散逸              世間に知られていない」           「逸事・逸聞・逸話・逸文」を見る  に采地も与えた  三浦按針の名乗りを与えられ、  日本の武士となった  のち、  所領は息子の  ジョゼフが相続し、  三浦按針の  名乗りも  ジョゼフに継承された  ↓↑  1613年  東インド会社の  クローブ号・・・・クローブ(Clove)=フトモモ科の           植物チョウジノキの開花前の           花蕾を乾燥させた香辛料の名           原産地はインドネシアのモルッカ群島           漢名=丁子(ちょうじ)              丁香(ちょうこう)  が交易を求めて日本に来航  一行に付き添い、  家康らとの謁見を実現させ、  貿易を許可する  朱印状を取りつけるなどの手助けをした  1614年  クローブ号帰還の際には、  一緒に帰国できる許可が  日英両方から出たが、  同船司令官  ジョン・セーリス  と「馬が合わず」、帰国を見送った  セーリスは何事も  日本式のアダムズが気に入らず、  アダムズは  セーリスを  無礼な青二才として嫌っていた  一行が去ったあとは、  それまで手伝っていた  オランダ商館から  母国  イギリス商館に移る  ↓↑  1616年(元和二年)4月  家康死亡  徳川秀忠が将軍  貿易を  平戸のみに制限  按針の立場は不遇となり  按針の役目は  「天文官」だけとなり、・・・・「天文官」に専念でアル  幕臣や次期将軍候補の  徳川家光らに  警戒されながら、・・・・・・・・「?」  1620年5月16日(元和六年四月二十四日)  平戸で死没  享年55歳  ↓↑  「鈴木かほる(?)」氏によれば、  徳川家康が  ウィリアム・アダムスを  外交顧問として雇用した理由は、  自領の関東  浦賀湊に  スペイン人鉱夫を招聘し、  スペイン領メキシコで行われている  画期的な  金銀製錬法  「アマルガム法」を導入するためであり、  その交渉に  アダムスをあたらせたという新説・・・  その理由として、  アダムスは家康と謁見した際、  日本との  通商を請うたにもかかわらず、  オランダとの通商が成立したのは  アダムスの日本来航から  9年後の  慶長十四年(1609年)七月  アダムスの母国  イギリスとは  慶長十八年(1613年)八月で、  スペインのように  家康からの働きかけではなく、  両国の  東インド会社の使節が派遣され  アダムスの斡旋により成立  家康にとっては受け身で  家康が浦賀湊の入港を指定したのは  スペイン商船のみで、  そのために  三浦郡  浦賀邸  と  逸見村  の采地を与えた  浦賀湊に  スペイン商船が入港する都度、  西国から商人が浦賀に急行し、  浦賀は国際貿易港として賑わっていた・・・  ウィリアム・アダムス  の  マニラ(スペイン領)交渉により  浦賀フランシスコ修道院が建立され、  江戸の修道院とともに  関東における  キリスト教伝播の起点となった  ウィリアム・アダムスが  外交顧問としてその本領を発揮したのは  このマニラ渡海である・・・ ーーーーー  ・・・カラの無いタマゴの復活・・・


 ・・・昨日のNHKの「歴史秘話ヒストリア」の「群馬県の保渡田八幡塚古墳(ほどたはちまんづかこふん・八幡塚古墳、二子山古墳、薬師塚古墳の3つの前方後円墳が集積する古墳群)」、古墳は九州と畿内など、「江田-船山古墳(熊本県玉名郡和水町(旧菊水町)・清原(せいばる)古墳群の中で最古・最大の古墳・日本最古の記録文、75文字の銀象嵌銘をもつ大刀が出土」を調べてはいたが、関東や群馬の古墳には疎かった・・・スゴイね、古墳の現代的復元保存。火山灰にウヅまっていたのを復元ですか・・・いつの時代の火山灰なんだろう・・・「約1,500年前の豪族が葬られた墓」・・・「埴輪(はにわ)の顔」は柔和で、優しい・・・「縄文土器」には「自然の激しさの動き」を感じるモノもあるが・・・「彌生時代」の「はにわ」や「え」は概(オオムネ)が静止的である・・・  兎に角、「字通部通(じつぶつ)」よりも、「実物(ジツブツ)」を目で確認した方がイイだろうが、それらの情景の「理解説明」は個々人のイメージと、個々人の「認識知識の経験範囲」で様々であろう・・・「事実」を知る為には「タイムマシン」が必要であるが、ムリだろう・・・やっぱ「文字での情報説明」が欲しいが、「文字」以前は「遺された遺物の形(形象)での情報伝達」であろう・・・  それでも、現在は「視覚と聴覚」の「ビデオ(YOU-TUBE)」での情報であるが・・・「有得註部」であるカナ・・・  ボクにとって「草書」では「漢文」でも「和文」でも、「和漢混交文」でも解読が難しい・・・  「草稿の原本(原稿)」は「草書」で、「校正本」は「楷書」で印刷・・・「楷書写本」では「草書の書き手の意味」が「異字体漢字(形態は相似)」だったモノが「楷書の漢字転換」で異なったの意味の「楷書文字」になる・・・  「楷書」でも「細かい漢字」は老眼になってしまっては「読み辛い」から「ヨメない」・・・でアルなッ・・・「滝沢馬琴」さん・・・   ↓↑  「南総里見八犬伝」の  「曲亭馬琴=滝沢馬琴=瀧澤興邦   幼名、春蔵、倉蔵   通称、左七郎、瑣吉(さきち)   号に著作堂主人     笠翁(リツオウ)     篁民(コウミン)     蓑笠漁隠(サリツギョイン)     飯台陳人(ハンダイチンジン)     玄同(ゲンドウ)など   明和四年六月九日(1767年7月4日)   ~   嘉永元年十一月六日(1848年12月1日)   長女  「幸(さき)」の   婿養子は、   吉田新六(清右衛門)   ↓   67歳の馬琴   右眼を失明   左眼もかすむ   73歳で失明   ↓   息子の  「宗伯」の妻の  「お路」が口述筆記   馬琴の妻の  「お百(会田氏の娘)」が嫉妬  「お百」は   天保十二年(1841年)に死没   子供   幸、祐、興継(宗伯)   渥美氏に嫁した   鍬   嫁は   興継の妻   「みち(土岐村路)」   その子供に   太郎、つぎ、ちさ   ↓   馬琴のペンネームは  『十訓抄(野相公=小野篁)』  「索婦詞」  の一節  「才非馬卿弾琴未能  (才、馬卿(司馬相如)に非ざれば、   琴を弾くこと未だ能わず)」  から」採用した・・・とか・・・  ・・・「侖(liuan-luan、リン-ロン)」が「短冊を揃えた」から「そろえたモノ」の象形文字ですか・・・なるほど「倫理・倫敦」は人間関係、「論理・言論」はコトバの関係、「告諭(喩)・揶揄・愉快」は気持ち、「経綸」はお経の教え・「車輪・競輪」はクルマの両輪の関係・・・「音符」に相当する漢字と、意味の類別を表す「意符」が組み合わさった「形声文字」が形成され、一文字漢字の「音素・単音」の漢字が少ない・・・秦の始皇帝が「字体統一」・・・   ↓↑  亀甲獣骨文字(甲骨文字)→金文文字(青銅器などへ刻文)    小篆    ↓   →篆書体文字    →隷書文字     →草隷(隷書の走り書き、崩し書き文字)      →楷書(隷書を直線的に書いた文字)       →行書(楷書の崩し書き文字)        →則天文字(則天武后の創作文字)         →宋朝体(木版技術の楷書の印刷書体)          →明朝体文字          ↓↑  歴代王朝の科挙試験、国家組織では  「正字=楷書」漢字だったが、  一般庶民では「通字」や「俗字」と呼ばれる漢字が使われた・・・   ↓↑  「説文解字」  最古の  部首別漢字字典  後漢の  許慎(キョシン)の著作  和帝  永元十二年(西暦100年)成立  建光元年(121年)  に許慎の子の  許沖(キョチュウ)が  安帝に奉った  本文十四篇  叙(序)一篇  の十五篇  小篆の見出し字  9353字  重文(古文・籀文および他の異体字)  1163字   ↓↑  漢字書体  篆書・隷書・草書・行書・楷書  楷書の印刷書体=明朝体          ↓↑     →片仮名(日本)文字     →平仮名(日本)文字     →国字の漢字(日本)文字・・・     →常用「新漢字」文字 ーーーーー  ・・・「日本の文字」は「江戸時代~明治」の知識人の脳ミソを踏まえる必要があるのでは・・・?  「ロウガン」から・・・また、とんでしまった、「バキン」さん・・・楷書漢字の「かくりつ=確立=化句理通(椄)?」・・・そして「日本の国字は約1,500」・・・   ↓↑   「卑彌呼」と「壹與」・・・  「倭人」は「俀人」、「和人」、「日本人」になったのか?・・・   ↓↑  「麻氐(弖)良布(須)・・・草書では「布と須」は類似  (まて   らふ(す)   アサテラフ=あまてらす   アサテラス)」神社  「朝倉・浅倉・麻倉=あさくら」神社・・・   チョウソウ・センソウ・マソウ・・・字句等・・・?   ↓↑  「卑弥(彌)呼」=「俾彌呼(三国志・魏書帝紀)」           「卑・鬼」→「甶(フツ)                  囟(ひよめ・シン)」                  は                  写本版本には「田」                 「囟」は頭蓋骨                  細思偲鰓などが類字漢字             卑=甶+ノ+十               鬼卑胄冑甹               由+ノ+十               曳             卑=ノ+田+ノ+十               畀界異里畠雷               苗葍奮番               冨富(とみ・フ)               當(あてる・トウ・当てる)               罍(もたい・ライ・酒樽・酒壜)               纍(つづる・ライ・ルイ・累)               翼               胃甼男毘累勇               思(恩)=因+心→囟=心?                 (原)因+心  「おど」=「入江」=「へそ(毘・𦜝)」・・・  「日向(ひゅうが・ひむか)」・・・  「夜須=やす=安=靖=野洲=康」・・・靖国神社? ーーーーー  本を読むよりも個々人の脳ミソにとっては「youtubeの映像と音声」が手っ取り早いカモ・・・  ↓  草書体で解く邪馬台国の謎(井上悦文 久留米地名研究会) https://www.youtube.com/watch?v=U1D0EURZBpY  ↓↑  歴史探訪・邪馬台国を追って (ハイビジョン編集) https://www.youtube.com/watch?v=yetoX6MC63U  ↓↑  保渡田古墳群(群馬県高崎市) https://www.youtube.com/watch?v=RkxLxVRI358  群馬県  榛名山の南麓の  保渡田・井出の地  ↓↑  八幡塚古墳  前方部前面の  中堤上に  円筒埴輪列で方形に区画された部分から  人物類、  ウマ(馬)  ニワトリ(鶏・雞)などの家畜  イノシシ(猪)  水鳥(鵜・鸕・鴨)  狩猟鳥獣の  形象埴輪が出土  ↓↑  保渡田・・・・・・・・・保(たもつ・ホ)              渡(わたる・ト)  ↓↑          田(た  ・デン)  八幡塚古墳  鵜(鸕)形埴輪が出土  首を高く上げ  口に  魚を・・・・・・・・作掛名・・・うお・まな→真名=漢字  銜(くわ)え、・・・句和得  首に  鈴のついた  首紐(くびひも・シュチュウ)  が付けられた  鵜(う・鸕)の姿  鵜(鸕)を用いて  川漁を行う鵜飼は  文献史料では  古代中国の  「隋書」  「古事記」  「日本書紀」  などに記録・・・「銅鐸(袈裟襷文銅鐸・伝香川県出土)」           にも描かれている足長の鳥

 ↓↑  二子山古墳・・・・・・二語・二古・弐語・双子             ふたご=双生児=創生異字  墳丘部が三段築成  周濠は  馬蹄形で  二重  内濠部に  後円部を囲むように  くびれ部  斜面側後方部分に中島を4基配置  墳丘・中島・中低部とも  川原石で  葺石としている  埴輪円筒列を巡らしている  丘北側の中堤部分の一角から  外濠西北隅の外側部分に  人物埴輪  飾馬(馬具を装着した馬)  猪(いのしし)  犬(イヌ・狗・戌)  盾(たて)  蓋(きぬがさ)  家(いえ)  などの  形象埴輪を・・・・情報物体を  配置した・・・・・葉位置(意知)  区画・・・・・・・くかく・クガ  ↓↑  薬師塚古墳・・・・ヤクシジ→訳詞字  天和三年(1683年)  発掘されたとされる  凝灰岩製の  舟形石棺・・・・・ふながた・ふねがた→附音臥他  (長さ2.9メートル)  が  後円部頂部に保存  その時に出土した  仿製(ボウセイ)内行花文鏡  鋳銅製馬具類  玉類が  西光寺に伝来・保管

ーーーーー  ・・・「邪馬台国」、「邪靡台国」、「邪馬臺国」、「邪馬壹(壱)台国」・・・記録的には「銅鏡」だが、「銅鐸」の記録は無い・・・「銅鐸」は「さなぎ(蛹・佐名木・真木・佐薙・佐柳)=かいこ(蚕)=さらぎ(蛇穴・沙羅祁・沙良祇・佐良ぎ・咲良ぎ」と呼ばれていたのカモ・・・  「大仏=大佛(だいぶつ、おさらぎ)」とは、「若木」=「大仏」で、「おさなぎ」→「おさらぎ」になった・・・  「オホ(大)サラギ(新参者)」であった・・・  寺院に関係しない「山の斜面」などに散見される地名のひとつ。  大和言葉の「オホ(大)ソレ(焼畑)キ(場所)」の変化で、山地の焼畑のあった場所を指す言葉が転じた・・・  「大仏(だいぶつ、おさらぎ)」は、日本各地にある地名・・・  「ほのか(かすか)」、 「物事の正しい道筋」・・・  「煩悩の 結び目を「解く=ほどく」という意味から・・・  あるいは仏教が伝来した欽明天皇のときに  「ほとほりけ(ホトボリ気)」、すなわち「熱病」が流行したためにこの名がある・・・「ホトボリが冷める」、「ほとぼり」は「余熱(熱)」で、「ほ( 火)」+「とほり(通り)」から、「火(ほ)点り(とぼり)」で「余熱」・・・?  「ホトほり」が醒めるとは、「交具合(まぐあい・性交・情交)」のヨイン・・・  「ほと」は古い日本語で女性器の外陰部・御陰、陰所、女陰の字を宛てる」、転じて「女性器の外陰部のような形状、 形質(湿地帯など)、陰になる場所の地形」をさす地名・・・  「伊邪那美(イザナミ)は、女陰(ホト・蕃登)を産んだ息子に焼かれて死んだ」、  「三輪山の大物主の大蛇の姿をみた娘は箸で突いて死んだ」、  「機織り女の巫女はホトを杼(ひ)で突いて死んだ」、  「照大神の服織姫は女陰(ホト)を杼で突いて死んだ」、  「倭迹迹日百襲姫が箸で女陰をついて死んだ」、  「素戔烏に皮を剥いだ馬(駒・こま=狛・高麗)を投げ込まれ、杼でホトを突いて死んだ」、  「天の機織り女、おカイコの機織部で、呼は蚕の意味」・・・  「ホトケ=仏像」は金銅の鋳物で、「銅鐸」も「銅鏡」も鋳物である。鋳物には火で熔解した胴を流し込む「カナガタ(金型)」が必要である・・・「さなぎ」とは「蚕(かいこ・サン)」のカナガタだが、糸をツムグ前に「蛹(さなぎ)」の中の生きている「蚕」を「熱湯で殺す」のである・・・ホトリが冷めた段階で、紡ぎの作業が始まる・・・  「つむぐ(紡ぐ)」  名詞「つむ(錘)」の動詞化  「綿 や繭 (まゆ) を   錘 (つむ) にかけて繊維を引き出し、   縒 (よ) りをかけて糸にする」・・・  「眉輪(目弱)の皇子」は「つぶら(圓・円)の大臣(おみ)」の屋敷に逃げ込んで「雄略天皇」に殺された・・・   ↓↑  「虫祭り」は「旧6月24日」である・・・   ↓↑  「秦河勝」  「山城国葛野の出身。聖徳太子の側近として活躍した。また、富裕な商人でもあり朝廷の財政に関わっていたといわれ、その財力により平安京の造成、伊勢神宮の創建などに関わったという説もある[要出典]。  「秦河勝」  用明天皇二年(587年)  「丁未の乱」で  物部守屋の追討戦に従軍  厩戸皇子を守護し  守屋の首を斬った  推古天皇十一年(603年)  聖徳太子より  弥勒菩薩半跏思惟像を賜り、  蜂岡寺を建てそれを安置  推古天皇十八年(610年)  新羅の使節を迎える導者として  土部菟とともに当る  皇極天皇三年(644年)  駿河国  富士川周辺で、  「大生部多」の  常世神  (害虫・投機的なニセ蚕の養蚕)・・・明治の群馬の養蚕                    事業が投機的に                    なった事件があった                    群馬県「富岡製糸場」              小田村伊之助(楫取素彦)は              久坂玄瑞の妻となった吉田の妹              杉文(楫取美和子)と再婚  を崇める集団を追討  赤穂の坂越で死没  生島には秦河勝の墓  坂越湾に面して  秦河勝を祭神とする  大避神社が存在・・・ダビデ?が鎮座」   ↓↑  「大仏次郎(おさらぎじろう)」とは  「大佛次觔」  1897年(明治30年)10月9日    ~  1973年(昭和48年)4月30日)  小説家  野尻 清彦(のじり きよひこ) ーーーーー  「鞍馬天狗とは倉田典膳(繕)君、君のコトだな」  「いかにも、君は新撰組の局長、近藤勇か」  ・・・

 ・・・「コンサドーレ」が勝った。これで「日ハム」が勝てば、ドラゴンズには申し訳ないがスッキリと夜は過ごせるのだが・・・「立場」がハッキリしている地元のアナウンサーは有利なっても不利になっても、そのコトバにはフォローが感じられ、心が地元ファンと重なって楽しい。両チームに客観的で、公平的なアナウンサーは中途半端で批判的な印象を与え嫌われるカモ。兎に角、野球も勝った・・・「心情共感」とは「ラポール」ではあるが、チョッとした知り合い、チョッとした同郷共通項の「地域的な同族意識」ではある。ここの競技場、球場に集結する個々人の意識は「格差」などは吹っ飛んでしまう場所となっている・・・「大英帝国」の老人たちは「EU」からの離脱ですか・・・キッと「イングリッシュ (English・English language・イングリッシュ (Engrish) =非英語圏の人が使う奇妙な英語を表すスラング・イングランドの・イングランド人(の総体・English people・個人=English-man、English-woman)」自体を理解してイナイのだろう。無理もない「英語のスペルと発音」は目茶苦茶である、と「英語の語彙」が理解出来ないボクは思っているのだが・・・「英吉利」の老人たちはかっては「ビートルズ」に熱狂した。そして「ビートルズ」は「サー」の称号を賜った・・・今現在の「英吉利」の若者たちは「残留」だと云う・・・歳をとれば、いずれは老人になる・・・どこの「プロ・サッカーチーム」も人種も国籍も関係無い「インターナショナル」なのに、皮肉なコトに各国の「階級社会」を支え、「自由社会(?)」の息抜きの見世物興業になっている・・・そして、「ワールドカップ」・・・もうすぐ「国際興業」である「オリンピック」が始まるが・・・ここでの「高揚意識」は皮肉にも「国家への忠誠意識」である・・・キンメダルを捨てたハズのボクサーも、歳をとるたびに「アメリカ国家の幻想」に挽(ひ)きずり込まれて澱粉になっていった・・・ ーーーーー  昨日は「銅鐸」、「銅鏡」、「前方後円墳」、「土偶」などの「形体」からの「コトバ」に触れたが、人間個々人の相互の「認識情報伝達」の「音声コトバ」は「注意喚起、警告」と、その起こっている事象の「形象の状態」の説明、そして安堵と反省。共同体が拡大すれば「情報伝達」は、遠方領域に響き渡る音響器具と視覚的な烽火(狼煙・のろし)で、現場での近辺情報は「標識(しるし)サイン」である。それは、字面に描かれた図形であったり、石の配置であったり、埴輪の土偶であったり、木に結ばれた紐であったりもする。そして「標識の記号サイン」は「広報伝達」として「形象」の「文字のコトバ」となるだろう。更に過去の生活の成果と危険、その反省は「文字」として伝承記録され、遺された文字文章は「音声」を伴った知識として学習される。だが、「知識、技術の学習」は「時間的余裕」が許されたモノだけのモノだった・・・ムカシは知識の独占は坊主、修行僧、修道僧、科挙の受験生・・・「支配階級」の庇護を受けた専門家、芸術家、そして、宦官、官僚落ちこぼれなどであった・・・  「音声コトバ」も「文字コトバ」も、イツの間にやら「支配権力」にコントロールされるモノとして存在してしまった・・・  そして、権力者の「音声コトバ」や「モジコトバ」を弾圧されながらも開放する人間も現れてきたのである・・・  ↓↑  で、漢字が日本に伝承されてきた現代までの「漢字(楷書文字の新舊=新旧)」が文字としてスゴイのは「形象+状態」を具象的にも、抽象的にも合体させた「伝達手段」であるコトだ・・・「旧字」の簡略された「新字」も「国字」も、現代大陸中国の「簡略体文字」とは、その「理論的整合性」に於いて異なるのである・・・  「區」→「区」→品が「乂・乄」  「舊」→「旧」→文字はマッタク同じ部分が無いが          臼(うす・キュウ)が旧(ふるい・キュウ)  「兒」→「児」→臼(うす・キュウ)が旧(ふるい・キュウ)  の「部品」の相異を考えれば理解できるであろう・・・詳しくは「パソコンで表示できる旧漢字一覧」を参考にミル・・・  ↓↑ http://www.geocities.jp/hgonzaemon/kyuukannji.html  ↓↑   で、  「心情」は「心」+「情」だが、  漢字としての「心」は具体的な臓器の「形象」であり、「情」は「忄=心」と「青=主(ゝ王)+月(肉)」の合体文字である。  「青」は「主+月」の合体文字であるが、  更に  「主」は「ゝ+王」、  「王」は「一+土(つち・ト・ド)」、  「二+丄(うえ・ジョウ)」、  「三+丨(ぼう・コン)」  の合体文字である。  漢時代の「説文解字」の解釈説明は参考になるが、漢字分解に対しては「舌足らず」で徹底的ではない。  あらゆる漢字構成の  「漢字分析・漢字分解」  の  「原点・始点」は  「・(テン)」と  「丨(縦棒)・―(横棒)・ノ(曲棒)」と  「○(まる)と、その部分」  である。そして、これらの「部品の組み合わせ」で意味のある「漢字を構成」しているコトに尽きる。しかも、歴史的に説明、著述されてきた「漢字字典(事典・辞典)」は「説文解字」の枠の基本を出発点にしている・・・「漢字文字」の徹底分析からは始まっていない・・・  「篆書体(テンショタイ)」文字は、  「獣骨や亀甲などに彫って使用した文字」で、  基本的には「形象文字」である・・・  「ウイッキペデア」の説明には   ↓↑ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%86%E6%9B%B8%E4%BD%93   ↓↑  「篆書体(テンショタイ)は漢字の書体の一種。「篆書・篆文」ともいう。 広義には秦代より 前に使用されていた書体全てを指すが、一般的には周末の金文を起源として、戦国時代 に発達して整理され、公式書体とされた小篆とそれに関係する書体を指す」  「金文から更に字形の整理が進み、一文字の大きさが均等になった。文字の形は天地が長い長方形の辞界に収まるように作られる。点画は水平・垂直の線を基本に、円弧をなす字画はすみやかに水平線・垂直線と交差するように曲げられる。画の両端は丸められ、線はすべて同じ太さで引かれる」  「前漢を簒奪し新を建てた王莽は、公式書体制定の際にこの八体を整理、古文・奇字・篆書・佐書・繆篆 (びゅうてん)・鳥虫書(ちょうちゅうしょ)の6つにした」  「鳥虫篆   秦の八体に第七・殳書、   新の六体に第六・鳥虫書として挙げる字体。   春秋時代から秦代にかけて   矛など武具の装飾用に用いられた、   極めて装飾性の高い書体である。   字形は   うねうねと蛇のようにくねった   細い線で構成される単純なもの、   鳥の頭や姿を模した飾りが画の端々についているもの、   さらに   文字の原形を留めないほど   無理矢理に鳥の形に変形させたものなどさまざまで、   そのほとんどが文様化して解読不能である。」  とあるが、「文字自体」は古代文字としての「形象文字」であるが「抽象的な意味」とされる「文字」もある。  「不・要・無・有・在・色・愛・恋(戀)・至・止」  はその「形象」は「楷書の部首形象」から意味を推理するしかないだろう・・・  そもそも「篆書体」、「篆刻・ 篆書・篆文・小篆・大篆」の  「篆(テン・デン)」とは、  「篆」=「竹(たけ・チク)彑豕(𧰨)」       +         彑𧰨      「彑(ケイ・ガイ)」        (彐部(いのこ頭・ぶた頭・ケイブ)         彐の字は豚(ブタ)の頭         中国では「雪字底」・「尋字頭」        「尋(たずねる)+字+頭(かしら)」         ヨは         エ(たくみ)な         ロ(くち)を         寸(はかる)         「彐=彑」・・・彖蠡逯                「ク=々」・・・象色                  々=同         豚(ブタ)の尖った鼻先         彐部=彑・ヨ・∋・⺕            ヨ=右手            彔→录・・・記録(金+录→彐水)                  葉緑(糸+录)                  額縁(糸+彖→彑𧰨)            尹争            聿(筆)・隶(逮)            事(一口ヨ亅)            書(聿日→曰)            彗(彗星)            掃(掃除・箒)            雪(氷雪)            帇(ジョウ)            肅(つつしむ・シュク)            畫(画)            晝(昼)            灵(靈・霊)=中国語(簡体字)で                機能が優れている                耳朵很灵=耳ざとい                効き目                賢い・頭がよく回る       +      「豕=𧰨(いのこ・ぶた・シ)」  である・・・これらの「合体文字」をどのように「部品・部首」から合理的で、整合性のある説明が出来るのか・・・  「YHOO知恵袋」には   質問  「篆刻、篆書などの「篆」の字の由来を知りたいです」   答え  「篆」の字の由来を調べましたがわかりませんでした。  と、あったが・・・「竹の彑の豕(一𧰨)」である・・・ ーーーーー

 ・・・???・・・

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 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」

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